■かれんだー■
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31       
<<前月 2017年12月 次月>>
■直近記事 20 ■
■コメント■
■カテゴリー■
■アーカイブ■
■2001-2004年の記録■
■ぶろぐ主宰者■
■ぷろぐらむ拝借■
BLOGNPLUS(ぶろぐん+)
■その他■
 
■あどみん■
ADMIN ID:
ADMIN PW:

台湾温泉旅行2017年11月-能高山越道・光被八表
11月25日 土曜日

廬山温泉での二日目、朝食前にブカサン渓上流の温泉頭(源泉湧出場所)まで行ってみる。
前回、半年ほど前に行こうとしたらば、崖に沿った歩道が崩れて、通行止めになっていた。
廬山温泉そのものが土砂災害の危険性から、行政により廃村が計画されているらしいので、崩れた歩道の補修工事など行われるのだろうかと気になっていた。
補修は簡易的なものだったけれど行われており、温泉頭まで行くことができた。

温泉頭への歩道
[温泉頭までの遊歩道も補修されていた]

朝食は団体客と一緒の会場でバイキング式の朝食。
一人用のプレート定食よりもいろいろなものがたくさん食べられるので、朝からモリモリと食べさせてもらう。
街のホテルではないので、朝食と言っても台湾式が中心で、饅頭やお粥とその惣菜類。
トーストもあるにはあるが、サラダやフルーツなどはない。
前回から気に入っているおかずは、大根のようなものを細かく刻んで、甘辛く味付けたもので、これを白いご飯に載せて食べると、めっぽう食が進む。
晩御飯は肉類が中心だったけれど、朝食には肉や魚はほとんどない。
精進料理に近い内容と言うのも私には好ましい。

午前9時、スクーターで屯原登山口を目指す。
廬山部落の茶畑を抜け、急な坂道をクネクネ曲がりながら登っていく。
125ccのスクーターではパワーが足りない感じがするほどの急坂。
スピードはしばしば10キロ以下に落ちる。
するとスクーターのバランスをとるのが大変になってくる。
道路の路面も荒れている箇所が多いのでなおさら。

1時間ほどで霧の立ち込める屯原登山口に到着。
これから山に入る登山グループが何組か集まっている中をすり抜けて、登山道を歩き始める。
このあたりで標高が2000メートルほどのはず、廬山温泉から1時間ほどで登ってきてしまったので、2000メートルと言っても多少は空気も薄くなっているのか、歩き始めたら少し息苦しく感じる。

霧が深い屯原登山口から歩き始める
[深い霧の中、登山道を歩き始める]

季節がいいからなのだろうか、前回以上に登山者が多い。
みんな大きなリュックサックを背負って、今晩は天地の山小屋周辺でキャンプでもするつもりなのだろう。
それに引き換えて、私は日帰りのつもりで、ウエストポーチに携帯電話と財布、そして水の入ったペットボトルに折り畳み式の雨傘を入れているだけなので身軽である。
他の登山者たちが重装備で、のっしのっしと登っていくのに対して、ひょいひょいと足取りも軽い。
本来ならば、日帰りと言えども、もう少ししっかりした装備をしなければ、登山者たちから「山を甘く見るな」と叱られそうだけれど、私が重装備の登山者を追い抜くたびに、「軽装!」と声が漏れてくるのが聞こえる。
それは私に対する警告ではなく、重い荷物もなく、軽々と登っている私を羨んで漏らした声のように感じた。

山の斜面を雲が流れていく
[霧の濃いところと薄いところがある 山の斜面を雲が流れていく]

前回、廬山部落から歩き始めて来たときに、時間切れで引き返したポイントを過ぎる。
あの時は、このあたりに尾上駐在所跡があったはずだと思いながら、帰路に就いたのだけれども、実際にはさらにそこからもう少し先に旧尾上駐在所はあった。
尾上駐在所は現在「雲海保線所」と名前を変えているが黒いの木造家屋で、戦前の建物のようにも見える。
登山口からここまで距離にして約5キロ、ちょうど1時間ほどで登ってきた。
1時間で5キロと言うのは、1分間に80メートルほどを歩くことになるから、ちょうど不動産屋の広告で使われる「駅まで徒歩〇分」の徒歩と同じくらいのスピードと言うことになる。
天地山荘まであと9キロとなっているので、このペースならあと2時間、午後1時ころには到着できそうだ。

尾上山への分岐点
[尾上山への分岐点 尾上と言う名前は山の名前として残っている]

5人まで渡れる吊り橋
[沢には簡易ながら吊り橋がかけられている]

雲海保線所(旧尾上駐在所)
[雲海保線所(旧尾上駐在所) 登山者には日本人もいるらしく日本語も聞こえて来た]

