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台湾・合歓山越え 2
11月04日 金曜日

朝6時前に起きだす。
まだ外は暗い。
昨晩は夜中に何度か目を覚ましたりしたが、早くからベッドに入っていたので睡眠は足りているはず。
しかし、それでもなんだかまだ眠い。
それに、昨晩久々に山道を歩いたためか、さっそく筋肉痛になっている。

朝食は7時からと言われていたが、6時半には早々と団体さんたちが盛大に朝食を食べている。
中にはもう食べ終わっている人もいる。
円卓の上には食べ散らかしも散乱している。
私は奥の方に空いているテーブルを見つけて座る。

朝食はブッフェ式になっていた。
野菜炒めやスープ、豆干の煮つけ、魯肉などが並んでいる。
しかし、主食であるところの、お粥がない。
どうも食べつくされてしまっているらしい。
蒸篭の中に饅頭もない。
食堂の係が新しい饅頭の入った蒸篭を運んでくるのだが、蒸し器にセットしたとたんに、団体客が大皿に饅頭を10個くらい山積みしてさらっていくものだから、あっという間になくなってしまう。
コーヒーや豆乳も魔法瓶に詰めていくので、あれよ、あれよと、見ている間にサーバーが空になって行く。
この団体さんたちは本当に台湾の人たちなのだろうか、それとも噂に聞く中国大陸からきている人たちなのだろうか、なんとなく後者のような気がしてくる。

トーストだけは、トースターが1台しかないので、ガバっと持っていかれることなく、焼き上がるのさえ待てばちゃんとありつける。
マーガリンとジャムとピーナツバターがあった。
コーンスープとトーストをかじっているうちに、団体客の大半が食べ終わって出て行った。

7時になる頃には、朝食会場も静かになり、昨晩の3人家族も朝食会場に入って来た。
お粥や饅頭などもちゃんと補充され、私もお腹いっぱい食べることができた。
刻み干し大根の炒め煮が、甘辛で歯触りも良くご飯が進んだ。
食い意地が張っていてブッフェだとついつい食べ過ぎてしまう。
とても団体客のことなどどうこう言えなくなるくらいよく食べた。

部屋に戻って部屋の風呂にお湯を張る。
大浴場は午後からだけれど、部屋の風呂は24時間温泉いつでもお湯が出る。
部屋の風呂は大きめの洋式バスタブながら、洗い場には白木の簀の子が敷いてあり、なんとなく和風の情緒もある。
それに部屋の風呂だと自分で温度調節もできるのも便利だ。
これで湯船に浸かりながら、渓谷を見下ろせるような構造だったらもっと良いのだが、窓は少し高い位置にあり、渓谷を流れる急流の音は聞こえてきても、立ち上がらないと窓から外が見えない。

風呂から上がったらまた眠くなってしまい、裸のままベッド潜り込んでまた1時間ほどウトウトしてしまう。

抜けるような青空
[今朝は素晴らしい青空が広がっていた。ちょっと宇宙を感じさせるくらい青い空だ]

9時から今日も山歩き。
今日は蘆山温泉の上にある旧富士部落(ボアルン社)と呼ばれた蘆山の集落から、平静(タウツア)の部落、さらにできればその奥の静観(トロック)の部落まで歩いてみたいと思っている。
タウツアとトロックは霧社事件当時、蜂起側にはつかず、日本の軍警に協力して鎮圧に回った部落であり、碧華荘の主人、高永清(中山清=ピホワリス)氏がタウツウ駐在所の小島源治巡査に匿われた部落でもある。
30年前は警察の外事処から許可を取り付けなくては部落に入れなかったのだが、現在はもうそのような規制もなくなっている。

富士部落
[今は蘆山と呼ばれる旧富士部落、もともとはボアルン社のあった場所]

温泉から1時間半歩いて富士部落。
30年前は車の走る道とは別に、急な山の斜面を登る獣道のようなものがあり、それを使えば1時間もかからず登れたような記憶があるが、もうそんな獣道を使う人もいなくなったのか、どこに道があったのかもわからなくなってしまっており、車の走る舗装道路をクネクネと回りながら登っていく。
前方を大きなサルが道を渡るのを見かけた。
道沿いの森の梢にはリスもたくさんいた。
舗道には車に轢かれたらしい蛇の干からびた死骸もあるこちにあった。

昨日の農道と同じように、この道沿いでも果樹の栽培が盛んなようで、袋がけされた柿の枝が青空に映えている。

山の斜面で果樹栽培
[果実に被せた紙袋の白さが青空に輝いて見える]

朝食を食べ過ぎたのか、富士部落で便意をもよおして、教会のトイレを使わせてもらう。
朝食の青菜炒めか魯肉にでもニンニクが入っていたのか、ニンニクによる腹下しのようであった。
台湾の食べ物は美味しいけど、注意しないと結構ニンニクが入っていて、私はニンニクでお腹を壊してしまいやすい。

富士部落を過ぎると、温泉とは山を背にして反対側へ回り込み、濁水溪側の斜面に沿った道になる。
もっとも、濁水溪は谷底を流れているわけで、私の歩く道の数百メートルも下に位置する。
濁水溪を見下ろしながら歩くこと20分ほどで、花蓮港へと続く能高越えのルートとの分岐点に差しかかる。
30年前、友人と二人でこのルートを歩いて花蓮港まで行ったのである。
できることなら、もう一度挑戦してみたいルートである。

能高越え分岐点
[能高越えルートとの分岐点 右へ行けば山脈を越えて花蓮港]

