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この3か月間のあれこれ
12月05日 月曜日

本日先代タイ国王、ラーマ9世の誕生日で祝日。
昨日チェンマイから帰ってきて、昼過ぎまでオンラインツアーを担当し、その帰り道でソムタムを買った。
そしてそのソムタムと一緒にビールを飲みはじめ、タイの米焼酎へと進んで、その後に昼寝。
結局夜まで眠りこけてしまう。

そして今日は、しっかり早起きをして朝の運動。
朝食にうどんを茹でて食べ、クリスマスツリーを部屋に飾る。
このツリー、私が結婚した年に買ったもので、それから毎年この季節になると部屋に飾ってきた。
なので、今年は30回目のツリーと言うことになる。
その間に電飾は何度かダメになり、交換してきた。
現在のものも、すでに数年が経過して、今朝ツリーに巻き付けて点灯した際も、ランプの一つが切れてしまっていて、ランプを交換するまで点灯しなかった。
交換用のランプもこれが最後なので、こんど切れたら交換もできない。

30回、30年間でツリーを飾る雪に見立てた綿も、「積雪3日目、道端の残雪」と言った感じに、純白だったものが、黒ずんできてしまった。
綿のフワフワ感もなくなってきている。
新婚のころ、子供が小さかったころ、家族でツリーを飾ったころ、ネコとツリーを眺めたころ、そして今年はたった一人でのツリーも3回目。

30年目のクリスマスツリー
[クリスマスツリー点灯]

さて、前回のブログまはずっと連載で9月に行った旅行のことを書いてきた。
随分長くなってしまったので、連載期間も長引き、もう旅行から3か月。
その間にもいろいろと飛び回ったり、身の回りにいろいろなことが起こっていた。

まず10月。
これは今思い出しても不愉快になことがあった。
大きなツアーを抱えて、深夜までその手配作業や準備に追われる日が続いていた。
睡眠時間は足りず、食べるものもインスタントとフードコートの簡単に腹を満たすだけの食事ばかりで、とうとう途中で体調不良に陥ってしまった。
週末だったこともあり、まだまだ休み返上でやるべき仕事があったけれど、体力的に無理と判断して部屋で寝ていたけれど、体力はちっとも回復してこない。
それどころか熱はどんどん上がって40℃近くにまで達してしまった。
これはマズイと判断して、バンコク市内の有名私立病院へ小雨降る中をバイクで駆け込む。
週末だったからなのか、患者が多かったからなのか、それともコロナ対策なのか、病棟内へは入れてもらえず、屋外の仮設検査場へ回される。
まず体温測定から。
「熱はなし」と看護婦が電子検温系を当てて医者に伝える。
そんな訳はないんだけれど、、
私は扁桃腺が腫れて高熱を出すことが時々ある。
特に過労が重なると扁桃腺に来るタイプ。
今回も扁桃腺だろうと思っていた。
しかし、口内を見た女医は、「扁桃腺の腫れもない」という。
「念のため血液検査をしてみましょう」ということで採決される。
検査結果には2時間くらいかかるので、結果が出たら電話で連絡すると言われたのだけれど、
結果が出てまた診断や治療を受けるために病院まで往復できる自信がなかったので、そのまま仮設診断所のベンチで待たせてもらうことにした。

息をするのも苦しくなり、意識もだんだん遠ざかって、ベンチで眠り込んでしまったらしい。
既に採血してから2時間以上は過ぎているが、結果はどうなったのだろう。
それに仮設検査場には、患者も医者も看護婦も誰もいなくなっている。
守衛が回ってきたので、「検査結果を待っているが、みんなどこへ行ったのか?」と質問したところ、
ここは5時までだけれど、そのまま座って待っていてもイイとのこと。
やがて、あたりは暗くなり、小雨も吹き込んで、ものすごい悪寒がする。
こりゃヤバイと感じて、病院の受付へ回って、事情を説明したら救急用の待合室へ行って待つように指示される。
ここでもひたすら待つだけ。
通りかかる看護婦に「検査結果はまだか」と聞いても、結果が出たら知らせると言われるだけで相手にしてもらえない。
7時過ぎに、携帯電話のベルが鳴った。
検査をした女医からで「デング熱とかではない」と言われる。
しかし、まだ他の検査の結果が出ていないので、結果が出たら知らせるという。
8時になって、再び電話。
コロナの検査で陽性になったから薬を出すのと言う。
しかし、もうこの時点で体力の限界を超えて、意識朦朧状態。
「このまま入院させてほしい」と頼んだけれど、「ベッドに空きがない」と却下される。
「今晩中に病院から薬を自宅まで届けに行かせる」ともいう。
いやいや、こっちは昼過ぎからずっと病院で待っているのだぜ、薬なら今ここでもらっていくよと言ったことを伝えたところ、女医は私が帰宅しているものと思い込んでいたらしい。
そのまま薬の準備ができるまで待っているように指示され、待つこと1時間で薬代を払って薬を受けとる。
薬代と検査代で2万バーツを越える請求を受けた。
医療保険のカードを提示したが
「この保険の対応金額をオーバーしている」と鼻で笑われてしまった。
意識が遠くなりながらバイクで家路につく。
雨に打たれ、寒さに震えて、アパートの部屋へ入ったとたんにベッドに倒れこんでしまった。

