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ラビットスクーター シート張替え
前回一時帰国した際に、ボロボロになってしまっていたラビットスクーターのシートを外してバンコクへ持ち帰ってきた。
シートを前回張り替えたのがいつだったか記憶にないが、15年以上は経過していると思われる。
もともとラビットスクーターのシートのベースは金属製であったけれども、とっくの昔に錆でボロボロになってしまって、木製で作り直したものを使ってきていた。

ラビットのシート(表)
[古いシートも表から見るとしっかりしている]

しかし、ラビットスクーターにカバーを被せているとはいえ屋外に止めたままにしており、雨水が入ったりして、シートの木部が完全に腐食してしまった。
そこで、次回一時帰国するまでの間に、バンコクで新しいシートを作り直そうという算段である。

ラビットのシート(裏)
[シートを裏返したら、見るも無残]

まずはベースとなる木部を作成する。
本来ならしっかりした木材を選んでおきたいところなのだが、どうもバンコクには日曜大工センターのような店がないようだ。
巨大なホームセンターはある。
しかし、木材は置いてない。
材木どころか、角材も、ベニヤ板も、何にもない。

次に建材屋を訪ねてみた。
日本のような材木はないが、ベニヤ板はなんとかあった。
しかし、工作用と言うより、コンクリートパネル用かと思われるような品質で、またトラックでも借り出さなければ運べないくらいの大きさである。

さらに考えて、クロントイ港の近くの家具を製造販売する木工屋へ仕事帰りに立ち寄ってみる。
何軒も木工屋が並んでいる中で、机を作る作業をしている職人の足元に適当なサイズのベニヤ板が転がっていた。
「あのぉ、この板を買いたいんだけど、いくらで売ってくれますか」と職人に聞いてみる。
職人からはぶっきらぼうに、「欲しけりゃ持ってきな」と作業の手を休めることもなく返事が返ってきた。
ぶっきらぼうであろうと、何だろうと、こちらは適当なサイズのベニヤ板が手に入れば文句はない。
しかも「金なんか要らないよ」と言うのだから、ラッキーである。

ベニヤ板
[木工屋でもらったベニヤ板]

欲を言えば、もらったベニヤ板の厚さが9ミリであったが、もう少し厚手のものだったらよかった。
それと、日本のベニヤ板と違って、品質がかなり劣る、
使用している接着剤が悪いのか、ベニヤ板の層が剥がれかかっているし、表面も継ぎはぎだらけのようだ。
こんなベニヤ板で家具など作っても、良いものなんかできないんだろうな。

満足ではないけれど、なんとかベニヤ板も手に入ったので、11月19日(土)より作業に入る。
ベニヤ板を切るノコギリとかは、日本から持参したものがある。
タイのノコギリは西洋式で、押し切りである。
やはり日本式に引いて切るノコギリでないと使いにくい。

切り出し
[シートの形状から曲線部分が多いので、挽き廻しノコギリを使う]

ベニヤ板の材質が安物であることが幸いして、やたらと柔らかく、ノコギリで簡単に切断できてしまう。
こんなフニャフニャな材質だと、またすぐに腐食してしまいそうだ。
あとでニスでもしっかり塗っておくことにしよう。

リヤシートのベース
[まずは簡単なリアシートの切り出し完了]

続いてフロントシートの切り出しにかかる。
フロントも何なく切り出せたのだが、フロントはシートの下に燃料タンクがあって、タンクのキャップが飛び出ているため、キャップにぶつからないよう丸く穴を開けなくてはならない。
直径10センチほどの穴をくりぬくのが手間がかかりそう。
糸ノコギリを使うべきところだが、工具箱の中に糸ノコギリのフレームはあっても刃がなかった。
買いに行けばイイのだろうけど、横着なので挽き回しノコギリの先端が入るくらいの穴を電動ドリルで開けて、強引に挽き廻しノコギリでくり抜くことにする。

フロントシートの準備
[ドリルの刃もコンクリ用で、無理やりやったら熱を持ったらしく、穴が焦げて煙が出てきた]

ドリルで開けた穴を少しずつ広げるようにして、挽き回しノコギリで丸く切り始める。
いったんノコギリの刃が入れば、あとは簡単に切ることができた。

穴開け完成
[丸く穴をあけることに成功しました]

続いては、ベニヤ板の切り口や表面を少しでも滑らかになるよう紙やすりでこする。
やはり素材が柔らかいので、簡単に削れてしまう。
また、切断面などはボロボロと角の方から貼合わさったベニヤの層が剥がれだしてきそうだ。

ヤスリがけ
[紙ヤスリをかける]

さて、ここまでで切り出し作業は完了して、腐食防止の防水対策としてニスを塗ろうと思う。
自転車に乗って、ペンキ屋へ行くが、ニスをタイ語でなんて言うのかわからない。
ペンキ屋に行けばニスぐらいいっぱい置いてあるだろうとと思っていたのだが、ペンキ屋の棚を見渡してもニスが見当たらない。
油性塗料やスプレー、錆止めなどばかりだ。
「あのぉ、木材に塗る、茶色くて、透明なやつが欲しいんだけど」と店員に訴えたが、どうにも要領を得ない。
「茶色のペンキ?透明なペンキはないよ、透明なのはスプレーだよ」と一応は親身になって説明してくれるのだが、私がニスを欲しがっていること理解してくれない。
結局、アパートに戻ってニスのタイ語を調べるのも面倒なので、ニスではなく油性のペンキを買うことにした。
小さな缶で20バーツであった。
頼みもしないのに、しっかりと領収書まで切ってくれた。