あの時は、天池と言う台湾山脈の分水嶺までは順調に登り、天池にあった昔の駐在所と思われる無人の山小屋に泊まった。
その際、麓の眉渓の部隊に所属する若い兵士が見回りに来た。
私たちは入山許可も持たずに、登録もせずに統制地域に入っており、戒厳令下の当時の台湾では身柄を拘束されてもおかしくないはずなのだが、若い兵士は別にいぶかることもなく、しばらく休憩して山を下りて行った。
その翌日から花蓮港側へ山を下り始めたのだが、道はがけ崩れなどで、酷いことになっていた。おまけに雨まで降り始めたりして、暗くなり始めても泊まれそうなところへたどり着かない。
もともと野宿覚悟、シェラフ持参で来ているのだが、テントなどはなく雨にはほとほと参ってしまった。
崖下の少しくぼんだ場所で、傘をさしたまま夜明かしをする羽目となった。
3日目も雨の中を歩く。
途中にトンネルがあり、トンネル内は真っ暗であった。
ロウソクは持っているが懐中電灯はない。
ロウソクをかざして歩こうとするが、余計に前が見えなくなってしまう。
そこで鍋の中にロウソクを立てて、カンテラのように工夫してみた。
これだとちゃんと前を照らせたので無事にトンネルを抜けることができた。
その日の午前中に盤石と言うところにある台湾電力の保線所に出た。
ここには送電線の保線をする台湾電力の社員が泊まり込んでいて、私たち二人はここへ避難することができた。
年配の台電社員は日本語が達者で、意思疎通にも不自由しなかった。
雨は降り続き、宿舎の中で台電社員たちと一緒にビデオを見たりして過ごした。
ビデオは「日本海大海戦」と言う日本映画であった。
宿舎に泊めてもらい、食事も食べさせてもらい、雨が上がったところで台電社員たちが運転するバイクの後ろに乗せてもらって山を下り、麓の村まで送ってもらった。
その村は鯉魚潭と言うところで、そこの駐在所で「御用」となってしまった。
が、そこの駐在さんも気のいい人で、私たち二人を身柄拘束をしたまま食堂に連行した。
駐在さんは食堂でビール瓶にピンク色のラベルを貼った米酒を注文し、丼になみなみと注ぐ。
「この丼の米酒を飲み干したらば無罪放免にしてやる」と言う。
一緒に身柄拘束されている友人の吉村君は全くの下戸である。
そこで私が丼酒を2杯飲むことで、急場をしのぐことができた。
あとはそして、ここの名物だとして川エビの酒蒸しなどを魚に米酒の饗宴となった。
戒厳令下の台湾でも、台湾の人たちは実におおらかであった。

花蓮港へ続く能高越えルートと別れ、左手に進む。
急な斜面にへばりつくような道だが、こんな急な斜面もところどころ農地になっており、果樹やお茶が栽培されている。
途中に大規模な山崩れがあった。
何百メートルも上の方から、幅百メートル以上で崩れ、何百メートル下の谷底まで山肌がむき出しになっている。

山崩れ
[行く手に大きな山崩れが見える]

崩れてからもうだいぶ月日が経っているようで、大掛かりな復旧工事が行われている。
たぶん大きなシェルターででも道全体を覆うのだろう。

工事現場
[山崩れの場所では鉄筋コンクリートでシェルターを作っている]

山崩れ場所を過ぎてしばらく進むと、平静(タウツァ)の部落が見えてきた。
想像していたよりも大きな集落だ。

平静部落
[平静(タウツァ)の部落 大きな教会の建物も見える]

静観(トロック)へと続く道から、濁水溪の谷の方へ下ったところに学校も見える。
学校の方へと急な坂道を下る。
本当に急な坂道で、階段にしてもおかしくないくらいだ。
集落の手前には蕃社と呼ばれていたころの穀物庫や見張り小屋が復元されていた。

小学校の隣は駐在所になっていた。
霧社事件当時に小島源治巡査がピホワリス少年を保護したのはこのあたりだったのだろうか。
ここまで温泉から3時間かかった。
蜂起側ホーゴー社出身のピホワリス少年は霧社事件当日、この部落出身の友人に誘われて、霧社からここまで歩いてきている。
霧社は温泉よりさらに2時間ほど歩かなくてはならないから、霧社からここまで徒歩で5時間くらいかかったのではないだろうか。

平静駐在所
[平静部落の駐在所]

霧社事件をテーマにした台湾の長編映画「セデックバレ」のなかで、日本側に味方したタウツァ蕃の頭目ヤワイタイモが劇中ではトンバラ社頭目となっていた。
トンバラは先ほどの能高越えのルートをまだずっと先まで進んだところの地名で、霧社事件当時トンバラにも駐在所があり、焼き討ちに遭っている。
しかし、駐在所が焼き討ちに打っていながら、そのトンバラの頭目が日本側に味方しているというのは変な話だと思っていたのだが、今回この静観の部落に来て、私の誤解が解けた。
トンバラとは実は2か所にあり、一つは能高越えルート上にある現在「屯原」と呼ばれる場所で、ここには集落はない。
そして、もう一つが静観(タウツア)にあり「等巴拉」と呼ばれる場所で、現在の駐在所があるあたりである。
それであればヤワイタイモがトンバラの頭目であることで辻褄が合う。
そして、まさにここが小島巡査、ヤワイタイモ頭目、ピホワリス少年の壮絶なドラマの舞台であったわけだ。

平静部落地図
[平静部落周辺の案内図 タウツァ蕃(TODA部落)の中にトンバラ社があるのが分かった]

小学校の門をくぐって勝手に見学させてもらう。
ちょうどお昼時で、生徒たちもそろそろ給食の時間なのだろう。
小学校の中を見学して感心したのは、山地語教育に熱心であることだ。
壁には「一日一語」として山地語の単語がローマ字で書かれているし、さまざまな山地語があちこちに表示されている。
30年前、このあたりの山地原住民の子供たちは、学校で山地語を使うことを禁止されていた。
学校の授業では北京語だけだった。
それが戦後何十年も続いたわけだし、戦前も学校では日本語を使うことが強制されていたのだから、山地語を何世代にもわたって、教えられてこない言葉になっていた。
それでも、30年前の年配者たちは、中国語は話せなくとも日本語と山地語は話せた。
当時私と同世代の山地原住民の若者は、日本語も山地語も話せず、北京語と台湾語だけであった。
その世代の山地原住民が、すでに親の世代になっているのだから、家庭内で山地語が話される機会も減っていただろう。
いまから山地語を学校教育の一つとして教えたとして、どこまで生活の言葉として山地語が伝承されるかわからないが、しかしようやく山の人たちの言葉や文化が尊重される時代になったようでとてもうれしい。

平静小学校
[平静の小学校 山地語や民族の文化を伝えようとしていた]

平静小学校校庭
[校舎にTODAとあるのはタウツア部落のことと思われる]

平静の集落からさらに先に進む。
この先の静観(トロック)へ向かって15分ほど歩いたところに、橋が架かっており、スマートフォンの地図を見ると「深堀瀧」とある。

深堀瀧
[スマートフォンの地図に示された深堀瀧]

橋の周辺に深堀瀧に関する説明はないし、滝そのものも音はすれども狭い谷に鬱蒼とした茂みが繁茂していて、まったく見えない。
が、この名前の深堀とは、領台初期に台湾の東西連絡路探索のために派遣された深堀大尉がタウツァ集落近くで山地民により殺害遭難しており、その場所を指しているのではないかと思われる。

