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台湾温泉旅行2017年11月-能高山越道・光被八表
11月25日 土曜日

廬山温泉での二日目、朝食前にブカサン渓上流の温泉頭(源泉湧出場所)まで行ってみる。
前回、半年ほど前に行こうとしたらば、崖に沿った歩道が崩れて、通行止めになっていた。
廬山温泉そのものが土砂災害の危険性から、行政により廃村が計画されているらしいので、崩れた歩道の補修工事など行われるのだろうかと気になっていた。
補修は簡易的なものだったけれど行われており、温泉頭まで行くことができた。

温泉頭への歩道
[温泉頭までの遊歩道も補修されていた]

朝食は団体客と一緒の会場でバイキング式の朝食。
一人用のプレート定食よりもいろいろなものがたくさん食べられるので、朝からモリモリと食べさせてもらう。
街のホテルではないので、朝食と言っても台湾式が中心で、饅頭やお粥とその惣菜類。
トーストもあるにはあるが、サラダやフルーツなどはない。
前回から気に入っているおかずは、大根のようなものを細かく刻んで、甘辛く味付けたもので、これを白いご飯に載せて食べると、めっぽう食が進む。
晩御飯は肉類が中心だったけれど、朝食には肉や魚はほとんどない。
精進料理に近い内容と言うのも私には好ましい。

午前9時、スクーターで屯原登山口を目指す。
廬山部落の茶畑を抜け、急な坂道をクネクネ曲がりながら登っていく。
125ccのスクーターではパワーが足りない感じがするほどの急坂。
スピードはしばしば10キロ以下に落ちる。
するとスクーターのバランスをとるのが大変になってくる。
道路の路面も荒れている箇所が多いのでなおさら。

1時間ほどで霧の立ち込める屯原登山口に到着。
これから山に入る登山グループが何組か集まっている中をすり抜けて、登山道を歩き始める。
このあたりで標高が2000メートルほどのはず、廬山温泉から1時間ほどで登ってきてしまったので、2000メートルと言っても多少は空気も薄くなっているのか、歩き始めたら少し息苦しく感じる。

霧が深い屯原登山口から歩き始める
[深い霧の中、登山道を歩き始める]

季節がいいからなのだろうか、前回以上に登山者が多い。
みんな大きなリュックサックを背負って、今晩は天地の山小屋周辺でキャンプでもするつもりなのだろう。
それに引き換えて、私は日帰りのつもりで、ウエストポーチに携帯電話と財布、そして水の入ったペットボトルに折り畳み式の雨傘を入れているだけなので身軽である。
他の登山者たちが重装備で、のっしのっしと登っていくのに対して、ひょいひょいと足取りも軽い。
本来ならば、日帰りと言えども、もう少ししっかりした装備をしなければ、登山者たちから「山を甘く見るな」と叱られそうだけれど、私が重装備の登山者を追い抜くたびに、「軽装!」と声が漏れてくるのが聞こえる。
それは私に対する警告ではなく、重い荷物もなく、軽々と登っている私を羨んで漏らした声のように感じた。

山の斜面を雲が流れていく
[霧の濃いところと薄いところがある 山の斜面を雲が流れていく]

前回、廬山部落から歩き始めて来たときに、時間切れで引き返したポイントを過ぎる。
あの時は、このあたりに尾上駐在所跡があったはずだと思いながら、帰路に就いたのだけれども、実際にはさらにそこからもう少し先に旧尾上駐在所はあった。
尾上駐在所は現在「雲海保線所」と名前を変えているが黒いの木造家屋で、戦前の建物のようにも見える。
登山口からここまで距離にして約5キロ、ちょうど1時間ほどで登ってきた。
1時間で5キロと言うのは、1分間に80メートルほどを歩くことになるから、ちょうど不動産屋の広告で使われる「駅まで徒歩〇分」の徒歩と同じくらいのスピードと言うことになる。
天地山荘まであと9キロとなっているので、このペースならあと2時間、午後1時ころには到着できそうだ。

尾上山への分岐点
[尾上山への分岐点 尾上と言う名前は山の名前として残っている]

5人まで渡れる吊り橋
[沢には簡易ながら吊り橋がかけられている]

雲海保線所(旧尾上駐在所)
[雲海保線所(旧尾上駐在所) 登山者には日本人もいるらしく日本語も聞こえて来た]

深い森の中の登山道を歩き続ける。
斜面が崩れて、ガラガラと今にも上から石が落ちてきそうな場所や、足場の崩れそうな場所もあったりするけれど、そんな登山道でもときどきスクーターが走ってくる。
スクーターは観光客が無茶して登山道に乗り入れているのではなく、保線所や山荘の物資を運んでいるのだけれど、徒歩でさえ足場の悪いところを、モトクロス用でもない普通のスクーターでガスボンベなど積んで登ってきてしまうのだから恐れ入ってしまう。