先ほど切り出したシートのベースにべっとりと黒く油性のペンキを塗る。
本来なら、薄く何度も重ね塗りすべきなのだろうが、横着なのでいきなり厚塗り。

塗装
[片面だけ黒く塗ったところで、ペンキが空になった]

ペンキを厚塗りしたために、ペンキが乾くまで時間がかかりそうだ。
そして、失敗したのはペンキが乾かないまま部屋の中に入れたので、部屋の中がシンナー臭くなってしまい、おかげで喉を傷めてしまった。
ベランダにでも出しておけば良いものを、まったくの失敗。
翌朝には喉の痛みから熱が出て、どうやら風邪をひいてしまったようだ。

風邪ひいた
[このあいだインフルエンザに罹ったばかりなのにまた風邪かぁ]

数日後、ペンキが大体乾いたと思われたので、こんどは反対側にもペンキを塗ることにする。
黒いペンキはなくなっていたので、こんどは白いペンキにする。
そして、一度に厚塗りをしないで、薄塗りを繰り返すことにする。

内側は白く塗る
[白いペンキをなんどかに分けて塗る]

11月26日(土)、ペンキも乾き、これでシートのベースは完成。
このあとは、もう業者に頼んでシートを張り替えてもらう。
いつも利用しているディンデーンのバイク修理屋にシートの張替え屋を紹介してもらっていたので、タイ日ユースセンターへ泳ぎに行く途中で張替え屋に立ち寄ってみる。

バイクのシート張替え屋
[バイクのシート張替え屋]

タイはバイクが多いので、こうしたバイクのシート専門の張替え屋があちこちにある。
古いシートと一緒にペンキを塗ったベニヤ製のベースを持ち込み、シートの張替えを依頼する。
「いいですか、黒い色が表に出て、白が内側になるようにしてくださいね」と注意をする。
これが反対になると、燃料タンクのキャップの位置が合わなくなってしまう。

「いつ出来上がる?」と聞いたら、「今日の午後にはできるよ」とのこと。
しかし、午後だと私は仕事に行かなくてはならないし、明日は休みとのことで、どうしたものかと思っていたら、
「なんなら昼までに終わらせりゃいいんだろ」と言うことで、簡単に話がついてしまった。
そんなに簡単にできるものなのだろうか、、、。
張替えの料金は750バーツとのこと。
まぁ、妥当な金額と思えたので言い値で発注する。

ユースセンターのプールで2,000メートルを泳ぎ、時刻は12時。
張替え屋へ行ったら、ちゃんと出来上がっていました。

新シート完成(表)
[表から見ると形もちゃんとできてます]

仕上がり具合ですが、シートに使われている合成皮革はちょっと薄くて、耐久性に欠けそうに思われる。
もともとベニヤも耐久性がなさそうな素材だから、仕方ないだろう。

新シート完成(裏)
[シートの裏側]

裏側を見ると、シートの皮とベースの部分は大きめのホチキス針のようなもので止められている。
それも結構乱雑な感じ。
もともと表から見える部分ではないが、この地の職人さんたちは、表から見えない部分ではあんまりよい仕事をしない傾向があるようだ。

そして、「おやまぁ」と呆れてしまったのは、シートのポリウレタン製のクッションが古いシートの流用であったことだ。
シートの張替えを依頼したら、当然汚れてポロボロのクッションも新しくなると思っていたが、クッションは古いままであった。
つまり本当に張替えだけであった。

クッション流用

満足度としては65点くらいの出来だけれど、それでもラビットスクーターにセットしたらもう少し様になるのだろう。
その点を含めて、次回の一時帰国が楽しみだ。


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台湾・合歓山越え 4
11月05日~06日 土曜日~日曜日

とっぷりと暮れた新城駅。
太魯閣渓谷の玄関口でもあり、駅舎内には韓国人グループをはじめたくさんの人がいた。
このまま台北に特急で向かっても、面白くないので、鈍行に乗ってみることにする。
次の鈍行は20:22発の七堵行き。
まだ一時間ほどあるし、お腹もすいてきたので食事にしたい。
しかし、この駅前には食堂がまるでない。
商店や民家もほとんどなく、駅前から夜道を少し歩いて国道まで出る。
国道沿いにはコンビニエンスストアや小さな食堂があった。
「小吃」と書かれた大衆食堂があったので、その店へ入る。

注文は伝票に自分で書き込んで店主兼料理人に渡す仕組み。
厨房は店の奥ではなく、店の入り口に構えているのはバンコクの大衆食堂と同じスタイル。
注文したのはワンタンスープ、青菜炒め、タケノコの煮込み。
紹興酒を飲みたかったが、置いてないとのこと。
しかし、向かいのコンビニで買って持ち込んでも良いらしい。
注文した料理ができるまでコンビニへ行って紹興酒を買う。
ボトルには「埔里銘酒」とシールが貼られていたが、本当に埔里産なのだろうか?