深い森の中の登山道を歩き続ける。
斜面が崩れて、ガラガラと今にも上から石が落ちてきそうな場所や、足場の崩れそうな場所もあったりするけれど、そんな登山道でもときどきスクーターが走ってくる。
スクーターは観光客が無茶して登山道に乗り入れているのではなく、保線所や山荘の物資を運んでいるのだけれど、徒歩でさえ足場の悪いところを、モトクロス用でもない普通のスクーターでガスボンベなど積んで登ってきてしまうのだから恐れ入ってしまう。

ガレ場
[ガラガラと崩れてきそうなところも多い]

12:30、霧が晴れた。
どうやら雲の上まで来たらしい。
さっきまでは、木の幹や岩にびっしりとコケが付いていて、木々の茂みは深くて、霧で光が弱まっていたこともあるが薄暗いモスグリーンの山道を歩いてきた。
このあたりからは、針葉樹が多くなり、光も差し込んでだいぶ明るい爽やかな景色になった。
見晴らしの効くところで下を見ると下界は雲海に埋まっている。

やっと青空が見えてきた
[やっと霧が晴れて、青空が見えて来た]

台湾山脈の分水嶺が見えてきた
[台湾山脈の分水嶺も見えて来た]

下界は雲の海
[下界は雲の海の中]

予定している折り返し時間は午後1時なので、あと30分ほどしかない、
天地山荘は谷を挟んだ斜面の向かい側に見え始めている。
山の天気は変わりやすいというのか、台湾山脈を登り詰めてきて、東側の方から雲が流れてきて、青空をかき消して、一瞬のうちにまた目の前を霧で覆ってしまったりする。
しかし、それも一瞬で雲は西側の下界へと流れ下り、また青空となる。
ここまで長袖を着てきたが、太陽が出てくると、長袖では暑すぎる。
一枚脱いで、半そでシャツだけになる。

登山ルートとして道はとてもよく整備されている
[以前と違って、登山道はとてもよく整備されている 吊り橋もあれば、木道もある]

崩れた崖の上に天池山荘が見える
[谷を隔てた向かい側斜面の崩れた崖の上に天池山荘が見える]

小さな沢も多い
[小さな沢がたくさんある 30年前はこうした沢の水を飲みながらの行軍だった]

吊り橋がかかり、見事な滝が現れた。
高さはどのくらいだろうか、数百メートルはありそうだ。
この滝は30年前に登って来た時も、その見事さに感動した記憶がある。
たしか写真も撮ったはずである。
この滝は、是非もう一度見ておきたいと思っていたので、見れてうれしい。

かなりの落差がある素晴らしい滝
[こんなに標高の高いところなのに水量が多い、この名瀑の水源はどうなっているのだろう]

この滝までで、すでに時刻は1時になってしまった。
下山を始めるはずの約束の時間である。
頂上を目の前にして、下山を決意するのも山男の勇気なのだろう。
しかし、私は山男ではないので、もうちょっとだけ、1時半までだって、廬山温泉に帰るのが1時間遅くなるだけだろう。
大勢に影響ないはずだからと、そのまま天地の山荘を目指す。

天地山荘の右側には、高圧線の鉄塔と、「光被八表」の石碑も見えている。
そこが台湾山脈の分水嶺、南投県と花蓮県の県境である。
天地の山荘にはたくさんの登山客がテントを張って大賑わいをしている。
ここまで来れば満足すべきところだが、欲は深くなっていくもので、「光被八表」の石碑まであと一息、15分も歩けば着けそうに感じたので、天地山荘は素通りして、「光被八表」の石碑を目指して歩き続ける。

天池山荘を過ぎたところの道しるべ
[能高山の主峰まで8km、山荘に泊まれば往復できるのだろう]

山荘を過ぎると登山者の姿はぱったりと消えてしまった。
たぶんみんな「光被八表」のある分水嶺は、明日の朝早く起きて、花蓮県側から登ってくるご来光を拝む予定なのだろう。
きっと、午後のこんな中途半端な時間に登っても仕方がないので、今夜の露営の準備で忙しいのだろう。

分水嶺方向を望む
[無人の登山道を分水嶺へ向けて急ぐ]

台湾の東西を結ぶ送電線の鉄塔あたりが鞍部
[台湾の東西を結んだ送電線の鉄塔が見えるあたりが鞍部]

下界は雲の中
[分水嶺の反対側も雲海の中に沈んでいる]

15分で着けるかと思ったら、30分もかかった。距離は2.6キロ。
遠くから見たらすぐ隣にあるように見えても、山道は谷の奥へ回り込んだりするので、どうしても遠回りになってしまうらしい。
そして、「光被八表」の石碑に午後2時ちょうどに到着。

能高越道の分水嶺に立つ光被八表を示す道しるべ
[能高越道の分水嶺に立つ光被八表を示す道しるべ 光被八表まで75メートル]

霧に霞む光被八表の石碑
[太平洋側から霧が流れて来るが、光被八表はもうすぐ目の前]

