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1泊4日 台湾旅行 (後編)
11月07日のよるにバンコクを飛び立ち、台湾へ行き、11月9日の朝にバンコクへ戻ってきました。
その1泊4日の台湾旅行の記録です。
短い期間でしたが超凝縮型の旅でした。

では、その後編・・・

<HR>

朝6時にセットしておいた携帯電話の目覚ましで起床する。
普段なら夜中に何度か目が覚めたりするのだが、昨晩はトイレに一度起きただけでたっぷり眠れた。
本日の予定は、まず蘆山温泉までバスで行き、その後蘆山温泉から霧社まで歩き、埔里に戻って昼食、バス乗り換えて清流部落に行き、再び埔里経由で台中、深夜のリムジンバスで空港へと言うハードスケジュール。
それぞれの場所ではやっておきたいことがあるので、どこか一つでもスケジュールが狂うと、全体に影響してしまう。

新聞第一面
[ホテルにあった今朝の新聞]

昨晩から馬総統と習主席のニュースで新聞もテレビももちきりである。
そして、国民党政府寄りは拍手喝采的な報道をし、現在の野党民主党に近い報道は馬総統を「台湾を中国に売る売国奴」と攻撃している。
様々な意見を表現できるような環境に台湾は成長しているようだ。
以前なら反政府的な発言は禁止されていたし、それに与党国民党の一党独裁だった。
中国と関係を持ったりしたら国賊扱いである。
それが、政府国民党が率先して中国になびき、野党がそれを非難するのだから、世の中変われば変わってしまうものだ。

シャワーを浴びて、朝食をとりに外へ出る。
しかし、まだ全然空腹を覚えない。
軽く食べるなら昨日のように豆乳と油條と言う手もあるのだが、油っ気のある油條のようなモノは食べたくない。
あっさりした麺類か、お粥のようなものなら食べられそうなのだが、腹ごなしを兼ねて朝の埔里を歩き回ったが、食べられそうなものが見つけられなかった。
どんな朝ごはんの店があったかと言うと、三明治(サンドウィッチ)、漢堡(ハンバーガー)、魯肉飯(豚挽煮込飯)、鍋貼(焼餃子)そして豆乳と油條など、台湾の人は朝からガッツリ食べるのが好きなようだ。
結局歩き回っているうちに時間切れ、朝食はパスして、ホテルをチェックアウトし、当座不要な荷物を午後までホテルに預かってもらい、バスターミナルへ向かう。
早朝の埔里
[朝の早い台湾だけど、埔里は田舎町なのでメインストリートでもこんな感じ]

蘆山温泉行、7時25分のバスは観光バスのような大きなバスなのだが、バスターミナルから乗り込んだのは私一人。
運転手は山地人のようで年齢は私と同じか少し上くらいだろうか、片言の日本語が話せる。
私のことを「ニイさん」と呼ぶ。
しかし、日本語で会話が成り立つほどではない。
彼の父や兄はもっと日本語が上手なのだそうだ。
このバスの支払いもスマートカードを使う。
109元也
埔里のバスターミナル
[埔里のバスターミナル・今日もいい天気になりそうだ]

今年になって、大学生の当時に読み漁っていた霧社事件に関する本を読み直している。
埃をかぶって、背表紙など変色してしまっている。
30年ほど前、初めて蘆山温泉に行き、たまたま宿泊した宿が碧華荘。
霧社事件の生き証人と言われた高彩雲さん(初子さん)と高光華(初男さん)の経営する宿であった。
その宿に泊まったことから、霧社事件に関心を持ち、資料や本を集めたのである。

天主教と言うバス停でまだ10代のような山地民風の女の子がバスに乗ってきた。
やはり私と同じように温泉まで行くらしい。
この女の子と運転手の会話から、彼女は温泉で働いているらしいことが分かった。
彼女の乗り込んだバス停、天主堂にも昔来たことがある。
この山の中で知り合った大学生当時の私と同年輩の青年に誘われ、彼のバイクの後ろに乗って、彼の家へ行き一晩泊めてもらったことがある。
彼の名前はもう忘れてしまった。
しかし、彼のお母さんは日本語が上手で、日本時代の名前は加藤だったとおっしゃっていたような気がする。
お母さんは若い人たちがバイクで騒々しく走り回るのが嫌いだと言っていた。
彼の家は通りに面した打ちっぱなしのコンクリートで土間の家だった。
また、その日は不在だったが、彼のお父さんは牧師をしていると聞いたような気がする。
彼のバイクはお父さんが教会の仕事の関係で日本へ行ったときに、土産に買ってきてくれたものだと彼は自慢をしていた。
あれから30年。
もし彼が父親の後を継いで牧師になっていたとしたら、この天主堂を守っているのだろうか。
今日は日曜日だし、天主堂には牧師さんがいるはずだから尋ねてみたいところだが、またの機会に譲ることにする。

天主堂の少し先にある眉溪からも若い女性がバス乗ってきた。
彼女も温泉まで行くらしい。

私がはじめて埔里から霧社へ向かった時、昭和初期に霧社には多くの日本人がいたということが信じられなかった。
当時、埔里から眉溪まで人力鉄道とも言えそうな台車線路があり、そこから先は険しい山になっている。
そして、「人止関」と言う狭い峡谷があり、清朝当時よりこの先には一般人の入山ができないようになっていた。
まず、その人止関の景観を見た時に、こんな断崖絶壁に挟まれたようなところに、道など開削できるものだろうかと思った。

人止関の松
[人止関、この一本松は昔からあった この写真は山から下るときに撮影したもの]

その人止関の断崖には、赤く大きな文字で「反攻大陸」と書かれていた記憶がある。
当時の台湾は蒋経国総統の時代で、まだまだ反共を国是としていた。
台湾の人が中国へ行くことも認められないし、中国からも人は来ない。
人だけではなく、台湾には中国製品も持ち込み禁止であった。
それが昨日のように台湾と中国のトップが会見するど想像もできないことであった。
今はもう「反攻大陸」の文字も断崖から消えていた。

