2015,05,30, Saturday
5月18日 月曜日
このホテル、20ドルと安いのに、朝食が付いている。 朝食は7時からとのことなので、7時になるのが待ち遠しかった。 毎日早起きして動き回ってきたが、今日は夜の飛行機で帰国するだけ。 今日は何をしてすごすか考えてみる。 まず、ホテルは12時チェックアウトなので午前中には一旦ホテルへ戻ってこなくてはならない。 朝食後、11時半くらいまで、何をしようか? 簡単なヤンゴンの地図を眺めながら、ヤンゴンへ来たからにはシエダゴンパゴダへお参りしておくべきだろうか? お参りするとして、どうやって行くか地図を見ながら考えていたら、シエダゴンパゴダと内閣府の間にピープルズパークと言うのがある。またカンドージー湖の近くに動物園もある。 パゴダはピープルズパークから見えるだろうし、横着だけどそこから拝んで参拝したことにしておこう。 あとは動物園まで行ってビルマの動物たちに挨拶してこよう。 朝食は一番乗りだった。 バイキングかな、それともセットかな、いずれにしてもどんなパン何だろうと期待をしながらレセプション裏の「特設朝食会場」に入った。 コーヒーかティーかと聞かれ、コーヒーを注文。 バイキングではないようだ。 コーヒーをすすりながら、玉子の料理法を聞かれなかったぞ、指定できないのだろうか?などと考えていたら、何と朝食は「目玉焼きののった焼きビーフン」であった。 これは予想していない展開である。 もっとも、ここは中国人街だから朝食に焼きビーフンでもおかしくはない。 それに油もしつこくなく、味も良かった。 コーヒーはお替りまで淹れてくれた。 ピプルズパークに向かって歩き始める。 比較的わかりやすい道順で、昨夜ビール 飲んだ場所からまっすぐ一本道である。 と言うことは、ここを走るバスはピープルズパークの前を通る可能性が高いということだ。 早速市バスに乗り込んでみる。 車掌に地図を見せたところOKのサイン。 バス車内の案内表示などを見ていたら、このバスは阪急バスのお古のようであった。 それも蛍池周辺を走っていたようだ。 市バス代 ピープルズパークまで 200チャット ピープルズパークは有料の公園であった。 ピープルズパーク入場料 300チャット 広い公園のようで、池を配して花がきれいだ。 手入れのされた花壇の花もよいが、鳳凰木のオレンジ色の花が見事だ。 池の周りを一周する。 ところどころ工事をしていて立ち入り禁止の場所がある。 プールもある。 プールの周りには飲食店が並んでいる。 プールは別料金のようだ。 古い飛行機が展示してある。 一応ジェット機だけど見たことのない形の飛行機だった。 思ったとおり、ここからだとシエダゴンパゴダが真正面に見える。 ただ、残念なのは午前中だとパゴダを写真に撮ると逆光になってしまうことだ。 ビルマのお寺では、いろいろと変な像を見てきたけれども、このピープルズパークでも「どうして?」と思える像があった。 背中に羽のある天使が立小便をしている。 天使と小便小僧が一緒になったような像である。 仏教国ビルマで、どうして天使が? 天使が立小便! タイでキンカーと呼ばれる木登りトカゲもいた。 なかなかイイ色をしている。 このピープルズパーク、西口から入って、東口から出たのだが、西口は田舎の遊園地のような切符売り場だったのに、東口はやたらと立派で、何台もの自動改札機まで設置してあり、ショッピグセンターや洒落た飲食店まで入ったビルとなっていた。 この程度の公園に、こんな設備が必要なのだろうか? 自動改札機より人を配置したほうが今のビルマでは安上がりのような気がするが、この国はまだ背伸びをしてみたい年頃に相当するのかもしれない。 ピープルズパークを出でシエダゴンパゴタをぐるりと半周するように時計回りに歩く。 道路は大渋滞である。 タクシーも多いが、タクシーも中古車のようである。 そのためか車種もいろいろである。普通のセダンタイプもあるが、私がミャワディからモーラミャインまで乗ってきたようなライトバンもあるし、軽自動車もある。 シエダゴン北側の道は雰囲気が良かった。 歩道も段差をつけて広々と整備してあり、大きな合歓の木が葉が茂らせ、車道まで緑のトンネルにするかのように枝を伸ばしている。 