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ビルマ懐訪の旅 ⑤ビルマ4日目ヤンゴン(ラングーン)にて
5月18日 月曜日

このホテル、20ドルと安いのに、朝食が付いている。
朝食は7時からとのことなので、7時になるのが待ち遠しかった。
毎日早起きして動き回ってきたが、今日は夜の飛行機で帰国するだけ。
今日は何をしてすごすか考えてみる。
まず、ホテルは12時チェックアウトなので午前中には一旦ホテルへ戻ってこなくてはならない。
朝食後、11時半くらいまで、何をしようか?
簡単なヤンゴンの地図を眺めながら、ヤンゴンへ来たからにはシエダゴンパゴダへお参りしておくべきだろうか?
お参りするとして、どうやって行くか地図を見ながら考えていたら、シエダゴンパゴダと内閣府の間にピープルズパークと言うのがある。またカンドージー湖の近くに動物園もある。
パゴダはピープルズパークから見えるだろうし、横着だけどそこから拝んで参拝したことにしておこう。
あとは動物園まで行ってビルマの動物たちに挨拶してこよう。

朝食は一番乗りだった。
バイキングかな、それともセットかな、いずれにしてもどんなパン何だろうと期待をしながらレセプション裏の「特設朝食会場」に入った。
コーヒーかティーかと聞かれ、コーヒーを注文。
バイキングではないようだ。
コーヒーをすすりながら、玉子の料理法を聞かれなかったぞ、指定できないのだろうか?などと考えていたら、何と朝食は「目玉焼きののった焼きビーフン」であった。
これは予想していない展開である。
もっとも、ここは中国人街だから朝食に焼きビーフンでもおかしくはない。
それに油もしつこくなく、味も良かった。
コーヒーはお替りまで淹れてくれた。

ピプルズパークに向かって歩き始める。
比較的わかりやすい道順で、昨夜ビール
飲んだ場所からまっすぐ一本道である。
と言うことは、ここを走るバスはピープルズパークの前を通る可能性が高いということだ。
早速市バスに乗り込んでみる。
車掌に地図を見せたところOKのサイン。
バス車内の案内表示などを見ていたら、このバスは阪急バスのお古のようであった。
それも蛍池周辺を走っていたようだ。
市バス代 ピープルズパークまで 200チャット
市バス

ピープルズパークは有料の公園であった。
ピープルズパーク入場料 300チャット
広い公園のようで、池を配して花がきれいだ。
ピープルズパーク手入れのされた花壇の花もよいが、鳳凰木のオレンジ色の花が見事だ。
池の周りを一周する。
ところどころ工事をしていて立ち入り禁止の場所がある。
プールもある。
プールの周りには飲食店が並んでいる。
プールは別料金のようだ。
古い飛行機が展示してある。
一応ジェット機だけど見たことのない形の飛行機だった。

シエダゴンパゴダ
思ったとおり、ここからだとシエダゴンパゴダが真正面に見える。
ただ、残念なのは午前中だとパゴダを写真に撮ると逆光になってしまうことだ。

ビルマのお寺では、いろいろと変な像を見てきたけれども、このピープルズパークでも「どうして?」と思える像があった。
小便をする天使
背中に羽のある天使が立小便をしている。
天使と小便小僧が一緒になったような像である。
仏教国ビルマで、どうして天使が? 天使が立小便!

タイでキンカーと呼ばれる木登りトカゲもいた。
なかなかイイ色をしている。
木登りトカゲ

このピープルズパーク、西口から入って、東口から出たのだが、西口は田舎の遊園地のような切符売り場だったのに、東口はやたらと立派で、何台もの自動改札機まで設置してあり、ショッピグセンターや洒落た飲食店まで入ったビルとなっていた。
この程度の公園に、こんな設備が必要なのだろうか?
自動改札機より人を配置したほうが今のビルマでは安上がりのような気がするが、この国はまだ背伸びをしてみたい年頃に相当するのかもしれない。

シエダゴンパゴダ

ピープルズパークを出でシエダゴンパゴタをぐるりと半周するように時計回りに歩く。
道路は大渋滞である。
タクシーも多いが、タクシーも中古車のようである。
そのためか車種もいろいろである。普通のセダンタイプもあるが、私がミャワディからモーラミャインまで乗ってきたようなライトバンもあるし、軽自動車もある。

シエダゴン北側の道は雰囲気が良かった。
歩道も段差をつけて広々と整備してあり、大きな合歓の木が葉が茂らせ、車道まで緑のトンネルにするかのように枝を伸ばしている。
なんとなくシンガポールのような感じがする。
イギリスの植民地だったから共通するのだろうか?

シエダゴンパゴダ北側の入り口前にはタクシーが何台も客待ちをしていた。
「どこへ行く?乗っていかないか?」と声をかけてくるが、私は笑って通り過ぎる。
左手に池があり、池の方へ行って池越しにシエダゴンを見ると、シエダゴンの手前左手側にももうひとつ、すこし小ぶりのパゴダがある。
そのため、見た感じとしてはパゴダの兄弟が並んでいるように見える。
ツイン

ふたたびシエダゴンを周回する道に出て、東側へ回り込む。
東側の参道も立派であった。
丘を登るように参道が続いているのだが、その参道には屋根がかけられており、斜面に沿って屋根が何重にも積み重ねられている。
建物などでも屋根が何重にも重ねられたものが多く、これがビルマの建築様式の特徴なのかもしれない。
多重屋根

この東側参道の横には大きな駐車場があり、観光バスなどもたくさん止まっている。
そして駐車場の脇には丘の上にあるシエダゴンの境内へ上るエレベーターが設置されていた。
モーラミャインのパゴダでもそうであったが、有名寺院にはエレベーターが付いているのがビルマの特徴なのかもしれない。
それと、私の認識ではビルマの由緒ある寺院のパゴダのみが金色をしていると思っていたが、
これまでのところほとんどのパゴダが金色をしている。
以前はこんなに金色ばかりでなく、漆喰だけだったり、白いのも多かったのだが、金色にするのは最近の流行なのだろうか?
チェンマイのスアンドーク寺院のパゴダ(タイではチェディー)も以前は灰色をしていたが、近年金色に塗り替えられた。
以前はチェンマイで金色のパゴダ(チェディー)はドイステープだけだったはずなのに。

南側へ回ったら、大きな通りが合流してきた。
なかなか立派な道で、その道を跨ぐように橋がかかり通りの向こう側へ出られるようになっている。
道
その橋を渡るとそこにも寺院がありパゴダがあった。
こちらも規模こそシエダゴンに劣るが、立派なパゴダのある寺院であった。
形はシエダゴンより少しずんぐりしている。
ずんぐり

このお寺の境内も裸足にならなくてはならないので、北側の入り口から靴を脱ぎ、靴をカバンに入れて歩き、ぐるりと270度回って東側から出るときに再び靴を履いた。
日野
シエダゴンとおりと言う通りに出たところで懐かしいバスが走ってきた。
まるまっこいダンゴムシみたいなバス。
たぶん相当な昔に日本から輸出されたバスだと思う。
そしてたぶん中古ではなく、新車で輸出されたと思う。
なぜならこのバスはちゃんとビルマ仕様に左ハンドルとなっており乗降口も右側通行向きにできている。
30年前にももちろんたくさんあり、私ものバスに乗ってラングーン(ヤンゴン)からパガンの近くのチャッパタウンと言うところまで行ったことがある。
当時でさえ何十年も昔風のバスだなと思ったのだから、もう50年くらい走っているのではないだろうか?

動物園へ行きたかったのだが、このまま動物園を見学していると昼前までに宿へ戻るのが困難になりそうな気がしてきたので、通りを南に下って帰ることにした。
この通りは邸宅のような屋敷が多く、大使公邸などもあり宿のある中国人街とは雰囲気がまるで違う閑静な通りであった。

ヤンゴンの街で気になっていたことがある。
以前のヤンゴン(ラングーン)の街ではオート三輪のタクシーやミニバスがたくさん走っていた。
バンコクで言うところのトゥクトゥクであるが、今回はまるでオート三輪を見かけていない。
ラングーンのオート三輪は確かマツダ製のオート三輪だった気がするが、バスには古いものが残っているのに、オート三輪は絶滅してしまったのだろうか?
また、いままで歩いてきた地方都市ではオートバイが交通機関のなかでも主流に近い存在であったのに、ヤンゴンの街ではオートバイも見かけない。
その理由はどうやらヤンゴンではオートバイの走行が禁止されているらしい。
この通りを歩いていて、「オートバイ禁止」の道路標識を見かけた。
まだまだ公共の交通機関が不十分で、しかも自動車にしたところで駐車場の整備が遅れているように思われるヤンゴンにとってバイクに期待できる部分は大きいように思えるのだが、どうして禁止してしまっているのだろう。

鉄道線路を跨ぐ橋の上へ出た。
橋の下をのぞくと駅があり、いままさにディーゼルカーが走り出すところであった。
ディーゼルカー
このディーゼルカーは日本の特急として走っていたものの中古と言うことで、ビルマ関連のネットでしばしば紹介されていた。
手持ちの地図で確認すると、ここからプライ・ロードまで行けば、宿まで近いようだ。
この機会にヤンゴンで中古特急に乗ってみたいと思った。
ホームの端に切符売り場があり、待つことなくもうプライロード方面行きの列車が近づいてくるのが見える。
急いで切符を買ってみたら、これまたとても安くて、50チャットであった。
今回のビルマ滞在中での最小単位の支払い金額である。
電車賃 プラヤーロード駅まで 50チャット
駅

残念ながら特急ではなく、機関車に引かれた国電のような客車であった。
地図では次がもうプライロードのように書かれていたが、実際にはもうひとつ先であった。
そこまで実にのんびりと走る。
これはこれでなかなか情緒がある。
適当に横揺れするが、昨日までのように飛び上がるようなこともない。

プラヤー駅で下車して宿まで歩く。
大きな病院や学校などがあり、大通りの交通量は多いけれど、全体としては閑静な印象の道を南に歩き、大きな交差点近くになったら急ににぎやかとなり、昨晩のビール屋の前へ出た。
宿には11時過ぎにたどり着いた。

シャワーを浴びてチェックアウト。
もともと大して重たい荷物も持っていないが、不要なものは夕方まで宿に預かってもらうことにする。
スタッフのシフトが変わったのか昨日とは別のスタッフが対応してくれたが、彼は片言の日本語が話せる。
きちんと語学学校へ通って覚えた日本語なのだろう、とても丁寧な日本語を話した。

午後の予定は立っていなかったが、さっき乗った列車が気に入ったので、もう一度乗ってみる事にする。
ヤンゴンには山手線のような循環線があることを知っていたので、乗ってしまえば車窓でヤンゴンを一周できることになる。
さっき降りたプラヤーロード駅ではなく、途中にあった駅のほうが宿から近そうなのでそこへ向かう。

大きな病院の脇に路上の食堂が出ていた。
列車に載る前に昼食にしておこうと、食堂に並ぶ鍋の仲を覗き込む。
小エビのビルマカレー煮が美味しそうに思えた。
当初、この手の食堂を敬遠していたが、今では鍋の中を覗き込んで「美味しそう」と感じられるようになっている。
でもまだ肉類には手が出ない。

この小エビのビルマカレーは美味しかった。
エビはシュリンプカクテルに使うような小エビで、エビばかりが小皿にたくさん入っている。
またいつもの通りハーブや生野菜の盛り合わせも付いてくる。
中国茶も土瓶に入っている。
繁盛しているようで、お客さんも多い。
病院の看護婦さんもしゃがみこんで食べていたが、看護婦さんは弁当箱持参である。
弁当箱は金属製の筒型をしたもので、3段ほどに筒が積み重なっている。
食堂で弁当持参と言うのもおかしな話だが、看護婦さんたちは食堂の小皿を注文し、持参の弁当も広げて食堂のテーブルで食べている。
ビルマの人たちはこんなことには寛容なようだ。

12時過ぎに駅へ着いた。
駅の窓口で「トレインで1周したい」と言ったら3時間かかると言われた。
もちろん何する予定があるわけではないので問題ない。
ヤンゴン循環鉄道1周切符 200チャット 

ホームへ降りて列車の到着を待つ。
ホームのベンチには同じように列車を待っている人がいる。
モヒンガーを食べさせる露天も出ている。
さっきの経験があるので、すぐに列車は来るだろうと思ったが、なかなかやってこない。
10分待っても来ない。
私もベンチに座る。
20分待つ。
隣りに座った女の子がさかんにスマートフォンを操作している。
30分待つ。
遠くから機関車の響きが聞こえてくる。
ホームから線路上右奥を眺める。
やっと着たみたい。
やれやれ、、
しかし、列車は私が待っている駅には停車せず通過して行った。
どこか地方へ行く急行列車だったのかもしれない。
私はここを走るのは山手線と同じでみな巡回するのだろうと思っていたが、どうやらそうではなさそうだ。
もしぜんぜん違うところへ行く列車に知らずに乗り込んだら大変だ。
でも、それも面白いかも。

とうとう1時間待ってやっと列車は来た。
さっき乗ったときは国電のように窓と並行に長いベンチがあるものであったが、今度のは向かい合わせのボックス席であった。
イスは木製ではなくプラスチック製でたった。
席は半分以上ふさがったいたが、まだ空席もある。
通路側で進行方向逆向きに腰掛けた。

駅と駅の間隔は短かく、なんとなく郊外の私鉄沿線のような風景である。
スピードは遅く、通り過ぎる町並みを眺めるには都合が良い。
住宅は小さなものが多く、道も狭く、雑然とした下町っぽいところをしばらく走しる。
すれ違う列車も多いのだが、こんなに頻繁に列車が走っているのに、どうして1時間も待たされたのか不思議に思う。
乗客の乗り降りも頻繁で、私の座っている席の前や隣の人も何度か入れ替わったし、私も進行方向を向いた窓側へ席を移動した。

1時間ほど走ると車窓は田園風景になっていた。
駅のホームを見たらば、ホームが市場のように野菜を並べて売っている人たちがたくさんいた。
ホーム市場

ゴルフコースなどと言う名前の駅があったりして、なんだか電車ごっこに出てきそうな名前だと思った。
名前こそゴルフコースだが、ゴルフ場らしきものは駅周辺に見当たらなかったし、駅そのものもゴルファーの人が降り立ちそうにない雰囲気だった。

私のボックスには男の子二人を連れた父親と母親の一家が座った。
そろそろ循環線も半周を過ぎ、家族でヤンゴンへ行くのだろうか?
子供たちははしゃいでいるし、親たちも晴れがましい顔をしている。
ヤンゴンで何か楽しいことが待っているのだろうか?