深堀瀧の橋
[深堀瀧にかかる赤い橋 橋の名前を示す銘板は見当たらなかった]

静観の部落の手前に平和と平生と言う小さな集落があった。
山奥の僻地であり、日本なら廃屋の目立つような過疎集落になっていそうな場所なのだが、このあたりには過疎のイメージはあまりない。
豊かではなさそうだけれども、青壮年世代の山の人たちがちゃんと暮らしている。
日本では地方再生が叫ばれながら、過疎化がますます深刻化しているが、そうした問題を解決するヒントが台湾の山村にあるのかもしれない。、

水たまりのオタマジャクシ
[道端の水たまりには無数のオタマジャクシがいた 水が干上がる前にカエルになれるだろうか]

濁水渓と静観部落
[遠くに静観(トロック)の部落が見えてきた このトロックもタロコと呼ばれたりするので、花蓮港の太魯閣と同じ発音で紛らわしい]

静観の部落は周辺にいくつかの集落があるようだが、歩いてきた道の終点は小学校になっていた。
鉄筋コンクリート二階建ての立派な小学校である。
ここでも勝手に学校内を見学させてもらう。
平静の学校と同じように山地語の表示がたくさんある。

静観小学校
[静観部落の小学校 山奥だけど立派な校舎を持っている]

校舎に沿って歩いていたら若い先生に呼び止められた。
「今は授業中なので、見学でしたら、放課後にお願いできませんでしょうか」
日本で私のような挙動不審者が校内をうろついていたらすぐに警察へ通報されそうなのだが、ここの先生はやたら丁寧な物腰である。
先生のおっしゃることはごもっともなので、この小学校でもトイレをお借りして退散する。

静観部落のメインストリート
[静観部落のメインストリート]

この静観の部落にも路線バスが毎日一便だけ通っているらしく、バス停があった。
この部落を早朝に出発し、夕方遅くに戻ってくるバスのようだ。
車やバイクに乗れない人にとっては、大切な足なのだろう。
小さな部落なので、店などは雑貨屋くらいしかない。
診療所もあったが、お医者さんが定期的に巡回してきてくれる程度のようだ。

静観のバス停
[バスの時刻は欄外に記載 朝6:10発の一本きり]

時刻は午後2時になっている。
お昼の時間を過ぎているが、まだ空腹を覚えない。
それにこの部落まで山道を徒歩で4時間半も歩いてきている。
さすがにそろそろ足が痛くなってきているし、急いで戻らないと、宿の夕食時間に間に合わなくなってしまう。
バスに乗ろうにも明日の朝まで便がないのだから、歩くしかない。

帰り道は下り坂が多い。
登りより楽だろうと思っていたが、そうでもない。
足の爪が少し伸びていたようで、しかも急な下り坂の連続だから、足先に負担がかかる。
それも伸びた爪を通じて足の指が押される感じで、つま先が痛む。
膝もバカになってきてしまってるし、太ももの筋肉も突っ張っている。
情けないことに、すり足のような惨めな恰好で、トボトボと歩く。

帰り道は平静の部落にも立ち寄らず、素通りして先を急ぐ。
富士部落までたどり着けば、バス便があるかもしれない。
2時間ほど歩いて、山崩れの工事現場に差しかかったところ、後ろから走って来た乗用車が土ぼこりを巻き上げながら私の横で停車し、スルスルと窓が開いた。
「よかったら乗って行きなさいよ」
30歳前後の女性であった。
これは助かる。
まだ富士部落まででも1時間はかかりそうで、足は痛いし、いっそヒッチハイクでもしようかと思っていたところだった。
お言葉に甘えて車に乗り込む。

「さっきうちの学校に来ていたでしょう」
どうやら静観の小学校の先生らしい。
車内では中国語の讃美歌が流れている。
先生はこれから埔里の家へ向かうところなのだそうだ。
出身は静観の部落で、埔里にも家があり、週末は埔里で過ごすらしい。
部落には何もないから、なにするんでも埔里まで出ないと不便なのだそうだ。
さっきの小学校には生徒が60人ほどいるそうで、この中には幼稚園児も含まれているそうだ。
幼稚園は4年制で2歳からだそうだ。
つまり保育園のようなものかもしれない。
部落には中学校がないので、小学校を卒業したら、霧社か埔里の学校へ行かなくてはならないそうだ。
たぶん、このあたりの部落はどこでもそうだろから、寄宿舎などに入るのだろう。
まぁ一応バスでも通学はできないわけではなさそうだ。

歩けばまだ2時間半くらいかかるところを20分足らずで温泉の入り口まで運んでもらった。
先生にお礼を言って、温泉への道をあと1キロ少々歩く。
が、さっきよりもますます足が痛くなっている。
筋肉は完全にこわばり、ひざも曲がらない。
車の中で休んだのが良くなかったのかもしれない。
敗残兵のようにトボトボと温泉への道を下り、吊り橋をよろけながら渡る。

蘆山園ホテルにたどり着いたのは5時前。
急いで大浴場に向かう。
疲労と筋肉痛と関節痛には温泉が効きそうである。
だれもいない大きな温泉に浸かって、手足を伸ばし、腿やふくらはぎをお湯の中で良く揉み解す。
カチカチになっていた足の筋肉が次第に柔らかくなっていく。
お湯の中で膝の曲げ伸ばしもする。

やはり温泉ホテルに2連泊してよかった。
実は当初、今晩は霧社の町にある「霧桜大飯店」に泊まろうかと思っていた。
翌日は朝早く霧社から翠峰へ向かうバスに乗るつもりにしていたので、温泉より霧社に泊まった方が便利かと思っていた。
しかし、もし霧社に泊まって、こうして温泉に浸かることがなかったら、きっと足が痛くて明日の合歓山越えなどとてもできない相談になっただろう。

今晩は缶ビール2本をフロントで買って、夕食を食べながら飲む。
昨晩の残りの紹興酒もコップに一杯ほどあった。
夕食は昨晩とおんなじメニューが続くのではないかと思っていたが、さにあらず、ちゃんと昨晩とは違うおかずがプレートに載って来た。
ただ蒲鉾と生姜の細切りスープは一緒だった。
豪華なメニューではないが、安心して食べられる内容で、味付けも悪くなかった。
今夜は団体客もないようで、家族連れが数組いるだけだったので、静かで落ち着いた雰囲気だった。
紹興酒が血行をさらに良くしてくれるようで、もう足の痛みもなくなってきた。