急な坂道をくねりながら登り切って霧社台地へ上がった。
時刻は8時少しずぎ。
バスは霧社の台湾電力事務所前に停車し、運転手が客席の方を振り向いて中国語で「小休止、8時15分出発」と言った。
そして、こんどは私を見て少し不安気に「テイダ・トンマ?」(聞いてわかるか?)と聞いてきた。
「大丈夫、8時15分出発ね」と言い返したらニッコリ笑った。

霧社で小休止
[霧社で小休止 南投客運バスは以前は中古のオンボロばかりだったけどずいぶんよくなった]

10分ほどの時間で200メートルにもならないくらいの霧社のメインストリートを歩いてみる。
昔とほとんど変わっていない。
学生当時、蘆山温泉には随分と通ったものだった。
そこの人たちとも随分と知り合いになった。
碧華荘の初子さんが最高齢の知り合いとすれば、最年少は当時小学生だった姉妹である。
姉妹は私にとても懐いていた。
私が社会人になって、上の子が中学生か高校生くらいになった時、彼女は学校行事で日本へ来たことがある。
そのとき私も一緒にディズニーランドへ行った。
その彼女たちのお母さんが霧社で食堂をやっていた。
警察署の近くの食堂で、それらしい食堂は今もほとんど変わらずあった。
しかし、シャッターが閉まっている。
まだ朝早いから閉まっているのだろうか、また昼に来たら開いていて、あのお母さんはまだいるだろうか?
それとも姉妹のうちの誰かがやっているのだろうかと考えながらまたバスに戻る。

蘆山温泉へは15分ほどで到着。
このバスはまだこの先の蘆山部落(旧富士部落)まで山を登っていくのだが、私たちを降ろしてしまったらもうお客は誰もいなくなって、空で走ることになってしまった。私も蘆山部落まで行ってもよかったが、やはり今回は時間がなくて見送った。

蘆山温泉到着
蘆山温泉は昔とあまり変わっていないようにも見えるが、建物が増えている。
それもバス停周辺、つまり吊り橋手前には立体駐車場がいくつもできている。
昔も週末になるとバス停周辺には路上駐車する車があふれ、バスが入ってこれなくなるほどだったが、今はもっと車が増えてしまっているようだ。

吊り橋

吊り橋は昔と変わっていないようだ。
吊り橋手前で粟餅を売る店も昔の儘のようで、当時と同じ「蒋経国院長説・・好吃!好吃!」と看板に書かれていた。
ここでいつも粟餅を捏ねていた元気のいい初老のおじさんはもう店頭には立っていなかったけど。

吊り橋から下を眺めると、一部渓谷には護岸工事をしているようだ。
以前は台風や大雨が降ると川が氾濫して、川岸の建物が流されたり、浸水したりする被害がしばしば発生していた。
吊り橋から松田旅館が見えた。
しかし、廃墟となって営業していないように見える。
当時は日本風のお風呂があると看板に書かれていたように思うが、私は結局一度もそのお風呂を確認したことはなかった。
松田旅館
[緑の屋根が松田旅館だった建物]

碧華荘は吊り橋を渡ってすぐのところだった。
畳に布団と言う昔風の木造平屋建ての宿であった。
当時既に鉄筋でベッド部屋の新館もあったのだが、私は専らこの畳の部屋を好んだ。
新館も本館も冷房は付いていなかった。
台湾でもっとも標高の高いところにある温泉だけあり、夏でも涼しかった。
そして冬は暖房がないので寒かった。
温泉街の土産物店で売っている山地民の織った赤い縞模様のガウンを着こみ、布団にくるまって寝たものである。

碧華荘の女主人で会った初子おばあさんは、もう20年近く前に他界されている。
そして、その息子である初男さんも既に逝かれてしまい、聞くところによると碧華荘自体が人手に渡ってしまって、名前だけは碧華を残しているが、「碧樺温泉会館」と言うホテルになってしまったそうである。
1年以上前になるかもしれないが、ネットで碧華温泉会館の宿泊料金を調べたら、ずいぶんと高い金額になっていた。
ウェブに掲載されている施設や部屋の写真も以前とはまるで異なる高級リゾートのようなものになっていた。
そのホテルも吊り橋から見える。
仮に別のホテルになったとしても、懐かしいので泊まって見たいと思っていたが、最近になってこのホテルの予約サイトが接続できなくなってしまった。
碧華温泉会館
[左手の大きな建物が元の碧華荘新館、今は碧樺温泉会館]

もとの碧華荘の敷地には、ごちゃごちゃと小さな建物が建っていたりしているが、黄色いテープで仕切られて立ち入り禁止になっている。
どうやら南投県政府により差し押さえられている様子。
いったいどうしたことなのだろう。

以前の碧華荘新館入り口
立ち入り禁止とはなっていて、悪いとは思うものの、テープを乗り越えて中へ入ってみる。
奥へ入ると以前の碧華荘新館の入り口が、非常に荒れた状態で現れた。
悲しい。

碧華荘引水専用路
この奥に碧華荘専用の温泉の源泉があって、マヘボ渓に沿って渓谷の断崖にへばりつく様に数百メートルの引水通路が開削されていた。
まずはその源泉がどうなっているだろうかと、引水通路をたどってみる。
長らく放置されているのか草に覆われ、木道部分は朽ち果て始めていた。

引水路の現状
そして、ものの100メートルも行ったところで、土砂崩れでもあったのか引水通路は崖下に崩れ落ちていた。
この道以外に源泉へたどり着ける方法はないと思われ、現在源泉がどのようになっているのか確認できなくなってしまった。
引水路寸断
[これ以上進むことは不可能になってしまった]

マヘボ渓
[眼下にはマヘボ渓]

