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台湾・合歓山越え 3
11月05日 土曜日

携帯電話の目覚ましで朝5時半に起きる。
今日は今回の旅行目的である合歓山越えをする。
霧社を朝8時に出るバスで翠峰まで行くためには、温泉を7時のバスに乗らなくてはならない。
宿の方へ昨晩のうちに朝食は6時半に食べたいとお願いをしておいた。

目を覚ましてまず一番に部屋の風呂に入る。
せっかく温泉に来ているのだし、早起きしてでも朝風呂をしたい。
バスタブに溢れるほど温泉を溜めて入浴。
まだ足の筋肉痛は太ももを中心に痛むが、なんとかなるだろう。
こうして朝風呂に浸かってしまうと、なんだかこれから山なんか登らないで、今日1日ダラダラと過ごしたくなってきてしまう。

入浴後、蘆山温泉の源泉が湧く場所(温泉頭)まで歩いてみる。
まだ夜が明けたばかりと言うこともあって、渓谷沿いの歩道には人影が全くなかった。
途中の茶店もまだ店開きしていない。

温泉頭への道
[まだ朝早い温泉頭への道]

6時半に朝食会場に入ると、お粥ではなくトーストに卵焼きを挟んだ台湾風のホットサンドウィッチが用意されていた。
これなら食べやすい。
コーヒーも豆乳もある。
また蒸篭で蒸したての饅頭も出てきたので頂戴する。
他におかずはないが、時間もない。

吊り橋を渡ってバス停へ急ぐ。
7時ちょうどにやって来たバスは小さなマイクロバス。
どうやらこのバス、昨日行った静観部落から来たバスらしい。
1日1便だけのバスの先客は、ジャージ姿の中学生くらいの子供たちが半分くらいと、あとは老人たちであった。
今日は土曜日だから学校は休みのはずだけど、課外活動でもあるのだろうか。
ほぼ満席で、私は最後尾の席を詰めてもらって腰かけた。

静観からのバス
[静観部落から来た路線バス]

このバスで霧社まで行くと、翠峰へ行くバスまで30分以上の待ち時間がある。
もし温泉宿で朝食を食べる時間がなかったら、乗り継ぎ時間を利用して霧社の街で朝食でも食べようかと思っていたが、その必要がなくなっている。
時間があるし、霧社でバス待ちをするよりも、途中の春陽村でバスを降りて、そのまま山に2キロほど登れば仁愛中学校近くへ出れるはずである。
仁愛中学は昭和6年4月に発生した第二霧社事件の現場、ロードフ社跡に建てられたこの地域にあるたったひとつの中学校である。
せっかくなので、この中学校も見ておきたい。

バスの中学生たちは、頂春陽と言うバス停でバスを降りて行った。
私はその次の春陽バス停でバスを降りる。
春陽は昔のホーゴー社のあった場所で、碧華荘の女主人オビンダダオ(高山初子=高彩雲)さんの出身地でもあり、このあたりでは最も大きな部落であったそうだ。
しかし、霧社事件後に住民は川中島(現:清流村)へ強制移住させられ、住民が去った土地は鎮圧側に協力したタウツァの人たちに分け与えられている。
そのため現在この地に住んでいる人たちは、もともとのホーゴー社の人たちではなく、タウツゥから移住してきた人たちである。
中華民国の歴史認識として、霧社事件とは日本の支配に抵抗した山地住民の抗日義挙であるとされて来ている。
そのための抗日記念碑も建てられている。
しかし、今この土地に住んでいる人たちは、抗日で蜂起した人たちではない。
その反対に蜂起を鎮圧した人たちである。
霧社事件後から終戦まで、日本の植民地化にあってこれらの人たちは、事件鎮圧に活躍した功労者とされたが、中華民国の統治になってからはさぞ肩身の狭い思いをされてきたことであろう。
蜂起に参加したしないにかかわらず、山岳現住民の人たちは文化や価値観の否定、討伐や圧政など、多大な苦労をしてきたはずであり、戦後も差別に苦しみ、しかも住民間での事件の和解も政治的理由で困難な時代が長く続いてきた。
昨日見かけた小学校での活動のように山地原住民の文化継承をしていくうちに、きっと住民間での和解も生まれるのではないだろうか。

三毛豚
[春陽のバス停前の雑貨屋で見かけた3色の豚、売り物なのだろうか?]