なんとなくシンガポールのような感じがする。 イギリスの植民地だったから共通するのだろうか? シエダゴンパゴダ北側の入り口前にはタクシーが何台も客待ちをしていた。 「どこへ行く?乗っていかないか?」と声をかけてくるが、私は笑って通り過ぎる。 左手に池があり、池の方へ行って池越しにシエダゴンを見ると、シエダゴンの手前左手側にももうひとつ、すこし小ぶりのパゴダがある。 そのため、見た感じとしてはパゴダの兄弟が並んでいるように見える。 ふたたびシエダゴンを周回する道に出て、東側へ回り込む。 東側の参道も立派であった。 丘を登るように参道が続いているのだが、その参道には屋根がかけられており、斜面に沿って屋根が何重にも積み重ねられている。 建物などでも屋根が何重にも重ねられたものが多く、これがビルマの建築様式の特徴なのかもしれない。 この東側参道の横には大きな駐車場があり、観光バスなどもたくさん止まっている。 そして駐車場の脇には丘の上にあるシエダゴンの境内へ上るエレベーターが設置されていた。 モーラミャインのパゴダでもそうであったが、有名寺院にはエレベーターが付いているのがビルマの特徴なのかもしれない。 それと、私の認識ではビルマの由緒ある寺院のパゴダのみが金色をしていると思っていたが、 これまでのところほとんどのパゴダが金色をしている。 以前はこんなに金色ばかりでなく、漆喰だけだったり、白いのも多かったのだが、金色にするのは最近の流行なのだろうか? チェンマイのスアンドーク寺院のパゴダ(タイではチェディー)も以前は灰色をしていたが、近年金色に塗り替えられた。 以前はチェンマイで金色のパゴダ(チェディー)はドイステープだけだったはずなのに。 南側へ回ったら、大きな通りが合流してきた。 なかなか立派な道で、その道を跨ぐように橋がかかり通りの向こう側へ出られるようになっている。 その橋を渡るとそこにも寺院がありパゴダがあった。 こちらも規模こそシエダゴンに劣るが、立派なパゴダのある寺院であった。 形はシエダゴンより少しずんぐりしている。 このお寺の境内も裸足にならなくてはならないので、北側の入り口から靴を脱ぎ、靴をカバンに入れて歩き、ぐるりと270度回って東側から出るときに再び靴を履いた。 シエダゴンとおりと言う通りに出たところで懐かしいバスが走ってきた。 まるまっこいダンゴムシみたいなバス。 たぶん相当な昔に日本から輸出されたバスだと思う。 そしてたぶん中古ではなく、新車で輸出されたと思う。 なぜならこのバスはちゃんとビルマ仕様に左ハンドルとなっており乗降口も右側通行向きにできている。 30年前にももちろんたくさんあり、私ものバスに乗ってラングーン(ヤンゴン)からパガンの近くのチャッパタウンと言うところまで行ったことがある。 当時でさえ何十年も昔風のバスだなと思ったのだから、もう50年くらい走っているのではないだろうか? 動物園へ行きたかったのだが、このまま動物園を見学していると昼前までに宿へ戻るのが困難になりそうな気がしてきたので、通りを南に下って帰ることにした。 この通りは邸宅のような屋敷が多く、大使公邸などもあり宿のある中国人街とは雰囲気がまるで違う閑静な通りであった。 ヤンゴンの街で気になっていたことがある。 以前のヤンゴン(ラングーン)の街ではオート三輪のタクシーやミニバスがたくさん走っていた。 バンコクで言うところのトゥクトゥクであるが、今回はまるでオート三輪を見かけていない。 ラングーンのオート三輪は確かマツダ製のオート三輪だった気がするが、バスには古いものが残っているのに、オート三輪は絶滅してしまったのだろうか? また、いままで歩いてきた地方都市ではオートバイが交通機関のなかでも主流に近い存在であったのに、ヤンゴンの街ではオートバイも見かけない。 その理由はどうやらヤンゴンではオートバイの走行が禁止されているらしい。 この通りを歩いていて、「オートバイ禁止」の道路標識を見かけた。 まだまだ公共の交通機関が不十分で、しかも自動車にしたところで駐車場の整備が遅れているように思われるヤンゴンにとってバイクに期待できる部分は大きいように思えるのだが、どうして禁止してしまっているのだろう。 鉄道線路を跨ぐ橋の上へ出た。 