燗をつけた紹興酒が好きなのだが、冷でも美味しい。
青菜炒めは空心菜であった。
タイでもよく食べるパクブンであるが、タイのパクブンにも二種類あり、パクブンファイデーンと呼ばれる空心菜炒めはパクブンチーンと言う種類を使う。
直訳すれば中国のパクブンと言うことになる。
もう一種類はパクブンタイと呼ばれ、タイのパクブンと言う意味だから、タイ在来種なのだろう。
パクブンはタイ緑色が薄く、黄緑かかった野菜である。
タケノコの煮込みは柔らかく、エグミはまるでなくて、甘くておいしい。
ワンタンは白くて柔らかく、中に豚ひき肉が詰まっていて、子供のころに好きだったワンタンの味に似ている。
そういえば、花蓮港の名物料理にワンタンがあったっけ、花蓮港はどこでもワンタンのレベルが高いのかもしれない。
台湾最後の夕食を質素に、そしておいしくいただき、これで会計は100元ぽっきりであった。

花蓮の小吃で夕食
[味は良いけど、食器に色気がまったくない それが台湾らしさかも]

駅に戻り、まだ半分くらい飲み残した紹興酒を空いたペットボトルに詰め替える。
これなら紹興酒のラッパ飲みをしても周囲の人には、濃い目のウーロン茶を飲んでいるくらいにしか思われないだろう。

七堵行きの鈍行は、普通の通勤電車であった。
ロングシートで、長時間乗るにはあんまり向いていない。
しかし、もう乗ってしまったのだから仕方がない。
車内には熟年層の観光客がたくさん乗っていた。
けっこう騒がしい。

花蓮-七堵の各駅停車
[花蓮-七堵の各駅停車の車内 おじさん、おばさん、なかなか騒がしい]

鈍行なので駅に一つ一つ停車し、ときどき特急に追い抜かれたりする。
景色の良いところを走っているはずなのだが、外は夜の闇で何も見えない。
ロングシートに座っていると、筋肉痛と関節痛の足がだるくて仕方なくなってくる。
ちょっと行儀悪いけど、シートの上で胡坐をかかせてもらう。
寄りかかることができれば、居眠りでもしたいところだが、シートの上で胡坐をかいているので、ウトウトしたら転げてしまいそうだ。

宜蘭で乗客の多くが入れ替わり、騒がしかった熟年観光客も降りて行った。
新しく乗ってきた人は、比較的若くてそして静かだ。
私は車両の端の方へ移った。
ここならコーナーなので寄りかかれる。

11時半過ぎ、終点の七堵のひとつ手前、八堵で下車して、基隆行きの電車に乗り換える。
今夜は基隆で夜明かししてみたいと思っている。
乗り換えた電車は、台北方向から来て基隆へ行くもので、終電の一本前。
日本だったら、こんな時間帯の電車に乗っている人の半分くらいが酔っ払いではないかと思うが、台湾の電車には酔っ払いはいないようだ。

基隆にはすぐに着いて、北口から外へ出てみる。
基隆駅は地下ホームになっていて、地上へ出たところが港の建物になっている。
中国大陸に近い馬祖島方面への連絡船の窓口もある。
もっとも、乗船手続きは窓口で行い、実際の船は少し離れたところから発着するらしいことが窓口に書かれていた。
再開発前の横浜のような雰囲気が漂う基隆はレンガ造りの港湾関係の建物が並び、それなりに情緒がある。
しかし、どの建物も古くて、かなり老朽化している。
もう少しきれいにしたり、補修をすれば観光資源として活用できそうにも思える。

港に面してボードウォークのようになった広場がある。
オブジェが置かれたり、ベンチがあったりして、アベックの姿もちらほら見える。
さっきまで雨でも降っていたのか、ベンチが濡れている。
濡れたベンチを拭いて、腰かける。
始発電車は午前5時過ぎ。
まだ5時間も時間がある。
ベンチに腰かけて、夜の港を眺める。
オレンジ色の港明かりが水面に映っていてきれいではあるが、変化がないので1分も眺めたら飽きてきてしまう。
港に面した建物の屋上に設置された電光掲示板は、時刻と気温とを交互に表示している。
時刻が早くすぎないかと、掲示板を見つめるが、数字はなかなか変わらない。
1分がこんなに長いとは知らなかった。
そして、気温は20度と表示されている。
雨上がりと言うこともあるのだろうが、浸みてくるような寒さを感じる。
ペットボトルに詰めた飲み残しの紹興酒を少し飲む。
しかし、広場周辺を見回してもトイレがなさそうだ。
こんなところで飲んでて、トイレが近くなったら大変である。
一口飲んでキャップをする。

真夜中の基隆ハーバーライト
[真夜中の基隆ハーバーライト]

釣りをしに来る人もいる。
しばらく眺めていたが、魚はかからない。
しかし、魚がいないわけではなく、ときどきポチャリと魚が跳ねる音が静かな水面から聞こえてくる。

フィリピン人だろうか、出稼ぎ労働者風のグループがやってきて、しばらく楽しそうに話し込んでいたが、そのうちどこかへ行ってしまった。
中国からの観光客だろうか、小さな子供連れのグループも広場を駆け回っていたが、気が付いたらいなくなっていた。

なんとか午前1時半までベンチに座っていたが、どうにも退屈なので、真夜中の基隆の街を歩いてみる。
こんな時間に営業している店は、カラオケ屋とゲーム屋とコンビニくらいである。
安宿に休憩2時間600元、宿泊1200元と看板が出ている。
いまさら宿に部屋を取る気にもならない。

あてもなく歩いているうちに、煌々と明かりがついて、やたらと活気のある路地に出た。
こんな時間に何だろうと路地に入ってみると、路地全体が魚市場になっていた。
色とりどりの魚が並び、競りのようにして売りさばかれていく。
大型トラックから魚の入った発泡スチロールがどんどん運びこまれてくる。
赤い魚、青い魚、銀色の魚、立派な車エビ、紐で縛られた大きなカニ、私は魚を買うわけではないが、見ていて面白い。

基隆の魚市場
[トラックから魚が入った発泡スチロールが次々に運び込まれる]

どの魚も新鮮である。
漁港や河岸の市場ではなく、街の真ん中にある市場だけれど、これらの魚はどこから運ばれてきているのだろうか?
こんな時間だから、魚を買っていくのは商売人だろう。
食堂でもやっているのか、それとも魚屋か、これらの魚は基隆で食べられるのだろうか、それとも台北の業者が仕入れに来ているのだろうか?