春陽村の小学校の横を過ぎて山道を登る。
急な坂道の連続だけれど、のんびり歩いてはいられない。
休まずに進んで、30分かからずに仁愛中学校前へ出る。
大きくて立派な中学校である。
霧社事件後に投降してきた霧社周辺の山地民を収容していたのが、この中学校がある場所で、当時はロードフ社があった場所である。
この収容所は事件から半年後に、タウツァの部落の人たちに襲撃され、収容者の多くが殺害されるという第二霧社事件があった場所である。
事件当時は、タウツァと霧社周辺側の蜂起住民間の対立が原因とされてきたが、タウツァ駐在所に勤務していた小島源治氏が戦後になって、日本側官憲よりタウツァ住民に襲撃をそそのかすようなところがあったと証言している。
オビンダダオさんも、この収容所で襲撃を受けて、九死に一生を得て逃げ延びた一人であった。

仁愛中学校
[ロードフ収容所のあった場所に立つ仁愛中学校]

中学校前のバス停で翠峰行きのバスヘを待つ。
霧社を8時に出たバスなら、数分でここまで来るはずだから、8時ちょうどにバス停に立つ。
しかし、8時を5分過ぎても、10分過ぎてもバスは来ない。
ひょっとして、予定時刻よりも早くバスは来てしまっていたのだろうか?
このあたりのバスならありえそうな話である。
8時のバスに乗れないと、次の翠峰行きバスまで3時間以上待たなくてはならない。
そうなると今回の計画が挫折してしまう。
不安に駆られているうちに、8時15分過ぎになってバスはやって来た。
大きな観光バスのようなバスで、こちらもほぼ満席であった。

バスは人気観光地の清境農場でほとんどの乗客を降ろし、終点の翠峰まで乗っていたのは、私のほかにもう一人中年の女性だけであった。
バスを降りてすぐに、後ろから合歓山行きのマイクロバスがやって来た。
合歓山行きのバスは時刻表によると日曜祝日のみの運行とあったけれど、土曜日の今日も走っているらしい。
私と一緒にバスを降りた女性は、マイクロバスに乗り換えて行ってしまった。
マイクロバスに乗れば30分ほどで合歓山へ着けるだろうけれど、私は歩きたかったし、歩くのが今回の目的。
前回5月には翠峰まで歩いてきている。
前回の続きの部分として今回は翠峰から歩き始めて合歓山を越えて大禹嶺まで歩けば、いちおう台湾中央山脈徒歩横断ということにしたいと思っている。
翠峰から大禹嶺まで24キロ。標高差にして1000メートルくらい登る。

翠峰バス停
[翠峰のバス停 ここまで乗って来たバスはここで折り返して山を下る]

翠峰から歩き始めてしばらくは森の中の道で、視界がちょっとも開けない。
ときどき左側に少し木立の切れ目があって、山の下の方を見ると、旧白狗・マシトバオンの集落が見える。
とんでもない奥地のはずだけれど、山の斜面を開墾するなど随分と大きな集落になっているようだ。
この部落もいつか機会があれば訪れてみたい。

白狗・マシトバオンの集落
[眼下に白狗・マシトバオンの集落が見える]

そのうち道の右側が開けてきて、下界が良く見張らせる。
昨日歩いた静観の部落も眼下に小さく見える。
静観から翠峰あたりまで急な斜面にも随分とたくさん耕作地がある。
耕作地への灌漑用だろうか、道路沿いには何本もの塩ビパイプの給水管が走っている。
天気も良く、週末の土曜日と言うこともあって、行楽の車が多い。
ベンツやBMWなどの高級車が目立つ。
ピカピカのレクサスもある。
台湾の人たちも随分と高級な車に乗るようになったものだ。
いや、もともと台湾は中小企業が多く、そうした社長さんたちが好んで高級車に乗っていたものだが、それにしても、今日のこの道は高級車だらけだ。
昔の台湾にはトヨタ車はなくて、日本車は日産の天下であったけれど、今は日産よりトヨタが目立つ。
それに以前は台湾メーカーの裕隆汽車の車が多かったが、今は台湾の国産車はあんまり見かけなくなっている。