橋の下をのぞくと駅があり、いままさにディーゼルカーが走り出すところであった。 このディーゼルカーは日本の特急として走っていたものの中古と言うことで、ビルマ関連のネットでしばしば紹介されていた。 手持ちの地図で確認すると、ここからプライ・ロードまで行けば、宿まで近いようだ。 この機会にヤンゴンで中古特急に乗ってみたいと思った。 ホームの端に切符売り場があり、待つことなくもうプライロード方面行きの列車が近づいてくるのが見える。 急いで切符を買ってみたら、これまたとても安くて、50チャットであった。 今回のビルマ滞在中での最小単位の支払い金額である。 電車賃 プラヤーロード駅まで 50チャット 残念ながら特急ではなく、機関車に引かれた国電のような客車であった。 地図では次がもうプライロードのように書かれていたが、実際にはもうひとつ先であった。 そこまで実にのんびりと走る。 これはこれでなかなか情緒がある。 適当に横揺れするが、昨日までのように飛び上がるようなこともない。 プラヤー駅で下車して宿まで歩く。 大きな病院や学校などがあり、大通りの交通量は多いけれど、全体としては閑静な印象の道を南に歩き、大きな交差点近くになったら急ににぎやかとなり、昨晩のビール屋の前へ出た。 宿には11時過ぎにたどり着いた。 シャワーを浴びてチェックアウト。 もともと大して重たい荷物も持っていないが、不要なものは夕方まで宿に預かってもらうことにする。 スタッフのシフトが変わったのか昨日とは別のスタッフが対応してくれたが、彼は片言の日本語が話せる。 きちんと語学学校へ通って覚えた日本語なのだろう、とても丁寧な日本語を話した。 午後の予定は立っていなかったが、さっき乗った列車が気に入ったので、もう一度乗ってみる事にする。 ヤンゴンには山手線のような循環線があることを知っていたので、乗ってしまえば車窓でヤンゴンを一周できることになる。 さっき降りたプラヤーロード駅ではなく、途中にあった駅のほうが宿から近そうなのでそこへ向かう。 大きな病院の脇に路上の食堂が出ていた。 列車に載る前に昼食にしておこうと、食堂に並ぶ鍋の仲を覗き込む。 小エビのビルマカレー煮が美味しそうに思えた。 当初、この手の食堂を敬遠していたが、今では鍋の中を覗き込んで「美味しそう」と感じられるようになっている。 でもまだ肉類には手が出ない。 この小エビのビルマカレーは美味しかった。 エビはシュリンプカクテルに使うような小エビで、エビばかりが小皿にたくさん入っている。 またいつもの通りハーブや生野菜の盛り合わせも付いてくる。 中国茶も土瓶に入っている。 繁盛しているようで、お客さんも多い。 病院の看護婦さんもしゃがみこんで食べていたが、看護婦さんは弁当箱持参である。 弁当箱は金属製の筒型をしたもので、3段ほどに筒が積み重なっている。 食堂で弁当持参と言うのもおかしな話だが、看護婦さんたちは食堂の小皿を注文し、持参の弁当も広げて食堂のテーブルで食べている。 ビルマの人たちはこんなことには寛容なようだ。 12時過ぎに駅へ着いた。 駅の窓口で「トレインで1周したい」と言ったら3時間かかると言われた。 もちろん何する予定があるわけではないので問題ない。 ヤンゴン循環鉄道1周切符 200チャット ホームへ降りて列車の到着を待つ。 ホームのベンチには同じように列車を待っている人がいる。 モヒンガーを食べさせる露天も出ている。 さっきの経験があるので、すぐに列車は来るだろうと思ったが、なかなかやってこない。 10分待っても来ない。 私もベンチに座る。 20分待つ。 隣りに座った女の子がさかんにスマートフォンを操作している。 30分待つ。 遠くから機関車の響きが聞こえてくる。 ホームから線路上右奥を眺める。 やっと着たみたい。 やれやれ、、 しかし、列車は私が待っている駅には停車せず通過して行った。 どこか地方へ行く急行列車だったのかもしれない。 私はここを走るのは山手線と同じでみな巡回するのだろうと思っていたが、どうやらそうではなさそうだ。 もしぜんぜん違うところへ行く列車に知らずに乗り込んだら大変だ。 でも、それも面白いかも。 とうとう1時間待ってやっと列車は来た。 さっき乗ったときは国電のように窓と並行に長いベンチがあるものであったが、今度のは向かい合わせのボックス席であった。 