蘆山園の夕食
[蘆山園の夕食 一人用はプレートに盛り付け]

続く

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台湾・合歓山越え 1
11月03日 木曜日

タイの出国審査を受けているときに日付が変わった。
午前2時過ぎのノックスクートで台湾へ向かう。
毎度台湾旅行では格安LCCのノックスクートにお世話になりっぱなしである。
とにかく、プロモーション運賃が安い。
今回も往復で4千バーツ台である。


ドンムアン空港へ向かうためアパートを出た時、外は雨が降っていた。
バンコクに暮らして、傘などさした経験がほとんどないが、インフルエンザの病み上がり、濡れてまた体調を崩してもいけないので、傘をさすことにした。

雨と言えば、今回の台湾旅行の目的は徒歩による合歓山越えであり、天気がとても気になっていた。
しかも、台湾の天気予報を見ると、いまひとつすっきりしない天気が続いている。
特に合歓山を越えた花蓮港側はこの1週間ほぼ毎日雨が降っているらしい。
空港までなら傘さして行っても良いが、山越えに雨は辛すぎる。

さらに今回の旅行で先日大きな番狂わせな情報を発見してしまった。
山越えをして花蓮港側へ降りた後、その晩の夜行列車で台北へ向かって空港へと言うパターンを考えていた。
前回、6月に高雄から桃園まで夜行列車に乗って、そのまま空港へ向かったのであるが、その台湾縦貫線の夜行列車はこの夏に廃止されてしまい、現在の台湾で夜行列車が運行しているのは、この東部台湾の路線のみになっていた。
それも、つい先日確認したときまでは土曜と日曜の週末だけの運行と、こちらも「風前の灯」状態になっていたのだが、いざ切符の予約をネットでしようとしたら、何度トライしてもエラーになってしまう。
よくよく調べたら、さらに減便になって日曜の晩にしか運行しなくなっていた。
そのため、私が利用したいと思っていた日とは曜日が合わなくなってしまっていた。
この夜行列車が、翌朝早くに空港へ行くにはとても都合が良かったのに残念。
山越えして花蓮港へ降りてもまだ最終の台北行きの特急に間に合うだろうけど、それではなんだかつまらない。

搭乗ゲートで搭乗開始を待つが、ゲート周辺の人たちはみんな黒い服を着ている。
先々週の国王の逝去に伴う服喪でタイ人は黒い服を着るように指導されているからなのだろうけど、海外へ旅行するにも黒い服を着るらしい。
そして、この真っ黒さ加減からすると乗客の大多数がタイ人らしい。

黒衣の乗客
[薄暗い搭乗口に集まる黒衣の乗客たち]

チェックインカウンターでは前回同様に極力前方の席を希望したら、22Dと言う席の搭乗券をもらった。
実際に機内に乗り込んでみたら、最前方ではなく、エコノミーの前から2番目と言う配置であった。
しかし、この席がとてもよかった。
この航空会社でスーパーシートと名付けている黄色いシートで、シートピッチが35インチもある。
これはいつもの中華航空より広い。
そして、最前方ではないので、シートの肘掛けを上げることができ、しかも私の列は4人掛けなのに私しかいない。
つまりフルフラットでゴロリと横になれる。
便がガラガラと言うわけではなく、8割がたは席が埋まっているが、タイ人たちはグループで旅行するからか、後ろの方の座席に隙間なくピッチリ座っている。

ノックスクート・スーパーシート
[最低料金の切符ながら、スーパーシート、しかも4人掛け一列を独占]

で、台北までの数時間、ぐっすり眠れたかと言うと、実はよく眠れなかった。
原因は「寒さ対策」が不十分だったため。
とにかくLCCなので毛布のサービスもないのに、やたらとクーラーを利かせている。
ポロシャツの上に長袖シャツまで着込み、さらにウインドブレーカーまで羽織っているのにまだ寒い。
LCCなんだから、クーラーなんか止めて有料の卓上扇風機貸し出しサービスにしてほしいくらいだ。

台北にはほぼ定刻の7時少し前に到着。
WiFiのためのiTaiwanの設定をし、バス乗り場に向かったらちょうど台中行きバスの乗車案内がアナウンスされていた。
次のバスは8時だろうと思っていたが、7時半にも便があったらしい。
急いで切符を買ってバスに乗り込む。

航空機のビジネスクラス並のソファーのようなシートでゆったりと座って2時間少々で台中市内へ。
いまのところ、曇り空ではあるが雨は降っていない。
高速道路沿いの景色は、昔とはずいぶんと変わって、工場が増えた。
それに道路も随分と整備されて、高架道路や立体交差が当たり前になっている。
水牛が田んぼを耕していた昔の景色など全く見当たらなくなっている。
昔と変わっていないのは、やたらと広い河川敷くらいだろうか。

終点の台中駅前でバスを降りる。
台中駅もつい先日新しくなり、線路も駅も高架になった。
時計塔のあるレンガ造りの駅舎はまだそのまま残っていたが、駅前の市内バス発着所も移転していた。
この時計塔のある台中駅、台湾の駅の中でもっとも素晴らしい駅だと思っているが、もうひとつこの駅を見て思い出すのは、もう50年近く昔に、インスタントラーメンで「駅前ラーメン」と言うのがあった。
そのパッケージには弁慶号を思わせる様な汽車と、時計塔のあるレンガ造りの駅のイラストが描かれていた。
汽車が大好きだった私は、そのイラストからこのラーメンのパッケージが好きであった。
この台中駅を見たらそんな昔のインスタントラーメンを思い出した。

旧台中駅舎
[つい先日お役御免になったばかりの台中駅舎]

駅前ラーメンのパッケージ
[駅前ラーメンのパッケージ(日本即席食品工業協会のHPより転載)]

埔里行きのバスは以前のまま旧台中駅前ロータリーが乗り場であった。
ほとんど待つことなく南投客運バスがやってくる。
こちらは田舎バスなのでシートもゆったりとはしていないが、車内で無料WiFiが使えるようになっていた。
試しに接続してみるとちゃんとネットにつながる。
田舎のバスも進歩しているらしい。
そのWiFiも市街地では快調であったが、郊外へ出ると全くネットに接続できなくなってしまった。
バスの運転手の求人募集が車内の電光掲示板で流れていたが、給料は4~6万元とあった。
現在の台湾の物価水準からすると、バスの運転手の暮らしも楽ではなさそうに思える。