濁水溪側の眺め
[濁水溪側も随分と耕作されている]

バイクも多い。
それも大型バイクがほとんどだ。
ハーレーもある。
これも以前なら125ccくらいの小型二輪しか認められていなくて、大型バイクなど警察用くらいしかなかったのに、この山道のコーナーを攻めてくるのは排気量の大きなバイクが中心。
ときどきスクーターなんかもご愛敬で登ってくる。

静観部落
[昨日歩いてきた静観部落 (10倍ズーム)]

これらの化石燃料で走る連中にき同じ山道を登っていてもちっとも共感を覚えないが、自転車で登ってくるサイクリストには大いに共感が湧く。
ほとんど連続10%の急こう配を自転車で登ろうというのだから、徒歩の私なんかよりずっと大変なはずだ。
変速ギアをどんなに落としても、ちょっとでもペダルにかける力を抜いたらすぐによろけてしまうだろう。
後ろからきて追い越していくサイクリストたちから「加油(がんばれ)」とか「早安(おはよう)」などと声がかかる。
道端にしゃがみ込んで休憩していたり、自転車を押して登っているようなサイクリストもいて、私の方から「加油」と声をかける。

素晴らしい山岳道路
[天気もいいし最高のハイキング]

鳶峰と言うところに休憩所のような場所があり、食べ物などを売っている。
駐車場もあって車もたくさん止まっているが、トイレだけ使わせてもらって先へ急ぐ。
ここまで翠峰から6キロ、全体の4分の1来たわけで、1時間半かかっている。
このペースなら大禹嶺まであと4時間半で行けそうだ。

紅葉
[葉っぱの中には少し紅葉しているものもある]

鳶峰から先は、まったく遮蔽物がないに等しいくらい見晴らしがいい。
30年前に眺めて感動した景色に似てきた。

コーナーから振り返ってみる
[後ろを振り返ってみると、霞んだ山々が下の方に見える]

さらに歩くこと1時間少々。
11時半過ぎに昆陽という地点に到達。
ここも広い駐車場がある。
この昆陽からの眺めこそ私がもう一度眺めてみたいと思っていた景色であった。
木の生えていない、笹のような茂みに覆われた山肌に、一本の筋を引いたように道が伸びている。
それも少し緩やかに右上がりの道である。
緩やかに見えても、歩けばたぶんなかなかの坂道であろう。
道の先にはゴツゴツとした岩肌の奇萊峰が見える。

昆陽からの先の風景
[昆陽から先、山肌に一本筋を入れたように道が伸びている]

奇萊峰
[一本道の先には岩肌を見せる奇萊峰]

昆陽で一息ついてからまた先へ進む。
今ほど眺めた一筋の線をひたすら登る。
ところどころで舗装道路から外れて、山の頂に続く登山道のようなものがあり、ハイカーの姿が見える。
私も登ってみたい気持ちはあるのだが、今回は時間がない。
それにもうかなり足がおかしくなってきており、関節が痛んで膝が曲がらなくなってきている。
太ももの筋肉痛もあり、とてもではないが舗装道路以外歩けそうにない。
たぶん階段ですら手すりがなければ昇れないだろう。
こんな状態でようやく全行程の半分だから、まだ先は長い。

ハイカー
[道路脇から山へ入るハイカーの姿が見られる]

昆陽から1時間近く歩いた12時半に一筋線の終点に到達。
ここがこの道の最高地点。
つまり台湾山脈の分水嶺に当たる場所で、武嶺と名付けられている。
ここにも駐車場があり、車やバイクで上って来た人たちが「武嶺」の表示板の前で記念撮影をしている。
私も記念写真を撮ってみる。
標高が3275メートルとなっている。
天気が良く、直射日光がとても強いので、額や腕など日焼けしてヒリヒリする。
ここまで私は半袖のポロシャツで汗だくになりながら登ってきたが、車で楽々上ってきた人たちには、さすがにこの高度での気温は寒く感じるらしく、みんなしっかり防寒着を着こんでまるで冬山のようだ。
私はなんだか少し優越感を感じた。
何に対して優越感を感じているのかわからないが、ここまで歩いて登ったぞと言う自己満足からきているのかもしれない。