イスは木製ではなくプラスチック製でたった。 席は半分以上ふさがったいたが、まだ空席もある。 通路側で進行方向逆向きに腰掛けた。 駅と駅の間隔は短かく、なんとなく郊外の私鉄沿線のような風景である。 スピードは遅く、通り過ぎる町並みを眺めるには都合が良い。 住宅は小さなものが多く、道も狭く、雑然とした下町っぽいところをしばらく走しる。 すれ違う列車も多いのだが、こんなに頻繁に列車が走っているのに、どうして1時間も待たされたのか不思議に思う。 乗客の乗り降りも頻繁で、私の座っている席の前や隣の人も何度か入れ替わったし、私も進行方向を向いた窓側へ席を移動した。 1時間ほど走ると車窓は田園風景になっていた。 駅のホームを見たらば、ホームが市場のように野菜を並べて売っている人たちがたくさんいた。 ゴルフコースなどと言う名前の駅があったりして、なんだか電車ごっこに出てきそうな名前だと思った。 名前こそゴルフコースだが、ゴルフ場らしきものは駅周辺に見当たらなかったし、駅そのものもゴルファーの人が降り立ちそうにない雰囲気だった。 私のボックスには男の子二人を連れた父親と母親の一家が座った。 そろそろ循環線も半周を過ぎ、家族でヤンゴンへ行くのだろうか? 子供たちははしゃいでいるし、親たちも晴れがましい顔をしている。 ヤンゴンで何か楽しいことが待っているのだろうか? ミンガラドンと言う駅があった。 ミンガラドンと言えばヤンゴンの空港の名前である。 と言うことは空港までこの循環線で来る事ができるのだろうか? しかし、先ほどのゴルフコース駅と同様に空港が近くにある感じはしない。 駅も空港最寄り駅とはとても思えない田舎の集落にあるただの駅と言った感じである。 しかし、駅を過ぎて少ししたところで窓から良く見たらば、飛行場の誘導等が並んでいるのが見えた。 たぶん、この先に滑走路があるのだろう。 空港ターミナルは更にその先だろうから、ちょっと歩くには遠すぎるみたいだ。 車内で検札が回ってきた。 「切符を拝見」とビルマ語で言っているのだろうけど、もとよりビルマ語などわからないが、乗客たちが切符を提示しているので、そう言っているのは確かだろう。 私も切符を提示する。 検察係りは切符にボールペンでチェックを入れ切符を返してくれた。 ヤンゴンへ向かうと思われる親子連れも切符を出したが、検察係りはなにやらいんぎんにその父親に話しかけている。 父親がうなだれる。 母親も困ったと言う顔をし、子供たちも心配そうな顔をしている。 しばらく、検察係りから一方的に講釈され、父親は財布を開いて千チャット札を何枚か検察係りに渡した。 切符不正でもあって割り増しの罰金でも取られたのであろうか、さっきまで楽しそうにしていたのでその対比がとてもかわいそうに見えた。 トウモロコシ売りが来た、先ほどの親子が1本買い、父親が半分にへし折って兄弟に渡した。 私も1本買って食べる。 車内売りトウモロシ 100チャット 子供たちが食べ残したトウモロコシを父親が綺麗に食べ、トウモロコシは芯だけになった。 そして、窓からその芯を車外へ放り投げた。 私もそれに倣って窓からトウモロコシの芯を捨てる。 きっとヤギや牛が食べてくれるだろうから、ゴミの投げ捨てにはあたらないだろうと勝手に解釈する。 中古特急だが、この循環線に乗っている間に都合三回も行き違った。 私が乗っているのが外回り、中古特急が内回りである。 出会う回数から考えて、どうやら中古特急は内回りだけを走っているようだ。 ふたたび昨日バゴーからの汽車で見た景色が見てきた。 そして、16時にヤンゴン駅に到着。 乗客はいっせいに席を立つし、またここから乗り込む乗客も乗降口に殺到する。 まだ完全に一周し切れていないが、私もここで降りることにする。 昨日と同じようにホームから陸橋の上へあがり、そのまま市内中心部へ向けて歩く。 ビルが増えたとはいえ、ビルに新しさを感じない。 たぶんほとんどが雑居ビルや下駄履き建築だから、町並みが猥雑になってしまっている。 看板もやたらと多い。 日本語教室なんて看板もあった。 南に下るに連れて、古い建物が増えてきた。 英国植民地当時の建物がそびえていて、なんだかカルカッタの町並みにも似ている感じがする。 