■かれんだー■
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28    
<<前月 2018年02月 次月>>
■直近記事 20 ■
■コメント■
■カテゴリー■
■アーカイブ■
■2001-2004年の記録■
■ぶろぐ主宰者■
■ぷろぐらむ拝借■
BLOGNPLUS(ぶろぐん+)
■その他■
 
■あどみん■
ADMIN ID:
ADMIN PW:
 

台湾・合歓山越え 2
11月04日 金曜日

朝6時前に起きだす。
まだ外は暗い。
昨晩は夜中に何度か目を覚ましたりしたが、早くからベッドに入っていたので睡眠は足りているはず。
しかし、それでもなんだかまだ眠い。
それに、昨晩久々に山道を歩いたためか、さっそく筋肉痛になっている。

朝食は7時からと言われていたが、6時半には早々と団体さんたちが盛大に朝食を食べている。
中にはもう食べ終わっている人もいる。
円卓の上には食べ散らかしも散乱している。
私は奥の方に空いているテーブルを見つけて座る。

朝食はブッフェ式になっていた。
野菜炒めやスープ、豆干の煮つけ、魯肉などが並んでいる。
しかし、主食であるところの、お粥がない。
どうも食べつくされてしまっているらしい。
蒸篭の中に饅頭もない。
食堂の係が新しい饅頭の入った蒸篭を運んでくるのだが、蒸し器にセットしたとたんに、団体客が大皿に饅頭を10個くらい山積みしてさらっていくものだから、あっという間になくなってしまう。
コーヒーや豆乳も魔法瓶に詰めていくので、あれよ、あれよと、見ている間にサーバーが空になって行く。
この団体さんたちは本当に台湾の人たちなのだろうか、それとも噂に聞く中国大陸からきている人たちなのだろうか、なんとなく後者のような気がしてくる。

トーストだけは、トースターが1台しかないので、ガバっと持っていかれることなく、焼き上がるのさえ待てばちゃんとありつける。
マーガリンとジャムとピーナツバターがあった。
コーンスープとトーストをかじっているうちに、団体客の大半が食べ終わって出て行った。

7時になる頃には、朝食会場も静かになり、昨晩の3人家族も朝食会場に入って来た。
お粥や饅頭などもちゃんと補充され、私もお腹いっぱい食べることができた。
刻み干し大根の炒め煮が、甘辛で歯触りも良くご飯が進んだ。
食い意地が張っていてブッフェだとついつい食べ過ぎてしまう。
とても団体客のことなどどうこう言えなくなるくらいよく食べた。

部屋に戻って部屋の風呂にお湯を張る。
大浴場は午後からだけれど、部屋の風呂は24時間温泉いつでもお湯が出る。
部屋の風呂は大きめの洋式バスタブながら、洗い場には白木の簀の子が敷いてあり、なんとなく和風の情緒もある。
それに部屋の風呂だと自分で温度調節もできるのも便利だ。
これで湯船に浸かりながら、渓谷を見下ろせるような構造だったらもっと良いのだが、窓は少し高い位置にあり、渓谷を流れる急流の音は聞こえてきても、立ち上がらないと窓から外が見えない。

風呂から上がったらまた眠くなってしまい、裸のままベッド潜り込んでまた1時間ほどウトウトしてしまう。

抜けるような青空
[今朝は素晴らしい青空が広がっていた。ちょっと宇宙を感じさせるくらい青い空だ]

9時から今日も山歩き。
今日は蘆山温泉の上にある旧富士部落(ボアルン社)と呼ばれた蘆山の集落から、平静(タウツア)の部落、さらにできればその奥の静観(トロック)の部落まで歩いてみたいと思っている。
タウツアとトロックは霧社事件当時、蜂起側にはつかず、日本の軍警に協力して鎮圧に回った部落であり、碧華荘の主人、高永清(中山清=ピホワリス)氏がタウツウ駐在所の小島源治巡査に匿われた部落でもある。
30年前は警察の外事処から許可を取り付けなくては部落に入れなかったのだが、現在はもうそのような規制もなくなっている。