ミンガラドンと言う駅があった。
ミンガラドンと言えばヤンゴンの空港の名前である。
と言うことは空港までこの循環線で来る事ができるのだろうか?
しかし、先ほどのゴルフコース駅と同様に空港が近くにある感じはしない。
駅も空港最寄り駅とはとても思えない田舎の集落にあるただの駅と言った感じである。
しかし、駅を過ぎて少ししたところで窓から良く見たらば、飛行場の誘導等が並んでいるのが見えた。
たぶん、この先に滑走路があるのだろう。
空港ターミナルは更にその先だろうから、ちょっと歩くには遠すぎるみたいだ。

車内で検札が回ってきた。
「切符を拝見」とビルマ語で言っているのだろうけど、もとよりビルマ語などわからないが、乗客たちが切符を提示しているので、そう言っているのは確かだろう。
私も切符を提示する。
検察係りは切符にボールペンでチェックを入れ切符を返してくれた。
ヤンゴンへ向かうと思われる親子連れも切符を出したが、検察係りはなにやらいんぎんにその父親に話しかけている。
父親がうなだれる。
母親も困ったと言う顔をし、子供たちも心配そうな顔をしている。
しばらく、検察係りから一方的に講釈され、父親は財布を開いて千チャット札を何枚か検察係りに渡した。
切符不正でもあって割り増しの罰金でも取られたのであろうか、さっきまで楽しそうにしていたのでその対比がとてもかわいそうに見えた。

トウモロコシ売りが来た、先ほどの親子が1本買い、父親が半分にへし折って兄弟に渡した。
私も1本買って食べる。
車内売りトウモロシ 100チャット
子供たちが食べ残したトウモロコシを父親が綺麗に食べ、トウモロコシは芯だけになった。
そして、窓からその芯を車外へ放り投げた。
私もそれに倣って窓からトウモロコシの芯を捨てる。
きっとヤギや牛が食べてくれるだろうから、ゴミの投げ捨てにはあたらないだろうと勝手に解釈する。

中古特急だが、この循環線に乗っている間に都合三回も行き違った。
私が乗っているのが外回り、中古特急が内回りである。
出会う回数から考えて、どうやら中古特急は内回りだけを走っているようだ。
内回り

ふたたび昨日バゴーからの汽車で見た景色が見てきた。
そして、16時にヤンゴン駅に到着。
乗客はいっせいに席を立つし、またここから乗り込む乗客も乗降口に殺到する。
まだ完全に一周し切れていないが、私もここで降りることにする。


昨日と同じようにホームから陸橋の上へあがり、そのまま市内中心部へ向けて歩く。
ビルが増えたとはいえ、ビルに新しさを感じない。
たぶんほとんどが雑居ビルや下駄履き建築だから、町並みが猥雑になってしまっている。
看板もやたらと多い。
日本語教室なんて看板もあった。
南に下るに連れて、古い建物が増えてきた。
カルカッタ風
英国植民地当時の建物がそびえていて、なんだかカルカッタの町並みにも似ている感じがする。
似ているといってもインドへ行ったのは30年以上前のことなので、当時と今とではだいぶ変わっているだろうけど、以前のカルカッタに似ていると感じた。
前にラングーン(ヤンゴン)へ来たときには特別そんな感じがせず、今回初めてそう感じるのは、きっと道に車があふれ、人の往来が多くなったからではないかと思う。
以前のラングーンは車も少なく、人通りもこれほど多くなかったと思う。

フェリー乗り場前の歩道橋に登ったら、ストランドホテルが見えた。
今回ストランドホテルに泊まってみようかと思ったのだが、ネットで料金を調べてあまりに高いのでやめた。
料金だけならバンコクのオリエンタルホテルといい勝負をしている。
30年前のストランドホテルは1泊20ドルから泊まれた。
ちょうど今回私が泊まっている窓なしビジネスホテルと同じ金額だったわけだ。
ストランドホテル

フェリー乗り場前を歩いていたら絵葉書売りの女の子がやってきて、盛んに英語で絵葉書を買ってくれと言いながら付きまとう。
電子メールやインターネットの発達で、以前のように絵葉書を買う人は少なくなっているだろう。
私も絵葉書など何年も書いていない気がする。
彼女の持っている絵葉書は10枚一組になっている。
その10枚がつながっているので帯のように長い。
「お願い、買ってちょうだい。私も小さな弟も朝から何も食べてないの、お腹がすいてるの、だからお願い」
とまるでマッチ売りの少女のようなことを言って同情をかおうとする。
でも、買ってあげない。
しばらく私の後ろについて同じことを呪文のように唱えていたが、やがて元の場所へ戻っていった。

フェリー乗り場の先にはレストランがあった。
しかし、営業はしていないのか誰もいない。
夕方からの営業としてももう仕込みの準備とかしていても良い頃合なのにその気配もない。
そこからフェリー乗り場を見ると大きなフェリーが桟橋から離れていくところだった。
フェリー
対岸とを結ぶフェリーだろうか、時間があれば私もフェリーに乗ってみたいところだけど、もう余り時間がない。
フェリー乗り場の上流は港になっているようで、コンテナの積み降ろしをする巨大なクレーンが並んでいるのが見えた。
ビルマの貨物列車でも国道を走るトラックでもコンテナを見かけなかったから、まだビルマの物流はコンテナの時代ではないのかと思ったけれど、すでに港はコンテナの時代に対応しているようだ。

今度はスーレパゴダの方へ行ってみようと歩き出す。
フェリー乗り場の前でさっきの絵葉書売りの女の子を発見。
彼女は友達と袋菓子を食べてながらペットボトルの清涼飲料水を飲んでいたが、私を見かけると絵葉書を手にして駆け寄ってきた。
そして先ほどと同じ呪文を唱えながらしばらく付いてきた。

フェリー乗り場前
フェリー乗り場前の交差点には輪タクが客待ちをしていた。
なつかしい。
オート三輪は絶滅したようだけど、輪タクはまだ健在のようだ。
ヤンゴンの輪タクは小さなサイドカーを自転車に付けたもので、このサイドカーにお客を二人まで乗せられる。
一人は前向きにサイドカーに腰かけ、もう一人はそれと背中合わせの後ろ向きに腰かける。
輪タクだけではなく自転車もけっこう走っている。

廃屋か
川沿いに1ブロック歩く。
植民地当時の建物の中にはすでに廃屋同然のものも見られる。
このまま朽ち果てさせてしまうのはもったいないし、ホテルなどに改装したらコロニアル風でなかなかいい感じに再生できそうな気もする。

スーレパゴダ
スーレパゴダの前まで来た。
以前はこがラングーン(ヤンゴン)の中心地であった。
パゴダの回りがロータリーになっており、周辺には大きな建物が並び、東京で言ったら丸の内のようなところだった。
そしてこのパゴダの横にTourist Burmaのオフィスがあり、われわれ外国人観光客は必ずここに立ち寄って旅の手続きをしなくてはならなかった。
例えば汽車の切符も駅でなくここで申し込んでドルで買う事になっていた。
そして支払いをするたびにFECフォームと言う一種の金銭出納記録の確認を受けなくてはならなかった。
ビルマの空港到着時に手持ちの外貨をすべて申告し、滞在日数に応じて強制的に両替させられた。
その記録がFECフォームに書き込まれ、出国時に金額があっているかどうかチェックされた。
それらは闇両替を防ぐために講じられたものらしく、実際に公定レートと闇レートでは10倍くらいの差があった。
特にスーレパゴダには外国人旅行者が必ず来るので、そうした外貨を持った外国人を目当てに闇両替屋も出没していた。
そうして両替すると、なんだかよくわからないお札を渡された。
35チャット札とか75チャット札など歯切れの悪い単位金額のお札であった。
ビルマは十進法ではないか思ってしまうほど、闇両替をして渡された金額を数えるのに苦労した記憶がある。

しかし、それも昔話。
スーレパゴダ周辺は昔と比べ寂れているように感じた。
Tourist Burmaももちろんなくなっていた。
だんごむしバス
みんな変わってしまったなと思ったらまたダンゴムシのようなバスが走ってきた。
バスとパゴダそのものは30年前と変わっていないようだ。

その30年前にスーレパゴダで土産物を売っている姉弟と仲良くなり、家へ招待されたことがある。
庭に大きな綿の木がある木造家屋で、私が珍しいのか近所の人たちも集まってきた。
瓶入りの清涼飲料水もどこから買ってきてくれた。
床に腰を下ろして、どんな話をしていたのか今となっては思い出せないが、南京虫に食われて、あとで痛いほどかゆくなったことは覚えている。
それから、30年ぶりのビルマで感じたこととして、以前と比べてビルノの人たちで英語を話せる人が減ったような気がする。
特に若い人で英語が話せない人が多く、むしろ年配者の方が英語が上手い。
この傾向はタイとは反対である。
近年のビルマでは英語の教育があまり重視されていないのだろうか?
それとも私の記憶違いで、以前と比べてより自由にビルマの人と接触できるようになり、英語の話せない人たちも混じるようになっただけのことだろうか?

スーレパゴダからは西に向かって中国人街を歩いて宿へ向かう。
警察官が交通整理をしている交差点で上を見上げたら電線に鳩がたくさんとまっていた。
はと

5時半過ぎに宿にたどり着いた。
丁寧な片言の日本語を話すスタッフから預けた荷物を受け取る。
レセプション横の冷蔵庫にはビールが冷えていた。
ミャンマービールの大瓶を1本抜き取りレセプションにお金を払ったら冷えたビールジョッキを持ってきてくれた。
昨日もそうだったが、この宿のスタッフの感じがとてもいい。
ソファに深く座ってビールで喉を潤す。
ミャンマービール 1,600チャット

空港まで市内バスに乗ってみることにする。
何度目かのビール屋の前の交差点へ行き、そこのキオスクで空港への行き方を聞いたら店のおばさんがバスをつかまえて、「セーマイまで行くんだよ」と教えてくれた。
バスは日本の中古バスながらマイクロバスで、私は席に着くことができた。
途中から混雑してきて小さなバスの狭い通路にまでびっしりとお客が立つようになった。
空港までの道は、ずいぶんとこぎれいな道で、立体交差もあったりして市内の道よりすっきりし、新しくモダンな建物が並んでいた。
ショッヒングセンターのようなものもある。
昔はミンガラドン空港から市内まで幹に白いペンキを塗った並木が続く田園風景の中の道だったのにずいぶんと変わったものだ。
このあたりはきっと新市街とでも呼ばれるような場所なのだろう。
セーマイまでのマイクロバス代 200チャット 

30分ほど走りあたりも暗くなったところでバスの車掌か「セーマイだ」と言って降りるように指示する。
ただ、降りた場所は横丁に市場のようなものが並んでいるようなところで、空港とは関係なさそうな感じがする。
こまったな、変なところへ来てしまったかな、でも通りにはタクシーも走っているし、いざとなればタクシーに乗ればイイやと考え、通りを少し歩いてみる。
軽トラックの乗り合いバスが客待ちしていた。
運転手に聞いたら空港へ行くという。
すでに荷台の客席はほぼお客でふさがっていてすぐにでも出発しそうだが、何か夕食を食べておきたい。
「運転手に食事をしておきたいけど」と行ったら、すぐ先の薄暗い食堂を指差した。
たぶん、軽トラックは頻繁に便があるのだろう。

食堂は広かったが、薄暗く、お客もほとんどいなかった。
ここでも鍋の中に料理が入っている。
店の人が「フィッシュ・カレー」と言っている鍋の中は、どう見ても魚には見えず、豆腐を崩したソボロのような料理であったが、むしろそのようなものの方が私には好ましく注文する。
ここでもハーブと生野菜の盛り合わせなどが付いてきた。
豆腐ソボロ風のフィッシュカレーはマイルドな味で、たぶん魚のすり身と豆腐を混ぜて炒め煮にしたように料理で、ふわふわして食感もソフトで、魚を使っているからか旨味も効いて美味しかった。
豆腐のようなフィッシュカレー定食 1,000チャット

まだ少し何か食べたい気もするので横丁の市場風のところをのぞいてみる。
夜市と言った感じでスナックや果物などを売る屋台がいくつもあった。
サモサを二つ買ってみる。
サモサ1つ100チャットを2つ 200チャット