似ているといってもインドへ行ったのは30年以上前のことなので、当時と今とではだいぶ変わっているだろうけど、以前のカルカッタに似ていると感じた。 前にラングーン(ヤンゴン)へ来たときには特別そんな感じがせず、今回初めてそう感じるのは、きっと道に車があふれ、人の往来が多くなったからではないかと思う。 以前のラングーンは車も少なく、人通りもこれほど多くなかったと思う。 フェリー乗り場前の歩道橋に登ったら、ストランドホテルが見えた。 今回ストランドホテルに泊まってみようかと思ったのだが、ネットで料金を調べてあまりに高いのでやめた。 料金だけならバンコクのオリエンタルホテルといい勝負をしている。 30年前のストランドホテルは1泊20ドルから泊まれた。 ちょうど今回私が泊まっている窓なしビジネスホテルと同じ金額だったわけだ。 フェリー乗り場前を歩いていたら絵葉書売りの女の子がやってきて、盛んに英語で絵葉書を買ってくれと言いながら付きまとう。 電子メールやインターネットの発達で、以前のように絵葉書を買う人は少なくなっているだろう。 私も絵葉書など何年も書いていない気がする。 彼女の持っている絵葉書は10枚一組になっている。 その10枚がつながっているので帯のように長い。 「お願い、買ってちょうだい。私も小さな弟も朝から何も食べてないの、お腹がすいてるの、だからお願い」 とまるでマッチ売りの少女のようなことを言って同情をかおうとする。 でも、買ってあげない。 しばらく私の後ろについて同じことを呪文のように唱えていたが、やがて元の場所へ戻っていった。 フェリー乗り場の先にはレストランがあった。 しかし、営業はしていないのか誰もいない。 夕方からの営業としてももう仕込みの準備とかしていても良い頃合なのにその気配もない。 そこからフェリー乗り場を見ると大きなフェリーが桟橋から離れていくところだった。 対岸とを結ぶフェリーだろうか、時間があれば私もフェリーに乗ってみたいところだけど、もう余り時間がない。 フェリー乗り場の上流は港になっているようで、コンテナの積み降ろしをする巨大なクレーンが並んでいるのが見えた。 ビルマの貨物列車でも国道を走るトラックでもコンテナを見かけなかったから、まだビルマの物流はコンテナの時代ではないのかと思ったけれど、すでに港はコンテナの時代に対応しているようだ。 今度はスーレパゴダの方へ行ってみようと歩き出す。 フェリー乗り場の前でさっきの絵葉書売りの女の子を発見。 彼女は友達と袋菓子を食べてながらペットボトルの清涼飲料水を飲んでいたが、私を見かけると絵葉書を手にして駆け寄ってきた。 そして先ほどと同じ呪文を唱えながらしばらく付いてきた。 フェリー乗り場前の交差点には輪タクが客待ちをしていた。 なつかしい。 オート三輪は絶滅したようだけど、輪タクはまだ健在のようだ。 ヤンゴンの輪タクは小さなサイドカーを自転車に付けたもので、このサイドカーにお客を二人まで乗せられる。 一人は前向きにサイドカーに腰かけ、もう一人はそれと背中合わせの後ろ向きに腰かける。 輪タクだけではなく自転車もけっこう走っている。 川沿いに1ブロック歩く。 植民地当時の建物の中にはすでに廃屋同然のものも見られる。 このまま朽ち果てさせてしまうのはもったいないし、ホテルなどに改装したらコロニアル風でなかなかいい感じに再生できそうな気もする。 スーレパゴダの前まで来た。 以前はこがラングーン(ヤンゴン)の中心地であった。 パゴダの回りがロータリーになっており、周辺には大きな建物が並び、東京で言ったら丸の内のようなところだった。 そしてこのパゴダの横にTourist Burmaのオフィスがあり、われわれ外国人観光客は必ずここに立ち寄って旅の手続きをしなくてはならなかった。 例えば汽車の切符も駅でなくここで申し込んでドルで買う事になっていた。 そして支払いをするたびにFECフォームと言う一種の金銭出納記録の確認を受けなくてはならなかった。 ビルマの空港到着時に手持ちの外貨をすべて申告し、滞在日数に応じて強制的に両替させられた。 その記録がFECフォームに書き込まれ、出国時に金額があっているかどうかチェックされた。 それらは闇両替を防ぐために講じられたものらしく、実際に公定レートと闇レートでは10倍くらいの差があった。 