源泉はあきらめて、碧華荘の新館入り口をもう一度確認してみる。
様々なものが散乱している。
この新館は人手に渡り、新しい豪華ホテルとなって大改装されているはずである。
それは吊り橋側から眺めただけでもはっきりしているが、もとの入り口側は、改装の対象になっていなかったのだろうか、まるで以前の碧華荘が廃墟となってそのまま打ち捨てられているようなありさまである。

生前の初子さん
散乱する残骸を眺めていたら、結婚式か何かの写真がフレームに入ったまま落ちていた。
拾い上げてみてハッとした。
新婦の左に立っているのは初子おばあさんではないだろうか?
写真には日付も入っている。
'96 8 11
1996年8月11日。
お孫さんの結婚式だろうか?
新婦の手を握っているのはお孫さんのお母さんであることは間違いない。
初男さんはどこだろうか?
シャッターを切っているのが初男さんとしたら、この写真に写っていないことも理解できる。
それにしても、1996年の8月。
私の曖昧になった記憶では、初子さんはちょうどこの頃に亡くなられていたような気がする。
初子さんにそっくりではある。

後になってネットで確認をしたら、初子さんは1996年8月26日に急性脳溢血で倒れられ、9月1日に亡くなられていた。

この写真をこのなところで雨ざらしにさせておくのは何とも忍び難い。
しかし、仮に打ち捨てられ散乱しているとはいえ、ここにあるものはすべて南投県政府の管理下に置かれているものであり、許可なく持ち出すことは犯罪に当たるだろう。
初子おばあさんたちの写っている写真を携帯電話で撮影し、映像だけを持ち帰ることとし、フレームはもとの場所に戻した。

廃墟となっている建物の中へ入ってみる。
初子さんの写真が落ちているようなら、もっと遺品が出てくるのではないか?
この新館には初子さんが住んでいた部屋があったはずである。
しかし、内部は真っ暗で何も見えない。
懐中電灯も持っていない。
残念だけれども、建物の奥まで入ることは断念した。
近悦遠来
[近悦遠来・・碧華荘に飾られていたのを覚えている]

本館の別棟だったと思われる木造平屋の建物の屋根の上にネコの親子がいた。
昔、碧華荘の敷地周辺にはネコがいたような気がする。
この親子ネコは、その当時の末裔ということになるのだろうか。
碧華荘ネコの末裔

本館のあった場所の前はやはり立ち入り禁止となった建物がびっしり建っており、本館がどうなっているか確認のしようがない。
そこで、碧華荘の裏に当たるところにある好望山荘への道を進んでみる。
好望山荘もやはり山地民の経営する旅館で、碧華荘裏の斜面を登ったところにあるので、碧華荘を上から眺められると思った。
はたせるかな、好望山荘へ続く坂道の途中から碧華荘本館の裏側が少し見えた。
荒れ果てているが間違いない。
私が泊まっていた畳の部屋の窓からは、今私が立っているこの斜面が見えていた記憶がよみがえる。
碧華荘本館

好望山荘も廃業してしまっているらしい。
好望山荘
[碧華荘の裏にあった好望山荘]

裏山を進んで、警光山荘へ抜ける。
警光山荘は健在のようである。
昔の建物はすでに使用されておらず、保存対象として整備されているようだ。
警光山荘

碧華荘以外の温泉旅館へお湯を引いているブカサン渓側の源泉を見に行ってみる。
こちらも断崖にへばりつく様に通路が伸びているが、ちゃんと整備されていて、行楽客も散策を楽しんでいる。

ブカサン渓の源泉へ続く歩道
源泉のある場所にはバラックのような茶店がある。
以前もこんな感じの店だった気がする。
源泉の湧いているところは見られず、小さな小屋があって入浴ができる設備があった。
ここのお湯も懐かしいので、お風呂をしていきたい気もするが、狭い小屋の中で温泉に浸かっても侘しくなるだけと思い入浴はしなかった。
この店では日本の懐メロを大きな音量で流しており、谷に響いていた。

ポインセチア
茶屋のそばのポインセチアの木が赤く色づいていた。
初めて蘆山温泉に来たのは冬だったかもしれない。
碧華荘の入り口に大きなポインセチアの木があり、それが鮮やかな赤と緑のコントラストを見せていて感動したことを思い起こさせた。

蘆山温泉入り口
蘆山温泉から霧社に向かって歩き始める。
霧社まで10キロ。
バスに乗ればすぐの距離だけど、歩けば2時間くらいかかるだろう。
しかし、バスでは気になるところで立ち止まってじっくり見たり、思い出に浸っている暇がない。
このあと、霧社から12時半のバスで埔里へ降りなくてはならないので、少し急ぎ足で歩く。

濁水渓
蘆山部落への分岐点を越え、ブカサン渓と濁水渓の合流点が眼下に見える。
やがて、雲龍橋が見えてきた。
青空、緑の山、そして赤い橋が鮮やかだ。
雲龍橋
初めて来たとき、この橋は吊り橋だった。
当時もバスは蘆山温泉まで通っていたが、この橋を渡るときは乗客をいったん降ろし、乗客は徒歩で吊り橋を渡った後、バスが続くといった渡り方をしていた。
吊り橋のためお客を乗せたままでは危険だったのだろう。
その吊り橋を渡るとすぐにトンネルがあった。
大雨などがあるとすぐトンネルの上の崖が崩れて、トンネルが埋まってしまい、通行止めになったものだ。
今は赤い立派なアーチの橋が架かり、トンネルの代わりにシャルターになっているので、少しくらい崖が崩れても問題なさそうだ。
トンネル