さっきの乗り合い軽トラックはすでに出発したあとであったが、別の客待ちしている軽トラックがやはり空港へ行くという。
早速乗り込むと、運転手が私の隣の男性に私のことで何か話しかけている。
ビルマ語なのでわからないが「エアポート」とか言っているのが聞こえたから、私のことを申し送りしてくれたのだろう。
それほど待つこともなく軽トラックの荷台は満席になり出発した。
空港まで乗り合い軽トラック 200チャット
しかし大通りは大渋滞をしており、少し先の交差点まで車がびっしり詰まって遅々として進まない。
ほとんどの車が日本の中古車で右ハンドルである。
しかし、ビルマは右側通行である。
もともと英国植民地であり、左側通行だったはずなのに、それに隣のタイだって左側通行だから、ビルマも左側通行に戻したほうが便利になるような気もする。
沖縄だって右側から左側通行へ戻したしたんだから、できないことはないと思う。
これ以上車の増える前に対応できないものだろうか?
交差点を抜けたら空港まではスムースですぐに到着した。
空港までの乗り合い軽トラック 200チャット

空港は私が知っているミンガラドン空港とはまるで違う近代的なターミナルであった。
以前は本当にローカルな小さな空港で、飛行機の発着など日に何本もなかった。
バンコクからのタイ航空が到着すると、飛行機から荷物を降ろすのは手作業で、人夫たちが荷物を担いでターミナルまで運んできてくれていた。
そしてチップをねだられた記憶がある。
しかし今はまるで違う。綺麗で明るい国際線ターミナルになっている。
軽トラックで私のことで申し送りを受けた男性も私と一緒に空港前で下車した。
彼は空港で管制の仕事をしているそうで、日本に大変好意を持っていてくれた。
「日本が戦争で戦ってくれたからビルマは独立できた」とまで言ってくれる。
先の大戦、さまざまな評価があることは知っている。
侵略戦争といわれれば、確かにそのような側面もあっただろう。
満州をはじめ中国で行ってきたことは、その方法を侵略と言われても仕方がないかもしれない。
南方へ資源獲得を目指したことについては、米英により石油の禁輸などにより必要に迫られてのことと言えなくもないと思う。
そして凄惨なインパール作戦をはじめとしたインド侵攻作戦については、侵略とは反対にインド独立支援の目的で進められたものと考える。
大東亜共栄圏と言う大義名分を実行するため、ビルマからインパールへとインド国民軍とともに進軍し、そして悲惨な結末となってしまった。
たぶん、戦争と言うきっかけがなければ、ビルマの独立はずっと後のこととなったであろう。
その意味ではこの男性が言うことは真実だと思う。
しかし、その一方で日本軍の末端にまで大東亜共栄圏の理念が浸透して、興亜の意義を理解させきれなかったことが、戦争遂行での失敗だったと思う。
そのために現地の住民をはじめ、多大な迷惑をかけてしまったのだろう。
平和な今こそ、ビルマの良き友人に日本がなってほしいと思う。

ターミナルは立派だったけれど、チェックインカウンターは閑散としていた。
やはり発着する飛行機が少ないのだろう。
私の乗るノックエアの手続きは簡単にすんだ。
預ける荷物もない。
すべて機内持込である。
しかし、出国ゲートへ向かう途中、カバンに飲み残しのビルマ・ウイスキーの小瓶が入っていることを思い出した。
これを持っていくと液体物として没収されかねない。
ベンチに腰かけてウイスキーの小瓶をクピクピとあおる。
さっき買ったサモサもパクつく。

液体物は胃の中へ格納し、これで安心とエックス線検査を受けたら、髭剃りの刃が引っかかり没収されてしまった。
テロ対策とはいえ、不便なことが多くなりすぎている。

まだ少しチャットが残っている。
出発ロビーには小さいながら免税店があり、女性スタッフが暇そうにしていた。
タイはお酒が高いのでこの免税店でお酒を買っていくことにする。
値段はドル表示だがチャットでの支払いもOKとのこと。
値段はカンパリが15ドルであった。
バンコクでは免税店でも600バーツくらいするからビルマが少し安い。
ビルマのお酒あった。
ダゴン・ラムと言うラム酒でこれはたったの4ドルであった。
他にもダゴン・ビールの詰め合わせなんかもあった。

飛行機に乗り込むと、私の席に若い女性が座っている。
私が彼女に向かって「あなたのお席の番号は?」と聞いたところ
タイ語で、それもハスッパなタイ語で「別に私はどこの席でもいいのよ、アンタがここに座りたいなら、移るわよ」と言った。
不愉快であった。
ビルマの人たちはまだまだ豊かではないが、みんな親切で、特に女性は奥ゆかしかった。
このことは30年前、まだ学生だった私もそのように感じていた。

今回ビルマに来て、タイとの違いをずいぶん感じた。
30年前、タイの女性でミニスカートやノースリーブなど肌を露出しているような人はほとんどいなかった。
そんなカッコをしていたら外国人相手の商売をしているかのように見られる時代だった。
それが今では、派手な化粧をして超ミニのスカートやタンクトップなどがバンコクにはあふれている。
私が働いているオフィスの中でも、そんな服装で平気でパソコンをたたいている女性スタッフが多い。
それがビルマの女性たちの多くが足首まである巻きスカートで、化粧もタナカを塗っているだけ、奥ゆかしさを感じずにはいられない。

この私の席に座っていた女性のタイ語を聞いて、タイの女の人よりビルマの女の人の方が好いなと感じた。
ノックエアはほぼ定刻の9時過ぎに飛び立ち、ヤンゴンの街明かりを眼下に眺め、そして遠くなったと思ったら、何も光のないところをしばらく飛行していった。
スナックとお水が配られ、一口で食べてしまうと、再び光が下界に見えてきて、だんだん光が増えたかと思ったらバンコク・ドンムアン空港へ着陸した。

時計を30分進めてタイ時間にしたらもう10時半である。
隣の若い女性は、まだシートベルト着用のサインが点灯しているうちに、さっさと席を立ち、出口の前へ移動していった。
入国審査にならんでいたら、隣のカウンターに件の女性が入国審査を受けていた。
彼女のパスポートを見たら、ビルマのパスポートてあった。
つまり彼女はタイ人ではなくビルマ女性だったわけだ。
ビルマ女性ももうじきこんな風に変わってしまうのかなぁ

空港からの帰宅にも市内バスを使う。
私のアパートの近くを走る555番のバスがドンムアン空港とスワナプーム空港を結んでいるから、これに乗れば帰宅に便利なはずである。
空港前の停留所でバスを待つ。
夜遅いので市バスはなかなか来なかったが、10分ほど待って最初にきた市内バスが555番であった。

バスに乗り込み、女性車掌に「ラマ9世通りまで」と告げたら、「ラマ9のどこだい?」と聞かれた。
555番は途中から高架道路に乗ってしまうことを知っているから、「ラマ9の高速道路入り口で降ろしてください」と言った。
しかし、車掌が言うには、このバスはバンコク市内はディンデンの停留所を過ぎたら次はスワナプーム空港までノンストップなのだそうだ。
まぁ、途中まででもいいし、ディンデンで降りて乗り換えてもいい。
バス代として20バーツ札を出したら2バーツのお釣りが来た。
ドンムアン空港からのバス代 18バーツ

バスはウィパワディー通りを抜けて快調に走っている。
バスの運転手と女車掌が何かしゃべっているなと思ったら、女車掌が私のところへやってきて、「ラマ9の高速乗り場の辺でいいのね、特別にバスを止めてあげるわ」と言ってくれた。
タイ人もビルマ人に負けないくらい親切で融通が利く。
アパートから1キロほどのところで降ろしてもらえたおかげで、ネコの待つアパートには12時前に着くことができた。
扉を開けたら、ネコがかすれた声でニャーニャー鳴いて出迎えてくれた。
私が不在にしていた数日間、きっとずいぶんと鳴いたので、声がかすれてしまったのだろう。
かわいそうなことをした。
次の旅にはネコも連れて行くことしよう。




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ビルマ懐訪の旅 ④ビルマ3日目キンプンからヤンゴン(ラングーン)まで
5月17日 日曜日

隣の部屋と仕切るは薄いベニヤ板なので、隣の部屋がうるさかったら眠れないのではないかと心配したが、夜はまったく静かだった。
宿は満室ではないものの、ガラガラと言うわけでもなかったようで、夜中もドアが開いたり閉まったりと言う音はときどき聞こえてきたが、話し声などは気になるほどには聞こえてこなかった。
私は寝るときに下着だけなので共同のトイレに立つたびにズボンを履かなくてはならないのが不便だった。そしてベッドにでも虫がいたのか腿を噛まれて少しかゆい。

今日はキンプンからチャイトーへもどり、そこからまた汽車に乗ってヤンゴン(ラングーン)入りするつもりでいる。そして、汽車はバゴー(ペグー)で途中下車してバゴーの涅槃仏などを見学したいと思っている。
チャイトー発の汽車は昨日モーラミャインから乗ってきたものが10時半過ぎに来るだろうから、それに乗れば昼過ぎにはバゴーに着くだろうし、後続のモーラミャイン発ヤンゴン行きの汽車があったので、バゴーで乗り継ぎ時間が2時間くらいあるはずである。2時間あれば涅槃仏の見学ができるだろう。
10時半のチャイトー発の汽車に乗るなら8時半にキンプンを出発すれば間に合うはず、時刻はまだ6時過ぎでまだたっぷり時間がある。朝の散歩に出かけることにする。

キンプンのメインストリートを奥へ向かって歩く。
昨日は舗装が途切れた場所から先少し行ったところで、この先に宿無しと断念して引き返してきたが、今朝は宿探しをするわけではなく、むしろ山道のようなところをハイキングしたいと思っているので、宿を出て左へ向う>。
朝のメインストリート
まだ朝が早いからかメインストリートの両側に並ぶ店も眠っている。通りを歩く人もほとんどいない。
やがて舗装が途切れ、林間に赤土の道が続いている。
土の道
道沿いに民家はあるが、屋根は葉っぱを葺いたもので、とても簡素な作りである。そして部屋の中まで丸見えの家も多い。この様な江戸時代にタイムスリップしたような家の中から今風な音楽が聞こえてきたりして少し違和感を感じるが、若者でもいるのだろう。また、お経を唱えている声が聞こえる家もあった。窓越しに老人が経典を手にしている姿が見えた。
民家

このあたりの集落はモン族なのか、それともカレンなどの山岳民なのかそれらしい民族衣装を着ているわけではないので私には良く分からない。土間の家ではなく、床があるが高床と呼べるほど高い床ではない。

ここまで

しばらく歩くと監視小屋のような木造の小さな建物があった。
中は無人であったが、たぶんここから先へ外部のものが足を踏み入れるには、ここで許可を取らなくてはならないのだろう。どうせ無人だから無視してそのまま歩いて行けそうだが、あとで咎めを受けることになっても困るので、ここで引き返すことにする。

托鉢
メインストリートまで戻るとエビ茶色ノ袈裟を着た僧侶や見習い僧が托鉢に回っている。それもずいぶんと托鉢僧が沢山いる。戸口で喜捨を用意して僧たちを待つ女性たちも多いが、どの僧がどのお宅へ伺って喜捨を受けるのか決まっているのだろうか?

花売り
頭の上に花篭を載せた少女も歩いてくる。彼女は花売りの少女なのだろうか?このあたりの人たちは花を部屋の中に飾る習慣があるのか、それとも仏様へお供えするために花を買うのだろうか?花篭を載せた少女が托鉢僧に混じって歩いてくる姿はなんとも情緒がある。なにか絵本の中の1ページのような光景だ。

広場の近くの食堂でミルクティーを飲んでいる人たちがいる。
私も朝食代わりにミルクティーを飲むのもいいかなと思い、その食堂へ入る。
ここも薄暗い飯場のような食堂だが、そろそろこの手の食堂にもなれ始めてきたので入ってみる。
入ってすぐ左手の釜にチャーハンが山盛りになっている。
それもギトギト油ではなく、カラリとパラパラのチャーハンのようだ。
具はほとんど入っていないようで、色も薄いが美味しそうな香りが漂ってくる。ミルクティーは棚上げして、このチャーハンを注文する。皿にチャーハンが盛られ、付け合せも小皿に付いて来た。
このチャーハン、美味しかった。シンプルなのも良かった。

テーブルの土瓶には中国茶が入っており、これは勝手に飲んでもいいらしい。
さらに三角形のインド風スナック、サモサも3つ皿に盛られて運ばれてきた。これは勝手に食べてもよいと言うわけではないだろう。客がテーブルに着くとサモサが運ばれてくるシステムになっているようだが、それをつまむ客もいるし、手をつけない客もいる。残ったサモサは再び店の前の大皿へ戻っていく。たぶん、食べた分だけお金を払うシステムではないかと思われる。
私もサモサをひとついただいてみる。タイで良く売られているカレーパフに似ているが、イモ餡を包んでいるのはパイ生地ではない。

中国の朝食でよく食べられている細長い揚げパン風の油条もあった。これも食べてみたい。台湾ではこれと豆乳の朝食をよく食べたものである。油でからりと揚げた油条は香ばしいものだった記憶がある。ここには豆乳はないようだけど、豆乳の代わりにミルクティーでも美味しいはずと注文してしまう。
油条は今まで食べたものと比べると大変巨大であった。
しかし、残念なことに期待していたようなカリっ揚がっていない。
油でべっとり、ふにゃりになっている。残念だったけど、甘いミルクティーに浸して食べるとそれほど油が気にならなくなる。
チャーハン・サモサ・油条・ミルクティーの朝食 1,200チャット (満足度高い)