基隆の魚市場にならぶ魚
[魚市場だけあって魚の鮮度が高い]

魚市場から少し先に行くと、基隆名物の廟口夜市があった。
夜市と言っても、時刻はもう午前2時半を回っている。
こんな時間でも店開きしている店は半分もないが、それでも観光客の姿はまだまだ見える。
ネットでもこの夜市で何を食べたらいいか、いろいろと紹介していた。
そんな中で「カレー焼きそば」の店は朝まで営業しているとあり、人気店らしい。
カレー焼きそばなるものがどんな味のものか、せっかく基隆に来て、、しかも時間もたっぷり余っているので、店を探してみる。
カレー焼きそばの店は、夜市の屋台街から少し離れたところにあった。
午前3時と言うのに、店の前の歩道にもテーブルを出して、しかも満員御礼の大盛況である。
地元の人がこんな時間に夜食でもないだろうし、やはり観光客、それも中国大陸からの観光客だろうか。
歩道に面した調理場では、店の主人だろうか、ガス栓をいっぱいに開いているのか、大きな炎の上で中華鍋をかき回している。
壁にはメニューが貼り出されて、カレー焼きそば以外もあるようだが、やはり一番人気はカレー焼きそばらしく、カレー粉の香りが漂っている。
名物のカレー焼きそばを食べてみようと思ってきたのではあるが、こんな深夜の薄暗い路上で、しかもテーブルに相席してまでカレー焼きそばを食べようていう気がなくなってしまった。
眺めるだけ眺めて、ふたたび夜店街の方へ歩く。

店じまいをしている屋台の一つから、台湾歌謡曲が流れてきた。
聞き覚えのあるメロディーと女性の歌声。
立ち止まって耳を澄まして、歌謡曲を聴く。
"為什麼不多待一會"
"為什麼不想去多瞭解"
"為什麼要讓感情變成傷人的宿醉"
大学生当時、大好きだった台湾の歌手、林慧萍の「愛情與宿醉」だ。
当時の私は彼女の演唱會へ行ったり、所属するレコード会社を訪ねたりしていた。
そしてそうした縁から台湾へ行くたびに台湾の芸能雑誌社の女社長に可愛がられ、雑誌社へ出入りするようになっていた。
そう、林慧萍は基隆の出身だった。
大学を卒業したら、台湾歌手の追っかけも卒業してしまった。
彼女の歌を聴くのは何十年ぶりだろうか、懐かしい。
伸びやかで、透き通るような歌声に涙が出てきてしまった。
その後、所属するレコード会社を変えたり、渡米したとか聞いたけれど、今は何をしているのだろうか?

歩き疲れたので24時間営業のマクドナルドへ入る。
マクドナルドなんかに入ることなどめったにない。
しかし、この手のファーストフードの店なら、気兼ねなく夜明かしできそうだと思った。
フィレオフィッシュにポテトとオレンジジュースのセットを注文して2階席へ。

薄暗い2階席には、予想外ながら年寄りばかりがいた。
なんでこんな時間にマクドナルドに老人たちがいるのだろう。
テーブルにうつ伏せになって寝ている人もいる。
身なりも良くない。
ふだん路上生活をしている老人たちだろうか?
私が窓際の席に着いたらば、初老の女性が近づいてきて、ハンバーガーと一緒にトレーに載っている領収書をくれないかと言う。
台湾の領収書は宝くじを兼ねているので、それで人の領収書なんかを欲しがるのだろう。
私も終夜営業のハンバーガー屋で夜明けを待っているのだから、同類のようなものだ。

まだ明るくなるには少し時間がかかりそうだけど、午前5時に駅へ向かって歩き出す。
始発電車に乗って、台北を素通りして、空港に近い桃園まで1時間半ほど。
通勤電車ながら、今日は日曜日の早朝と言うこともあり、通勤客の姿はない。
硬いシートでウトウトする。

午前5時の基隆駅
[基隆駅の午前5時 もうじき始発電車が動き出す]

桃園の駅で降りる。
前回も5月に桃園の駅で夜行列車を降りた時、駅周辺にものすごくたくさんのフィリピン人がいて驚いたものだが、今日はフィリピン人ではなくタイ人である。
それもあまり行儀のいいタイ人ではない。
服装も乱れているし、手にはウイスキーの飲みかけボトルをぶら下げている。
私も人のこと言える立場にはないけれど、国王の服喪期間中と言うのに、桃園のタイ人は気にもかけていないのだろうか?