遂に、30年ぶりでこの分水嶺に立つことができた。
私の青春時代最大の冒険であった台湾山脈横断のハイライトである分水嶺に来れた。
あの時は、夜露に濡れた草をかき分けながらこの石碑の前に立ったのだが、今は足元もハイキングコースのようによく整備されている。
その足元も、30年前はソウルの市場で買った防寒用の軍靴であったが、今回はバンコクの市場で買った129バーツのデッキシューズ。

光被八表
[30年前の石碑はたしか朝霧に霞んでいた記憶がある]

石碑の裏面
[石碑の裏面にて自撮りで記念写真 老けたなぁ]

太平洋側は雲の中に隠れて、真っ白で何も見えない。
台湾海峡側は、下界に雲がかかって、見事な雲海になっている。
この景色をじっくりと眺めていたいが、すでに当初の下山開始予定時刻を1時間もオーバーしている。
そびえる能高山にも霧がかかり始めている。
のんびりとはしていられない。
屯原の登山口に着く前に日が暮れてしまったらアウトだし、雨でも降ってきたらば、着替えもない。

太平洋側から雲が流れ込んでくる
[分水嶺を越えて太平洋側から雲が流れ込んでくる ]

能高山は霧に隠れている
[能高山の主峰に雲がかかって見えないのは残念]

鞍部に木はほとんど生えていない
[分水嶺の鞍部にはほとんど大きな木はなく、草地になっている]

再び天地の山荘へ戻ってきたのが14:45。
ここから登山口まで14キロなので、休まず歩き続けても3時間はかかるだろうから、登山口到着は6時近くになりそうだ。
昨日あたりは、5時半には日が暮れていたので、急がないと日没までに到着できない。
来るときも一度も休憩なく登ってきたし、まだ足の筋肉痛や膝も問題なさそう。
ただし、履いているデッキシューズがパンクをして、つま先が口を開けはじめている。

登山者でにぎわう天池山荘前

天池山荘前に張られたテント群

天地山荘は、ますます登山者でにぎわっている。
テントもびっしり張られている。
山荘は近代的にコンクリートの建物になっている。
30年前はやはり戦前の警察駐在所(能高駐在所)の木造家屋で、部屋も畳敷きだったのを覚えている。
その山荘の案内板があったので、立ち止まって眺めてみたら、現在の建物は民国82年(1993年)に再建されたものらしい。

天池山荘の案内板
[天池山荘の案内板 これによると以前の木造家屋も再建されているらしい]

私が泊まった古い山荘は、民国75年(1986年)に焼失したらしい。
1986年と言えば、私たちが能高越えをするためこの山小屋に泊まった年ではないか。
つまり、私たちが泊まってすぐに焼失してしまったらしい。
もし、焼失が先だったらばこんな標高の高いところで野宿する羽目になっていたかもしれない。

天池山荘からの眺め
[逆光になるけれど、天池山荘からの景色も雄大に見える]

ふたたび滝に見惚れてしまう
[帰り道でもやはり滝に見惚れてしまう]

滝のある沢にかかる吊り橋
[滝からの沢にかかる吊り橋]

山荘から下ること1時間ほどのところに、日本時代に使われていた炭焼き窯の跡と言うのが道端にあった。
このあたりに日本人の集落はなく、駐在所の警察官がいるだけだろうから、彼らは自分たちで炭も焼いていたのだろうか?
しかも、天地(能高)駐在所からも尾上駐在所からも5キロほども距離ま離れているところと言うのに。

炭焼き窯の跡
[日本時代に使われていた炭焼き窯の跡]

もう山を登ってくる登山者と出会うこともなくなったし、下山する人を追い越すこともなくなった。
この時間から天地を目指しても、日没までにたどり着けないだろうし、下山しても登山口にたどり着いたら夜になってしまっているだろう。
つまり、もうこの先で登山者に出会う可能性は低く、もしも私が道の途中でトラブルに巻き込まれても、明朝まで発見されることはなさそうだ。
より慎重に下山しなくては、、、。

陽は西に傾き、雲に光が乱反射
[陽は西に傾き、雲に光が乱反射]

絶景
[時間など気にせず移り変わる光と雲をいつまでも見ていたい気持ちになってしまう]

雲海保線所(尾上駐在所)を過ぎると、下界の雲海に夕日が当たって、雲海が赤く染まり始めた。
急がねば、時刻は間もなく5時になろうとしている。
雲海の中にマヘボ富士が見える。
他の山が3000メートル級なので、マヘボ富士は富士と言っても「四方の山を見下ろして」とはいかないが、雲海に頭をのぞかせたその姿は富士山によく似ている。

マヘボ富士
[木立の間からマヘボ富士の山頂部が見える]

雲海も夕日に染まり始めた
[雲海も夕日に染まり始めた]

5時を過ぎた。
前回来た時の折り返し地点あたりまで来ているはず。
だんだん薄暗くなるとともに、霧まで立ち込めて来た。
登山口まであと2、3キロくらいのはず。
このあたりは、森林地帯で鬱蒼とした樹海は昼でも暗いので、よけいに暗くなるのが早いようだ。
足元すぐのところを目を凝らして、注意しながら進まなくては。
この先には崖崩れの箇所も、吊り橋、崖道もある。