宿へ戻り身支度をする。
このゲストハウスの主人は植物が好きなのか、花や果樹が敷地内にいっぱいであった。マンゴーもザボン(ソムオー)もなっている。花も色とりどりに咲いている。気持ちがいいので歯磨きをしながら庭を歩いていたらだらしない格好を主人に見られてしまった。
ゲストハウス

8時過ぎにチャイトー行きの乗り合いトラック乗場へ行く。
トラック乗場の前の路上はちょっとした市場を兼ねているようでドリアンなどの果物や野菜などを売っていた。
露店

「チャイトー!チャイトー!」と腹の底から野太い声を出してお客を集めている。乗り合いトラックのその声を聞いていたら、韓国の地下鉄車内で回ってくる新聞売りを思い出した。新聞を抱えた新聞売りが「チョソンイルボー、チュンアカイルボー」などと野太い声を張り上げて、混雑する車内で乗客を掻き分けながら突進してきていた。これも30年以上前のことで、今でもこんな新聞売りがいるのか分からないが、この客集めの声を聞いていたら、ソウルの朝の地下鉄を思い出した。あの朝の車内はニンニク臭かったっけなぁ。

乗り合いトラックの荷台で待つこと10分ほどでほぼ満席となり出発となった。
キンプンからチャイトーまでの乗り合いトラック 500チャット

キンプンの村を出かかったところで、学校のような建物の前で旅芸人なのか民族舞踊のような踊りを踊っていた。
衣装から見て男女の掛け合いのようなダンスでとてもリズミカル。関節をくねらせながら踊っているのだが、よく見たら二人とも男性であった。このあたり、ビルマの事情に疎くよくわからないのだが、ビルマもタイのようにオカマさんが多いということなのだろうか?それとも日本のように踊りなどは女形を演ずる男性がいるのだろうか?
もう少し民族舞踊を見ていたかったけれど、乗り合いトラックはお客さんの乗降がすむとすぐに出発してしまった。

チャイトー駅には9時には到着。
駅前の広場の片隅で結婚式をしていた。
新郎新婦は西洋式のウェディングを着込んでいた。
丸テーブルが露天に並べられ、一部はテントも張り出されている。
タイでも良く見かける田舎の結婚式スタイルだ。
そして今様な音楽が巨大なスピーカーからガンガン流れていた。

10時半過ぎの列車の切符を買おうと窓口で「バゴーまでアッパークラス1枚」と言うと、「12時だよ」と言われる。
12時だってぇ? それは私がバゴーから乗ろうと思っている後続の列車だから、これに乗ったらバゴーでの途中下車観光ができなくなってしまう。「10時半過ぎのはないの?」と質問したら、今日は走らないのだそうだ。どうやら日によって走る日と走らない日があるようだ。それとも今日が日曜日だから走らないのだろうか?

ここで昼まで3時間も汽車を待つのはもったいない。
もちろん、田舎町でも歩き回れば面白いものがあるだろうが、それより有名なバゴーの涅槃仏を拝みに行きたい。
汽車がダメならバスがあるだろう。
モールミャインでも中古の観光バスが長距離バスとして走っているのを見かけたので、そんな海を渡ってきた観光バスに乗ってみるのも悪くない。
駅前の道をキンプンとは逆方向に歩き始める。
見回したところ駅前は繁華街ではなさそうだ。
しかし、昨晩の宿の主人が「チャイトーなら携帯電話屋がある」とのことだったので、そんな店がある場所がどこかにあるはず。
でもキンプンからここまでの間には見かけなかったので、さらに奥へ向かって歩けば町の中心へたどり着けるだろうと考えたわけだ。

しばらく歩くとロータリーがあり、そのロータリーを右に曲がると鉄道線路を跨ぐ橋になっていた。
そして橋を越えた左手に携帯電話屋があった。
ものは試しと携帯電話屋に飛び込み、「バッテリーが充電できなくなって電源が入らないんだ」と訴えたところ、私の携帯電話を店の充電器と接続して充電を試みてくれた。しかし、残念ながら充電しないようだ。
「故障だね、ここでは修理できないよ」と言われる。
「修理するから3日後に取りに来て」と言われても困るけど、これで踏ん切りがついた。バンコクへ戻って修理しよう。それまで携帯電話のことは忘れてしまおう。

さらに先へ歩くと市場のような場所が見えてきた。
歩いてきたのと同じ道ではあるが、道の端を歩く私を大型バスも警笛を鳴らしながら行き過ぎていく。
この警笛が「お待たせ、バスが来たよ、乗りな、乗りな」と言った物ならイイのだが、バスは速度を緩めるでもなく、走り過ぎて行ってしまう。つまり「邪魔だ、邪魔だ」と威嚇しているだけのようだ。

市場の前で「バゴーへ行きたい」と言ったら、通りの向かいに止まっている乗り合いトラックを指差された。
うーむ、観光バスに乗りたかったけど、乗り合いトラックも地元の人が乗り降りするなど、よりローカルで面白いかもしれない。
乗り合いトラックの車掌に「バゴーへ行くか?」と聞いたら「さぁ、乗れ乗れ」と言う。
出発時間まで時間があるなら、ちょっと市場ものぞいてみたかったので、何時出発かたずねたら9時半だという。まだ少し時間がある。

雑踏した市場の中は少しぬかるんでいた。
タイの製品が多いし、野菜などもタイと同じようなものなので、タイの田舎の市場によく似ている。
しかし、食べ物を売っている露店はほとんど見かけない。
小さなパイナップルの皮を剥いて売っていたので買ってみる。
小さなパイナップル 300チャット

タイならこうしてカットして売っている果物は氷で冷やしているものだが、昨日のスイカもそうだが生温かいまま売っている。生温かいからその分だけ味も濃く感じるのか、甘いパイナップルだった。

乗り合いトラックに戻ると満席になっていた。
ほかの乗客たちの荷物も多い。
まぁ、汽車で2時間少々の距離だから、トラックなら1時間半くらいで行くのではないかと安心していた。

この乗り合いトラックはバスであるとともに、本当にトラックでもある。
荷台にはお客を目いっぱい詰め込み、荷台の屋根の上には荷物を山ほど積み上げている。
乗客の荷物だけではなく、沿道に配達するビールも何ケースとなく積んでいる。
大きく重そうなズタ袋には穀物のようなものが入っているようだ。

お客さんは頻繁に乗り降りする。
そしてお客さんだけではなく、屋根の荷物も上げ下げしたり、配達して集金までするから時間がかかる。
その間に後ろから来た大型観光バスにどんどん抜かれていく。
これは失敗だったかも、、、
車掌が集金に来る。
他の乗客は500チャットくらいのお札を出してる。
それでお釣をもらっている人もいる。
私は自分の運賃がいくらかわからない。
車掌がトラックの後ろで金額を答えているようなのだが、うまく聞き取れない。
周りの人に「バゴーまでいくらですか?」と聞いたら、指を1本立てる人もいるし、2本立てる人もいる。
右手が1本で、左手が2本と言う人もいる。
つまりいくらか良くわからないが、私の前に座っている女性が「2,000チャットよ」と教えてくれた。
しかし、どうして私だけ2,000なんだろう?何も言わずに500チャット札1枚渡すべきだったかな。
**乗り合いトラック チャイトー⇒バゴー 2,000チャット

1時間ほど走って皆降りる。おやおや、やっぱりトラックは早いね。
もうバゴーかなと思って私も降りたが、しかしすごく田舎過ぎる。
車掌に「バゴー?」って聞いたら、別のトラックに案内されてた。
その際、この車掌からもう一台のトラックの車掌にチャット札を渡して何やら伝言をしていた。
「この日本人をバゴーで降ろしてくれよな」とでも言っているのかも知れなかった。

乗り換えたトラックはすでに相当の混み具合で、座る場所がない。
しかし、「早く乗れ」と指示され、荷台の奥に押し込まれ、床に風呂のイスよりもさらに小さなイスがあり、そこへ膝を抱えるようにしてしゃがんで乗ることになった。

しばらく走ると大きな川を渡り始めた。
たぶんシッタン川であろう。
でも、そうするとバゴーはまだまだ先と言うことになる。
現在の場所は行程の半分にも満たないはずだ。
この調子だと、チャイトーの駅で3時間待っても汽車の方が早かったかもしれない。
トラックは鉄道線路に並行する形で進んでいる。

雨も降り出してきた。トラックなので荷台に窓ガラスがあるわけではない。
雨が吹き込んでくる。
雨脚が激しくなったところでトラックは停車し、屋根からシートですっぽり荷台を包み込んで雨を防いだ。

私の背中にはこのトラックの燃料であるプロパンガスのボンベが何本も積んである。
ボンベからガスを供給しているので徐々にボンベ内の気圧が下がるからであろうが、ボンベが冷たくなる。
蒸すような車内で私の背中だけでエアコンにあたっているかのように涼しい。

2時間ほど走って大きな道路に出て左折した。
そして交通量が半端ではない。たくさんのバスやトラックが走っている。
きっとマンダレー街道に出たのだろう。
つまり、今私と同じ方向へ先を争うように走っている車たちは、大都市ヤンゴンを目指しているのだろう。

午後1時近くになってバゴーに着いた。
降ろされた場所がバゴーの町のどのあたりなのかさっぱりわからない。
とりあえずヤンゴン行きの切符を買っておきたいので、駅へ行きたい。
道端の人に「鉄道駅はどっちですか」とたずねたら、「このままずっとまっすぐだ」と教えてくれた。

まっすぐと言うので歩き出したらすぐ陸橋になった。下には鉄道の線路が走り、右手に駅が見える。
なんだ、ずっとまっすぐなんかではなく、すぐ右手にあった。
陸橋脇の土手を降り、線路脇に出てそのまま駅のホームへ入った。
ホームは無人であるが、駅舎にはたくさんの人がいる。
ホームと駅舎の間は鉄格子で隔てられてて、汽車を待つ人もホームへは出られない構造になっている。
そして、私も切符を買いに駅舎側へ入れない。
ホームのはずれに駅員の控え室があったので、そこで「切符を買いたいのだけど」と訴えたら、改札口まで案内してくれて、南京錠解いて鉄格子の扉を開いてくれた。なんだか牢屋から釈放されたといった感覚である。
切符はまたまた簡単に買えた。
バゴー⇒ヤンゴン 1,150チャット

ヤンゴン行きは3時ちょうどとのことである。まだ2時間ほどある。
さて、涅槃仏はどこだろうか?
駅前をキョロキョロしてたらバイクタクシーの運転手が寄ってきた。
「どこ行きますか?」と日本語で聞いてきた。
上手ではないが、なんとかわかる。
しかし、私は涅槃仏のあるお寺の名前がわからない。
「大きなブッダ、寝ているブッダのあるお寺へ行きたい」
「大丈夫 1,000チャット」
どのくらいの距離があるのかわからないので、その金額が妥当かどうかもわからない。
「往復だったらいくら?」
「2,000チャット でも大きいパゴダのお寺とヘビのお寺も行くよね 3,000チャット」
なるほど、昨日の西洋人の女性が大きなヘビの寺があると言っていたっけ、、
「うーん、でも3時の汽車に乗るから、時間もないんだ それに昼ごはんも食べたい」
「大丈夫、間に合う」
「ほんとぅ? 昼ごはんが食べられるレストラン、どこかお勧めある?」
彼はそのまま駅の前にある古くて暗くて汚い食堂へ案内してくれた。
うーむ、行きがかり上しかたないかぁ、、、
ここもやはり鍋の中にビルマカレーの煮込みが入っている。
いくつかの鍋をのぞいて「玉子なら食べられないと言うこともない」と判断してエッグカレーを注文する。
焦げ茶色に煮込まれたゆで卵が一個と、ハーブや野菜の盛り合わせ、スープにライスが運ばれてきた。
そして老婆も出てきた。
「ジャパニー?」と聞いてきたので、そうだと答えたら「私の名前はユキコです」と老婆は言った。
「ユキコさん?どうして日本の名前なんですか?」と質問したら、
彼女か生まれたのは1942年で、日本の時代だったからとのことであった。
彼女も終戦時はまだ幼児であったわけだから、日本の時代の記憶などないだろうが、こうしてこんな場末(本当は駅前の一等地)の食堂に日本名を持つ女性が暮らしているなんて、なんだか驚き。
確かに30年前に来たときは、日本語の話せる人がたくさんいた。
マンダレーでであった女性は戦時中に日本語学校で日本語を学んだと言っていた。
当時日本語を教えてくれた先生の名前を覚えていて、「あの先生はどうしていらっしゃることでしょう」と話されていた。そしてその旅行から帰ってすぐに大学の図書館で調べたら、戦後の引揚者の名簿の中にその先生のお名前があった。宇品へ上陸されたところまではわかったが、その後の消息は調べ切れなかった。

この老婆がいてくれたおかげで、この食堂の印象ががらりと変わった。
玉子カレーもおいしく食べられた。
そして食事代も申し訳ないくらい安かった。
駅前食堂玉子カレー定食 500チャット

食事を終えてバイクタクシー氏がニコニコ近づいてきて「おいしいね、ではそろそろ行きますか」と言ってきた。
バイクの後部座席にまたがり最初に連れて行ってもらったのは大きな涅槃仏。
駅の裏の方へ走ること数分で到着。
このくらいの距離で地図さえあれば歩きたいところだった。
この涅槃仏、確かに大きい。
涅槃仏
バンコクのワットポーにも大きな涅槃仏があるがそれより少し大きいかもしれない。ワットポーの涅槃物は金色をしているが、ここの涅槃物はクリーム色に近い白い肌をしている。昨日聞いたとおり確かに目の色は青い。
青い目

ワットポーと同じように足の裏には曼荼羅が描かれている。
ワットポーの足裏曼荼羅は螺鈿細工と豪華だが、こちらはレリーフが金色に色付けされている。
足の裏

タイの涅槃仏は一般に薄っぺらい。
正面と背中側との幅が体の横幅に比較して狭い。
ここの涅槃仏もその傾向があるようだ。

バゴーの涅槃物といったら日本ではビルマの竪琴のハイライトシーンとして有名だし、歴史的にも有名なので、もっと観光客や参拝客がいていいはずなのに、参拝者はほとんどいない。
涅槃仏が新しく見えるのは、塗り替えたり、補修をしているからなのかもしれないけど、私が以前見た写真では屋根付きの建物の中に入っていたはずだが、目の前に横たわる仏様は露天である。補修するときに建物を撤去して、まだ再建されていないだけなのかな?
本当に私の訪れたかったのがここであるのか少し疑問が沸くが、バイクタクシーの運転手が「バゴーで有名で巨大な涅槃仏はここだ」と言う。しかも彼は日本語も少し話せるくらいだから、日本人が行きたがる涅槃仏がどこかも熟知しているはず。
それに違ったとしても、要は信心の問題。
ここでもしっかり手を合わせ、三度額づいて参拝をする。

この涅槃仏の前にはお賽銭箱はあるが、拝観料の集金はなかった。バゴーの涅槃仏は拝観料を徴収していると聞いていたけど、制度が変わったのだろうか?