特にスーレパゴダには外国人旅行者が必ず来るので、そうした外貨を持った外国人を目当てに闇両替屋も出没していた。 そうして両替すると、なんだかよくわからないお札を渡された。 35チャット札とか75チャット札など歯切れの悪い単位金額のお札であった。 ビルマは十進法ではないか思ってしまうほど、闇両替をして渡された金額を数えるのに苦労した記憶がある。 しかし、それも昔話。 スーレパゴダ周辺は昔と比べ寂れているように感じた。 Tourist Burmaももちろんなくなっていた。 みんな変わってしまったなと思ったらまたダンゴムシのようなバスが走ってきた。 バスとパゴダそのものは30年前と変わっていないようだ。 その30年前にスーレパゴダで土産物を売っている姉弟と仲良くなり、家へ招待されたことがある。 庭に大きな綿の木がある木造家屋で、私が珍しいのか近所の人たちも集まってきた。 瓶入りの清涼飲料水もどこから買ってきてくれた。 床に腰を下ろして、どんな話をしていたのか今となっては思い出せないが、南京虫に食われて、あとで痛いほどかゆくなったことは覚えている。 それから、30年ぶりのビルマで感じたこととして、以前と比べてビルノの人たちで英語を話せる人が減ったような気がする。 特に若い人で英語が話せない人が多く、むしろ年配者の方が英語が上手い。 この傾向はタイとは反対である。 近年のビルマでは英語の教育があまり重視されていないのだろうか? それとも私の記憶違いで、以前と比べてより自由にビルマの人と接触できるようになり、英語の話せない人たちも混じるようになっただけのことだろうか? スーレパゴダからは西に向かって中国人街を歩いて宿へ向かう。 警察官が交通整理をしている交差点で上を見上げたら電線に鳩がたくさんとまっていた。 5時半過ぎに宿にたどり着いた。 丁寧な片言の日本語を話すスタッフから預けた荷物を受け取る。 レセプション横の冷蔵庫にはビールが冷えていた。 ミャンマービールの大瓶を1本抜き取りレセプションにお金を払ったら冷えたビールジョッキを持ってきてくれた。 昨日もそうだったが、この宿のスタッフの感じがとてもいい。 ソファに深く座ってビールで喉を潤す。 ミャンマービール 1,600チャット 空港まで市内バスに乗ってみることにする。 何度目かのビール屋の前の交差点へ行き、そこのキオスクで空港への行き方を聞いたら店のおばさんがバスをつかまえて、「セーマイまで行くんだよ」と教えてくれた。 バスは日本の中古バスながらマイクロバスで、私は席に着くことができた。 途中から混雑してきて小さなバスの狭い通路にまでびっしりとお客が立つようになった。 空港までの道は、ずいぶんとこぎれいな道で、立体交差もあったりして市内の道よりすっきりし、新しくモダンな建物が並んでいた。 ショッヒングセンターのようなものもある。 昔はミンガラドン空港から市内まで幹に白いペンキを塗った並木が続く田園風景の中の道だったのにずいぶんと変わったものだ。 このあたりはきっと新市街とでも呼ばれるような場所なのだろう。 セーマイまでのマイクロバス代 200チャット 30分ほど走りあたりも暗くなったところでバスの車掌か「セーマイだ」と言って降りるように指示する。 ただ、降りた場所は横丁に市場のようなものが並んでいるようなところで、空港とは関係なさそうな感じがする。 こまったな、変なところへ来てしまったかな、でも通りにはタクシーも走っているし、いざとなればタクシーに乗ればイイやと考え、通りを少し歩いてみる。 軽トラックの乗り合いバスが客待ちしていた。 運転手に聞いたら空港へ行くという。 すでに荷台の客席はほぼお客でふさがっていてすぐにでも出発しそうだが、何か夕食を食べておきたい。 「運転手に食事をしておきたいけど」と行ったら、すぐ先の薄暗い食堂を指差した。 たぶん、軽トラックは頻繁に便があるのだろう。 食堂は広かったが、薄暗く、お客もほとんどいなかった。 ここでも鍋の中に料理が入っている。 店の人が「フィッシュ・カレー」と言っている鍋の中は、どう見ても魚には見えず、豆腐を崩したソボロのような料理であったが、むしろそのようなものの方が私には好ましく注文する。 