武嶺
[標高3275メートルの武嶺 防寒着の人でいっぱい]

セルフィー
[私もセルフィーで一枚]

武嶺を過ぎると、山の裏側になり、下り坂が多くなる。
そうすると汗もかかなくなり、日陰だと少し肌寒くすら感じられるようになった。
武嶺から下ること約30分ほどで合歓山のレストハウスに到着。
時刻は午後1時。
何か食べようかとレストハウスの中に入ったが、あまり食べ物がない。
それにやたらと高い。
コーヒーが150元などとなっている。
レストハウスの外ではカップラーメンを食べている人もあり、私もカップラーメンが食べたくなったが、レストハウスでは売っておらず、どうやら車で来ている人が持参してきたものらしい。

合歓山の展望台
[レストハウス前の展望台 正面が奇萊峰]

レストハウスから花蓮港側を見ると、山の間から白い雲が下界を埋め尽くしているのが見える。
そう、天気予報では花蓮港側はずっと雨であったはずだから、こんなに厚く雲がかかっているのだろう。
白い雲はまだずっと下にあるようだから、今回への徒歩での終点である大禹嶺までなら雨雲の下に入らずに済みそうに思える。
このレストハウスではWiFiに接続できたので、アパートで留守番しているネコの様子をネットで確認してみる。

花蓮側には雲海が広がっている
[レストハウス越しに花蓮港側を見ると山の下に白い雲が厚く広がっていた]

留守番中のネコの様子
[留守番のネコはベッドの枕もとで寝ている]

合歓山のレストハウスから大禹嶺まではあと7~8キロほど、2時間もあればたどり着けそうだ。
少し寒くなったので長袖のシャツを着て先へ進む。
下り坂でもやはり足は痛い。
昨日痛かった足の指は、たぶん爪が死んでしまったのか、今日はもう痛いという感覚もなくなっている。
山脈の西側南投県から東側の花蓮県に入った標識が出ている。

前回5月にバスでこのあたりを走った時は、深い霧がかかっており、その霧の切れ目から、山肌にたくさんのシャクナゲが白い花を咲かせていて、とても幻想的であった。
しかし今はシャクナゲの季節ではないからか、山に白い花は咲いていなかった。
そのかわり、道路脇に小さく撫子の花を見かけた。
山を下ること約1時間ほどで合歓山管理站と言うレストハウスのある場所まで来た。
ここまで来る途中で、豊原客運の梨山行きバスに追い越された。
もし途中で歩けなくなったら、このバスに乗って大禹嶺へ出ようと考えていたが、こうしてバスに抜き去られてしまっては何があっても歩くしかない。
お腹もすいていたので合歓山管理站の売店で肉まんを一つ買う。
25元。
やはりちょっと下界より値段が高いようだ。
肉まんを頬張りながら、先へ進む。
山を下って標高が下がって来たので、白い雨雲までの距離がだんだん近づいてきた。
ここからはあと4キロ少々、1時間ほど歩けば、3時半頃にはで大禹嶺へ到着できそうだ。
少し急ぎ足になって、また先へ進む。

雲が近づいてきた
[山を下るにつれて雲海との距離が近づいてくる]

左へ行ったら梨山、右へ行ったら天祥・太魯閣と書かれた道路標識か出てくる。
この別れ道が大禹嶺だし、ようやくたどり着いたようだ。
既に歩いた距離も24キロになっている。
やれやれと思ったが、しかしなかなか大禹嶺にならない。
10分ほど歩いてようやく見覚えのある大禹嶺の交差点に出た。
結局、道路脇の里程標から計算すると翠峰から大禹嶺までは24.7キロだったようだ。
6時間半少々でなんとか歩き通した。

大禹嶺の交差点を示す標識
[実際の交差点はこの標識からさらに700メートルも先にあった]

大禹嶺でたった一軒かと思われる雑貨屋に入り、カップラーメンを買う。
30元也。
店の中ではストーブが焚かれ、ストーブにかけたヤカンでお湯を入れてもらう。
ストーブの周りには何人かのハイカーがいて、これから合歓山まで車で上って、今晩は合歓山に泊まるのだそうだ。