★タイに戻ってから確認したところ残念ながら当初私が考えていた「有名なバゴーの涅槃仏」ではなかったことが判明。
私の考えていた涅槃仏は、このすぐ隣にあるように地図に出ていた。

次に案内してもらったのはバイクで街の中心部を走りぬけ、街の東側にある寺院で、バゴーで一番大きなパゴダのある場所だそうだ。
バイクは正面の参堂ではなく、北側の入口へ回り、案内してくれた。私は正面から見たパゴダが立派だったので、写真に取りたいと思い、彼に「私はここから入って、正面へ回るから、そちらで待っていてほしい」と伝えたのだが、「正面側へはバイクで連れて行くから、ここへ戻ってほしい」と言われる。
先に金色に塗られたパゴダは由緒あるパゴダであると言う俄か覚えがあり、またバゴーのパゴダはとてもビルマの人たちに崇められていると聞いていたので、そのがこのパゴダなのだろうと、今回は確信した。
参道の手前では裸足になり、境内へと続く階段を登る。

鈍い色
階段を上りつめて境内に出たら大きな金色のパゴダがそびえていた。
おぉ、これは凄い。
と、カメラで写真に収める。しかし、生憎と雨が降り出してきた。
晴れているときには金色が輝くが、雨雲の下だと金色も鈍って見える。
パチリと雨雲を背景にした金色のパゴダを撮る。
すると「カメラ・フィー」と言って男性が近づいてきた。
この寺院ではカメラの持込料を徴収するらしい。
それは良くあることなので、素直に支払う。
カメラ持込料 300チャット

ここは先ほどの涅槃仏とことなり参拝者が多い。
タイからの観光客もガイドに引率されて着ていた。
私のバイクタクシー氏はガイドはしてくれないので、私はタイ人グループから少しだけ離れたところで、そのグループのガイドが話す説明を聞いてみた。
タイからの観光客は自分が拝むべき仏像がどれなのか盛んにガイドに質問をしている。やはり生まれた曜日によって拝む対象となる仏像の形が異なっているのはタイもビルマも同じようである。しかし、タイの人たちは自分の生まれた曜日の仏様がどのような形をされているか良く知っているはずだから、わざわざ質問などしなくても分かりそうなものだが、ひょっとするとタイとビルマでは仏像の形が少し違うのかもしれない。私は木曜日生まれなので座禅を結ばれた姿の仏様だが、ちょっと見渡したところ「これだ」と確信を持てる仏像が見つけられなかった。
ガイドの説明の中で、水曜日は昼と夜とで仏像の形が異なると言っていた。これはタイも同じで、タイ人たちが頷きながら説明を聞いていた。
タイ人グループ

モーラミャインのお寺でも不思議な像があったけれど、このお寺も不思議な像を発見。
小鳥だろうか?
口のところに丸く穴が開いている。水でも噴出すのだろうか?
下に何か書いてあるがビルマ語だけなのでさっぱり分からない。
以前ビルマに来たときは、お寺でフクロウを模ったものが寄進されていたり、売店で売られていたりした。
この2羽はフクロウには見えないけれど何なんだろう。
景色を眺めるだけならいいが、こうしたところではやはりガイドがいてくれた方が良さそうだ。
小鳥

雨が上がり、日が差してきた。
こうなると金色のパゴダは輝き始める。
もっと青空が広がるまで待ちたかったけれど、汽車の時間もあり、そろそろ戻らないと心配だ。
金色

バイクタクシー氏が「次はヘビ寺ね」と言う。
しかし、もう時刻は2時半。
そろそろ駅に戻るべきかと思うが、「大丈夫、大丈夫、汽車は遅れるはずだから」と言う。
そうかも知れないが、やはり3時までには駅に戻りたい。
「でも3時には駅に戻りたい」と主張したが、
「大丈夫、戻れる」とのことで、そこまで言うならヘビ寺へ行ってみることにした。

ヘビ寺はバイクで畑の中の田舎道を進んだ町外れにあった。
社務所のようなところにある家具の下に大きなニシキヘビがあた。確かにおとなしい。見学者がチャット札をヘビの腹の上などに置いていくようで、ヘビの周りにはチャット札がたくさん散らばっていた。
しかし、別にこのヘビは信仰の対象になっているわけではないようで、ただこの寺の中で買われているというだけのようである。
バイクタクシー氏が「写真撮ってもいいよ」と言ったが、ヘビを見ていたら、ひっきりなしに参拝者が来て覗き込まれるヘビが不憫に思えてきた。中にはヘビを棒などで突くような人もいるのではないだろうか、ヘビだってもっとのびのびしたいだろうに、、そんな事を考えたらカメラを向ける気になれなかった。
その代わりここにもパゴダがあったので拝んでから駅へ向うこととする。

バイクタクシー氏が何か日本語で言っているのだが、何といっているのか良く聞き取れない。何度も聞きなおしていたらメモ書きを示した。そこには日本語をローマ字で書いてあった。
書いてある内容は「バゴーの入場料は立て替えて払っているから自分に払ってください」と言ったようなものだった。
しかし、彼の「入場料」と言う発音が「ヂョーヂョーヂョー」と聞こえ、何のことかさっぱりだったのである。
ビルマ人は「東京」のことも「トゥーヂョー」と発音する傾向がうるので、はじめは何のことか良く分からなかった。
この「入場料」と言う発音も彼らには難しいのだろう。

しかし、私は入場料がかかるなんて知らなかったし、立て替えてたなんて初耳だ。もしドライバー氏が片言の日本語を使って日本人の旅行者をお客にしたいなら、日本人の性格も言葉同様に理解しておく必要がある。

「私は入場料をあなたが立て替えていたなんて、知らなかったよ。もしそうだとしたら、先にそのこと説明しておくべきだったな。そうしないと不信感を抱かれて、せっかく日本語を覚えたのに、日本人に信じてもらえなくなるよ」と言った。
たぶん、私以外の旅行者とも同じような経緯があったのだろう。
「OK、10,000チャットでもいいよ」と彼は言う。
残念、どうも理解されていない。
料金交渉をするつもりで話しているのではなく、日本人相手の仕事の仕方について教えたつもりだったのに。
「いったい、立て替えてくれた入場料はいくらなんだい?」
しかし、この質問もよく理解してくれなかったようだし、彼の説明もしどろもどろになってきた。
「ヤンゴンのシェダゴン1万チャット、バゴーお寺1万チャット、ぜーんぶ1万チャット、、、」
彼が本当に入場料を立て替えてくれていたのか、残念ながら疑わしくなったけど、先の涅槃仏で事前に入場料がかかると聞いていたのに、私は払っていない。つまり彼が立て替えていてくれたのかもしれないけど、どうもよく分からない。
「入場料5千チャット、バイク3千チャットでOK」と聞いてくる。
本当のところが分からず、ちっともすっきりしないので、OKではないが、こんな町外れで交渉するのは不利である。
「7千チャットだな」と私は言った。
「入場料1万チャット、、、」とまだ言っている。
「7千チャットしか払わないよ」と再度伝える。
バイクタクシー氏はしぶしぶ承諾し、駅へ向う。
38歳で子供が4人いるそうだ。
「奥さんは何人?」と質問したら「一人だよ!」と言って笑った。

このバイクは6年乗っていると言う。
しかし、だいぶボロボロになっている。
「もう少し整備した方がいいよ」とアドバイスをする。
お客さんだって綺麗なバイクのほうが良いだろう。
バゴー観光のバイクタクシー 7,000チャット

タイに戻ってから確認したところ残念ながら当初私が考えていた「有名なバゴーの涅槃仏」ではなかったことが判明。
私の考えていた涅槃仏は、このすぐ隣にあるように地図に出ていた。


バゴー駅の駅舎は白いがだいぶ汚れている。
説明を受けなければ駅とは気がつかないかもしれない。
倉庫か古い役場かと勘違いしそうだ。
バゴー駅

3時になったが列車はまだホームに入ってきていない。
改札口の鉄格子も閉じられたままだ。
列車を待つ客は地べたにそのまましゃがみこんでいる。
ベンチもあるにはあるが絶対数が足りない。
駅員から「数分遅れてるよ」と告げられ、「これ食べないか?」ととうもろこしを差し出されるが、お腹もすいておらず遠慮させてもらった。
ずいぶん待って漸くホームへの扉が開かれた。
30分近く遅れてやって来た列車は既にほぼ満員の状態。
それでもこのバゴーから乗り込もうとする客もホームにいっぱいいる。私は座席指定のアッパークラスなので心配いらないが、普通車の人たちは大変だろう。
さっきとうもろこしを食べないかと声をかけてくれた駅員はとても親切で、私と一緒に客車内まで乗り込み、私の席を見つけてくれた。席には既に若者が座っていたが、駅員が話して席を立った。

今日の汽車は昨日と同じアッパークラスだが、昨日は通路を挟んで1人がけと2人がけと言う相当ゆったりした構造だったけれど、今日のは通路の両側とも2人がけになっている。また満席なので少し狭く感じる。

バゴーを出てしばらくは田園風景であったが、ヤンゴンに近づくにつれて徐々に今まで見てきたビルマの風景とは異質な風景が展開し始めた。
建設工事現場が多くなり、クレーンやショベルカーなどの重機が働いている。建設されている建物も、いままで見てきたビルマの建造物とはまるで異なる。コンドミニアムやアパートなど高層建築もある。ヤンゴンは既にビルマではないようだ。そしてまた私の知っているラングーンの街からも大きく変貌している。

5時過ぎにヤンゴンに到着する。
ホームから階段を登ったら、そのまま大きな陸橋の上に出た。
車が走っている。
乗用車が多い。
陸橋から眺めても大きなビルがたくさんある。
バンコクのビルと比べると野暮ったい感じのビルが多いが、昔のホンコンのような感じもする。狭いところに無理やりビルを建てたような感じた。以前は5階建て以上のビルなど見かけなかったのに、いまは5階建てのビルの方が探すのに苦労しそうだ。

ボジョーク通りを右折して歩く。
人通りが多い。
バンコクのように露店も多い。
食べ物の露店、衣類や古道具などが歩道を占有している。
シャングリラホテルがあった。
ホテルはあちこちにたくさんある。
小さなホテルが多いようだが、私が今回泊まるのも小さなホテルのはずである。
以前来たときは、ラングーン(ヤンゴン)で宿泊が許可されているホテルはたったの6軒しかなかった。インヤレイクホテル、ストランドホテル、ダゴンホテル、YMCA、YWCAそしてゲストハウスが1軒のみ。週3便のタイ航空がミンガラドン空港に到着すると、ホテルがすぐに満室になってしまうと言われており、安いYMCAの部屋を確保するのにソワソワしたものである。
数年前まで、ホテルこそ増えたが、ヤンゴンを訪れる観光客やビジネスマンがそれ以上に増えて、ヤンゴンではホテルが足りないと言われたものだが、今こうして歩いてみると内容はともかくとして、宿泊施設は雨後の筍のように、あちこちに乱立気味に見える。

ボジョークマーケットが見えてきた。
以前はラングーン最大の市場として、静謐と感じられるほど閑散としたラングーンのまたの中でも、ここだけは人だかりがして活気があったのだが、今は町全体が騒乱状態かと思うほど活気がありすぎて、ボジョークマーケットが静かに感じられる。
ボジョークマーケット

大きな交差点で信号が変わるのを待っていたら、一陣の風が吹いて私が被っていた麦わら帽子を吹き飛ばしてしまった。
あれよあれよと言う間に、交差点の中に飛んで行き、何台もの車に跳ね上げられたり踏まれたりしてしまった。
そして麦わら帽子は道の反対側で、こちらに向って道路を横断してくる歩行者に拾われ、ボロボロになって私のところに帰ってきた。

私の泊まるホテルはROYAL 74 HOTELと言う、中国人街の路地奥にあるこじんまりとしたホテル。
ホテルの周辺は中国人街だけあって食堂が多い。
ただしビルマ料理屋ではない。中国風の食堂もあるが、日本食の食堂が3軒も路地の中にあった。