暗くなり、霧がかかってきた
[薄暗くなってきて、霧も立ち込め始めた]

もうあと1キロほどのところまできて、登山者のパーティーを追い抜く。
すでに、あたりは暗くなっており、登山パーティーも暗い中で懐中電灯も点けずに歩いていた。

崖崩れの場所では、前方からヘルメットにランプを付けた二人組とすれ違う。
たぶん、先ほど追い抜いたパーティーの救援に向かうのだろう。

屯原登山口には5時40分に到着。
下山してくるパーティーを迎えるためのワゴン車が数台エンジンをかけて待機している。
もう、完全に真っ暗で、足元さえ何も見えない。
止めたスクーターのある場所まで向かうのにも、スマホの懐中電灯機能に頼らなくてはならない始末。
でも、遂に長年の再訪の夢がかなったわけで、達成感と満足度は高い。

真っ暗な屯原登山口
[真っ暗になり屯原登山口前の案内板もまったく見えない]

スクーターで廬山温泉を目指して走り始めるが、5メートル先が見えないくらいの濃霧がかかってしまっている。
スクーターのライトで前方は真っ白に光ってしまい、どこが道で、どこが崖なのかもはっきり見えない。
ライトの向きを上にしたり下にしたり、頻繁に変えながら、時速15キロくらいで徐行しながら山道を下る。
これでは廬山温泉まで1時間以上かかりそうだ。

温泉に戻ったら、たぶん夕食の時間は過ぎているだろうけど、どうせもともと冷えた料理だろうから、時間に遅れても構わないだろう。
それに、食事の前にお風呂もしたいし、晩酌には紹興酒も飲みたい。
その紹興酒は宿にはなぜだか置いていないので、途中の廬山の部落で買い込んでから帰ろうと思っている。

その廬山の部落まで降りてきたころには霧も晴れて、スクーターでも夜道を走りやすくなっている。
部落の「酒菸」と看板を出している雑貨屋に入って紹興酒を所望するが、「没有」とのこと。
別の雑貨屋でも同じ、カラオケ屋を兼ねた店でも「ない」と言われる。
その店の主人によれば、この部落の人たちで紹興酒を飲む人はいないそうだ。
この部落の人が飲むのは、ビールにウイスキー、米酒という米から作った焼酎くらいだそうで、紹興酒のような平地人の飲む酒は飲まないのだそうだ。
ここ南投県は紹興酒が名産だというのに、山の人には人気がないらしい。
結局、紹興酒は廬山温泉までもどり、吊り橋近くの雑貨屋で180元也を買い込む。

急いで、大浴場で温泉に入り、夕食会場へ。
今夜は団体客と一緒の会場で、団体客の一部はまだ酒宴の最中であった。
私はひとりテーブルに着いて、いつもの給食風の惣菜をツマミに紹興酒を飲み始める。
団体客の酒宴で飲まれている酒は、ビール、ウイスキーにワインと言ったところで、ここでもやはり紹興酒は見かけない。
台湾の紹興酒はとても美味しいと思うけど、いったい現在の紹興酒の立場はどうなっているのだろうか。

今夜の夕食
[今夜のメニューにも大好きな川海老の唐揚げが付いていた]

夕食後にふたたびゆっくりと温泉に入り、それから警光山荘の前まで出てみる。
もう夜も10時近くなり、さきほどまで騒がしかった団体客の往来も消えて、静まり返っている。
そんななかで、前回も見かけたネコがいた。
相変わらずなつっこくて、近づいたらすり寄ってくる。
さっきの夕食の惣菜を少し残して持ってきてやれば良かった。
このネコはこうして温泉客に媚びを売って、食べ物にありついているのだろう。

警光山荘前のネコ
[膝の上で丸くなって寝てしまった 寒いのかな]

部屋に戻って有線テレビで日本の番組を少し見てベッドに入る。
今回、埔里でスクーターを借りて、正解だった。
最初は、高いし、天気も今一つだと思ったけれど、スクーターがなければ、今日の感動はありえなかった。

パンクした靴
[まだ買ったばかりの靴なのに、もう履きつぶしてしまった 安物だからかな]

つづく

| https://chiangmaikk.com/blog/index.php?e=89 |
| | 09:17 PM | comments (0) | trackback (0) |
台湾温泉旅行2017年11月-未踏のマレッパヘ
11月24日 金曜日

このところ年に2回の恒例行事と化しているノックスクートを利用した台湾格安旅行。
今回でもう5回目くらいになるだろうか。
はじめは往復で3,000バーツ程度だったのが、だんだんと高くなり、もう5,000バーツを越えている。
しかも、今回は復路にオプションまで付けたので6,000バーツを越えている。
もう、安いから台湾へ行くという理由は成立しなくなりつつある。