旧台中駅前ロータリー
[埔里行きのバスはまだ旧台中駅前ロータリーから乗車可能]

紹興酒の工場前を過ぎてまもなく埔里のバスターミナル。
現在は工場見学もできるらしいのだが、紹興酒を飲むことは大好きなのだが、工場見学にはそれほど興味がなく、まだ一度も工場へ足を向けたことがない。

埔里では蘆山温泉行きのバスまで30分ほど時間がある。
まだ今日になって何も食べずにいるので、この時間に何か食べておきたい。
以前に「臭臭鍋」と言う風変りな名前の鍋料理を食べたことがあり、安くておいしかったから、また食べてみたいと思って臭臭鍋の店まで歩いてみたが、店はまだ営業開始前だった。

結局「四海游龍」と言う台湾焼き餃子のチェーン店に入る。
焼き餃子チェーンとしては「八方雲集」を何度か利用してきたが、緑の看板の四海游龍は今回初めて。
チェーン店だから冷凍モノだろうと思っていたら、店員さんたちが店の真ん中のテーブルに集まって、餃子の餡を皮にせっせと包んでいる。
なんと予想外の手作り餃子であった。
10個入りで50元とは安いのだが、味の方は八方雲集の方が私には美味しかったように感じた。

四海游龍
[焼き餃子の内容はともかく、チェーン店の四海游龍で手作りしていたことに感動]

11:25分のバスで蘆山温泉に向かう。
途中、霧社で5分ほど時間調整があった。さっきの焼き餃子だけでは食べ足りず、バス停近くの店で、小籠包を買う。
たぶん、安物の冷凍を蒸しただけと思われ、具がほとんど入っていないが、もともと肉好きではないので、こうしたスカスカ中華まんも嫌いではない。
それに40元と格安でもある。

蘆山温泉には12時半に到着。
そのまままっすぐ前回も利用した蘆山園ホテルへ歩く。
田舎の温泉、平日の昼間と言うこともあり、行楽客の姿はほとんどなく、しかも営業していない旅館が多いので、温泉街のメインストリートはゴーストタウンのようになっている。
しかし、今晩の蘆山園ホテルは団体客があるらしく、受付で宿泊希望を伝えたら、宿の主人は宿泊台帳をペラペラとめくりながら空室を探し始める始末。
ようやく部屋を部屋を見つけたようで、部屋の写真を見せながら「1799元」と言う。
「いやいや、一人なんだけどね」と言ったらば、
「1500元ね、食事も朝晩ついて、高くないよ」と言う。
確かに高くはないが、前回は1200元と超お得だったのと比べると、300元ばかり高い。
しかし、1500元でも妥当だと思っていたし、ほとんど満室なのだから、値下げ交渉もせず、2泊分の3,000元を支払った。

2311号室で、前回同様に渓谷側の部屋。
エアコンはなくても、もともと涼しいところなので問題はない。
むしろ夜など寒いくらいで、暖房が欲しいけれど、暖房器具もやはりない。

さっそく周辺を歩き回ってみることにする。
昨晩は寝ていないので、昼寝でもしようかと思ったが、今寝てしまうと夕方まで起きられそうにない。
ちょっと足慣らしに裏山を歩いた方が山歩きの感覚を取り戻せそうだ。

宿を出て今は廃業してしまった好望山荘の横を抜けてマヘボ古戦場へ、さらにマヘボ溪の谷を渡って、対岸の斜面を登り続ける。
山の斜面も農地になっているところが多い。
急傾斜だから、農機具も入らないだろうし、雨でも降ればすぐに表土が流されてしまって、決して農業に適した環境ではなさそうだけれど、冷涼な気候を利用した野菜と果樹栽培が行われている。
以前は高山茶の産地としてお茶の栽培がとても盛んで、斜面に茶畑が広がっていたが、今は相対的に茶畑の占める割合が減っているようだ。
野菜では露地栽培のキャベツとハウス栽培のトマトやインゲンが目立つ。
果物は、以前は梨やリンゴが多かったけれど、今は柿が多くなっている。
ちょうど柿の実が実る季節だから余計に目立つのかもしれないが、丁寧に柿の実には袋がかぶせられていた。
実も大きいようだ。

耕して天に昇る
[こんな急な斜面での農作業、とても苦労が多そうだ]

ランタンみたいな花
[提灯のようなランタンのような花]

コムロイに似ている
[こうしてみるとコムロイが空に昇っていくようにも見える]

ところどころに桜が植えられており、緋桜が枝に赤い花を咲かせているものもある。
一重のものもあるし、八重のものもある。
まだ桜の季節には早すぎるが、このあたりではこうした狂い咲きもよくあることなのだろう。
去年の今頃も咲いていたし、6月も咲いているのを見かけた。
もっとも、花の盛りになったらきっともっときれいなのだろう。

緋桜
[ここの桜は濃いピンク色をしている]

八重咲
[小さいけれど、八重咲の桜も咲いていた]

休むことなく坂道を上り続けた。
だいぶ標高も高いところまで来たようだけれど、霧が立ち込めてきて、下界が見えなくなってしまった。
まだ山の斜面では野菜や果樹を栽培しているところがあるけれど、こんなに高いところまで上り下りしなくてはならないのだから大変だろう。
ときどき農作業からの戻りだろうか小型の青いトラックが山道を下ってくる。

急な斜面に農道が続く
[急な斜面に農道が続く]

人が住んでいるのか、それとも作業小屋か判然としないが、霧の中からバラック風の建物が見えてきた。
近づいてみるとネコが何匹かいる。
ネコがいるのだから、きっと誰か暮らしているのだろう。

斜面に建つ小屋
[誰か住んでいるらしい]

山のネコたち
[ミー、ミーと可愛い声をしていた]

時刻は3時を回っている。
そろそろ宿に戻って温泉に浸かることとする。
夕食は6時からと言われているので、いまから戻ればちょうど良さそうだ。
ここまで2時間ちょっとかけて登ったけど、下りはもう少し早く降りられるかもしれない。

温泉街
[だいぶ下ってきたら温泉街が眼下に見えてくる]