ホテルは見たところ比較的新しいようで、入口はガラス張りで中も明るく、レセプションのスタッフやドアボーイの身なりも良い。
スタッフの対応も親切で感じが良い。
ホテル代はドルでもチャットでも良いとのことで、当初私はチャットで支払った。しかし、後になってよく考えたら、もう財布の中にチャットがほとんど残っていない。これだと明日の食事にも事欠きそうだ。レセプションに「さっきチャットで払ったけど、ドル払いに戻してほしい」とお願いしたら快く受けてくれた。
ホテル代 ROYAL 74 HOTEL 20ドル (エアコン、温水シャワー、冷蔵庫、テレビ付き)

部屋は広くはなかったが、清潔感があり綺麗であった。
シーツも白いし、トイレもシャワーも具合が良い。
石鹸やシャンプー、白くて大きなバスタオル、歯ブラシまである。
つまり日本のビジネスホテルのようなものだ。
ただし私の部屋には窓がない。

夕食がてら外に出る。
ホテルの隣りに日本食の食堂がある。
このホテルには日本人が多いから、このような食堂があるのだろうか?
それとも、バンコク同様にヤンゴンでも日本食がブームになっているだけなのだろうか?
いずれにしても日本食が食べたい気分ではない。

中国人街なので中華料理でも良いかと思ったが、入りたいと思わせる店はなかった。
表通りに出たら市バスがたくさん走っている。
それもさまざまな中古バスばかり。
日本から持ち込んだ中古バスは、ビルマが日本と異なり右側通行のため、もともとの乗降用のドアは車体の反対側になってしまい、バス停側にある非常口のドアを加工してしつらえてある。
ワンマンカーではなく車掌が乗っており、バス停にバスが着くたびに車掌はバスから飛び降り、ここでも腹の底から出てくる野太い声で行き先を叫んで呼び込みをしている。
それが面白くて、ただバス停で次々にやってくるバスを見る。
韓国製の中古バスもやってくる。
こちらはもともとビルマと同じ右側通行用にできているので、本来の乗降口から乗り降りできる。
日本製も韓国製も外装は広告だらけで、もともとどこのバス会社から来たものか判別つかないものが多いが、車内は日本語やハングルの表記がいっぱいである。
さらに中国製のバスも走ってくるが、こちらは中古車ではなさそうに見えるが、くたびれ方は中古車並みのようだ。

交差点の角にビールを飲ませる店があって、インド系の男たちがビールを飲んでいた。
私もビールを飲みたいが、この店で食事をしている人はいない。
このような形態の店では食事は出さないのだろうか?

1ブロック先の通りへ出てみると、こちらの方がにぎやかで屋台とか出ている。
また店も日本の100円ショップに似たような店もある。
しかし、食堂はこれといったものがない。
餃子を焼いている屋台があった。
餃子とビールなんて良さそうだと思ったが、ビールはないとのこと。
それに餃子も鉄板で焼いているのだが、ものすごく油がいっぱいで、焼くと言うよりフライでも作っている感じである。
値段は小ぶりの餃子10個で1,500チャットとのこと、興味はあったがやめた。

ヌードルの屋台も何軒かあった。
モヒンガーの屋台で、モヒンガーもビルマ庶民料理の代表格ながらまだ食べていない。
この機会に食べるのも悪くないが、ビールのツマミになりそうにない。
同じヌードルでも、チャイトーやバゴーなどでハーブや唐辛子などを混ぜた汁なしの和え麺を見かけており、それが美味しそうだと気になっていた。
タイのヤムウンセンに似た感じなのでビールにも合いそうだった。
しかし、モヒンガーなど汁そばはあるが、汁なし麺は見つからなかった。

この街では、夕食にビールを飲むと言う習慣がないのではないかと思えてきた。
そうだとしたら私の夕食探しに問題があるわけで、一度ビールのことは忘れて、食べ物のことだけ考えることにした。
そうしたら、目の前に朝食べたパラパラのチャーハンと同じタイプのチャーハンを食べさせる露天を見つけた。
チャーハンだけでなく、鍋入りの煮込みも何種類もある。
朝と同じだが、その露店の風呂イスのような小さく低いイスにしゃがみこみ、チャーハンを食べることにした。また、白いご飯とナスのビルマカレーももらった。
どちらも味は良い。
これでちゃんとした、せめてキンプンの食堂並みの設備があればもっと満足度が高いはずなのだが、まことに残念である。
この店でも生野菜やハーブの盛り合わせが付いてきた。
さらに感動的だったのは、これだけ食べてたったの800チャットに過ぎない。
夕食 800チャット (チャーハンとビルマ風ナスのカレー定食)

お腹がいっぱいになったが、やはりビールが飲みたいので、先ほどのビールを飲ませる店まで戻る。
ここはビールを飲ませるだけあって、ミャンマービール以外にも何種類かビールがある。
そんな中で
ビール瓶の王冠に納税証明印紙の貼ってあるビールがあった。
いままで飲んできたビールにはそんなものなかったし、タイでもそのような印紙はウイスキーなどには付いているがビールでは見たことがない。
ライオンのイラストの書かれたそのビール、ブランド名はダゴンと書かれている。
なんとなく、高級そうだし、美味しいのではないかと期待が高まる。
そして味は、、特別美味しいと言うほどではないが、泡立ちは控えめで、飲み口はやはり良いし、ホップの香りもよく、コクがある。毎日ビールを飲んでいるが、ミャンマーのビール、イイ線行っているように思える。
それに安い。
中国系のオーナーに値段を聞いたら1,500チャットとのこと、ちなみにこの店でミャンマービールは1,800チャットとのことだったので、高級そうに感じたけど、実は安ビールだったわけだ。値段など聞かなければ良かった。
ビール屋にてダゴンビール大瓶 1,500チャット

なお、この店には何種類ものビールがあったが、マンダレービールはなかった。

満腹でビールも飲んだのでホテルへ戻ろうと思うのだが、部屋に戻ってシャワーを浴びたらまたビールを飲みたくなるだろうと思い、ちょっと遠回りしてスーパーに立ち寄る。
スーパーは小さく狭く、商品陳列も雑貨屋並みであった。
商品もほとんどがタイのものであった。
ここではアンダマンと言う銘柄の缶ビールを買うことにする。
またツマミにカシューナッツも買う。
スーパーで缶ビールとカシューナッツ 1,500チャット

シャワーを浴び、エアコンを弱めにして、ビールを飲みながら本を読む。
部屋の中が明るいので、夜でも本が読める。
やっぱりヤンゴンは都会だ。

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ビルマ懐訪の旅 ③ビルマ2日目モーラミャインからゴールデンロックまで
5月16日 土曜日

午前5時に起きようと目覚ましをセットしておいたのだが、これが失敗であった。
目覚ましは5時になっているが、目覚ましそのものがタイ時刻のままで、腕時計を見るとまだ4時半。
ちょっと早く起きすぎたけど、これから二度寝したら寝坊しそうなので起きることにする。
まだ外は真っ暗。

携帯電話は一晩中電源につなげていたけれど、やはり充電できていないのか、電源が入らない。
せっかくWiFiがあるのに、何にもならない。
地図もガイドブックもないので、いく先々で訪ねながら情報を仕入れなくてはならない。
まぁ、本来一人旅なんてそうあるべきなんでしょうけど。

5時半過ぎに荷物をまとめて部屋を出る。
1階に下りたところにいた若衆にチェックアウトと告げたのだが、宿の外を指差し、どうやらそこにこの宿の本館があり、そこでチェックアウトをするらしい。
どうりでこの建物の1階にはレセプションがないと思った。

泊まっていた宿の斜め前にやはり宿があり、そこがやはり本館になっているようで、狭いながらロビーもレセプションカウンターもあった。
チェックアウトと告げると、係員が飛び出していってどうやら私の泊まっていた部屋をチェックに行ったようである。
その間少し待つように言われる。
ソファもあるので座って待てばよいのだが、この建物の前にもネコががいたので、「ネコに」じゃれついて遊ぶ。
うちのネコはちゃんと留守番しててくれてるかな?
バンコク出て二晩が過ぎネコのことが気になる。

係りが戻り宿泊料15,000チャットを支払い、預けたパスポートを受け取って駅へと向かう。
すでに外は明るくなっていた。
モーラミャインの宿泊料(Narawat Motel) 15,000チャット シャワー・エアコン付き

駅のホームにはすでに私の乗る列車が入っていた。
タイならば駅前に食べ物の屋台とかが出ているのが普通だが、このモーラミャイン駅には屋台もコンビニもなかった。
ホームで何か売っているが、私が食べられそうなものは売っていない。

私の乗る車両はアッパークラス1号車となっいる。
ビルマでは数字も我々が普段使うアラビア数字ではなく、ビルマ数字であり、私にはまだ読めない。
しかし、1号車と言うからには、一番前か一番後ろの車両のはずと思い、まずは一番前まで行ってみる。
号車番号はビルマ数字で読めないが、ドアの横にアルファベットで「オードナリークラス」となっていて、一番前の車両ではないようだ。
しからば後ろかとホームを戻ると、ロンジーの上にワイシャツを着た公務員風の男性が居て、私の切符を見ると私を乗るべき車両まで案内してくれた。さらに窓から手を突っ込んで、「ここが席だよ」と教えてくれた。

車内の座席は通路を挟んで二人がけと一人がけで、横幅も前後間隔もゆったりしているリクライニングシートで、白いシーツまでかけてある。
しかし、座席は相当に古く、痛んでいる。
肘掛のところに飛行機のビジネスクラスのようにテーブルの収納が付いているが、その収納の蓋を開けたがテーブルは壊れて引き出すことができなかった。

汽車
出発時刻は6時15分ということであったが、6時10分には動き始めてしまった。
定刻より遅れることは考えられるが、定刻より早く出発したら乗り遅れる人が出て困るだろうに、どうしたんだろう?
しかし、列車がホームを抜け切ってしまう前に停車した。
やっぱりフライングだったようで、そのまましばらく停車して、6時15分を待って再び動き出した。
駅名

ゆっくりと走り始め、やがて高架橋へ登り、進行方向左手には昨日夕方に登った北の丘のパゴダが見える。
車窓パゴダ
昨日はこのあたりを徘徊したんだっけ。

続いて大きな橋を渡る。
モーラミャインと対岸を結ぶ橋で、自動車の走る道路も並行している。
鉄橋
橋

満席ということはなく、空席も多い。
アッパークラスということで、乗客の身なりも良い。
私の座っている席の周辺はワイシャツを着ている人ばかりである。
やはり公務員なのだろう。書類に目を通していたりする。

話には聞いていたが、ビルマの汽車は激しく揺れる。
スピードはじそく40キロ程度で走っているのだろうが、時々シートから尻が20センチくらい飛び上がるほど上下に激しく震動する。
バッコン、バッコン、バッコンと規則正しく周期的に上下する。
アッパークラスでシートにクッションがあるからいいが、一般車の木のベンチだったら堪らないことだろう。
クッションがあるのは良いが、私の座っているリクライニングシートは背もたれが倒れっぱなしになっている。
寝そべるには良いのだが、寝そべったまま上下に震動して跳ね上がると、落ちてきたとき体勢が苦しい。
しかし、それも経験。なかなか面白い。
それによくもこんなに揺れて脱線しないものだ。

列車が揺れるのは、車両がボロイからだけではなく、線路の路盤の整備が悪いからだと思う。
路盤を固めて、砂利をしっかり敷き詰めれば、乗り心地は改善されるはずである。
そして私の見たところビルマの鉄道は今ずいぶんとがんばって路盤の強化をしているうに見える。
あちこちでたくさんの労働者が保線工事をしている。
それはまさに人海戦術と言った感じで、すべてが手作業で行われている。
重機もコンプレッサーもない。
線路端に積み上げられた砂利の山から籠に砂利を詰め、その籠を頭に載せて運んでいる。
砂利を敷き詰めるために線路を浮かすのはバールのようなテコだけである。
これではなかなか捗らないだろう。
昨日の東西経済回廊のように重機を使って保線作業をしたらばきっと鉄道での輸送力も大幅に改善するだろう。

車窓
車窓からの景色を眺めているのは楽しい。
特に美しい景色が広がっているとかというよりも、そこに住んでいる人たちの生活をのぞくことができるので面白い。
大きな街はなく、小さな集落がいくつも車窓を流れていく。
小さな集落でも、村の中の道を歩いている人は多い、このあたりの人たちは建物の中に入っているより、戸外にいる方か多いのではないだろうか。
子供たちもたくさんいる。
昔のままの「明るい農村」と言った感じがする。

牛車
以前は地方ならどこでも見かけた牛が引く荷車が、ずいぶん減ったなと思っていたが、まだまだ農村部では少なくなったとはいえ現役であるようだ。

途中の駅で貨物列車とすれ違う。
タイの貨物列車は現在ほとんどコンテナ車かタンク車ばかりだけれど、ビルマの貨物列車は昔ながらの有蓋貨車や無蓋貨車を連ねていた。
もっとも、貨物列車で大きなコンテナを運んできても、このあたりにはコンテナを積み降ろしする重機もなさそうだから、コンテナ輸送ができるようになるにはまだ時間が少しかかりそうだ。
貨車
貨物列車かと思ったら、有蓋貨車にはベンチがあって人もたくさん乗っていた。
このあたりの人たち用の汽車なのだろう。

お腹がすいた。
車内の通路を物売りが行き来するのだが、食事になりそうなものは売っていないようだ。
他の乗客たちは弁当持参で乗り込んでいる。
私は食べ物がない。
やがてトウモロコシを籠に入れ頭の上に担いでいる女性が来たので呼び止めて一本購入。
熱々のトウモロコシ 200チャット
トウモロコシは黄色く粒もそろっており、ずいぶんと改良された品種のように思える。
しかし、塩水で茹でたものではないらしく、塩っけがまるでないので、味が薄く感じる。
素材の味は悪くないが、ここで少し塩でもまぶしてあれば、もっと甘みも引き立つのに、、ビルマでは塩を使わないのだろうか?