旧吊り橋

橋を渡ってすぐのところに、この橋の説明が書かれていた。
それによると、もともと日本統治時代に吊り橋が架かっており、霧社事件の時に撤退する反抗山地民によって落とされている。
濁水渓の深い谷にかかるこの橋の名前、雲龍橋とは実にピッタリの名前だと吊り橋の時から思っていた。
しかし、今回この説明板を読んで、以前は雲南軍の龍雲将軍を記念して、「龍雲橋」と命名されたが、その後龍雲将軍は中共へ寝返ったので、橋の名前も龍と雲をひっくり返して「雲龍橋」にしたのだとか。
雲龍橋の説明

左手の濁水渓を越えたところのタロワン部落跡を見ながら、霧社へと歩を進める。
このタロワンの稜線で霧社事件当時、反抗山地民勢力と鎮圧側との間での激戦地であったとされており、このあたりで最大の集落であったホーゴー社頭目、ダダオノーカンもここで戦死している。ダダオノーカンは初子おばあさんの父に当たる人でもある。
タロワン

道端の桜の枝で一輪だけ花をつけている枝があった。
この辺りでは旧正月前後に緋桜が満開となり、霧社は戦前から桜の名所とされていた。
しかし、昭和5年10月末の霧社事件に際して桜が狂い咲きしたと伝えられている。
実際の話であったかどうか確認を取れていないが、今年も台北の北の陽明山では桜が先月開花したとのニュースがあったので、事件当時も桜が咲いていても不思議はない。
サクラ

花岡山
[花岡山]
旧ホーゴー社、現在の春陽村の手前で道は花岡山を半周するように回り込んでいる。
花岡山は事件前までホーゴー富士と呼ばれた小さな山で、山地人で警察に取り立てられていた花岡一郎(ダッキスノービン)と花岡二郎(ダッキスナウイ)が反抗山地民側と鎮圧側との板挟みに苦しみ自決した山ある。
花岡二郎は初子おばあさんの夫であり、初男さんの父であった。
初子おばあさんは、花岡二郎の話をするときによく「二郎はやさしかったよぉ」と何度も繰り返していた。
この山の頂上で、一郎は妻と生まれたばかりの子や一族を連れて切腹し、二郎は死んでいった人たちに布をかけてやった後、自殺している。
花岡両名の説明

春陽村を過ぎて霧社が近づいてくると碧湖が見えてくる。
戦前に作られたダム湖ではあるが、霧社事件後のダム湖であり、このダム湖の建設のためにパーラン社などの山地民の集落も中原地区へ集団移住させられている。
碧湖

霧社の街に入る。
朝見た時にシャッターを下ろしていた食堂はまだしまったままであった。
店の名前は霧社飯店だったか違ったかもう忘れてしまったが、店の場所は覚えているが、店が閉まっていたら確認のしようがない。

霧桜大飯店は健在である。
以前もあったし、霧社事件当時もあった老舗旅館である。
戦前は桜旅館。
霧桜大飯店
[霧桜大飯店 この写真は朝に撮影したもの]

時刻は12時、バスの時間まで30分ほど。
少し小腹がすいたので、仁愛郷公所向かいの食堂で小籠包を買いテイクアウト。
食べながら歩く。
皮はフワフワで餡は少なめ、小籠包というより、小粒の中華まんと言った感じであった。
40元也。

霧社山胞抗日起義紀念公園
霧社山胞抗日起義紀念公園に立ち寄る。
ここには霧社事件の反抗側の首領マヘボ社頭目のモーナルーダオの墓がある。
モーナルーダオは事件数年後に、マヘボ渓の奥で遺体が発見され、当時の台北帝大で標本になっていたそうですが、1974年になって、ここに眠ることになったそうです。
モーナルーダオの墓
[モーナルーダオの墓]

更に西に進むと、霧社事件で襲撃された公学校跡地がある。
現在は台湾電力の施設となっているが、入り口前に案内看板が立てられていた。
今年は霧社事件から85年。
霧社事件で死んだ日本人は134名。
また事件の鎮圧やその後の第二霧社事件、帰順式などで死んだ山地民は千を超える。
公学校跡
[霧社事件の現場となった公学校跡 奥の建物があったあたりに当時教室があったそうである]

公学校の説明

この公学校跡の少し先に、霧社事件の殉難慰霊碑が戦前はあったということである。
現在は政府により取り壊されて残っていないが、この跡にも立ち寄ってみる。
この日のあったところの先からは急な下り坂とな。
霧社台地の外れである。

殉難慰霊碑の跡
[殉難慰霊碑の跡]

殉難慰霊碑の説明

公学校跡前のバス停へ戻り、埔里へ下るバスを待つ。時刻は12時半少し前。
日曜日ということで行楽の車が多い。
乗用車もあれば、大型の観光バスも途切れなく続いている。
道を渡るのにさえ苦労するほどだ。
公学校跡前のバス停
[公学校跡前のバス停]

12時半になった。
もうそろそろバスが来る頃だろう。
一つ手前のバス停を12時半発の予定だから、ここへは多少遅れてくるだろう。
埔里へ降りたら、バスの乗継に45分くらいあるので、昼食にする予定だ。
何か麺類でも食べたい。
炸醤麺(ジャージャー麺)でも食べようか?
宿に預けた荷物も引き取らなくては、、、

12時40分になった。
まだバスが来ない。
今日は交通量が多いから渋滞でもして遅れているのだろうか?