そして、値段が高くなるのと同じように、搭乗率も高くなってきているようで、午前零時過ぎのチェックインカウンターは長蛇の列になっている。
チェックインの行列に並ぶのはあまり愉快ではない。
前後とも、観光客グループで楽しそうに笑ったり写真を撮り合ったりしている。
一人旅は台湾でもタイでもあまり一般的ではないようで、行列の中で浮いた存在になっている。

ドンムアン空港チェックインカウンターの行列
[午前零時を過ぎてもドンムアン空港チェックインカウンターには行列]

順番がやっと回ってきて、チェックイン。
「窓側か通路側どちらにしますか」とちゃんと聞いてくれる。
これが当たり前だと思うけど、前回マレーシアへ行った時に乗ったエアアジアは座席の選択は追加料金を払わない限り一切できなかった。
「どちらでも良いけど、なるべく前方の席をお願いしますよ」と希望を述べたら、22Hと言う座席が出てきた。

午前2時過ぎに搭乗してみたら、もらった席は大正解であった。
機内前方のサイレントゾーンと言う区分にある黄色いシート。
以前もこのシートだったことがあり、足元が広くて快適だった。
事前にこのシートの予約をしようとすると、随分と高い追加料金がかかることになっているらしい。
このノックスクートに乗る人は若い人が多いのだけれど、このサイレントゾーンに乗っている人の年齢は私を含めてちょっと高めである。
航空会社でも、年配者には何らかの配慮をしてくれているのだろうか。

黄色いシートは前の座席に膝がつかえることがなく、普通の飛行機よりも足元が広いかもしれない
[黄色いシートは前の座席に膝がつかえることがなく、普通の飛行機よりも足元が広いかもしれない ]

ただし、3人掛けのシートて、隣は中年のタイ人女性二人組であったので、ゴロリと横になるわけにはいかなかった。
しかし、私のすぐ前のシートは一列丸まる空いている。
客室乗務員に席の移動をしたい旨伝えたのだが、「移動には追加料金が必要」とのことであった。

足元は広くて、膝がつかえることもなくてよいのだが、シートそのものは薄っぺらなエコノミーで、痛めている頸椎に負担がかかるのか、前回マレーシアへ行った時と同様に、首から背中にかけて痛み、右腕が痺れっぱなしとなる。
背もたれにクッション代わりとして枕でも当てたいところだが、LCCなので枕も毛布も配られない。
台北までの4時間、ひたすら目を閉じて、痛みに耐えて座り続ける。

最前列のシートへの移動は断られ、空席のままだった
[最前列のシートへの移動は断られ、でもずっと空席のままだった ]

定刻よりも少し早めの6:45に桃園空港に着陸。
急げば、7:05発の台中行バスに間に合うかもしれない。
着陸したものの、地上をノロノロ走ったり、止まったりを繰り返して、7:55にやっとターミナルへ。
しかも、イミグレーションから一番遠いゲートに着いたようだ。
大急ぎでターミナル内を走り、一番でイミグレーションを抜けて、バス乗り場へ。
果せるかなギリギリ間に合いそう。
しかし、バスの切符売り場に係員が見当たらない。
うーん、しからば直接バスへ。
台中行の緑色したバスはまもなく出発しようとしているところだった。
「間に合った」と喜んでバスに乗り込もうとすると、ドアの横の女性係員が「切符を買ってからの乗車です」と言う。
切符売り場に係員がいなかったことを伝えたが「必ずいるから、急いで買ってきなさい」と言う。

係員は切符売り場に戻っていた。
大慌てで台中までの切符を買い(280元)、バスへもどったのだが、そこにはもう緑色のバスはいなかった。
先ほどの女性係員が「次のバスは7:35だからね」と言う。
ちょっとくらい待っててくれても良さそうなものだが、まぁ待ち時間が30分くらいなら許容範囲だろう。
慌てて乗り込んで、台中までの2時間少々トイレを我慢しなくて済んだと思えば、不幸中の幸い。

桃園空港には今にも雨が降り出しそうな厚い雲がかかっていた
[桃園空港には今にも雨が降り出しそうな厚い雲がかかっていた]

7:35のバスは前回までのバスが3列シートのゆったりタイプだったのと比べると、普通の4人掛け、USB電源も付いてなければ車内WiFiにログインしても、ネットには接続できないなど、ちょっとサービスのレベルが低いバスに当たったようだ。

台中駅前に到着したのは午前11時。
時計台のある旧台中駅から新しくて大きな台中駅にすでに変わり、電車も高架を走るようになったけれども、どうもまた新しい台中駅舎は完全には完成していないのか、駅の入り口は旧駅舎を使っているようで、旧駅舎へ出入りする人がたくさんいる。

埔里行きのバス乗り場も、旧駅舎前のロータリーではなくなっていて、前回は随分と歩いたけれども、そのバスも新しい駅舎前にバスターミナルができていて、そこを経由することを知ったので、そのバスターミナルへ向かう。
バスターミナルは新しく、大きく、各方面行きのバスが発着するようにできているので、大変便利そう。
それとターミナル内の飲食施設や土産物売り場なども、まるで日本の駅構内物産館のように充実しているし、ディスプレイも垢抜けている。