富士部落
[今は蘆山と呼ばれる旧富士部落、もともとはボアルン社のあった場所]

温泉から1時間半歩いて富士部落。
30年前は車の走る道とは別に、急な山の斜面を登る獣道のようなものがあり、それを使えば1時間もかからず登れたような記憶があるが、もうそんな獣道を使う人もいなくなったのか、どこに道があったのかもわからなくなってしまっており、車の走る舗装道路をクネクネと回りながら登っていく。
前方を大きなサルが道を渡るのを見かけた。
道沿いの森の梢にはリスもたくさんいた。
舗道には車に轢かれたらしい蛇の干からびた死骸もあるこちにあった。

昨日の農道と同じように、この道沿いでも果樹の栽培が盛んなようで、袋がけされた柿の枝が青空に映えている。

山の斜面で果樹栽培
[果実に被せた紙袋の白さが青空に輝いて見える]

朝食を食べ過ぎたのか、富士部落で便意をもよおして、教会のトイレを使わせてもらう。
朝食の青菜炒めか魯肉にでもニンニクが入っていたのか、ニンニクによる腹下しのようであった。
台湾の食べ物は美味しいけど、注意しないと結構ニンニクが入っていて、私はニンニクでお腹を壊してしまいやすい。

富士部落を過ぎると、温泉とは山を背にして反対側へ回り込み、濁水溪側の斜面に沿った道になる。
もっとも、濁水溪は谷底を流れているわけで、私の歩く道の数百メートルも下に位置する。
濁水溪を見下ろしながら歩くこと20分ほどで、花蓮港へと続く能高越えのルートとの分岐点に差しかかる。
30年前、友人と二人でこのルートを歩いて花蓮港まで行ったのである。
できることなら、もう一度挑戦してみたいルートである。

能高越え分岐点
[能高越えルートとの分岐点 右へ行けば山脈を越えて花蓮港]

あの時は、天池と言う台湾山脈の分水嶺までは順調に登り、天池にあった昔の駐在所と思われる無人の山小屋に泊まった。
その際、麓の眉渓の部隊に所属する若い兵士が見回りに来た。
私たちは入山許可も持たずに、登録もせずに統制地域に入っており、戒厳令下の当時の台湾では身柄を拘束されてもおかしくないはずなのだが、若い兵士は別にいぶかることもなく、しばらく休憩して山を下りて行った。
その翌日から花蓮港側へ山を下り始めたのだが、道はがけ崩れなどで、酷いことになっていた。おまけに雨まで降り始めたりして、暗くなり始めても泊まれそうなところへたどり着かない。
もともと野宿覚悟、シェラフ持参で来ているのだが、テントなどはなく雨にはほとほと参ってしまった。
崖下の少しくぼんだ場所で、傘をさしたまま夜明かしをする羽目となった。
3日目も雨の中を歩く。
途中にトンネルがあり、トンネル内は真っ暗であった。
ロウソクは持っているが懐中電灯はない。
ロウソクをかざして歩こうとするが、余計に前が見えなくなってしまう。
そこで鍋の中にロウソクを立てて、カンテラのように工夫してみた。
これだとちゃんと前を照らせたので無事にトンネルを抜けることができた。
その日の午前中に盤石と言うところにある台湾電力の保線所に出た。
ここには送電線の保線をする台湾電力の社員が泊まり込んでいて、私たち二人はここへ避難することができた。
年配の台電社員は日本語が達者で、意思疎通にも不自由しなかった。
雨は降り続き、宿舎の中で台電社員たちと一緒にビデオを見たりして過ごした。
ビデオは「日本海大海戦」と言う日本映画であった。
宿舎に泊めてもらい、食事も食べさせてもらい、雨が上がったところで台電社員たちが運転するバイクの後ろに乗せてもらって山を下り、麓の村まで送ってもらった。
その村は鯉魚潭と言うところで、そこの駐在所で「御用」となってしまった。
が、そこの駐在さんも気のいい人で、私たち二人を身柄拘束をしたまま食堂に連行した。
駐在さんは食堂でビール瓶にピンク色のラベルを貼った米酒を注文し、丼になみなみと注ぐ。
「この丼の米酒を飲み干したらば無罪放免にしてやる」と言う。
一緒に身柄拘束されている友人の吉村君は全くの下戸である。
そこで私が丼酒を2杯飲むことで、急場をしのぐことができた。
あとはそして、ここの名物だとして川エビの酒蒸しなどを魚に米酒の饗宴となった。
戒厳令下の台湾でも、台湾の人たちは実におおらかであった。