ここでもハーブと生野菜の盛り合わせなどが付いてきた。 豆腐ソボロ風のフィッシュカレーはマイルドな味で、たぶん魚のすり身と豆腐を混ぜて炒め煮にしたように料理で、ふわふわして食感もソフトで、魚を使っているからか旨味も効いて美味しかった。 豆腐のようなフィッシュカレー定食 1,000チャット まだ少し何か食べたい気もするので横丁の市場風のところをのぞいてみる。 夜市と言った感じでスナックや果物などを売る屋台がいくつもあった。 サモサを二つ買ってみる。 サモサ1つ100チャットを2つ 200チャット さっきの乗り合い軽トラックはすでに出発したあとであったが、別の客待ちしている軽トラックがやはり空港へ行くという。 早速乗り込むと、運転手が私の隣の男性に私のことで何か話しかけている。 ビルマ語なのでわからないが「エアポート」とか言っているのが聞こえたから、私のことを申し送りしてくれたのだろう。 それほど待つこともなく軽トラックの荷台は満席になり出発した。 空港まで乗り合い軽トラック 200チャット しかし大通りは大渋滞をしており、少し先の交差点まで車がびっしり詰まって遅々として進まない。 ほとんどの車が日本の中古車で右ハンドルである。 しかし、ビルマは右側通行である。 もともと英国植民地であり、左側通行だったはずなのに、それに隣のタイだって左側通行だから、ビルマも左側通行に戻したほうが便利になるような気もする。 沖縄だって右側から左側通行へ戻したしたんだから、できないことはないと思う。 これ以上車の増える前に対応できないものだろうか? 交差点を抜けたら空港まではスムースですぐに到着した。 空港までの乗り合い軽トラック 200チャット 空港は私が知っているミンガラドン空港とはまるで違う近代的なターミナルであった。 以前は本当にローカルな小さな空港で、飛行機の発着など日に何本もなかった。 バンコクからのタイ航空が到着すると、飛行機から荷物を降ろすのは手作業で、人夫たちが荷物を担いでターミナルまで運んできてくれていた。 そしてチップをねだられた記憶がある。 しかし今はまるで違う。綺麗で明るい国際線ターミナルになっている。 軽トラックで私のことで申し送りを受けた男性も私と一緒に空港前で下車した。 彼は空港で管制の仕事をしているそうで、日本に大変好意を持っていてくれた。 「日本が戦争で戦ってくれたからビルマは独立できた」とまで言ってくれる。 先の大戦、さまざまな評価があることは知っている。 侵略戦争といわれれば、確かにそのような側面もあっただろう。 満州をはじめ中国で行ってきたことは、その方法を侵略と言われても仕方がないかもしれない。 南方へ資源獲得を目指したことについては、米英により石油の禁輸などにより必要に迫られてのことと言えなくもないと思う。 そして凄惨なインパール作戦をはじめとしたインド侵攻作戦については、侵略とは反対にインド独立支援の目的で進められたものと考える。 大東亜共栄圏と言う大義名分を実行するため、ビルマからインパールへとインド国民軍とともに進軍し、そして悲惨な結末となってしまった。 たぶん、戦争と言うきっかけがなければ、ビルマの独立はずっと後のこととなったであろう。 その意味ではこの男性が言うことは真実だと思う。 しかし、その一方で日本軍の末端にまで大東亜共栄圏の理念が浸透して、興亜の意義を理解させきれなかったことが、戦争遂行での失敗だったと思う。 そのために現地の住民をはじめ、多大な迷惑をかけてしまったのだろう。 平和な今こそ、ビルマの良き友人に日本がなってほしいと思う。 ターミナルは立派だったけれど、チェックインカウンターは閑散としていた。 やはり発着する飛行機が少ないのだろう。 私の乗るノックエアの手続きは簡単にすんだ。 預ける荷物もない。 すべて機内持込である。 しかし、出国ゲートへ向かう途中、カバンに飲み残しのビルマ・ウイスキーの小瓶が入っていることを思い出した。 これを持っていくと液体物として没収されかねない。 ベンチに腰かけてウイスキーの小瓶をクピクピとあおる。 さっき買ったサモサもパクつく。 液体物は胃の中へ格納し、これで安心とエックス線検査を受けたら、髭剃りの刃が引っかかり没収されてしまった。 テロ対策とはいえ、不便なことが多くなりすぎている。 