次の埔里行きのバスは11:15発となっていた。
それまでターミナル内のWiFiに接続してみる。
本当のところ、今回の台湾旅行はいつものマンネリ廬山温泉旅行ではなく、中国大陸に近い馬祖島へ行こうと思って夏くらいから計画していたものである。
しかし、先月くらいから台湾から馬祖島へ渡るフェリーに欠航が目立ち始めていた。
欠航の理由は、風と波浪のためらしい。
そして、1年のうちでも今くらいが一番北西風が強いらしくて、今月に入ったらほとんど毎日欠航続き、せいぜい週に一便運航できるかどうかと言った感じになっている。
こんな状況では、島流しになって帰れなくなってしまう恐れもあり、馬祖島行きはもう少し季節の良い時まで延期と決めた。
そして、ウェブを確認すると、やはり今晩の馬祖島行きのフェリーは欠航となっていた。

馬祖島行きのフェリーは今日も欠航

埔里行きのバスは車内のWiFiでネットに接続できた。
埔里に着いた後、温泉まで行くバスの接続時間を調べてみたら、埔里発が11;20と次の13;00となっている。
台中から埔里まで所要時間は1時間なので、11:20のバスにはギリギリで間に合いそうに思えるし、早く温泉に着きたいところなのだが、今朝はまだ何も食べていない。
それに温泉に着いてしまうと、温泉街には一人でふらりと食事が取れるところがほとんどない。
台湾の観光地で一人旅はレアケースのため、どの食堂もグループ向けになってしまっている。
埔里の街ならば、一人飯向けの食堂は充実している。
そのままバスを乗り継ぐべきか、一便遅らせるべきか考えているうちに埔里に到着。
十分に乗り継げそうだったけれど、台湾の楽しみは食べることでもあるので、すぐの廬山温泉行きのバスを横目に、埔里のバスターミナルから市場の方へ向かって歩き出す。

なお、埔里のバスターミナルのトイレは大掛かりな改装工事をしていた。
ここのトイレは初めて埔里に来た30年以上前から変わっていなかった。
当時からちょっと臭い、古めかしいトイレだったが、とうとう改装されることになったらしい。
時代の波は、こんな田舎のトイレにも押し寄せているのかと感傷的な気分になる。

埔里の市街地をしばらく回ってみて、四海遊龍の餃子チェーンに入ることにする。
餃子好きなので、やはり看板を見ると食べたくなる。
鍋貼と言う台湾式棒餃子8個とニラ入りの水餃子6個を注文。
以前は焼き餃子1個当たり5元だったが、少し値上がりしで5.5元になったようだ。
ライバルの八方雲集チェーンで前回食べた時は、5元のままだったが、そっちは現在どうなっているのだろう。

四海遊龍の焼き餃子(招牌鍋貼)
[少し値上がりしたらしい四海遊龍の焼き餃子(招牌鍋貼)]

餃子の皮も淡緑色をしたニラの水餃子
[ニラの水餃子は、餃子の皮もうっすらと緑色をしていた]

餃子を食べ終えてもまだ廬山温泉行きのバスまで1時間近くある。
やっぱり、時間がもったいない。
荷物がなければ、街中を歩き回るのだが、頸椎の炎症で右手に力が入らず、とても荷物を持って歩き回れそうにない。
バスターミナルへ戻ってきたところ、ターミナル前には何軒かのレンタルバイク屋が並んでいた。
そうか、バイクを借りて廬山温泉へ行くと言う方法もあるなと思い、店の前にバイクの貸出料を書いた看板を立てている店に入ってみた。
看板には50ccからレンタルがあるようで、125ccクラスでは300~400元となっていた。
バス代よりも高いけれど、バイクがあれば、廬山温泉周辺での機動力も確保できる。

しかし、バイクは借りられなかった。
外国人には貸さないことになっているという。
行きたいところがあれば、タクシーで行った方が良いという、嬉しくもないアドバイスをもらってその店を出る。

すぐ隣もレンタルバイクで、出租機車とは書いてあるけれど、料金表などは掲載されていない。
ダメもとでバイクの借用を尋ねたら、ふたつ返事でレンタル契約書を出してきて、手回しよくレンタルの手続きを始めた。
パスポートと国際免許書を提示して、保証金の代わりに身分証を預かることになっているというのだが、パスポート以外に身分証を持っていないし、パスポートは預ける訳にはいかない。
「タイの運転免許書(自動車用)でも可以か?」と聞いたら、OKとのこと。
契約書にサインをして、「ところでいくら?」と尋ねたところ、1日600元と言う。
うーむ、予算オーバーだなぁ、、料金交渉をするが、他の人の契約書を見せながら、みんなこの金額で借りてるんだよと言われる。
結局のところ明後日の日曜日お昼までにガソリン満タンで返却するので1100元と言うことになった。
SYMという地元メーカーの125ccスクーター。
ふだん古いバイクばかり乗っているし、こんなスクーターにはほとんど乗ったことがなく、しかも馴れない右側走行、ちょっと心配だけれども、スロットル回して埔里の街を走り始める。