ビルマの女性は者を運ぶときに頭に載せるのが一般的なようだ。
このトウモロコシ売りの女性もトウモロコシの入った籠を頭に載せて通路を行き来している。
籠を頭に載せているから、首を振るわけにいかないのだろう。
左右の客席を見回し、買いそうな客がいないかと探すときも背筋を伸ばし、首から上を固定したまま、目だけキョロキョロとよく動かしている。
それがなんだかバリ島の民俗芸能を踊るダンサーの目配せの仕方に良く似ているなと感じた。

トウモロコシだけではなく、途中駅に停車したときにはデッキからピーナッツを飴で固めたような円盤型のお菓子を買う。
いくらなのかもわからないが、高いものではないだろうと思い、一枚摘み上げて500チャットを渡したら、もう3枚手渡された。
つまり4枚で500チャットと言うことなのだろうか?
味は飴で固めたといっても甘すぎず、少ししょっぱいくらいなので、なんとなくスーパーの惣菜コーナーで売っている「ピーナッツ味噌」に似た味がした。
私は子供のときピーナッツ味噌が好きだった。
もっとも飴で固めているのでかなり硬く、食感は固焼きせんべいである。
ピーナッツの飴固め煎餅  500チャット (4枚)

通路を挟んだ隣の公務員風の男性からバナナを2本いただく。
台湾バナナのように細長くて大きい品種のもので完熟で香りもよく甘かった。
タイでクルアイホームと呼ばれる品種のようである。
私がお腹をすかせているのがバレてしまったようだ。

10時半過ぎに「チャイトー駅についたよ」とバナナをくれた男性が教えてくれた。
急いで荷物をまとめて列車から降りる。
時刻表も持っていないし、文字も読めない、社内アナウンスもないから、そろそろ着くかなと思っていたけど、こうして教えてもらわなければ乗り過ごすところだった。

ホームから階段を昇ったところに古めかしい駅舎があり、駅前広場はただの空き地と言った感じだが、乗り合いトラックが止まっている。
そのトラックの車掌が手招きして「キンプン、キンプン」という。
そう、確かゴールデンロックの入り口の村の名前がキンプンだったはず。
すでにほぼ満席ながら、先に乗っている人たちに詰めあってもらってベンチに座ることができた。
チャイトーからキンプンまで乗り合いトラック 500チャット

きれいな舗装道路を30分ばかり走ってキンプンの村に到着。
時刻はまだ11時過ぎ。これなら今日中にゴールデンロックの見学がして来れそうだ。
それに今日中にゴールデンロックへ参拝して、明日も今日乗ってきた汽車にチャイトーで乗れば、バゴーまで2時間くらいだろうから明日の午後はバゴーの観光もできそうだ。
今回はスケジュールがとても順調に進んでくれている。

今晩はこのキンプンの村に泊まる事にして、まずは宿を探さなくては。
乗り合いトラックを降りたところから、舗装された道路が奥へと続いています。
観光地らしく道路の両側には観光客相手の店や食堂が並んでいます。
やたらと熱心に呼び込みをする食堂もありますが、今はもう空腹ではないので宿探しを優先させます。

まずは一軒、左手にAir-Con ゲストハウスと書かれた宿が見えましたが、あまりにも外国人バックパッカー御用達みたいな感じがして敬遠。
そのままスタスタと行き過ぎます。
500メートルも歩いたところで舗装はなくなり、土の道となりました。
そして森の中に入っていく感じで、この先に適当なホテルなどなさそうです。
ふたたびトラックを降りたところまで戻り、何軒か宿を見つけましたが、ことごとく「ノー・フォリナー」「ローカル・オンリー」と断られてしまいました。
ビルマでは外国人を止めることができない宿泊施設があることを知りました。
しかし、外国人を泊めないなら英語の看板でHOTELなんて書かないでほしい。
ビルマ文字だけで十分なはずなのに。

なんども行ったり来たりし、そのたびに食堂の呼び込みに声をかけられ、「あとでねぇ」と日本語ではぐらかしていたら、西洋人の若い女性が前から歩いてきた。
そして先方から「ハーイ」と声をかけて来た。
宿を探している旨伝えると、「自分が泊まっている宿は8,000チャットと安くて、快適だよ。バスルームはすごくシンプルだけどね」とさっき私が敬遠したゲストハウスを紹介してくれた。

Pann Myo Thuというゲストハウス。
主人に部屋はあるかと聞いたらあるという。
トイレとシャワーは共同とのことで、値段は9ドル。
9ドルが8,000チャットなのか良くわからないが、これ以上宿探しをして時間を無駄にしたくないので、ここに決めた。
部屋は「うーん、バックパッカーたちはこんなところに泊まるんだな」と思うような狭い部屋で、壁はベニヤ板。扇風機はあり、網戸はない。
テレビも冷蔵庫もない。ま、いらないけどね。
しかし、WiFiはあるのだそうだ。しかし携帯が壊れて使えないけどね。
ベッドのシーツは白くなく、日本の子供用シーツなのか日本の電車のイラストがプリントされたものであった。Train in Night Skyと書いてあった。
キンプンのゲストハウス Pann Myo Thu 9ドル (エアコンなし、トイレ・シャワー共同)

宿の主人から明日はどうするのかと聞かれ、「バゴーに行くつもりだ」と答えたら、「それなら自分のところでバスの切符を用意できるよ」とのことだった。
しかし、私はまたさっき乗ってきた列車でバゴーへ行こうと思っていると伝えたら「オー、セーブ・マネー」と言われてしまった。
「イエス、セーブ・マネー、アンド・ダンシング・イン・トレイン、ベリー・フォニー」と答えたら笑われた。

この宿で気に入ったのは、宿のまわりにネコたちがたくさんいるということ。
そしてビルマのネコたちは働き者である。
ちゃんとネズミを捕まえてきている。
ネズミ捕り
いまどきの日本のネコでネズミを追い回すようなのがどれほどいるだろうか?
我が家のクロネコはネズミを捕まえたことはない。小鳥やヤモリ、トッケーは時々くわえて来る。

さて寝床も確保できたので、ゴールデン・ロックを目指すことにする。
乗り合いトラックから降りた場所へ戻り、広場に観光バスが何台も止まっていた。
ゴールデン・ロックへ行くバスは大型トラックだというから、これらの観光バスではなさそうだ。
そんなバスの中に一台、以前ラングーン(ヤンゴン)の街を走っていた古い市バスが大きな合歓の木の下に止まっている。
昔のバス
当時でも相当に古くてボロボロだったが、このバスは綺麗に塗り替えられている。きっと観光用なのかもしれない。
観光用

小腹もすいたので広場脇の屋台でモヒンがーヌードルを食べる。
白いビーフンの麺のモヒンガーと中華麺で北タイのカオソイに似た麺とがあったが、中華麺を注文する。
このヌードルの名前はカオスエと言うそうだ。やはり北タイのカレーヌードル、カオソイの祖先なのだろう。
小さなどんぶりで、黄色いカレーのようなスープがかかっているが、カレーのように辛くはなく、私はここに唐辛子ペーストとハーブ類をいっぱい入れて食べた。
汁のあるヌードルだが、日本のラーメンなどのように熱々ではない。
すごく美味しいというものではないが、ギトギト油でないだけ食べやすい。
これだけでは食べたりないので、テーブルの上にあった揚げ豆腐のようなものを指差し、これも食べてみたいと伝える。
揚げ豆腐をハサミでチョンチョンと一口大に切り刻み、野菜や唐辛子と一緒に捏ねる様に混ぜ合わせる。
タイ料理のヤムのような感じである。
味の方もやっぱりヤムに似ていてライムでしめてある。
こちらはちょっと衛生面で気にはなったが、味は良かった。ビールのツマミになりそうなのだが、これからゴールデン・ロックへ参拝するのだから飲んでるわけには行かない。
値段も屋台だけあって安かった。
カレーヌードルと豆腐のヤム 800チャット

ゴールデン・ロック行きトラック乗り場は、通りを挟んで広場とは反対側にあった。
4トン半くらいの中古トラックの荷台に狭くベンチを何本も並べてたバスだ。
私の二列前には先ほどの若い西洋人女性が、座ってビルマの若い坊さんと英語で話している。
満員になったら出発するシステムのようなのだが、だんだん席がふさがってきて、前後左右の人と密着しなくてはならないくらいお客を詰め込むようだ。
西洋人女性が若い坊さんに、「私がここに座っていてはいけないんですよね」と聞いている。
たぶんガイドブックか何かで小乗仏教の坊さんに女性が触れるとそれまでの修行がお釈迦にになると知っているのであろう、盛んに気にしているが坊さんは「ノープロブレム」と言っている。
しかし、一緒に乗り合わせた年配の僧侶から咎められ、彼女は後ろの席に移っていった。そしてこれでもかというくらいお客を乗せたところでようやく出発。
キンプンからゴールデンロックまでのトラックバス 2,500チャット

事前にいつくかネットで見た旅行記では、このトラックバスはまるでジェットースターのようだと書いてあるものが多かった。
車酔いして吐いてしまう人も続出らしいが、実際乗ってみた感じはジェットコースターまでは行かなくてもなかなか激しい乗り心地。
私はさっきもっと激しく上下に震動する汽車に乗ってきたので揺れに関する感覚が鈍っているのかもしれない。
周りのビルマ人たちも車酔いしている人は見かけなかった。
むしろこの乗り心地を楽しんでいるかのようである。
このトラックバスに乗っている人たちは狭い環境の中でスマートフォンを使って写真を撮りあっている人がたくさんいる。
ビルマの物価や人件費から考えてスマートフォンをビルマの人たちが買うのは大変なことだと思う。
それでもこうしてスマートフォンを持っている人が多いということは、みんな無理してでも買いたいのかもしれない。
それとゴールデン・ロックはビルマ随一の観光地でもある。こうしてここへ来れる余裕のある人たちにとってはスマートフォンくらい大したことがないのかもしれない。
チャイトーからキンプンまでの道筋でも黄色いスポーツカーを見かけた。
ビルマにも富裕層が増えているのだろう。

クネクネと山道を登っていると標高が高くなるにしたがって涼しくなってきた。
ネットの情報では外国人は途中で降ろされてそこから一時間くらい山道を登らなくてはならず、お金があれば籠に乗ることもできるとあった。
このくらい涼しくなったら山道をハイキングがてら登ってみるのも悪くない。
下界の展望が開けたところからは大きな川とその河口が見えた。シッタン川だろうか?
やっぱり茶色い色をしている。
やがて霧が出てきて、下界の展望は望めなくなった。
霧

トラックバスは途中検問のようなところに2ヶ所ほど停車し、私を登山道の前で降ろすことなく頂上まで上り詰めた。
霧が深い。
下車した人たちはぞろぞろと参道を奥へ向かって歩いていく。
私は道端でスイカを切って売っていたので、それを買って立ち食いしたので少し出遅れる。
しかし、スイカは冷えておらず、また少し傷みかかっていてあまり美味しくなかった。
スイカ一切れ 100チャット

キンプンと同じで道の両脇に観光客向けの店が並んでいる。
ただし、キンプンとことなりこちらにはホテルも何軒か並んでいる。
こんな山の上に宿をとれば夕日でも朝日でも眺められるだろうし、星空の下にライトアップされたゴールデン・ロックも眺められたかもしれない。
多少高くてもこのあたりにとまる価値はありそうだ。

右手にある事務所で入場料を集金され、首からかける紙のカードを渡される。
見学中は入場料払い済みの証明として身につけておく必要性がありそうだ。
「入場料を払いなさい6,000チャット」と言ったことが各国語で書いてある。
きっとズルをする人がいるんだろな。
ゴールデン・ロック入場料 6,000チャット

途中からやはり履物を脱がなくてはならない。
太陽が照り付けているわけでもないので裸足になっても足の裏は熱くない。
道端のあちこちに落書きがされてある。
ほとんどがビルマ文字なので何が書いてあるのかわからないのだが、きっと「だれそれ参上!」みたいなものが書いてあるのではないだろうか?
ここは観光地であるだけではなく、ビルマの人にとって聖地のようなところだから、日本人が寺社の山門などにお札を貼り付けるのと同じ感覚なのかもしれない。

ゴールデン・ロック1
見えてきましたゴールデン・ロック!
30年前には観光ポスターで見たことがあったが、当時はここまで上ることがほぼ不可能で、当時の英文のガイドブックでも「リスキー」ト書かれていた。
当時は外国人のビザは1週間しか滞在が認められず、ラングーン(ヤンゴン)からキンプンまでも大変時間がかかり、さらにその後は巡礼者に混じって山を登らなくてはならないので、天候に恵まれるなど、よほど条件がそろわなくて訪れることが不可能とされていた。
それが今は半日で見学できてしまうのだから隔世の感がある。
ゴールデン・ロック2