1時になった。
ひょっとして、バスは定刻よりも早めに通過してしまったのだろうか?
次の便のバスだと、埔里から先のバスに乗り継げない。
困ったことになったなぁ、、、
と思ったところでバスが来た。
30分遅れかぁ、、、まぁ、乗継は何とかなるだろう。

ドアが開いて乗り込もうとすると運転手が「このバスは埔里行きでなくてね萬大行きだよ」と言う。
目の前真っ暗、こりゃダメかぁ。
かくなる上はヒッチハイクででもして埔里へ向かわなくては、、、。
昔はこちらからヒッチハイクをしようと思わなくても、道を歩いているだけで山の人たちが声をかけてきてくれて、車に乗せてくれたものだ。
ある時は団体旅行の観光バスにだって拾ってもらったことがある。
そのくらい交通量が少なかったので、みんな道を歩いている人がいたら乗せてくれるのが一般的だったのだろう。

バス停で目の前をひっきりなしに流れていく車に向かって手を挙げるが、一台として止まってくれない。
たまにタクシーが通るが、タクシーに乗れるほどのお金を持ち合わせていないので、タクシーが近づいたらサッと手を後ろに回す。

「もうどうにでもなれ」と諦めかけた1時10分、埔里行きのバスがやって来た。
スマートカードでピッとやる際に、運転手に「12時半のバスだよね」と言ったら、げんなりした顔で、「しょうがないじゃないか、道が詰まってるんだよ」と言い返されてしまった。
やはり、霧社から先は大渋滞をしているらしい。
バス車内もほぼ満席であった。
81元也

埔里までは渋滞もなく、運転手も遅れを取り戻そうと急いでくれたようで、1時45分に到着。
大慌てで市場入り口の食堂で麺をすする。
炸醤麺はなく、麻醤麺を注文。
麻醤麺はゴマダレで和えたうどんのようなもので、大学1年の夏休みに初めて台湾に来た際に台北の食堂で食べたことがあるが、食べなれない味と、ゴマダレで麺がのどに張り付く感じで結局食べきれなかった思い出がある。
しかし、この市場前の食堂のは多少汁気もあり、私自身もこの手の味に慣れてきているので、ついに当時の雪辱を果たすことができた。
缶ビールも一本頂いた。
今度は普通の台湾ビール。
70元也。

食べ終わるとバスの出発まであと5分。
大急ぎて宿へ行って預けた荷物を受け取りバスターミナルへ。
今度乗るのは惠蓀林場行きのバスで、途中の清流部落まで行く。
いままでのバスとは異なりマイクロバスであった。
清流まで81元也。

清流部落は、霧社事件後に霧社の山地民たちが移住させられた場所で、当時は川中島と呼ばれていたそうである。
初子おばあさんも、ここへ移住させられ、移住直後に初男さんを生んでいる。
移住に際して、臨月のお腹を抱え、霧社から眉渓まで山を徒歩で下り、眉渓より埔里経由の小埔社までまでは台車に乗せられ、その先はまた徒歩だったとのこと。
特に川中島手前の峠が急で大変だったと回想している。
夫である花岡二郎を失った初子さんは、移住後に警察の斡旋で年下で同じホーゴー社出身の高永清氏(ピホワリス=日本名、中山清)と所帯を持つことになる。
高永清氏は努力の人で、独学で医学を学び、試験を通って医師となり、地域医療に貢献し、また第一回台湾省議会議員選挙に当選されている。
晩年は碧華荘を開業し、その経営に当たるとともに霧社事件の伝承に努められている。
私が台湾へ行くようになる数年前に他界されているが、私が事件に関して調べたり、読んだ本の中でも高永清氏の資料や情報はとても大きな存在があった。

霧社事件当時、埔里には製糖工場があり、周辺ではサトウキビが盛んに生産されていたようである。
初子さんたちが埔里から小埔社までまでは乗せられた台車も、製糖会社のサトウキビ運搬用の台車だったとのことである。
しかし、現在はサトウキビの栽培は縮小してしまっているようで、サトウキビ畑はほんの少ししか残っていなかった。

大坪頂を過ぎると峠道になった。
なるほど初子さんたちが苦労したという峠はここのことなのかと思う。
今でも道はつづら折りにくねって峠を登り、峠の上からは北港渓を見下ろしながら、またくねりながら峠を下った。
大坪頂から北港渓への峠
[大坪頂から北港渓への峠]

清流部落入り口の橋
[清流部落入り口の橋 以前は吊り橋であった]
北港渓に架かる橋を渡ったところにかつて川中島と呼ばれた清流部落がある。
時刻は3時前。
バスの発着所
昔ここへは初男さんに連れてきてもらったことがある。
当時は、霧社周辺の山もそうだし、ここ清流も山地管制区に指定され、一般人の立ち入りが規制されていた。
ここへ日本人が来るには警察の外事課に入山申請をして許可を取り付けなくてはならなかったので、事実上立ち入り禁止地区であった。
しかし、正月の1月1日だけは地元の人と一緒ならば規制対象外になるということで、正月なので墓参りを兼ねて清流へ行くという初男さんに便乗させてもらったことがあった。
清流の初男さんたちが住んでいた家には初男さんの奥さんの美信さんも来ていたりしたのだが、今となってはその家がどこにあったのか全く思い出せない。
ただ、お墓のあった場所だけは事前にここだろうと地図で目星をつけておくことができていた。

村のメインストリートはまっすぐ警察まで続いている。
たぶん、これはこの移住村ができた時から変わっていないはず。
メインストリート
[警察署から振り返ったメインストリート]

警察の前を右に折れ、北へ進むと霧社事件余生紀念館があった。
ここは時間があればお墓参りの帰りに立ち寄るとして、お墓があると思われる方法へ急ぐ。
共同墓地の入り口
[共同墓地の入り口]

高家歴代祖堂
人気のなくなったところに共同墓地があり、そのほぼ真ん中あたりに十字架を頂いた立派なお墓があり、「高家歴代祖堂」と書かれている。
周りには雑草が茂ってしまっており、あんまりお墓参りに来ることがいないのではないかと気になってしまう。
お墓の門にはカギはかかっていなかったので、そのまま中へ立ち入り、裏へ回ったら「高永清」「高彩雲」「高光華」の3人の名前があった。
高永清・高彩雲・高光華
やはりここであった。
手向けるものなど何も持ってきていないが、手だけを合わせ、黙祷してお墓参りとさせてもらった。
碧華荘の人たちが眠るお墓