ガレ場
[ガラガラと崩れてきそうなところも多い]

12:30、霧が晴れた。
どうやら雲の上まで来たらしい。
さっきまでは、木の幹や岩にびっしりとコケが付いていて、木々の茂みは深くて、霧で光が弱まっていたこともあるが薄暗いモスグリーンの山道を歩いてきた。
このあたりからは、針葉樹が多くなり、光も差し込んでだいぶ明るい爽やかな景色になった。
見晴らしの効くところで下を見ると下界は雲海に埋まっている。

やっと青空が見えてきた
[やっと霧が晴れて、青空が見えて来た]

台湾山脈の分水嶺が見えてきた
[台湾山脈の分水嶺も見えて来た]

下界は雲の海
[下界は雲の海の中]

予定している折り返し時間は午後1時なので、あと30分ほどしかない、
天地山荘は谷を挟んだ斜面の向かい側に見え始めている。
山の天気は変わりやすいというのか、台湾山脈を登り詰めてきて、東側の方から雲が流れてきて、青空をかき消して、一瞬のうちにまた目の前を霧で覆ってしまったりする。
しかし、それも一瞬で雲は西側の下界へと流れ下り、また青空となる。
ここまで長袖を着てきたが、太陽が出てくると、長袖では暑すぎる。
一枚脱いで、半そでシャツだけになる。

登山ルートとして道はとてもよく整備されている
[以前と違って、登山道はとてもよく整備されている 吊り橋もあれば、木道もある]

崩れた崖の上に天池山荘が見える
[谷を隔てた向かい側斜面の崩れた崖の上に天池山荘が見える]

小さな沢も多い
[小さな沢がたくさんある 30年前はこうした沢の水を飲みながらの行軍だった]

吊り橋がかかり、見事な滝が現れた。
高さはどのくらいだろうか、数百メートルはありそうだ。
この滝は30年前に登って来た時も、その見事さに感動した記憶がある。
たしか写真も撮ったはずである。
この滝は、是非もう一度見ておきたいと思っていたので、見れてうれしい。

かなりの落差がある素晴らしい滝
[こんなに標高の高いところなのに水量が多い、この名瀑の水源はどうなっているのだろう]

この滝までで、すでに時刻は1時になってしまった。
下山を始めるはずの約束の時間である。
頂上を目の前にして、下山を決意するのも山男の勇気なのだろう。
しかし、私は山男ではないので、もうちょっとだけ、1時半までだって、廬山温泉に帰るのが1時間遅くなるだけだろう。
大勢に影響ないはずだからと、そのまま天地の山荘を目指す。

天地山荘の右側には、高圧線の鉄塔と、「光被八表」の石碑も見えている。
そこが台湾山脈の分水嶺、南投県と花蓮県の県境である。
天地の山荘にはたくさんの登山客がテントを張って大賑わいをしている。
ここまで来れば満足すべきところだが、欲は深くなっていくもので、「光被八表」の石碑まであと一息、15分も歩けば着けそうに感じたので、天地山荘は素通りして、「光被八表」の石碑を目指して歩き続ける。

天池山荘を過ぎたところの道しるべ
[能高山の主峰まで8km、山荘に泊まれば往復できるのだろう]

山荘を過ぎると登山者の姿はぱったりと消えてしまった。
たぶんみんな「光被八表」のある分水嶺は、明日の朝早く起きて、花蓮県側から登ってくるご来光を拝む予定なのだろう。
きっと、午後のこんな中途半端な時間に登っても仕方がないので、今夜の露営の準備で忙しいのだろう。

分水嶺方向を望む
[無人の登山道を分水嶺へ向けて急ぐ]

台湾の東西を結ぶ送電線の鉄塔あたりが鞍部
[台湾の東西を結んだ送電線の鉄塔が見えるあたりが鞍部]

下界は雲の中
[分水嶺の反対側も雲海の中に沈んでいる]

15分で着けるかと思ったら、30分もかかった。距離は2.6キロ。
遠くから見たらすぐ隣にあるように見えても、山道は谷の奥へ回り込んだりするので、どうしても遠回りになってしまうらしい。
そして、「光被八表」の石碑に午後2時ちょうどに到着。

能高越道の分水嶺に立つ光被八表を示す道しるべ
[能高越道の分水嶺に立つ光被八表を示す道しるべ 光被八表まで75メートル]

霧に霞む光被八表の石碑
[太平洋側から霧が流れて来るが、光被八表はもうすぐ目の前]