駅前からバスに乗り、いつもの通り空港へ行く前に途中の南崁の街で下車する。
この町で朝食を食べ、もし市場が開いていたら、台湾うどんでも土産に買って帰ろうと思っていたが、まだ朝早いためか、捜し歩いた方向が間違っていたのか、台湾うどんを売っている店は見当たらなかった。
朝食には小籠包の店が店開きして、蒸篭から湯気を上げていたので、その店に飛び込む。
ここの小籠包は蒸篭に8個入って、いわゆる小籠湯包と言うやつで、薄皮で餡がジューシーなタイプだった。

再びバスに乗って桃園空港へ着き、ノックスクートのチェックインカウンターへ並ぶ、。
長い行列の後ろに回る。
隣のカウンターはピーチの日本行きで、そちらも長い行列になっている。
辛抱強く順番を待つ。
こんなに並んでいるようだと、満席かな、まぁバンコクから来る時みたいなラッキーばかりじゃないから仕方ない。
30分ほどで順番が回って来た。
「ご希望は窓側ですか、通路側ですか」と聞かれる。
「どちらでもいいから、とにかく前の方でお願いします」と頼んだが、
出てきた搭乗券は35Hとなっている。
できればもっと前方の席が欲しいのだがと再度頼んだら、
「通路でも窓でもない、真ん中の席しかないですよ」と言われる。
結構、真ん中だって前方ならと伝えたところ32Jと言う席に変わった。

黒い服を着たタイ人ばかりの搭乗口からバンコク行きのノックスクートに乗り込むと、私の席は足元の広い黄色いシートであった。
しかも、ほぼ満席であるにもかかわらず、私の隣の通路側は空席であった。
おかげで、帰りの機内も寒かったが、足を延ばして寝ていくことができた。

台北の搭乗口でも黒衣の乗客
[台北の空港 バンコク行きノックスクートの搭乗ゲートはやはり黒衣の乗客でいっぱい]

タイ時間の12時にドンムアン空港へ到着。
ありったけの服を着こんだままターミナルの外へ出たら、暑くて汗が噴き出してきた。



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台湾・合歓山越え 3
11月05日 土曜日

携帯電話の目覚ましで朝5時半に起きる。
今日は今回の旅行目的である合歓山越えをする。
霧社を朝8時に出るバスで翠峰まで行くためには、温泉を7時のバスに乗らなくてはならない。
宿の方へ昨晩のうちに朝食は6時半に食べたいとお願いをしておいた。

目を覚ましてまず一番に部屋の風呂に入る。
せっかく温泉に来ているのだし、早起きしてでも朝風呂をしたい。
バスタブに溢れるほど温泉を溜めて入浴。
まだ足の筋肉痛は太ももを中心に痛むが、なんとかなるだろう。
こうして朝風呂に浸かってしまうと、なんだかこれから山なんか登らないで、今日1日ダラダラと過ごしたくなってきてしまう。

入浴後、蘆山温泉の源泉が湧く場所(温泉頭)まで歩いてみる。
まだ夜が明けたばかりと言うこともあって、渓谷沿いの歩道には人影が全くなかった。
途中の茶店もまだ店開きしていない。

温泉頭への道
[まだ朝早い温泉頭への道]

6時半に朝食会場に入ると、お粥ではなくトーストに卵焼きを挟んだ台湾風のホットサンドウィッチが用意されていた。
これなら食べやすい。
コーヒーも豆乳もある。
また蒸篭で蒸したての饅頭も出てきたので頂戴する。
他におかずはないが、時間もない。

吊り橋を渡ってバス停へ急ぐ。
7時ちょうどにやって来たバスは小さなマイクロバス。
どうやらこのバス、昨日行った静観部落から来たバスらしい。
1日1便だけのバスの先客は、ジャージ姿の中学生くらいの子供たちが半分くらいと、あとは老人たちであった。
今日は土曜日だから学校は休みのはずだけど、課外活動でもあるのだろうか。
ほぼ満席で、私は最後尾の席を詰めてもらって腰かけた。

静観からのバス
[静観部落から来た路線バス]

このバスで霧社まで行くと、翠峰へ行くバスまで30分以上の待ち時間がある。
もし温泉宿で朝食を食べる時間がなかったら、乗り継ぎ時間を利用して霧社の街で朝食でも食べようかと思っていたが、その必要がなくなっている。
時間があるし、霧社でバス待ちをするよりも、途中の春陽村でバスを降りて、そのまま山に2キロほど登れば仁愛中学校近くへ出れるはずである。
仁愛中学は昭和6年4月に発生した第二霧社事件の現場、ロードフ社跡に建てられたこの地域にあるたったひとつの中学校である。
せっかくなので、この中学校も見ておきたい。

バスの中学生たちは、頂春陽と言うバス停でバスを降りて行った。
私はその次の春陽バス停でバスを降りる。
春陽は昔のホーゴー社のあった場所で、碧華荘の女主人オビンダダオ(高山初子=高彩雲)さんの出身地でもあり、このあたりでは最も大きな部落であったそうだ。
しかし、霧社事件後に住民は川中島(現:清流村)へ強制移住させられ、住民が去った土地は鎮圧側に協力したタウツァの人たちに分け与えられている。
そのため現在この地に住んでいる人たちは、もともとのホーゴー社の人たちではなく、タウツゥから移住してきた人たちである。
中華民国の歴史認識として、霧社事件とは日本の支配に抵抗した山地住民の抗日義挙であるとされて来ている。
そのための抗日記念碑も建てられている。
しかし、今この土地に住んでいる人たちは、抗日で蜂起した人たちではない。
その反対に蜂起を鎮圧した人たちである。
霧社事件後から終戦まで、日本の植民地化にあってこれらの人たちは、事件鎮圧に活躍した功労者とされたが、中華民国の統治になってからはさぞ肩身の狭い思いをされてきたことであろう。
蜂起に参加したしないにかかわらず、山岳現住民の人たちは文化や価値観の否定、討伐や圧政など、多大な苦労をしてきたはずであり、戦後も差別に苦しみ、しかも住民間での事件の和解も政治的理由で困難な時代が長く続いてきた。
昨日見かけた小学校での活動のように山地原住民の文化継承をしていくうちに、きっと住民間での和解も生まれるのではないだろうか。

三毛豚
[春陽のバス停前の雑貨屋で見かけた3色の豚、売り物なのだろうか?]