事件後、霧社周辺に住んでいた山地民で、反抗側の生き残りたちは、この清流へ強制移住させられている。また、反抗に加わらなかった同族(霧社族=セイダッカ)の部落の人たちも、ダム建設にともなって、清流部落とは北港渓を挟んだ対岸、中原村へ移住させられている。
霧社族の人たちがいなくなった土地は、事件鎮圧側に加わったタウツアとトロックの部族の人たちに分配されている。
現在の霧社にいる山地民もその末裔であるわけだ。
霧社山胞抗日起義紀念公園で眠る反抗側の首領モーナルーダオは、つまりセイダッカ族の反抗を鎮圧した部族に囲まれていることになり、それではあんまりだということで、モーナルーダオの墓を仲間のいる清流へ移そうという働きかけもなされたそうである。

ここの墓地にはたくさんのセイダッカ族の墓が並んでいる。
ほとんどが中国名になっているが、セイダッカ族の名前を併記しているものもある。
そのセイダッカ族の名前は漢字ではなくカタカナで墓石に彫られている。
そんな墓石を見ながら、余生紀念館へ向かって歩き出したら、テムピドとマホンモナの墓があった。
やはりキリスト教のお墓で、大きなものではないが、マホンモナの没年が民国62年(1973年)となっている。
このマホンモナこそ、モーナルーダオの長女、マホンモーナのことである。
彼女も事件を行き抜き、ここに眠っていたのである。
やはり、父であるモーナルーダオもこの地に眠らせてあげるべき気がする。

マホンモーナの墓

霧社事件余生紀念館は2階建ての建物で、事件に関することと、事件後この清流で移住者がどのように暮らしてきたのかを主にパネルを使って展示していた。
パネルには写真入りで中国語と英語で解説が書かれていたが、日本語はなかった。
この霧社事件、そしてここ清流の部落の成り立ちに日本人は大きくかかわっているのであり、日本人めったに訪れないかもしれないが、もし訪れる日本人がいたら、もっとよく理解してもらうために日本語での解説も付け加えてほしいものだ。
今ならばそれでもまだ日本語を話せる古老たちから直接話を聞くチャンスもあるが、もう長くそのような状況は続かないはずで、伝承されることこそが大切だと思う。

霧社事件余生紀念館説明
[中国語と英語で書かれた説明]

記念碑
[敷地内の記念碑 もとは高永清氏が川中島神社跡に建てたものだそうだ]

防空壕
[戦時中に掘られた防空壕 こんな山間部まで空襲に備えていたのだろうか?]

警察署前の通りをバス停に向かって歩いていると、民家の塀にネコたちが集まって休んでいた。
よく数えてみると10匹くらいいる。
全部この家のネコなのだろうか?
それとも近所のネコが集まっているのだろうか?
事件当時の山の人たちは山で猟をするので犬を飼っていた。
しかし、私が目を通した文献の中に、ネコは一切出てきていない。
ここ清流という平地で、水田耕作をするようになってからネコを飼うようになったのか、
それともごく最近になってネコを飼い始めたのかわからない。
清流のネコたち
[塀の下にも数匹いました]

今回の旅行で、主なスケジュールももう最終段階まで来たことになるが、
スケジュールは曲がりなりにも何とかこなせたが、スケジュールを最優先して大切なことを忘れていた。
台湾の人とほとんど話をしていない。
日本語が話せる人がいなくなっていることもあるが、私だってまだまだ簡単な中国語なら聞き取れる。
込み入ったことなら筆談でも良かったはずだ。
しかし、結局私の方から積極的に話しかけることはなかった。
なぜなら、台湾の人たちに話しかけたら、話がどんどん進んでしまい、とても短時間で用件だけ伝えて終わりとはならない。
学生の時は、時間が有り余っていた。
「ウチ来て泊まってけよ」と言われたらホイホイとついて言っていた。
開け広げた土間の家で食卓を囲んだり、米酒で宴を張っている人たちから声をかけられたら、喜んで食客になってしまっていた。
しかし、今回はそんなことはまるでなかった。
すべてスケジュール優先。
こんなの旅ではない。

バス停の前に簡単な土産物屋があった。
バスを待つ間、覗いてみた。
ここ清流でとれたお米が売られている。
1キロ入りで120元と言う。
400円くらいだろうか、ちょっと高すぎる気もする。
干しシイタケもあった。
あまり日本のものと比べたら品質が劣るが、バンコクのスーパーよりは良さそうだ。
それに重たくない。
一袋買うことにした。
200元也。

ここの店の主人も片言の日本語を話すが、会話が成立するレベルではない。
清流に何しに来たのかと言うので、「墓参りに来た」と伝えたいのだが、中国語で何と言っていいのかよくわからない。
そこでさっき携帯電話で撮影したお墓の写真を見せて、拝むポーズをしたらわかってくれた。

4時少し前にさっきと同じマイクロバスややってきた。
満席であったが、私が乗り込んだら高校生らしい男の子が席を譲ってくれた。
マイクロバスなので彼も立っているのは大変だろうし、また峠道ではもまれるだろう。
まったく申し訳ない。
バス代再び81元也。

1時間ほどで埔里に到着。
そのまま台中行きのバスに乗り換える。
プリペイドのスマートカードの残金がなくなってきているので、今回は現金で支払う。
134元也。

高速道路は少し渋滞気味であったが、6時過ぎには台中市内に入った。
台中では午前1時までたっぷり時間があるが、台中でのスケジュールは映画を見ることである。
先月封切られた「湾生回家」と言うドキュメンタリー映画を滞在中に見たいと思っていた。
台中では新時代威秀影城と言う台中駅の裏側にあるトョッピングセンター内にある映画館で6時50分より上映がある。
第三市場と言うバス停で下車して、映画館へ急ぐ。