遂に、30年ぶりでこの分水嶺に立つことができた。
私の青春時代最大の冒険であった台湾山脈横断のハイライトである分水嶺に来れた。
あの時は、夜露に濡れた草をかき分けながらこの石碑の前に立ったのだが、今は足元もハイキングコースのようによく整備されている。
その足元も、30年前はソウルの市場で買った防寒用の軍靴であったが、今回はバンコクの市場で買った129バーツのデッキシューズ。

光被八表
[30年前の石碑はたしか朝霧に霞んでいた記憶がある]

石碑の裏面
[石碑の裏面にて自撮りで記念写真 老けたなぁ]

太平洋側は雲の中に隠れて、真っ白で何も見えない。
台湾海峡側は、下界に雲がかかって、見事な雲海になっている。
この景色をじっくりと眺めていたいが、すでに当初の下山開始予定時刻を1時間もオーバーしている。
そびえる能高山にも霧がかかり始めている。
のんびりとはしていられない。
屯原の登山口に着く前に日が暮れてしまったらアウトだし、雨でも降ってきたらば、着替えもない。

太平洋側から雲が流れ込んでくる
[分水嶺を越えて太平洋側から雲が流れ込んでくる ]

能高山は霧に隠れている
[能高山の主峰に雲がかかって見えないのは残念]

鞍部に木はほとんど生えていない
[分水嶺の鞍部にはほとんど大きな木はなく、草地になっている]

再び天地の山荘へ戻ってきたのが14:45。
ここから登山口まで14キロなので、休まず歩き続けても3時間はかかるだろうから、登山口到着は6時近くになりそうだ。
昨日あたりは、5時半には日が暮れていたので、急がないと日没までに到着できない。
来るときも一度も休憩なく登ってきたし、まだ足の筋肉痛や膝も問題なさそう。
ただし、履いているデッキシューズがパンクをして、つま先が口を開けはじめている。

登山者でにぎわう天池山荘前

天池山荘前に張られたテント群

天地山荘は、ますます登山者でにぎわっている。
テントもびっしり張られている。
山荘は近代的にコンクリートの建物になっている。
30年前はやはり戦前の警察駐在所(能高駐在所)の木造家屋で、部屋も畳敷きだったのを覚えている。
その山荘の案内板があったので、立ち止まって眺めてみたら、現在の建物は民国82年(1993年)に再建されたものらしい。

天池山荘の案内板
[天池山荘の案内板 これによると以前の木造家屋も再建されているらしい]

私が泊まった古い山荘は、民国75年(1986年)に焼失したらしい。
1986年と言えば、私たちが能高越えをするためこの山小屋に泊まった年ではないか。
つまり、私たちが泊まってすぐに焼失してしまったらしい。
もし、焼失が先だったらばこんな標高の高いところで野宿する羽目になっていたかもしれない。

天池山荘からの眺め
[逆光になるけれど、天池山荘からの景色も雄大に見える]

ふたたび滝に見惚れてしまう
[帰り道でもやはり滝に見惚れてしまう]

滝のある沢にかかる吊り橋
[滝からの沢にかかる吊り橋]

山荘から下ること1時間ほどのところに、日本時代に使われていた炭焼き窯の跡と言うのが道端にあった。
このあたりに日本人の集落はなく、駐在所の警察官がいるだけだろうから、彼らは自分たちで炭も焼いていたのだろうか?
しかも、天地(能高)駐在所からも尾上駐在所からも5キロほども距離ま離れているところと言うのに。

炭焼き窯の跡
[日本時代に使われていた炭焼き窯の跡]

もう山を登ってくる登山者と出会うこともなくなったし、下山する人を追い越すこともなくなった。
この時間から天地を目指しても、日没までにたどり着けないだろうし、下山しても登山口にたどり着いたら夜になってしまっているだろう。
つまり、もうこの先で登山者に出会う可能性は低く、もしも私が道の途中でトラブルに巻き込まれても、明朝まで発見されることはなさそうだ。
より慎重に下山しなくては、、、。

陽は西に傾き、雲に光が乱反射
[陽は西に傾き、雲に光が乱反射]

絶景
[時間など気にせず移り変わる光と雲をいつまでも見ていたい気持ちになってしまう]

雲海保線所(尾上駐在所)を過ぎると、下界の雲海に夕日が当たって、雲海が赤く染まり始めた。
急がねば、時刻は間もなく5時になろうとしている。
雲海の中にマヘボ富士が見える。
他の山が3000メートル級なので、マヘボ富士は富士と言っても「四方の山を見下ろして」とはいかないが、雲海に頭をのぞかせたその姿は富士山によく似ている。

マヘボ富士
[木立の間からマヘボ富士の山頂部が見える]