大禹嶺の雑貨屋
[大禹嶺バス停前の雑貨屋]

牛肉湯麺味のカップラーメン
[ストーブのヤカンでお湯を入れてもらったカップラーメン 具は乾燥ネギだけか]

雑貨屋前にバス停があり大禹嶺から花蓮へ向かうバスは4時と表示されている。
店の前で具のほとんど入っていない赤いスープの牛肉湯麺フレーバーのカップラーメンを啜る。
ネコ小屋があって、ネコが丸くなって寝ていた。
そういえば、前回5月に来た時も大禹嶺でネコを見かけたが、そのときのネコだろうか?

大禹嶺のネコ
[大禹嶺のネコもお昼寝中]

4時5分前にバス停前に立つ。
これも1日一本のバスだから、乗り遅れたら大変。
明日の朝の飛行機で帰るのだから、、、。

4時になる。
まだバスが来ない。
朝の仁愛中学校前と同じでバスは遅れているのだろうか?

4時を10分過ぎる。
渋滞など考えられない、ほとんど車の往来のない道なのにどうしたのだろう。
台湾ではネットで路線バスの位置情報を確認できるようになっているが、残念ながら大禹嶺ではWiFi接続ができない。

4時15分、バス停にいつまでも立っている私に気づいた合歓山に泊まるというハイカーたちから、「一緒に合歓山へ行かないか、そこからなら下山しやすいと思うよ」と声をかけられたが、明日の朝には台北に行かなくてはならないことを伝え遠慮する。
ハイカーたちは何台かの車に分乗して、私がさっき歩いてきた道へと走り去った。

大禹嶺のバス停
[バスを待つうちに陽が陰って来た]

陽が陰ってきたら、急速に寒くなってきた。
バスは来ないし、心細くなってくる。
いやはや困ったものだ。
雑貨屋の女主人も心配してくれて、「バスはどうしたんだろね、でも心配いらないよ、山を下りる車が通ったら止めて、乗せてくれるように頼んであげるから」と言ってくれた。
女主人とバス停で待つこと10分ほど、4時半過ぎに一台のセダンが走って来た。
女主人は道の真ん中に飛び出し、大きく手を振って車を止めた。
「外国人の友達を花蓮まで乗せて行ってくれないか」と若いドライバーに交渉してくれ、私は車の後部座席に招じ入れられた。
男子大学生の二人組で、「スピード出すけど車酔いしないか?」と声をかけられた。
大丈夫と答えたら、くねくねの狭い山道をタイヤを軋ませながら猛スピードで走る。
後部座席の私は、筋肉痛の足を踏ん張り、両手をシードに突き立てて上半身を支えるも、カーブのたびごとに身体が横倒しになりそうであった。
そんなスピードでヘアピンカーブの連続する山道を下っているのだが、上には上がいるもので、後ろから追いかけてきたポルシェに抜かされてしまった。

日が暮れて、ヘッドライトの明かりを頼りしながらでもスピードを落とすことなく、右に左にとせわしなくハンドルを回している。
ドランバーもはじめは助手席の友達と何やら話していたが、途中で助手席の友人は眠ってしまったようで、カーブのたびごとに頭が右に左にとおおきくかしいだ。

走り始めて1時間半で天祥を過ぎて、太魯閣峡谷に入る。
少し道幅も広がり、トンネルも多くなってますますスピードを上げて快走する。
ハンドルを握っている学生さんから「花蓮のどこまで行くんですか? 実は花蓮の街の地理がよくわからないんだ」と言われる。
「花蓮の街の手前、新城から汽車に乗るつもりなんで、新城近くで降ろしてください」とお願いする。
近くで降ろしてくれるどころか、ちゃんと私を新城の駅まで送ってくれた。
時刻は7時を回っている。
2時間半もの距離を乗せてもらって、バス代程度の金額では申し訳なと思いつつ、「ガソリン代にもなりませんが」と100元札数枚をお礼の言葉と一緒に手渡そうとしたが、頑として受け取ってくれなかった。

ヒッチハイクでたどり着いた新城駅
[デザイナーズ駅舎と言った感じの新城駅]

続く

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