花蓮港へ続く能高越えルートと別れ、左手に進む。
急な斜面にへばりつくような道だが、こんな急な斜面もところどころ農地になっており、果樹やお茶が栽培されている。
途中に大規模な山崩れがあった。
何百メートルも上の方から、幅百メートル以上で崩れ、何百メートル下の谷底まで山肌がむき出しになっている。

山崩れ
[行く手に大きな山崩れが見える]

崩れてからもうだいぶ月日が経っているようで、大掛かりな復旧工事が行われている。
たぶん大きなシェルターででも道全体を覆うのだろう。

工事現場
[山崩れの場所では鉄筋コンクリートでシェルターを作っている]

山崩れ場所を過ぎてしばらく進むと、平静(タウツァ)の部落が見えてきた。
想像していたよりも大きな集落だ。

平静部落
[平静(タウツァ)の部落 大きな教会の建物も見える]

静観(トロック)へと続く道から、濁水溪の谷の方へ下ったところに学校も見える。
学校の方へと急な坂道を下る。
本当に急な坂道で、階段にしてもおかしくないくらいだ。
集落の手前には蕃社と呼ばれていたころの穀物庫や見張り小屋が復元されていた。

小学校の隣は駐在所になっていた。
霧社事件当時に小島源治巡査がピホワリス少年を保護したのはこのあたりだったのだろうか。
ここまで温泉から3時間かかった。
蜂起側ホーゴー社出身のピホワリス少年は霧社事件当日、この部落出身の友人に誘われて、霧社からここまで歩いてきている。
霧社は温泉よりさらに2時間ほど歩かなくてはならないから、霧社からここまで徒歩で5時間くらいかかったのではないだろうか。

平静駐在所
[平静部落の駐在所]

霧社事件をテーマにした台湾の長編映画「セデックバレ」のなかで、日本側に味方したタウツァ蕃の頭目ヤワイタイモが劇中ではトンバラ社頭目となっていた。
トンバラは先ほどの能高越えのルートをまだずっと先まで進んだところの地名で、霧社事件当時トンバラにも駐在所があり、焼き討ちに遭っている。
しかし、駐在所が焼き討ちに打っていながら、そのトンバラの頭目が日本側に味方しているというのは変な話だと思っていたのだが、今回この静観の部落に来て、私の誤解が解けた。
トンバラとは実は2か所にあり、一つは能高越えルート上にある現在「屯原」と呼ばれる場所で、ここには集落はない。
そして、もう一つが静観(タウツア)にあり「等巴拉」と呼ばれる場所で、現在の駐在所があるあたりである。
それであればヤワイタイモがトンバラの頭目であることで辻褄が合う。
そして、まさにここが小島巡査、ヤワイタイモ頭目、ピホワリス少年の壮絶なドラマの舞台であったわけだ。

平静部落地図
[平静部落周辺の案内図 タウツァ蕃(TODA部落)の中にトンバラ社があるのが分かった]

小学校の門をくぐって勝手に見学させてもらう。
ちょうどお昼時で、生徒たちもそろそろ給食の時間なのだろう。
小学校の中を見学して感心したのは、山地語教育に熱心であることだ。
壁には「一日一語」として山地語の単語がローマ字で書かれているし、さまざまな山地語があちこちに表示されている。
30年前、このあたりの山地原住民の子供たちは、学校で山地語を使うことを禁止されていた。
学校の授業では北京語だけだった。
それが戦後何十年も続いたわけだし、戦前も学校では日本語を使うことが強制されていたのだから、山地語を何世代にもわたって、教えられてこない言葉になっていた。
それでも、30年前の年配者たちは、中国語は話せなくとも日本語と山地語は話せた。
当時私と同世代の山地原住民の若者は、日本語も山地語も話せず、北京語と台湾語だけであった。
その世代の山地原住民が、すでに親の世代になっているのだから、家庭内で山地語が話される機会も減っていただろう。
いまから山地語を学校教育の一つとして教えたとして、どこまで生活の言葉として山地語が伝承されるかわからないが、しかしようやく山の人たちの言葉や文化が尊重される時代になったようでとてもうれしい。