雲海も夕日に染まり始めた
[雲海も夕日に染まり始めた]

5時を過ぎた。
前回来た時の折り返し地点あたりまで来ているはず。
だんだん薄暗くなるとともに、霧まで立ち込めて来た。
登山口まであと2、3キロくらいのはず。
このあたりは、森林地帯で鬱蒼とした樹海は昼でも暗いので、よけいに暗くなるのが早いようだ。
足元すぐのところを目を凝らして、注意しながら進まなくては。
この先には崖崩れの箇所も、吊り橋、崖道もある。

暗くなり、霧がかかってきた
[薄暗くなってきて、霧も立ち込め始めた]

もうあと1キロほどのところまできて、登山者のパーティーを追い抜く。
すでに、あたりは暗くなっており、登山パーティーも暗い中で懐中電灯も点けずに歩いていた。

崖崩れの場所では、前方からヘルメットにランプを付けた二人組とすれ違う。
たぶん、先ほど追い抜いたパーティーの救援に向かうのだろう。

屯原登山口には5時40分に到着。
下山してくるパーティーを迎えるためのワゴン車が数台エンジンをかけて待機している。
もう、完全に真っ暗で、足元さえ何も見えない。
止めたスクーターのある場所まで向かうのにも、スマホの懐中電灯機能に頼らなくてはならない始末。
でも、遂に長年の再訪の夢がかなったわけで、達成感と満足度は高い。

真っ暗な屯原登山口
[真っ暗になり屯原登山口前の案内板もまったく見えない]

スクーターで廬山温泉を目指して走り始めるが、5メートル先が見えないくらいの濃霧がかかってしまっている。
スクーターのライトで前方は真っ白に光ってしまい、どこが道で、どこが崖なのかもはっきり見えない。
ライトの向きを上にしたり下にしたり、頻繁に変えながら、時速15キロくらいで徐行しながら山道を下る。
これでは廬山温泉まで1時間以上かかりそうだ。

温泉に戻ったら、たぶん夕食の時間は過ぎているだろうけど、どうせもともと冷えた料理だろうから、時間に遅れても構わないだろう。
それに、食事の前にお風呂もしたいし、晩酌には紹興酒も飲みたい。
その紹興酒は宿にはなぜだか置いていないので、途中の廬山の部落で買い込んでから帰ろうと思っている。

その廬山の部落まで降りてきたころには霧も晴れて、スクーターでも夜道を走りやすくなっている。
部落の「酒菸」と看板を出している雑貨屋に入って紹興酒を所望するが、「没有」とのこと。
別の雑貨屋でも同じ、カラオケ屋を兼ねた店でも「ない」と言われる。
その店の主人によれば、この部落の人たちで紹興酒を飲む人はいないそうだ。
この部落の人が飲むのは、ビールにウイスキー、米酒という米から作った焼酎くらいだそうで、紹興酒のような平地人の飲む酒は飲まないのだそうだ。
ここ南投県は紹興酒が名産だというのに、山の人には人気がないらしい。
結局、紹興酒は廬山温泉までもどり、吊り橋近くの雑貨屋で180元也を買い込む。

急いで、大浴場で温泉に入り、夕食会場へ。
今夜は団体客と一緒の会場で、団体客の一部はまだ酒宴の最中であった。
私はひとりテーブルに着いて、いつもの給食風の惣菜をツマミに紹興酒を飲み始める。
団体客の酒宴で飲まれている酒は、ビール、ウイスキーにワインと言ったところで、ここでもやはり紹興酒は見かけない。
台湾の紹興酒はとても美味しいと思うけど、いったい現在の紹興酒の立場はどうなっているのだろうか。

今夜の夕食
[今夜のメニューにも大好きな川海老の唐揚げが付いていた]

夕食後にふたたびゆっくりと温泉に入り、それから警光山荘の前まで出てみる。
もう夜も10時近くなり、さきほどまで騒がしかった団体客の往来も消えて、静まり返っている。
そんななかで、前回も見かけたネコがいた。
相変わらずなつっこくて、近づいたらすり寄ってくる。
さっきの夕食の惣菜を少し残して持ってきてやれば良かった。
このネコはこうして温泉客に媚びを売って、食べ物にありついているのだろう。

警光山荘前のネコ
[膝の上で丸くなって寝てしまった 寒いのかな]

部屋に戻って有線テレビで日本の番組を少し見てベッドに入る。
今回、埔里でスクーターを借りて、正解だった。
最初は、高いし、天気も今一つだと思ったけれど、スクーターがなければ、今日の感動はありえなかった。

パンクした靴
[まだ買ったばかりの靴なのに、もう履きつぶしてしまった 安物だからかな]

つづく

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