昔はよく台湾で映画を見たものだが、長いこと台湾で映画館へ入ったことがない。
ショッピングセンターの4階に映画館はあったが、切符売り場がどこかよくわらなかった。
探し当てた切符売り場は窓口ではなく、カウンターであった。
それも映画館の切符を売るカウンターと言うよりも、ハンバーガー屋のカウンターのようである。
食べ物や飲み物のメニューを指示されて「ご注文は?」と言われたときは、本当に映画館かどうかもう一度見まわしたほどだ。
映画は280元也。

湾生回家
[湾生回家]

映画館へ歩いてくる途中で、チャーハンの専門店があったので、そこまで戻って急いでハム入りチャーハンの大盛りを注文して大急ぎで食べる。
タイにいると大盛りと言っても、日本の普通盛くらいの量であることが多いし、並盛と大盛りの金額差は10元しかなかったので、ほんの気持ち分くらいしか多くないだろうと思ったのが大間違いで、2人前くらいありそうな大盛りチャーハンが出てきた。
大盛りハム入りチャーハン 70元也。

昔、台湾では映画の上映前に国歌が流れ、全員起立しなくてはならなかったが、予告編が10分くらい続いた後、国歌が流れることもなく、湾生回家が始まった。
席は3割くらいしか埋まっていないが、私の座っている席は両隣とも埋まっている。
そして右隣の人は盛んに何か食べている。
暗いので何を食べているのかわからないが、ネギのような臭いが漂ってくる。

湾生回家は戦前の台湾で生まれた日本人(=湾生)が台湾へ昔の友人を訪ねたり、離れ離れになった人を探したり、昔の面影を訪ねたりする何人かの日本人を追ったドキュメンタリー映画である。
そのため全編の大半が日本語である。
台湾の人は字幕の中国語を読むということになる。
エンターテイメント映画ではない。
淡々としたドキュメンタリー映画ながら、上映後の人気ランキングでは6位から8位を維持していた。
さらに見終わった後の好印象度ではナンバーワンを上映後ずっと維持している。
これは信じがたい数字だと思う。
特に同じ時期に007の最新作が台湾で封切られているのである。

台湾の人たちが、台湾を故郷に持つ日本人の姿を見てどのように思うのだろうか?
そして、この映画が、日本の映画ではなく、台湾の映画であるという意味はどういうことなのだろうか?
最近の台湾映画で日本人が主人公となりヒットした魏徳聖監督の映画に「海角七号」や「KANO」があり、霧社事件を題材にした「セイダッカバレ」も魏監督の作品であるが、いずれもエンターテイメント映画である。
この映画で追われているテーマは「故郷」だと感じた。
台湾を故郷に持つ日本人が、故郷の台湾を思うという姿を通して、
特に湾生の人たちが台湾に熱い思いを寄せていると言うことを映像で映し出すことで、
台湾の人たちに自分たちの台湾は良いところなんだという自信を与えているのだと思う。
だからこそ、台湾の人にこれほど感動を与えられているのだと思う。

私も感動して何度も涙がこぼれた。
私は日本人としての立場から感動をしたわけだが、その中には台湾の人たちの優しさに感動した部分も大きい。
また、学生時代に通い詰めた台湾と、その台湾での経験や、交友など、長い時間が過ぎてしまったけれど、それらが私をまるで映画の中に出てくる湾生と同じような感情を抱かせるのかもしれない。
この映画も日本で上映されることを切に願うし、またより多くの人にもてもらえるように、テレビなどで取り上げてもらってほしい。

台湾の人たちは通常、映画のエンディングが始まるとすぐに席を立っていたような記憶がある。
これは今でも飛行機に乗っても目的地に着陸すると、まだシートベルト着用のサインが消えないうちから通路に立ち始めることから考えて、きっと映画もエンディングが流れたら同じ現象になるものだろうと思っていた。
しかし、この湾生回家に関してはエンディングが終わるまで席を立つ人はいなかった。
照明がついてもまだしばらく座ったままの人もいたくらいである。

映画館から出たら夜9時を回っている。
でもまだリムジンバスに乗るまで4時間近く時間がある。
台中駅の表側まで歩き、駅前からまっすぐ伸びる通りを歩く。
途中のコンビニエンスストアで残金が減っているスマートカードに次回使う時のためにリチャージを行う。
リチャージ300元也。

またスーパーマーケットも覗いてみる。
先ほど清流でお米が1キロで120元もしてたので、随分高いなと感じたが、実際の市井でのお米の値段がどれほどなのか確認したかった。
そうしたら、1.5キロ入りの花蓮米がセールタ対象品になっていて189元が119元になっている。
他のお米も大体似たようなものである。
この値段だと日本と同じか、日本より少し高いのではないだろうか?
それでもちょうど日本米を切らしてるところだし、これだけ割り引いてあるならお得なのだろうと思い、一袋買うことにした。
また、のども乾いていたので大きなペットボトル入りの飲料水も買う。
スーパーでの支払い計 129元也。

柳川の夜店街にたどり着いた。
しかし、先ほどの大盛りチャーハンのため、空腹を覚えない。
台湾の最後だし、こうした夜店街で食べ歩きもしてみたい。
昔、私は夜店でよく食べたのは蚵仔煎(オアチェン)と呼ばれるカキの玉子とじ、餃子、ステーキなどであった。
特にステーキなど日本ではほとんど食べられなかったので、毎日のように屋台のステーキを食べて友人に呆れられたこともあった。

柳川の屋台街
[台中・柳川の夜店]

しかし、そのいずれも現状とても胃が受け付けそうにない。
アルコールなら受け付けられそうだけど、、、
そうだ、手提げの中に昨晩の飲み残しの紹興酒が半分入っていたはず。
しからば、食前酒として少し飲めば、胃が刺激されて食欲も湧いてくるかもしれない。

公園のベンチに座って紹興酒をチビリ、チビリとやる。
周辺には浮浪者であろうかベンチで寝ている人も何人かいる。
世間様から見たら、こんな夜中のベンチで酒を飲んでいるようじゃ、私も浮浪者の一人に見られることだろう。