スクーターならば日本で古いラビットスクーターに乗り続けているのだけれど、最近のスクーターは、ブレーキがハンドルに付いているので、当初かなり戸惑った。
スピードやタコメーターなどはデジタル表示になっている新型なのだが、エンジンの回転数が5000ppmを越えると、ついつい癖で左手のブレーキレバーをギュッと握ってしまう。
旧式のラビットスクーターでは、この左手レバーはクラッチになっているから、エンジンの回転数が上がったら、クラッチを切って、ギアチェンジをするものと体が覚え込んでしまっている。

霧社への道を注意しながらゆっくりと、時速40キロくらいで走るが、想定外の寒さに震えてしまった。
エアコンの利きすぎる飛行機の中から、長袖のシャツを着たままでいるのだが、それでもスクーターで走るとかなり寒い。
この何年か、毎年この季節に台湾へ来ているが、いつも半袖で過ごせたような気もするが、記憶違いだったのだろうか。
それに空は厚い雲に覆われて、陽も差してこない。
こんなことからバンコクでもバイクに乗るときに使っている薄手のヤッケを持ってくるんだった。

廬山温泉まで1時間以上かけて到着し、いつもの廬山園ホテルへスクーターを回す。
いつもなら廬山温泉のシンボルとも言うべき吊り橋を渡るところだが、今回はスクーターなので下流のコンクリ橋。
なんだか、吊り橋を渡らないと、廬山温泉へ来たなと言う実感が伴わない。

廬山園ホテルは案に相違して、ほぼ満室の様だった。
どうやら大きな団体客が来ているようで、フロントでは私の部屋を捻り出すために、団体ツアーの添乗員に電話を掛けたりして調節してくれた。
今晩は1200元で、明日は休前日料金の1500元。
いずれも、夕食と朝食付きで、もちろん温泉にも入れるから、大変にうれしい料金。

部屋は5階の5311という部屋で、谷川に面している。
掃除はちゃんとできているけれど、メンテナンスは弱いようで、電気コードが剥き出しになっていたりする。

長袖シャツの下にTシャツを2枚重ねにして着込んで、再びスクーターで出かける。
スクーターなど機動力がなければいけないところとして、ハボン渓沿いの集落がある。
昔は入山許可書を携帯しなければ行けないところであったし、現在のように制限がなくなっても公共交通機関が通っていない集落である。
霧社からの距離も30キロほどあるので、歩いて行くにも遠すぎて、いままでずっといけないでいた地域だ。
このあたり霧社事件より10年前にサラマオ事件と言う山地原住民の蜂起事件があったサラマオへのルート上にあり、また霧社事件当時、警察の霧社分室主任をしていた佐塚警部はハボン渓奥のマレッパから転任してきていた。
その佐塚警部は、霧社事件で山地民の恨みをかって殉職しているが、転任元のマレッパの山地民の評判は良かったようである。

このせっかくの機会なのでマレッパまで行ってみることにする。
午後2時に廬山温泉を出発、春陽村から山道に入り、旧ロードフ社のあったあたりから清境農場へのドライブウェイに入って少し走って、力行産業道路へ左折する。
この力行産業道路と言うのがマレッパ方面への道で、ずっと進めば梨山まで繋がっているようである。
産業道路と名前が付いているけれど、日本の産業道路とは大きくイメージが異なり、むしろ林道である。
車が走れるように道幅こそ拡張されているが、もともとの理蕃道路とほとんど変わっていないのではないかと思われる。

力行産業道路はところどころ崩れた箇所がある
[力行産業道路はところどころ崩れた箇所があり重機が入っている]

地元メーカーSYMのGT125スクーター
[本来ならオフロードバイク向きだけど、地元メーカーSYMのGT125スクーターもなかなかのものです]

簡易舗装もところどころ途切れがちで、泥んこの水たまりでは、ブレーキをかけるとスリップをして転倒しそうだ。
山の斜面に筋を入れたような道で、クネクネと曲がってばかり、スピードも20キロとは出せないところが多い。
1時間少々走って、発祥村への別れ道になる。
発祥村は旧マシトバオン社で、ここへも足を延ばしてみたいが、既に3時を過ぎており、寄り道していたらパレッパまでたどり着けそうにないので割愛する。

発祥村(マシトバオン)への分かれ道
[左へ下れば発祥村、右へ進めば力行村を経て梨山への別れ道]

発祥村(マシトバオン)遠景
[はるかに発祥村(マシトバオン)の遠景が望める]

急な斜面に沿って、谷があれば奥深くもぐりこんで渡ります
[道は急な斜面の等高線に沿って、谷があれば奥深くもぐりこんで沢を渡ります ]