下っていくと霧は晴れてくる。
森の中と農地が交互に続く。
大きなクワズイモの葉っぱが伸びている。
昔、台北の圓山ホテルが気に入っていて何度か泊まったことがあるが、圓山ホテルから士林側へ丘を下る道が、とても良いハイキングコースのようになっており、その道沿いにも大きなクワズイモがたくさん生えていた。
特に若々しい緑色をした大きな葉っぱは立派で、見惚れてしまうほどであった。

クワズイモの大きな葉っぱ
[この山道でもところどころでクワズイモを見かける]

帰りはもとの碧華荘の前を通った。
吊り橋前の急な坂道を登っていたら、碧華荘の斜面に白いネコがいた。
この斜面には以前たくさんの黄色いユリに似た金針花が咲いていた。
この金針花のスープを碧華荘では毎日のように作ってくれていた。
温泉場の土産物屋でも金針花を乾燥させたものをお土産に売っていたから、このあたりの名物だったのかもしれない。
しかし、今はまったく咲いていないし、売られてもいないようだ。

碧華荘前の斜面にいたネコ
[昔はこの斜面に金針花がたくさん咲いていた]

蘆山園ホテルに戻ると、なるほど宿の前庭にはたくさんの団体客がうろうろしている。
これでは風呂も混雑しているかなと、すこし覚悟をして、部屋から手ぬぐいとバスタオルを持って大浴場に向かう。
しかし、拍子抜けするほど誰も温泉に入っていない。
貸切風呂みたいな感じで、ちょっと温めながら、まずまずの湯加減で、のんびりと温泉を楽しめた。
温いといっても、さすがは温泉だけあって、しばらく浸かっているとも上気てきてしまう。
しかし、用意のいいことにちゃんと飲料水が用意されており、また木製の安楽椅子があって、火照った体を冷ませるようになっている。
1時間近くかけて入浴をし、フロントで缶ビールを一本買って、グイーっと飲み干してから、夕食会場に入る。
夕食会場内も団体さんでいっぱいになっていたが、私には4人掛けのテーブルをひとつ用意されており、おかずをプレートにセットされた給食スタイルの夕食をいただく。
晩酌には温泉に浸けて温めておいた紹興酒もいただく。
やはり台湾に来たら紹興酒が美味しい。
巨大な肉団子や家鴨のローストや野菜炒めなど6品の料理が仕切りのあるプレートに盛られ、別に蒲鉾と細切り生姜の薄味スープが付く。
独り者は私だけで、団体客の他に中年夫婦と高校生くらいの3人家族がいて、私の隣のテーブルで食事をしていた。彼らはプレートではなく、一品一品が皿に盛られており、私のところにはないサラダもあった。
夕食の料理の中では、ピーナッツと川エビを揚げたものがあり、それが酒の肴にとてもよくあった。
ご飯もお替りしてしまった。

夕食後にまた温泉に入る。
こんどはサウナにも入ってみる。
サウナの温度は60度低く、ちっとも熱くないが、寝不足に加えて、満腹にほろ酔いが重なって、サウナの中で少しウトウトしてしまった。

夜はもう出歩くこともなく、9時にはベッドに入った。

つづく

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10月の決算報告
10月も最終日を迎え、今月の出来事などを思い出せる範囲で思い出してみて、今月がどんな月であったかを総括してみることにしました。

月初めは台北の空港で夜明かしをして、雨降りの多い東京に数日滞在。
バンコクに戻ってからは、足腰を鍛えるための運動を開始。
来月は台湾へ行って、山登りをするつもりになっている。
登山というのではなく、山岳道路を歩くだけのことだけど、25キロほど歩くつもりなので、そのための体力づくり。
ビルの12階にある職場へもエレベーターを使わず階段で昇り、7階のアパートの部屋からゴミを捨てに行くときも階段と、とにかく暇さえあれば階段の上り下りを続ていた。

7月に日本でデジタルカメラのメモリーカードを買った。
いままで使っていたメモリー容量は256メガだが、今度のは1ギガとほぼ4倍となる。
これだけあれば、好きなだけ穫れそうだし、台湾で山の写真をたくさん撮ろうと思っていた。
私のカメラはオリンパス製で、使用するメモリーはXDカードと言うタイプなのだが、このタイプはバンコクではなかなか見つけられなかった。
日本でもドンキホーテに行ったけど売っておらず、アマゾンでネット注文して取り寄せたものだ。
調べてみると、XDカードはもはやほとんど流通しておらず、いまやオリンパスでさえXDを使わなくなっているらしい。
今のうちにXDカードを購入しておかないと、もう入手できなくなる懸念もある。
その1ギガ容量のXDカードをカメラに装てんしてみる。
台湾へ行く前に、何枚かネコの写真でも試し撮りするつもりでいた。
スクリーンに「カードをフォーマット」するようにとの指示が現れる。
指示に従う。
「すべてのデータが消えるんだよ、いいか」と警告してくる。
構わず進める、、、、、
「ピー、、、、フォーマットできませんでした」
なんだこりゃ、このカード不良品か!!
がっくり、私にとって安い買い物ではなかったのでショックだった。
が、なんとかならないかとパソコンで対処方法を検索してみたら、もっと重要なことが判明。
私のC-750というデジタルカメラは256メガまでのXDカードにしか対応していないらしい。
機種によって容量に制限があるなんて知らなかった。
メモリーなど「大は小を兼ねる」ものだと信じて疑ったことがなかったが、買う前にちゃんと調べておくべきだったと反省する。

XDカード
[せっかく買ったXDカードだけど、私のカメラでは認識できなかった]

10月13日にタイの国王が逝去された。
公式発表前にすでに情報はリークしていて、私もその対応のために、多少はバタバタとしたが、バンコクの街そのものでは大きな混乱もなかった。
翌日から黒い服喪ネクタイを締めることとなる。

もうだいぶ長いこと冷蔵庫の調子が良くない。
サーモスタットが悪いのかヒーターが故障しているのか知らないが、冷凍庫はギンギンに冷えるのに、冷凍室は全然冷えなくなる。
そうなると、私は冷蔵庫の電源を抜き、冷凍庫の裏にある発泡スチロール製の蓋をこじ開けてみる。
するとラジエーター様の冷却装置が南極か北極の越冬基地のようにキッチリ凍り付いている。
小型の扇風機を冷凍庫内に突っ込んで回し、張り付いた霜や氷を解かす。
張り付いた氷が解け切ってしまえば、再び発泡スチロール製の蓋を閉じて、冷蔵庫の電源を入れる。
それでしばらくは冷蔵庫は冷凍も冷蔵もちゃんと冷える。
が、この作業をとにかく毎週一回は行わないと行けない。
以前にも修理屋に来てもらって400バーツ払って修理してもらったはずだが、全然治っていなかった。
もっとも、「何も壊れてないから大丈夫」との診断で、修理そのものをしていない。