春陽村の小学校の横を過ぎて山道を登る。
急な坂道の連続だけれど、のんびり歩いてはいられない。
休まずに進んで、30分かからずに仁愛中学校前へ出る。
大きくて立派な中学校である。
霧社事件後に投降してきた霧社周辺の山地民を収容していたのが、この中学校がある場所で、当時はロードフ社があった場所である。
この収容所は事件から半年後に、タウツァの部落の人たちに襲撃され、収容者の多くが殺害されるという第二霧社事件があった場所である。
事件当時は、タウツァと霧社周辺側の蜂起住民間の対立が原因とされてきたが、タウツァ駐在所に勤務していた小島源治氏が戦後になって、日本側官憲よりタウツァ住民に襲撃をそそのかすようなところがあったと証言している。
オビンダダオさんも、この収容所で襲撃を受けて、九死に一生を得て逃げ延びた一人であった。

仁愛中学校
[ロードフ収容所のあった場所に立つ仁愛中学校]

中学校前のバス停で翠峰行きのバスヘを待つ。
霧社を8時に出たバスなら、数分でここまで来るはずだから、8時ちょうどにバス停に立つ。
しかし、8時を5分過ぎても、10分過ぎてもバスは来ない。
ひょっとして、予定時刻よりも早くバスは来てしまっていたのだろうか?
このあたりのバスならありえそうな話である。
8時のバスに乗れないと、次の翠峰行きバスまで3時間以上待たなくてはならない。
そうなると今回の計画が挫折してしまう。
不安に駆られているうちに、8時15分過ぎになってバスはやって来た。
大きな観光バスのようなバスで、こちらもほぼ満席であった。

バスは人気観光地の清境農場でほとんどの乗客を降ろし、終点の翠峰まで乗っていたのは、私のほかにもう一人中年の女性だけであった。
バスを降りてすぐに、後ろから合歓山行きのマイクロバスがやって来た。
合歓山行きのバスは時刻表によると日曜祝日のみの運行とあったけれど、土曜日の今日も走っているらしい。
私と一緒にバスを降りた女性は、マイクロバスに乗り換えて行ってしまった。
マイクロバスに乗れば30分ほどで合歓山へ着けるだろうけれど、私は歩きたかったし、歩くのが今回の目的。
前回5月には翠峰まで歩いてきている。
前回の続きの部分として今回は翠峰から歩き始めて合歓山を越えて大禹嶺まで歩けば、いちおう台湾中央山脈徒歩横断ということにしたいと思っている。
翠峰から大禹嶺まで24キロ。標高差にして1000メートルくらい登る。

翠峰バス停
[翠峰のバス停 ここまで乗って来たバスはここで折り返して山を下る]

翠峰から歩き始めてしばらくは森の中の道で、視界がちょっとも開けない。
ときどき左側に少し木立の切れ目があって、山の下の方を見ると、旧白狗・マシトバオンの集落が見える。
とんでもない奥地のはずだけれど、山の斜面を開墾するなど随分と大きな集落になっているようだ。
この部落もいつか機会があれば訪れてみたい。

白狗・マシトバオンの集落
[眼下に白狗・マシトバオンの集落が見える]

そのうち道の右側が開けてきて、下界が良く見張らせる。
昨日歩いた静観の部落も眼下に小さく見える。
静観から翠峰あたりまで急な斜面にも随分とたくさん耕作地がある。
耕作地への灌漑用だろうか、道路沿いには何本もの塩ビパイプの給水管が走っている。
天気も良く、週末の土曜日と言うこともあって、行楽の車が多い。
ベンツやBMWなどの高級車が目立つ。
ピカピカのレクサスもある。
台湾の人たちも随分と高級な車に乗るようになったものだ。
いや、もともと台湾は中小企業が多く、そうした社長さんたちが好んで高級車に乗っていたものだが、それにしても、今日のこの道は高級車だらけだ。
昔の台湾にはトヨタ車はなくて、日本車は日産の天下であったけれど、今は日産よりトヨタが目立つ。
それに以前は台湾メーカーの裕隆汽車の車が多かったが、今は台湾の国産車はあんまり見かけなくなっている。

濁水溪側の眺め
[濁水溪側も随分と耕作されている]

バイクも多い。
それも大型バイクがほとんどだ。
ハーレーもある。
これも以前なら125ccくらいの小型二輪しか認められていなくて、大型バイクなど警察用くらいしかなかったのに、この山道のコーナーを攻めてくるのは排気量の大きなバイクが中心。
ときどきスクーターなんかもご愛敬で登ってくる。

静観部落
[昨日歩いてきた静観部落 (10倍ズーム)]

これらの化石燃料で走る連中にき同じ山道を登っていてもちっとも共感を覚えないが、自転車で登ってくるサイクリストには大いに共感が湧く。
ほとんど連続10%の急こう配を自転車で登ろうというのだから、徒歩の私なんかよりずっと大変なはずだ。
変速ギアをどんなに落としても、ちょっとでもペダルにかける力を抜いたらすぐによろけてしまうだろう。
後ろからきて追い越していくサイクリストたちから「加油(がんばれ)」とか「早安(おはよう)」などと声がかかる。
道端にしゃがみ込んで休憩していたり、自転車を押して登っているようなサイクリストもいて、私の方から「加油」と声をかける。

素晴らしい山岳道路
[天気もいいし最高のハイキング]