確かにこのゴールデン・ロックは微妙にバランスをとりながら大きな岩の上、それも隅っこのほうに乗っかっているが、近くでよく見ると危なっかしさはあまり感じず、結構堂々としている。
ちょっとくらい押してもビクともしない感じだ。
これは30年以上前、韓国の雪岳山へ登った時、フンドルバウィと言う巨岩があった。
この岩はバランスが悪く、相当の巨岩ながら両手で押すとグラグラと揺れた。
しかし、ゴロリと転がるほどではなかったので、きっとこれもバランスの問題だったのだろう。

このゴールデン・ロックを押してもグラグラすることはなさそうだが、触ることは可能らしく、金箔を貼り付けている参拝者がいる。
私は金箔を持っていないが、ゴールデン・ロックに触れてみることにする。
この巨岩の前には警備員風がいて、荷物はその場において近づけという。
カメラもダメで身一つだそうだ。
それに従い、私も巨岩の前に膝まづき、手を合わせて拝む。
またまた妻の足のことをお願いする。
そのまま地面に額づく。
手のひらで金箔まみれの巨岩をさする。
額を巨岩に押し当てる。
信仰の対象となっているだけあるのか、なんとなく霊験あらたかな感じがする。

こんどは少し巨岩から離れたところへ移動し、そこからじっと眺める。
ひっきりなしに参拝者が来る。
スマートフォンで写真を撮る。
ビルマでも自撮りする人が多い。
自撮り棒は中国人観光客だろうか?
西洋人も何人か見かけた。
そのうちに霧が晴れてきた。
霧が晴れる

私のカメラは古いカメラで、自撮りなどできないし、三脚も持っていない。
ゴールデン・ロックの前で写真を撮りあっているグループがいたので「すみませんが、シャッター切ってください」とお願いする。
快く了解してくれてカメラを受け取り、ファインダーののぞき方やシャッターの場所を教える。
そしてカメラを構えたところ、そのグループの何人かが私の周りに集まって、一緒に写真に納まった。
彼らのカメラでも私はモデルになっていた。
モデル

まったく見ず知らずの日本人と記念写真撮ってもどうにもなんないだろうけど、土産話くらいにはなるのかもしれない。
しかし、あとで画像を確認したら私たちはちゃんと被写体として写っているものの、肝心のゴールデン・ロックがほとんど隠れてしまっていた。

逆光
霧にかすむゴールデン・ロックよりも太陽の光に輝くほうが迫力がある。
それに逆光で見上げるのも悪くない。
このゴールデン・ロック、全体が金箔に覆われているけど、崖側のほうはどうやって金箔を貼ったのだろうか?
足場でも組んで、何年かに一度張るのだろうか?

先ほど私の額をゴールデン・ロックに押し当てたからだろうか、額を手でぬぐったら手に金箔の欠片が着いた。
額には金箔がこびり付いていたらしい。
これもご利益になるのかもしれない。いいことあるかも。
裏側

ゴールデン・ロックも十分堪能したし、願い事もしたので、そろそろ下山することにした。
元来た参道をトラックバス乗り場へと歩く。
ちょうど夕刻のためか、これからこの山の上の宿に泊まろうとする宿泊客が上ってくるのに何組か出くわした。
ある人たちはスーツケースを引きずって、参道を登ってくるし、ある人は運び屋に荷物を運ばせている。
運び屋の荷物の運び方は、背負子を使っているのだが、背負子の使い方が日本人やタイ人とは異なっている。
日本人なら背負子は当然肩に背負うものだが、ビルマの運び屋たちは背負子の紐を肩にかけるのではなく、額にかけて背負っているのである。
ヒマラヤあたりのシェルパもこのように額に紐がけをしていたし、台湾の山岳民も同じであった。
この方が彼らにとっては楽なのだろうが、よほど首が丈夫でなければできない芸当である。

宿泊客の荷物を運ぶ運び屋だけではなく、何か建物でも工事しているのかレンガを運ぶ人たちもたくさん上っている。
それも若い女性が多い。
彼女たちは巨大なまな板のような板の上にレンガを20個くらい積み上げ、それを頭に載せて運んでいる。
レンガひとつが1キロくらいとして、大変な力持ちである。
それにそんなに重たいものを頭に載せて運んだら首が縮まってしまうのではないかと心配になる。
(首長族もビルマ出身だから、重いものを運んでも首が縮むことはないのかとも思う)

下山するトラックバスでも先ほどの西洋人女性と一緒になる。
「明日はどこへ行くの?」と聞いてきたので、バゴーへ行くと答えたら、
「バゴーだったらサンフランシスコってゲストハウスが良かったわよ。フレンドリーだし、リーゾナブル。私はそこで自転車を借りてバゴーを見て回ったんだけど、それが良かったわ。あとで行き方教えるわね」と私の宿の心配までしてくれた。
彼女はドイツ人だそうで、英語が話せる。
私が「英語は苦手なんだよ、40年前から英語を勉強してるのにこのざまだからね」と言ったら
「英語なんて簡単なのよ、アルファベットもドイツ語と大体同じだからね」と言われる。
彼女にとって英語はドイツ語と似てて簡単かもしれないけど、私にとって英語は40年来苦しめられ続けている存在だ。
そのほかにも「バゴーには大きな寝釈迦仏があってね、それが不思議なことに目の色が青いのよ、肌も白いのよ。それと大きなヘビのいるお寺もあるんだけど、そのヘビはものすごく大きくて、そうね5メートル以上はあるの確かだわ、お腹の周りなんかこんなに太いのよ」と言って両腕を胸の前に抱えてヘビの太さを表現していた。
トラックの荷台がお客さんでいっぱいになるまでしばらく待たねばならず、斜め前に座った彼女は動き出すまでずっと後ろを向いて話し続けていた。
下りのトラックバス ゴールデン・ロックからキンプンまで 2,500チャット

下り坂
下り坂の方がスピードも上がるのでよりジェットコースターの感じに近いかもしれない。
それにトラックの排気ブレーキによる「ゴゴゴー」という音が響いてより迫力がある。

キンプンの村へ降りてきたら夕方5時になっていた。
ゲストハウスに戻って水浴びをしようと共同のシャワールームへ行き、扉を半開きになっている扉を押し開けたら、小学生低学年くらいの姉とまだ学齢に達していないくらいの妹のビルマ人の女の子二人が水浴びの最中であった。彼女たちはケラケラケラと笑って扉の後ろに隠れた。
おっとこれは失礼、「ごめんねぇ」と日本語で謝って、部屋に戻り彼女たちの水浴びが終わるのを待つ。

バスルームも私の順番になったようで、こんどは扉が全開している。
バスルームとは言っても風呂があるわけではなく、水のシャワーがチョロチョロと出る程度、床も壁もコンクリートの打ちっぱなし。
シャワーを使うより、同じバスルーム内にあるやはりコンクリート製の水タンクに水が張られており、その水を桶ですくってかぶった方が気持ちがいい。
バシャバシャと頭から水を浴びて沐浴を済ませる。

夕涼みがてらキンプンのメインストリートを歩いてみることにする。
ゲストハウスの前ではネコの親子がいた。
親子
子猫たちはお母さんネコにおっぱいをもらっている。
私も今晩の夕食をどこで食べるか決めなくては、、、。

昼から何度も往復した道だが、奥へ行けば行くほど店の中が薄暗くなっていく感じで、夕食にふさわしい店がなくなっていく。
ゲストハウスを出る前に宿の主人に携帯電話が壊れてしまったけど、どこか修理のできる店はないかと質問してみたのだが、
「チャイトーの町まで行かなくては携帯電話屋はない」とのことであった。
携帯電話も使えず、適当な食堂も見つからないままウロウロするばかりでは仕方がないので、夕食は盛んに客引きをしている食堂へ入ることにした。

ここでは頼まずとも英文のメニューが出てきた。
できますものは英文で料理名が書かれていても内容がさっぱりわからない。
店の人が店頭に並べている鍋のところへ私を引っ張っていき、鍋の中身を説明してくれる。
「これは豚のカレー、こっちは鶏のカレー、こっちはマトンのカレー、、、、」とビルマ風の煮込み料理が並んでいる。
しかし、どれも焦げ茶色で、見た目があんまり美味しそうに見えない。
鍋の中身など見ないで注文すれば、皿に盛り付けられて、少しは見栄えもイイのかも知れない。
結局決めかねて再びテーブルでメニューを眺め、フィッシュボールカレーというのを注文した。
メニューによれば、1,200チャット。
ビールはミャンマービールしかないそうだが、それでも結構なので一本注文。
フィッシュボールカレーもやはり店頭の鍋から小さなアルミの皿に盛り付けて盛ってきてくれた。
ミートボール程度のが三つほど入っているだけだ。
ライスやハーブ類の盛り合わせ、発酵した納豆風の豆、スープな定食風に何品か並ぶ。
作り置きの鍋からよそってきただけなのでフィッシュボールカレーは冷えている。
やはり油が気になるが、不味くはない。
ライスも熱々ではないが、チャーハンのように油でギトギトしていないだけありがたい。
ライスはお替りまでしてしまった。
満腹、満腹。

この食堂で少し離れたテーブルに日本人の若者二人が食事をしていた。
この二人、一緒に旅をしているのではなく、またまたこの地で出会っただけのようで、旅の情報交換などをしている。
二人ともビルマだけでなく、世界のあちこちを放浪している最中のようであった。
まだ学生さんなのだろうか、日本に帰ったらどうするのだろうかなどと私はひとりで想像する。
昨日の私を見ているようだと思いかけたが、昨日どころじゃない。30年も昔の私だ。
むしろ、私の息子の世代である。

お腹がいっぱいになったが、まだ何か飲み足りない。
もう少しアルコールが飲みたいが、ミャンマービールばかりもう一本飲む気はしない。
以前ビルマに来たときは、ビールなど国営ホテルなどのバーに行かなくては飲めず、街中の商店などでは手に入らない貴重品だった。
銘柄はマンダレービールというものだけであった。
当時は一度だけ飲んだことがある。
パガンの国営ホテルのテラスで、、、
パガンの遺跡で出会った桜井さんという年配の紳士にご馳走になった。
桜井さんはキリスト教関係の役員をされておられ、ビルマでも協会訪問をされているところだそうだ。
それに戦時中は将校としてビルマにいたそうである。
あの時飲んだマンダレービールはえらく美味しかった。
ビールの味がそれほど美味しかったのかどうかははっきりしないが、40度近い暑さの中、遺跡めぐりをして、白いテラスで冷えたビールは最高だった。

そうだ、だからマンダレービールを飲んでみたい。
しかし、この店にはないという。
ほかを探してみることにしよう。

「お会計」と声をかけたら「3,800チャット」と言われる。
あれれ、ちょっと計算がここでも合わないなぁ「え?どうして3,800チャットなの?」と質問したら、メニューをひとつずつ指差しながら説明してくれた。
「フィッシュボールカレー 1,200チャット、ライスは300チャットだけど、2皿食べたよね、そしてビールは2,000チャット、しめて3,800チャットね」
うーん、ライスが別料金で一皿300チャットとは、、、それにメニューでビールだけは金額が空欄になっている。
2,000チャットが妥当かどうかわからないが、とにかく3,800チャットを支払う。
夕食(フィッシュボール・カレー定食+ビール) 3,800チャット

同じく呼び込みをしている隣の食堂を覗いてみる。
「マンダレービールはあるかな?」
「ミャンマービールがあるよ、さぁ奥へ入って、なに食べる?」
「ごめん、じゃいいんだ」

ダメなのかな、今のビルマにはタイのビールかミャンマービールしかないのだろうか?
諦めて、今夜は早めに寝てしまおうか、、、とゲストハウスへ戻りかけたとき、薄暗いを通り越してほとんど暗闇のような食堂のカウンターに褐色の液体の入ったビンを並べた食堂が目に入った。そうそう、ビールでなくて、もっと度数の強いのが飲みたいんだな。店は穴倉みたいで、たじろぎそうだけど、ビルマのスピリッツを飲むにはこれもひとつのムードだろうと、アルコールが絡むと私は意地汚くなってしまう。
果たして褐色の液体はミャンマーウイスキーだと店の人は言った。
ブランド名は"Grand Royal"たいそうな名前であるが、それもいい。
小さな小瓶を注文したら、チェイサーとして大きな水のペットボトルを持ってきてくれた。
つまみにハーブと生野菜の盛り合わせも、、、悪くないじゃん。
ミャンマーウイスキーはスコッチなどとは程遠い味で、タイのウイスキーから甘ったるさを取ったような味である。
辛口だけど、飲み口は悪くない。クピクピいける。
アルコール度数は40度くらいだろうか、さっきまで満腹だったのに、アルコールが胃を刺激するのか、なんだかもう少し食べたくなってきた。
「なにかヌードルを持ってきてよ」と注文したら、焼きそばを作ってくれた。
しかし、これもやたらと油がきつい。
皿を傾けると油が流れるのが見えるほどだ。
この店にもネコがいて、焼きそばの中に入っていた油まみれの炒め卵を取り出して分けてあげたが、ネコは臭いを嗅いだだけで食べようとはしなかった。
ネコもやっぱり油っこすぎるのは好きではないのか、それとも空腹ではないのか、しばらく私の足の周りに擦り寄っていたが、そのうち見えなくなった。
小瓶ではあったが飲み干すことはできず、飲み残しのミャンマーウイスキーをポケットに入れてゲストハウスへ戻り寝ることにする。
もういい時間だ。この店も店じまいの時間のようだ。
ミャンマーウイスキと焼きそばの夜食 2,500チャット(満足度高い)

つづく

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