冷蔵庫内
[一週間で冷凍庫の奥は霜だらけ]

そこでもう一度修理を頼んで見たところ、修理に来たおじさんは「この部品かも入れない」とビニールに包まれたボタン型の部品を指さす。
その部品は霜取りセンサーで、故障しているかどうかは、交換してみなくてはわからないとのこと。
「部品代は280バーツで、工賃入れて全部で800バーツだけど、どうする?」と聞かれる。
どうするもなにもこちらは直してほしいので、これでダメでも発注するしかない。

作業は簡単に終わったのだが、終わった後が長かった。
この修理人のおじさん、ペブリ通りのアパート内に小さな雑貨屋もやっているのだが、家電製品の出張との両立が困難だから、だれか手伝ってくれる人はいないかと私に相談を持ち掛けてきた。
私は彼の家族が私のジョギングコース沿いで別の雑貨屋をやっていることを知っている。
いつも私はそこでお米を買っているし、その店には奥さんも何人か娘さんもいる。
だから「娘さんの一人にでも来てもらったらいいじゃないか」と言ったところ、
「いや、それがダメなんだ、嫌だと言っている、あんたの友達紹介してよ」
こんなことを日本人の私に相談しても仕方ないだろうにと思うのだが
「他人を雇うと、お金や商品をごまかすから、泥棒を雇うようなもんだよ、だけど日本人なら胡麻化さないだろ、、、」
なにか勘違いしているようだけど、確かに小さな商店で他人を雇って店番させるのは難しいだろう。
「じゃ、兄弟とか親類はどうなんだね」と私が言ったのが良くなかった。
「兄弟たちとは縁を切ったんだ、親の遺産を俺にだけ分けてくれなかったずるい奴らなんだ、チャチュンサオに土地があったんだ、俺が末っ子で、南部に行ってたから、勝手に処分してしまいやがったんだ、、、」
もうあとは延々と愚痴が続いた。

交換部品
[交換した霜取りセンサー 交換自体は私でも出来そうな作業だった]

修理から2週間、今のところ冷蔵庫はちゃんと働いてくれている。

月初めの日本一時帰国中に、以前アパートの1階にいた洗濯屋の主人から電話が入る。
別に洗濯屋が私の日本の電話を知っていたわけではなく、携帯電話がローミング設定になっていただけのことである。
「タロー、車の保険手続きするから、車検証とお金用意しろよ」と言う。
このアパートにいるときから副業で自動車保険の勧誘をしている。
ここにいた期は、まぁそれなりに便利ではあったが、いなくなり目が届かなくなると、面倒なことの比重が大きくなる。
「わかったわかった、今度の土曜日に勤務先に取りに来てよ」と約束する。

3等保険に税金の手続きまで込々で9,500バーツということで、安くもないけど面倒な手続きを代行してくれる分の駄賃と思って言い値を支払う。
「コープクンカップ、コープクンマークカップ」とやたらと感謝されるので、やっぱり値切るべきだったかなと思えてくる。
だいたい私は無事故だし、年間走行距離もせいぜい3,000キロ前後。
「来週の金曜までには全部手続き済ませてアパートの管理事務所に預けとくよ」

が、その金曜日になっても車検証も保険もアパートには届いていない。
まったく相変わらず約束を守れない男だ。

さらに1週間待って、まだ届けに来ない。
電話をかけてどうしたのかと尋ねてみたところ
「もう保険の手続きは済んだから大丈夫、車検証の更新とか税金はタローが自分でやってくれよな、書類は今週中に届けるから」
冗談じゃないよ、まったく面倒な手続きまで込々で代行するから頼んでいるのに、面倒なとこだけ残して、まったく無責任極まりない。
「ダメ、ダメ、全部手続きする約束だろ、ちゃんとやってくれよ」
「だったら、もう1週間かかるよ」

しかし、さらに1週間が過ぎても何も連絡をしてこない。


10月22日-23日の1泊2日でネコを連れてプラチュアップキリカンへ行ってきた。
そろそろ雨季も終わって、海で泳ぐのも良さそうだと考えたし、またプラチュアップキリカンのマナオベイの岬に聳える山に登ってみようと計画した。
プラチュアップキリカンと言えばサルのいるガラス山(カオ・チョンクラヂョク)が有名だけど、登山としてはマナオベイのカオ・ワームムアクがすごいらしい。
岬の突端にニュッキリとタケノコが生えてきたような形の山だ。
登山も鎖を手繰りながら上ると言うから面白そうだし、頂上からの眺めも過ぎらしいようだ。

車でのんびりドライブであったが、途中何度も小雨に降られた。
朝6時半に出発をして、プラチュアップキリカンに着いたのがちょうど12時。
ランチには「モスリム食堂(クルア・モスリム)」と看板を出している小さな食堂に入った。
ここで食べた牛肉のマサマン・カレーは美味しかった。
甘ったるいのにかなり唐辛子も入っていてご飯によく合う。
この味はクセになりそう。

モスリム食堂
[この画像はgoogle mapのストリートビューのモノを転載してます]

そしてマナオベイで泳ぎ始めたのだが、少し沖まで泳いだところで雨が降り出してきた。
スコールのように雨脚が強い。
海面に大粒の雨が叩きつけるように降るので、跳ね上がりが水煙になっている。
灰色の空、黒い海、そして白い水煙と視界が墨の濃淡で3色に塗り分けられたようになった。
なかなか幻想的で素敵な風景だ。
水煙でどっちが浜で、どっちが沖なのかもわからない。
波はない。
水面に浮かび、方向など気にしないで、のんびりと泳ぐ。
海水は温かいが、雨はとても冷たい。

雨が小降りになったところで、モーターボートが向かってきた。
「なんだよ、人が泳いでんのに危ないなぁ」とつぶやいてたら、
ボートに乗った真っ黒に日焼けした兵士に「沖へ出るな、浜へ戻れ」と警告を受ける。
警告をするくらいなら、拾い上げて浜辺までボートに乗せてくれればいいものを、警告だけして行ってしまった。
しかたなく、ビーチへ戻るのだが、猛烈に寒い。
沖の海水は温かかったけど、浅いビーチ近くはスコールで海水が冷えたらしい。
こりゃたまらないと、急いでシャワールームへ向かい、もう海水浴は中止とする。