まだ少しチャットが残っている。 出発ロビーには小さいながら免税店があり、女性スタッフが暇そうにしていた。 タイはお酒が高いのでこの免税店でお酒を買っていくことにする。 値段はドル表示だがチャットでの支払いもOKとのこと。 値段はカンパリが15ドルであった。 バンコクでは免税店でも600バーツくらいするからビルマが少し安い。 ビルマのお酒あった。 ダゴン・ラムと言うラム酒でこれはたったの4ドルであった。 他にもダゴン・ビールの詰め合わせなんかもあった。 飛行機に乗り込むと、私の席に若い女性が座っている。 私が彼女に向かって「あなたのお席の番号は?」と聞いたところ タイ語で、それもハスッパなタイ語で「別に私はどこの席でもいいのよ、アンタがここに座りたいなら、移るわよ」と言った。 不愉快であった。 ビルマの人たちはまだまだ豊かではないが、みんな親切で、特に女性は奥ゆかしかった。 このことは30年前、まだ学生だった私もそのように感じていた。 今回ビルマに来て、タイとの違いをずいぶん感じた。 30年前、タイの女性でミニスカートやノースリーブなど肌を露出しているような人はほとんどいなかった。 そんなカッコをしていたら外国人相手の商売をしているかのように見られる時代だった。 それが今では、派手な化粧をして超ミニのスカートやタンクトップなどがバンコクにはあふれている。 私が働いているオフィスの中でも、そんな服装で平気でパソコンをたたいている女性スタッフが多い。 それがビルマの女性たちの多くが足首まである巻きスカートで、化粧もタナカを塗っているだけ、奥ゆかしさを感じずにはいられない。 この私の席に座っていた女性のタイ語を聞いて、タイの女の人よりビルマの女の人の方が好いなと感じた。 ノックエアはほぼ定刻の9時過ぎに飛び立ち、ヤンゴンの街明かりを眼下に眺め、そして遠くなったと思ったら、何も光のないところをしばらく飛行していった。 スナックとお水が配られ、一口で食べてしまうと、再び光が下界に見えてきて、だんだん光が増えたかと思ったらバンコク・ドンムアン空港へ着陸した。 時計を30分進めてタイ時間にしたらもう10時半である。 隣の若い女性は、まだシートベルト着用のサインが点灯しているうちに、さっさと席を立ち、出口の前へ移動していった。 入国審査にならんでいたら、隣のカウンターに件の女性が入国審査を受けていた。 彼女のパスポートを見たら、ビルマのパスポートてあった。 つまり彼女はタイ人ではなくビルマ女性だったわけだ。 ビルマ女性ももうじきこんな風に変わってしまうのかなぁ 空港からの帰宅にも市内バスを使う。 私のアパートの近くを走る555番のバスがドンムアン空港とスワナプーム空港を結んでいるから、これに乗れば帰宅に便利なはずである。 空港前の停留所でバスを待つ。 夜遅いので市バスはなかなか来なかったが、10分ほど待って最初にきた市内バスが555番であった。 バスに乗り込み、女性車掌に「ラマ9世通りまで」と告げたら、「ラマ9のどこだい?」と聞かれた。 555番は途中から高架道路に乗ってしまうことを知っているから、「ラマ9の高速道路入り口で降ろしてください」と言った。 しかし、車掌が言うには、このバスはバンコク市内はディンデンの停留所を過ぎたら次はスワナプーム空港までノンストップなのだそうだ。 まぁ、途中まででもいいし、ディンデンで降りて乗り換えてもいい。 バス代として20バーツ札を出したら2バーツのお釣りが来た。 ドンムアン空港からのバス代 18バーツ バスはウィパワディー通りを抜けて快調に走っている。 バスの運転手と女車掌が何かしゃべっているなと思ったら、女車掌が私のところへやってきて、「ラマ9の高速乗り場の辺でいいのね、特別にバスを止めてあげるわ」と言ってくれた。 タイ人もビルマ人に負けないくらい親切で融通が利く。 アパートから1キロほどのところで降ろしてもらえたおかげで、ネコの待つアパートには12時前に着くことができた。 扉を開けたら、ネコがかすれた声でニャーニャー鳴いて出迎えてくれた。 私が不在にしていた数日間、きっとずいぶんと鳴いたので、声がかすれてしまったのだろう。 かわいそうなことをした。 次の旅にはネコも連れて行くことしよう。 完 |