鳶峰と言うところに休憩所のような場所があり、食べ物などを売っている。
駐車場もあって車もたくさん止まっているが、トイレだけ使わせてもらって先へ急ぐ。
ここまで翠峰から6キロ、全体の4分の1来たわけで、1時間半かかっている。
このペースなら大禹嶺まであと4時間半で行けそうだ。

紅葉
[葉っぱの中には少し紅葉しているものもある]

鳶峰から先は、まったく遮蔽物がないに等しいくらい見晴らしがいい。
30年前に眺めて感動した景色に似てきた。

コーナーから振り返ってみる
[後ろを振り返ってみると、霞んだ山々が下の方に見える]

さらに歩くこと1時間少々。
11時半過ぎに昆陽という地点に到達。
ここも広い駐車場がある。
この昆陽からの眺めこそ私がもう一度眺めてみたいと思っていた景色であった。
木の生えていない、笹のような茂みに覆われた山肌に、一本の筋を引いたように道が伸びている。
それも少し緩やかに右上がりの道である。
緩やかに見えても、歩けばたぶんなかなかの坂道であろう。
道の先にはゴツゴツとした岩肌の奇萊峰が見える。

昆陽からの先の風景
[昆陽から先、山肌に一本筋を入れたように道が伸びている]

奇萊峰
[一本道の先には岩肌を見せる奇萊峰]

昆陽で一息ついてからまた先へ進む。
今ほど眺めた一筋の線をひたすら登る。
ところどころで舗装道路から外れて、山の頂に続く登山道のようなものがあり、ハイカーの姿が見える。
私も登ってみたい気持ちはあるのだが、今回は時間がない。
それにもうかなり足がおかしくなってきており、関節が痛んで膝が曲がらなくなってきている。
太ももの筋肉痛もあり、とてもではないが舗装道路以外歩けそうにない。
たぶん階段ですら手すりがなければ昇れないだろう。
こんな状態でようやく全行程の半分だから、まだ先は長い。

ハイカー
[道路脇から山へ入るハイカーの姿が見られる]

昆陽から1時間近く歩いた12時半に一筋線の終点に到達。
ここがこの道の最高地点。
つまり台湾山脈の分水嶺に当たる場所で、武嶺と名付けられている。
ここにも駐車場があり、車やバイクで上って来た人たちが「武嶺」の表示板の前で記念撮影をしている。
私も記念写真を撮ってみる。
標高が3275メートルとなっている。
天気が良く、直射日光がとても強いので、額や腕など日焼けしてヒリヒリする。
ここまで私は半袖のポロシャツで汗だくになりながら登ってきたが、車で楽々上ってきた人たちには、さすがにこの高度での気温は寒く感じるらしく、みんなしっかり防寒着を着こんでまるで冬山のようだ。
私はなんだか少し優越感を感じた。
何に対して優越感を感じているのかわからないが、ここまで歩いて登ったぞと言う自己満足からきているのかもしれない。

武嶺
[標高3275メートルの武嶺 防寒着の人でいっぱい]

セルフィー
[私もセルフィーで一枚]

武嶺を過ぎると、山の裏側になり、下り坂が多くなる。
そうすると汗もかかなくなり、日陰だと少し肌寒くすら感じられるようになった。
武嶺から下ること約30分ほどで合歓山のレストハウスに到着。
時刻は午後1時。
何か食べようかとレストハウスの中に入ったが、あまり食べ物がない。
それにやたらと高い。
コーヒーが150元などとなっている。
レストハウスの外ではカップラーメンを食べている人もあり、私もカップラーメンが食べたくなったが、レストハウスでは売っておらず、どうやら車で来ている人が持参してきたものらしい。

合歓山の展望台
[レストハウス前の展望台 正面が奇萊峰]

レストハウスから花蓮港側を見ると、山の間から白い雲が下界を埋め尽くしているのが見える。
そう、天気予報では花蓮港側はずっと雨であったはずだから、こんなに厚く雲がかかっているのだろう。
白い雲はまだずっと下にあるようだから、今回への徒歩での終点である大禹嶺までなら雨雲の下に入らずに済みそうに思える。
このレストハウスではWiFiに接続できたので、アパートで留守番しているネコの様子をネットで確認してみる。

花蓮側には雲海が広がっている
[レストハウス越しに花蓮港側を見ると山の下に白い雲が厚く広がっていた]

留守番中のネコの様子
[留守番のネコはベッドの枕もとで寝ている]

合歓山のレストハウスから大禹嶺まではあと7~8キロほど、2時間もあればたどり着けそうだ。
少し寒くなったので長袖のシャツを着て先へ進む。
下り坂でもやはり足は痛い。
昨日痛かった足の指は、たぶん爪が死んでしまったのか、今日はもう痛いという感覚もなくなっている。
山脈の西側南投県から東側の花蓮県に入った標識が出ている。

前回5月にバスでこのあたりを走った時は、深い霧がかかっており、その霧の切れ目から、山肌にたくさんのシャクナゲが白い花を咲かせていて、とても幻想的であった。
しかし今はシャクナゲの季節ではないからか、山に白い花は咲いていなかった。
そのかわり、道路脇に小さく撫子の花を見かけた。
山を下ること約1時間ほどで合歓山管理站と言うレストハウスのある場所まで来た。
ここまで来る途中で、豊原客運の梨山行きバスに追い越された。
もし途中で歩けなくなったら、このバスに乗って大禹嶺へ出ようと考えていたが、こうしてバスに抜き去られてしまっては何があっても歩くしかない。
お腹もすいていたので合歓山管理站の売店で肉まんを一つ買う。
25元。
やはりちょっと下界より値段が高いようだ。
肉まんを頬張りながら、先へ進む。
山を下って標高が下がって来たので、白い雨雲までの距離がだんだん近づいてきた。
ここからはあと4キロ少々、1時間ほど歩けば、3時半頃にはで大禹嶺へ到着できそうだ。
少し急ぎ足になって、また先へ進む。