雨のマナオベイ
[雨のマナオベイ]

夜、プラチュアップキリカンの桟橋近くの屋台街を冷やかす。
ここの名物のパイナップルをかじる。
柔らかくて、甘くて、おいしい。
夕食用にと「蓮の葉包飯(カーウ・ホーバイブア)」と言うのを買ってみる。
ニラのお好み焼き風と小さなプラトゥー(鯖の仲間)が一匹付いて30バーツとお手頃価格。
しかし、ご飯にはなぜかかなりのニンニクを混ぜ込んであり、これはちょっと辛かった。

蓮の葉包飯
[ニンニクの代わりに生姜を入れてくれてたらよかったのに、酢飯でも悪くないだろう]

翌朝、海岸沿いをジョギングし、シャワーをした後、二度寝をしてしまった。
そして、11時近くになったからカオ・ロームムアク山へ登りに向かう。
標高300メートルほどの山らしいから、2時間もあれば十分だろう、それから昼ごはん食べてバンコクへ向けて出発しようと考えていた。
しかし、山の麓に着いて登山口がどこか銃を構えた警備兵に聞いたのだが、
「今日の受付はもう終わったから、また明日の朝6時に来るように」と言われてしまう。
なんと、軍の敷地内にある山だけあって、勝手に登ったりすることは認められてないらしい。
他の人にも確認したが、どうも朝10時くらいまでに登録を済ませないといけないらしい。
今回の目的達成はできなかった。
残念、また次来る時のお楽しみとしよう。

カオ・ロームムアク
[カオ・ロームムアクの登山口で門前払い]

「10月26日までにチケットの発券をしないと予約は自動的にキャンセルされる」と言う無情な通知を受けていた。
12月に一時帰国しようといつもの中華航空の予約をしようとしたのだが、帰りの台北=>バンコク間が満席でキャンセル待ちになってしまっていた。
台北を23時に出てバンコクに午前2時に到着するというフライト。
タイペイで5時間ほどの乗り継ぎ時間があるのも好都合。
つい1週間前に調べた時は、空席がたくさんあった。
当然だろう、こんな時間の飛行機なんだからガラガラに決まってる。
そして、いざ予約しようとしたら満席のキャンセル待ち。
中華航空に「ゴールドメンバーなんだからキャンセル待ちなんとかしてよ」と電話で頼み込んでおいた。
そしてその時は「たぶん大丈夫でしょう」と言われていたのだが、いつまでたっても予約が取れたとの連絡が来ない。
そして明日はもう発券期限と言う段になって、もう一度電話したら「あいにくオーハーブッキングしていてチャンスは低いようですから、日付の変更を、、、」と言われてしまった。
どうやら、利用者の多い便ではないのは確かなのだが、そのせいか機材を変更して小型の737型にしたらしい。もともとはエアバスの330だったから、半分になったわけで、そりゃキャンセル待ちも難しいわけだ。
結局、諦めて台北で14時間待ちして翌朝のバンコク行きに予約をして航空券を発券してもらった。
どうせ12月の上旬なんて仕事も暇だろうし、1日長く休んでも影響ないだろう。
気がかりなのは、留守番させてるネコのことだけだ。
当初の希望便は737型にダウンサイズされていたが、変更日の便はジャンボであった。
これはまた幸いと、2階席に席の予約を済ませる。
これで成田=>台北=>バンコクと帰りはずっとビジネスシートを確保できたわけだ。
もう機材変更などしないようにしてもらわなくちゃ。

10月27日夜。突然高熱が出る。
夕方からひどい悪寒もしていた。
いやだなぁ、風邪を引いたかな、雨の海がまずかったかなぁ、、、。
体温を計ったらば40度近い。
こんなに熱が高いのは、いつもの扁桃腺炎かもしれない。
喉が赤くなっているが、扁桃腺炎の割にはのどの痛みはない。
とにかく寒い。
翌朝、早朝から外での仕事が入っていて、ふらつきながら出社。
半日で帰ろうかと思たが、月末近い週末なので、そのまま定時まで働く。
帰宅してベッドにダウン。
頭はいたいし、寒くてブルブルと震えるし、眠れない。
ネコも心配してくれているのか、私の額を舌でペロペロと舐め続けてくれる。
これは熱さましに効果があるのかもしれないけど、ネコの舌はザラザラしていて、かなり痛い。
舐めてくれるより、湯たんぽ代わりになってじっとしててほしいのだが、、、
10月29日、もう出社できる状態ではなくなり、病欠を取らせてもらう。
昼過ぎから、少し楽になったので、病院へ行く。
血液検査をしたらA型インフルエンザとの結果が出た。
「すぐ入院しましょうかね」と言われたが、遠慮させてもらう。
病院内はエアコンの効かせすぎで、こんなところで寝泊りしたら寒くて風邪を引いてしまう。
結局、タイレノールやタミフルなど何種類かの薬をもらって帰宅となった。
診察治療費、8,485バーツ也。
とんでもなく高いけど、保険を利用してキャッシュレス。
「感染力が強いから、外出したらダメだからね」と釘を刺される。

インフルエンザ
[高い熱がなかなか下がらない]

さて、私はネコと暮らしているが、ネコにインフルエンザがうつったら可哀そうだ。
ネコはとても動物病院へ行くのを嫌がるし、私も仕事があるから、に日中は看病などしてあげられない。
困ったなぁ、どうしたらいいかネットで調べたらば、
「ヒトのインフルエンザはヒトにしか感染しない」と書かれてあった。
つまりネコにインフルエンザをうつしてしまう心配はないらしい。
安心したら気が軽くなった。

10月30日は日曜日だったので、1日中寝てた。
まだ熱は高いが、悪寒はしなくなったようだ。
スタミナを付けようと冷凍のウナギのかば焼きを温めて食べる。
そして、31日月曜日、熱も引いて平熱に戻った。
まだなんだかフラフラするが、熱で体力が落ちているだけだろう。
それと飲みつけない薬を飲んでいたので、胃に不快感がある。
明日からもう薬も飲むのやめてしまおう。

冷凍ウナギ
[ちょっと奮発して買った冷凍ウナギ 湯煎より電子レンジで温めた方がふっくらして美味しかった]

10月、どうもあんまりイイ月ではなかったようだ。

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| 日常 | 10:18 PM | comments (0) | trackback (0) |
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