少し飲んだところで、効果はあったようである。
なんだか何か食べたくなってきた。
公園を出て少し歩いたところでお粥の屋台があった。
これは好都合。
胃の負担もないし、お粥のおかずとしてメンマ、キュウリもみ、豆干、落花生をちょうだいする。
これらは紹興酒のツマミとしても実力派である。
そして旨い。
店の手伝いの女の子が話しかけてきた。
「日本人でしょ」と言う。
どうしてわかるかと言うと、目が二重瞼だからだという。
どうして二重だと日本人なのかよくわからない。
日本人だって一重瞼の人は多いし、ひょっとしたら台湾の人より一重が多いのじゃないだろうか。
「君だって、二重じゃないか」と言ったら、「私は台湾人じゃなくて、ベトナム人なの」と言う。
彼女はこうしてホーチミン出身でアルバイトをしながら学校に通っているのだとか。
そして彼女は「台湾の人って親切なのよね、私大好き」と言う。
私も同感だ。
「中国語はまだまだ下手で仕事で使えるレベルじゃないから、もっと勉強しなくちゃ」と言う。
「でもこうして働いているじゃないか」と言ったら、
なんとこの店の女主人もベトナム人。
ご主人が台湾人なんだそうだ。
別れ際に、彼女は手を伸ばしてきて握手を求めてきた。
「再見」
ベトナム語の挨拶言葉くらいは覚えておくべきだった。
70元也。

ベトナム人女性経営の屋台のお粥
[ベトナム人女性経営の屋台のお粥 但し完璧な台湾の白粥です]

駅前からの通りに戻るともう11時近くなっていた。
駅まで歩くには少し疲れた。
それに少しだけど酔いも回り始めている。
さっきまでひっきりなしに走っていたバスが
戻りは市バスに乗っていこうと思った。

しかし、バス停でバスを待つがなかなかやって来ない。
さっきまでひっきりなしにバスが走っていたのに、台中の終バスは11時前なんだろうか?
それでも、まだ十分時間があるのでのんびりバスを待っていたら15分ほどでバスが来た。

バスに乗ったら駅まではほんのすぐの距離だった。
駅前でスマートパスをピッとやって下車したが、カードからの引き落とし金額は0元だった。
このバスは無料だったようだ。
市バス代 0元也。

空港行きリムジンバス乗り場のベンチに座ってバスを待つ。
まだ1時間半以上あるので、今回の旅行のメモを書き付けておく。
台南行きのバスなどが何本か発車していった。
空港行きのリムジンバスに乗ろうとやってくる人もいる。
まだ1時間以上あるが、午前1時1分発のバスは満席になっているらしく、窓口から「売り切れ満席だよ、30分後ならまだあるよ」と言っているのが聞こえる。

このバスの待合所にも浮浪者が入ってくる。
私の隣のベンチに腰かけた浮浪者風の男性は私にボールペンをくれないかと言う。
しかし、私もボールペンの余分は持っていない。
「今、書き物してるんであげられないよ」と言ったら、バスの誘導係のところへ行って、同じようにボールペンをねだっているようだ。
そしてしばらくしてボールペンを手に戻ってきた。
「このボールペンをもらったんだよ」と言う。
そして私に今度は「このボールペンを10元で買わないか」と言ってくる。

Uバス待合室
[深夜の待合室には浮浪者も出没]

午前1時1分発のバスに乗り込んでしばらくしたら眠り込んでしまった。
空港へ到着する直前に目を覚まして、慌ててバスから飛び降りたら、寝ぼけていたせいで、利用する飛行機が発着する第1ターミナルではなく、一つ手前の第2ターミナルで降りてしまったらしい。
おやおや、失敗、失敗。

リムジンバスの車内
[もうすぐ空港との車内アナウンスで目を覚ましたが、ボケていたようだ]

第1ターミナル行き電車乗り場の矢印に従って進む。
こんな時間に電車が走っいるのがわからないが、とにかく行ってみた。

ホームに明かりはついているものの、誰もいないし、ホームに電車も止まっていない。
しかし、掲示板に電車の運行終了後の利用は緑のボタンを押すようにと書かれている。
そのボタンを押して待つことしばし、誰も乗っていない無人の電車がホームへ入ってきた。
無人運転なので、運転手もおらず、2両編成の電車に乗っているのは私ただ一人である。
こんな体験は初めてである。
職業柄電車を貸し切った経験は何度もあるが、まるでタクシーか何かのようにその場で電車を呼び出して乗るなどと言う経験も初めてである。

無人のホーム
[無人のホーム 夜間は緑のボタンを押せと書かれている]

無人電車
[無人電車を貸し切った]

第1ターミナルのチェックインカウンターも私が乗る飛行機のカウンター周辺に少し人がいるくらいで、あとはまるで人気がない。
チェックインもスムースに終わった。今度の座席は34D。
真ん中の通路寄りの席だった。

出国審査場も人気がないものだから、係員が見当たらない。
外国人用と書かれたカウンターのどこにも係員の姿がない。
内国人用(中華民国籍)のカウンターにもいない。
仕方なく手荷物検査係にどうしたらいいか聞いたら、一番右端の「外交官専用」のカウンターを指さした。
つまりそこにしか審査官はおらず、そこで私のパスポートに出国印が押された。
ただし、押されたスタンプは普通の出国印と同じものだった。

バンコク行きのノックスクートは定刻の5時35分にゲートを離れた。
この便もガラガラであった。
私は4人並びの席をすべて占有して、楽々と横になっていくことができた。
しかし、来る時と同じでやたらめったら寒い。
お客が乗っていないから余計に寒いのかもしれない。
今度このようなローコスト航空に乗るときはバスタオルでも持って乗るようにしたいと思う。

バンコク・ドンムアン空港へは5分遅れで到着。
午後からは出社して仕事が待っている。

-完-


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