雲が近づいてきた
[山を下るにつれて雲海との距離が近づいてくる]

左へ行ったら梨山、右へ行ったら天祥・太魯閣と書かれた道路標識か出てくる。
この別れ道が大禹嶺だし、ようやくたどり着いたようだ。
既に歩いた距離も24キロになっている。
やれやれと思ったが、しかしなかなか大禹嶺にならない。
10分ほど歩いてようやく見覚えのある大禹嶺の交差点に出た。
結局、道路脇の里程標から計算すると翠峰から大禹嶺までは24.7キロだったようだ。
6時間半少々でなんとか歩き通した。

大禹嶺の交差点を示す標識
[実際の交差点はこの標識からさらに700メートルも先にあった]

大禹嶺でたった一軒かと思われる雑貨屋に入り、カップラーメンを買う。
30元也。
店の中ではストーブが焚かれ、ストーブにかけたヤカンでお湯を入れてもらう。
ストーブの周りには何人かのハイカーがいて、これから合歓山まで車で上って、今晩は合歓山に泊まるのだそうだ。

大禹嶺の雑貨屋
[大禹嶺バス停前の雑貨屋]

牛肉湯麺味のカップラーメン
[ストーブのヤカンでお湯を入れてもらったカップラーメン 具は乾燥ネギだけか]

雑貨屋前にバス停があり大禹嶺から花蓮へ向かうバスは4時と表示されている。
店の前で具のほとんど入っていない赤いスープの牛肉湯麺フレーバーのカップラーメンを啜る。
ネコ小屋があって、ネコが丸くなって寝ていた。
そういえば、前回5月に来た時も大禹嶺でネコを見かけたが、そのときのネコだろうか?

大禹嶺のネコ
[大禹嶺のネコもお昼寝中]

4時5分前にバス停前に立つ。
これも1日一本のバスだから、乗り遅れたら大変。
明日の朝の飛行機で帰るのだから、、、。

4時になる。
まだバスが来ない。
朝の仁愛中学校前と同じでバスは遅れているのだろうか?

4時を10分過ぎる。
渋滞など考えられない、ほとんど車の往来のない道なのにどうしたのだろう。
台湾ではネットで路線バスの位置情報を確認できるようになっているが、残念ながら大禹嶺ではWiFi接続ができない。

4時15分、バス停にいつまでも立っている私に気づいた合歓山に泊まるというハイカーたちから、「一緒に合歓山へ行かないか、そこからなら下山しやすいと思うよ」と声をかけられたが、明日の朝には台北に行かなくてはならないことを伝え遠慮する。
ハイカーたちは何台かの車に分乗して、私がさっき歩いてきた道へと走り去った。

大禹嶺のバス停
[バスを待つうちに陽が陰って来た]

陽が陰ってきたら、急速に寒くなってきた。
バスは来ないし、心細くなってくる。
いやはや困ったものだ。
雑貨屋の女主人も心配してくれて、「バスはどうしたんだろね、でも心配いらないよ、山を下りる車が通ったら止めて、乗せてくれるように頼んであげるから」と言ってくれた。
女主人とバス停で待つこと10分ほど、4時半過ぎに一台のセダンが走って来た。
女主人は道の真ん中に飛び出し、大きく手を振って車を止めた。
「外国人の友達を花蓮まで乗せて行ってくれないか」と若いドライバーに交渉してくれ、私は車の後部座席に招じ入れられた。
男子大学生の二人組で、「スピード出すけど車酔いしないか?」と声をかけられた。
大丈夫と答えたら、くねくねの狭い山道をタイヤを軋ませながら猛スピードで走る。
後部座席の私は、筋肉痛の足を踏ん張り、両手をシードに突き立てて上半身を支えるも、カーブのたびごとに身体が横倒しになりそうであった。
そんなスピードでヘアピンカーブの連続する山道を下っているのだが、上には上がいるもので、後ろから追いかけてきたポルシェに抜かされてしまった。

日が暮れて、ヘッドライトの明かりを頼りしながらでもスピードを落とすことなく、右に左にとせわしなくハンドルを回している。
ドランバーもはじめは助手席の友達と何やら話していたが、途中で助手席の友人は眠ってしまったようで、カーブのたびごとに頭が右に左にとおおきくかしいだ。

走り始めて1時間半で天祥を過ぎて、太魯閣峡谷に入る。
少し道幅も広がり、トンネルも多くなってますますスピードを上げて快走する。
ハンドルを握っている学生さんから「花蓮のどこまで行くんですか? 実は花蓮の街の地理がよくわからないんだ」と言われる。
「花蓮の街の手前、新城から汽車に乗るつもりなんで、新城近くで降ろしてください」とお願いする。
近くで降ろしてくれるどころか、ちゃんと私を新城の駅まで送ってくれた。
時刻は7時を回っている。
2時間半もの距離を乗せてもらって、バス代程度の金額では申し訳なと思いつつ、「ガソリン代にもなりませんが」と100元札数枚をお礼の言葉と一緒に手渡そうとしたが、頑として受け取ってくれなかった。

ヒッチハイクでたどり着いた新城駅
[デザイナーズ駅舎と言った感じの新城駅]

続く

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