平静小学校
[平静の小学校 山地語や民族の文化を伝えようとしていた]

平静小学校校庭
[校舎にTODAとあるのはタウツア部落のことと思われる]

平静の集落からさらに先に進む。
この先の静観(トロック)へ向かって15分ほど歩いたところに、橋が架かっており、スマートフォンの地図を見ると「深堀瀧」とある。

深堀瀧
[スマートフォンの地図に示された深堀瀧]

橋の周辺に深堀瀧に関する説明はないし、滝そのものも音はすれども狭い谷に鬱蒼とした茂みが繁茂していて、まったく見えない。
が、この名前の深堀とは、領台初期に台湾の東西連絡路探索のために派遣された深堀大尉がタウツァ集落近くで山地民により殺害遭難しており、その場所を指しているのではないかと思われる。

深堀瀧の橋
[深堀瀧にかかる赤い橋 橋の名前を示す銘板は見当たらなかった]

静観の部落の手前に平和と平生と言う小さな集落があった。
山奥の僻地であり、日本なら廃屋の目立つような過疎集落になっていそうな場所なのだが、このあたりには過疎のイメージはあまりない。
豊かではなさそうだけれども、青壮年世代の山の人たちがちゃんと暮らしている。
日本では地方再生が叫ばれながら、過疎化がますます深刻化しているが、そうした問題を解決するヒントが台湾の山村にあるのかもしれない。、

水たまりのオタマジャクシ
[道端の水たまりには無数のオタマジャクシがいた 水が干上がる前にカエルになれるだろうか]

濁水渓と静観部落
[遠くに静観(トロック)の部落が見えてきた このトロックもタロコと呼ばれたりするので、花蓮港の太魯閣と同じ発音で紛らわしい]

静観の部落は周辺にいくつかの集落があるようだが、歩いてきた道の終点は小学校になっていた。
鉄筋コンクリート二階建ての立派な小学校である。
ここでも勝手に学校内を見学させてもらう。
平静の学校と同じように山地語の表示がたくさんある。

静観小学校
[静観部落の小学校 山奥だけど立派な校舎を持っている]

校舎に沿って歩いていたら若い先生に呼び止められた。
「今は授業中なので、見学でしたら、放課後にお願いできませんでしょうか」
日本で私のような挙動不審者が校内をうろついていたらすぐに警察へ通報されそうなのだが、ここの先生はやたら丁寧な物腰である。
先生のおっしゃることはごもっともなので、この小学校でもトイレをお借りして退散する。

静観部落のメインストリート
[静観部落のメインストリート]

この静観の部落にも路線バスが毎日一便だけ通っているらしく、バス停があった。
この部落を早朝に出発し、夕方遅くに戻ってくるバスのようだ。
車やバイクに乗れない人にとっては、大切な足なのだろう。
小さな部落なので、店などは雑貨屋くらいしかない。
診療所もあったが、お医者さんが定期的に巡回してきてくれる程度のようだ。

静観のバス停
[バスの時刻は欄外に記載 朝6:10発の一本きり]

時刻は午後2時になっている。
お昼の時間を過ぎているが、まだ空腹を覚えない。
それにこの部落まで山道を徒歩で4時間半も歩いてきている。
さすがにそろそろ足が痛くなってきているし、急いで戻らないと、宿の夕食時間に間に合わなくなってしまう。
バスに乗ろうにも明日の朝まで便がないのだから、歩くしかない。