耕して天に昇る
[こんな急傾斜の斜面も農地になっている まさに「耕して天に至る」]

小さな滝と、希望古道と名づけられた登山道(旧道?)
[小さな滝と、希望古道と名づけられた登山道(旧道?) ]

更に走ること30分ほどでマレッパ(力行村)にたどり着いた。
貧しい村である。

マレッパ集落の中心にあるロータリー
[マレッパの集落の入り口であり中心でもあるロータリー]

平たんなところはほとんどなく、急な斜面に集落があり、等高線に沿って家並が並んでいる。
段々畑ならぬだんだん家並と言った感じである。
メインストリートと思えるところも、小さな雑貨屋があるだけ。
その雑貨屋の前で、店主が山で捕まえてきたのか、大きなムササビのような動物をガスバーナーで丸焼きにしていた。

マレッパ村 教会の十字架が見える
[急傾斜の斜面に段々になって家屋が密集しているので屋根ばかりしか映らない そのなかにも教会の十字架]

戦前の警察官舎のような黒い木造家屋が残っていた。
たぶん日本統治時代からの建物と思われるが、佐塚警部もこのような官舎に暮らしていたのだろうかと想像してみる。
佐塚警部はピッコタウレという地元の山地民を妻として、二男二女がいた。
30年前、私が廬山温泉の碧華荘で初子おばあさん(オビンダダオ)から、横浜戸塚の下山さんを紹介してもらったことがある。
スナックのような店をやっているとのことであったが、とうとうその店を訪ねることのないまま、その連絡先など紹介を書いてもらったメモも紛失してしまった。
その下山さんと言うのが、佐塚警部の次女である。

古い警察官舎風の木造家屋
[今でも人が住んでいるらしい昔の警察官舎風木造家屋 ]

このマレッパの村も大きな村ではないけれど、ゆっくり歩いてみて回る時間がない。
既に時刻は4時で、もたもたしていると陽が暮れてしまう。
心残りはあるけれど、パレッパまで来られたことだけでも良しとして、廬山温泉へ戻ることにする。

果樹園では柿の栽培が盛んなようで、立派な柿がなっていた
[マレッパ周辺の果樹園では柿の栽培が盛んなようで、立派な柿がなっていた]

帰り道の途中で、燃料タンクの残量が半分以下になっていたので霧社のガソリンスタンドに立ち寄る。
もうすっかり日も暮れてしまった。
ガソリンはレンタルした店から95のハイオクを入れるように言われている。
レギュラーでも良さそうな気もするが、もともと燃料タンクが小さいのか、満タンにしても3リットルほどしか入らず、値段も83元と安かった。
ガソリンの値段はバンコクとほぼ同じくらいのようだ。

霧社のガソリンスタンドでハイオクガソリンを補給
[霧社のガソリンスタンドにて、このあたりで給油所はここだけしかないようだ]

宿には6時前にたどり着き、すぐに大浴場の温泉に飛び込む。
マレッパからの帰り道は小雨交じりで、身体が冷え切ってしまっていたので、温泉のお湯ガンともうれしい。
小さな庭のある露天風呂のような感じの浴場なので、できれば陽のあるうちに入りたかった。
既に今晩の団体客も到着しているようで、宿の中庭からカラオケが聞こえてくる。
台湾の人はカラオケが本当に好きなようだ。
ひっきりなしにカラオケが途切れるということがない。

夕食会場は団体客とは別に、個人客ばかり数組のテーブルが別会場に用意されていた。
私は埔里の酒屋で買った175元の紹興酒をぶら下げて食事のテーブルに着く。
学校給食風の毎度おなじみの一人用メニュー。
私の好きな川海老とピーナッツの炒め物も付いている。
贅沢なメニューではないけれど、それぞれみんな美味しい。
紹興酒との相性もいいし、ご飯も進む。
他の台湾人のお客さんたちは、おかずを残していたりしていたけれども、私は全部きれいに食べつくした。

給食風のプレートに盛られた夕食
[今晩の夕食 ちょっと冷めかけているが、もともとプレートなので弁当感覚で食べられる]

豚の骨がゴロリと入ったスープ
[プレート以外に豚骨と冬瓜のスープやデザートにスイカが付いてきた]

夕食後にもう一度大浴場で温泉に浸かる。
はじめはぎこちなかったスクーターの運転にも慣れてきたので、明日は能高山天池を目指すため、その途中の屯原登山口までスクーターで登ってみることにしよう。
前回来た時は、バスの終点である廬山部落から徒歩で登り始めたので、屯原登山口の少し先までしか行けなかったけれど、登山口までスクーターで行けば、もっと先まで、上手くすれば天池まで往復できるかもしれない。
そんなことを湯に浸かりながら計画する。

モディリアニの絵に似ている
[温泉宿のレセプション横の時計にはモディリアニ風の女性が描かれていた]

つづく

| https://chiangmaikk.com/blog/index.php?e=88 |
| | 09:25 PM | comments (0) | trackback (0) |
PAGE TOP ↑