帰り道は下り坂が多い。
登りより楽だろうと思っていたが、そうでもない。
足の爪が少し伸びていたようで、しかも急な下り坂の連続だから、足先に負担がかかる。
それも伸びた爪を通じて足の指が押される感じで、つま先が痛む。
膝もバカになってきてしまってるし、太ももの筋肉も突っ張っている。
情けないことに、すり足のような惨めな恰好で、トボトボと歩く。

帰り道は平静の部落にも立ち寄らず、素通りして先を急ぐ。
富士部落までたどり着けば、バス便があるかもしれない。
2時間ほど歩いて、山崩れの工事現場に差しかかったところ、後ろから走って来た乗用車が土ぼこりを巻き上げながら私の横で停車し、スルスルと窓が開いた。
「よかったら乗って行きなさいよ」
30歳前後の女性であった。
これは助かる。
まだ富士部落まででも1時間はかかりそうで、足は痛いし、いっそヒッチハイクでもしようかと思っていたところだった。
お言葉に甘えて車に乗り込む。

「さっきうちの学校に来ていたでしょう」
どうやら静観の小学校の先生らしい。
車内では中国語の讃美歌が流れている。
先生はこれから埔里の家へ向かうところなのだそうだ。
出身は静観の部落で、埔里にも家があり、週末は埔里で過ごすらしい。
部落には何もないから、なにするんでも埔里まで出ないと不便なのだそうだ。
さっきの小学校には生徒が60人ほどいるそうで、この中には幼稚園児も含まれているそうだ。
幼稚園は4年制で2歳からだそうだ。
つまり保育園のようなものかもしれない。
部落には中学校がないので、小学校を卒業したら、霧社か埔里の学校へ行かなくてはならないそうだ。
たぶん、このあたりの部落はどこでもそうだろから、寄宿舎などに入るのだろう。
まぁ一応バスでも通学はできないわけではなさそうだ。

歩けばまだ2時間半くらいかかるところを20分足らずで温泉の入り口まで運んでもらった。
先生にお礼を言って、温泉への道をあと1キロ少々歩く。
が、さっきよりもますます足が痛くなっている。
筋肉は完全にこわばり、ひざも曲がらない。
車の中で休んだのが良くなかったのかもしれない。
敗残兵のようにトボトボと温泉への道を下り、吊り橋をよろけながら渡る。

蘆山園ホテルにたどり着いたのは5時前。
急いで大浴場に向かう。
疲労と筋肉痛と関節痛には温泉が効きそうである。
だれもいない大きな温泉に浸かって、手足を伸ばし、腿やふくらはぎをお湯の中で良く揉み解す。
カチカチになっていた足の筋肉が次第に柔らかくなっていく。
お湯の中で膝の曲げ伸ばしもする。

やはり温泉ホテルに2連泊してよかった。
実は当初、今晩は霧社の町にある「霧桜大飯店」に泊まろうかと思っていた。
翌日は朝早く霧社から翠峰へ向かうバスに乗るつもりにしていたので、温泉より霧社に泊まった方が便利かと思っていた。
しかし、もし霧社に泊まって、こうして温泉に浸かることがなかったら、きっと足が痛くて明日の合歓山越えなどとてもできない相談になっただろう。

今晩は缶ビール2本をフロントで買って、夕食を食べながら飲む。
昨晩の残りの紹興酒もコップに一杯ほどあった。
夕食は昨晩とおんなじメニューが続くのではないかと思っていたが、さにあらず、ちゃんと昨晩とは違うおかずがプレートに載って来た。
ただ蒲鉾と生姜の細切りスープは一緒だった。
豪華なメニューではないが、安心して食べられる内容で、味付けも悪くなかった。
今夜は団体客もないようで、家族連れが数組いるだけだったので、静かで落ち着いた雰囲気だった。
紹興酒が血行をさらに良くしてくれるようで、もう足の痛みもなくなってきた。

蘆山園の夕食
[蘆山園の夕食 一人用はプレートに盛り付け]

続く

| http://www.chiangmaikk.com/blog/index.php?e=57 |
| | 06:04 PM | comments (0) | trackback (0) |
PAGE TOP ↑