高熱
[こんなに高い熱が出るのは何年かぶり]

翌日、女医からまた電話があった。
しかし、ほとんど声が出ない。
喉が痛いわけではなく、ただ声が出ないだけなのだけれど、
必要もないのに通訳と称するスタッフが取り次いでいる。
この通訳が全然だめで、
女医:「喉の痛みはありますか」
私:「痛みはないけれど声が出ません」
通訳:「はい、喉が痛いそうです」
といった具合。
どうやら、私の声の感じや息遣いで、女医も「こりゃマズイ」と感じたらしく
「入院した方がイイですね」と言ってきた。
なんだい、昨日は何の治療もしないで病院から放り出したくせに、、、
「いいえ、結構です。もう病院まで行く体力もありませんから」と言って電話を切った。
本当は、これで入院したらこんどはいくら請求されるかと心配だっただけ。

そして、よくわかったのは、以前はほぼ無制限に治療が受けられる海外旅行保険だったのだけれど、先年に限度額付きの医療保険に変えられてしまっていた。
どうも、この病院は保険の限度額によって患者への対応を変えているらしい。

それから熱が引くまでの数日間、冷蔵庫の食べ物を食べつくし、買い置きのインスタントラーメンを食べつくし、炊いたお米に醤油をかけて食べることで飢えをしのいだ。

自宅療養中も、在宅で仕事をこなした。
在宅と言うのは、出勤退社がないので、仕事がエンドレスになってしまう。
おかげさまで病院から処方されたタイレノールという解熱剤がよく効いて、3日目にはほぼ平熱まで下がり、5日目の自主隔離期間を終えて出社する。

これが今思い出しても不愉快な思い出だけれど、たぶん来年になれば、酒飲み話のタネにはなってくれるだろう。

10月と11月は大きなツアーがあって、大変であったのだけれど、その中でも10月のツアーはガイドのことで悩まされ続けた。
もともとタイの地方にはガイドがおらず、ガイドの手配には苦心するのだけれど、今回はまたいつも以上に苦労した。
仕事を引き受けたガイドが次々と直前になって業務ができないと言い始めてきた。
①息子の公務員試験に付き合ってバンコクへ行くことになった・・・おいおい、息子ったって大人でしょ、一人でバンコクへ行けないようでどうするの
②通信教育の期末試験とぶつかった・・・まぁ、タイの学校は間際になって試験の日程を発表するから仕方ないか
➂ツアーへ家族も一緒に連れて行きたい・・・ダメと断ったら、仕事やらないと言いだしてきた
④お父さんが死んでしまった・・・ご愁傷さま
➄バイクで事故って入院・・・とんだご災難で
ということで、最後の④と➄は不可抗力で、運が悪かったとしか言えず、同情もするが、予定していた6人のガイド中の5人が入れ替わるという異常事態となった。
当然ガイドの質も大幅に低下して、現場に立つ私は相当に苦労をする羽目となった。
こういうことが続くと、もうこんな人たちと仕事をするのは嫌だと思えてくる。

コムローイ
[コムローイのイベント関連のツアー、いろいろあったけどコムローイは無事に上げられた]

11月も大きな仕事があり、こちらもイベント会社がいい加減であったことで、ツアーが滅茶苦茶になるところをギリギリのラインで持ちこたえることができた。
そして、そのツアーが終わった翌日。
それも早朝の午前5時。
日本から電話が入る。
「事務作業のミスで今日のオンラインツアーをやってもらうことになった」という。
私はちょうどそのときチェンマイにいて、オンラインツアーの中継場所はメーホンソン県のメーウーコー。
もともと以前に私の方で、この季節メーウーコーではワイルドサンフラワーと言う花が咲いて綺麗ですよと日本へ紹介していた。
しかし、日本も私も、その話はそのまま没になっていたと思っていたのだけれど、当日の朝になってそのオンラインツアーが催行決定済みで申込者へ案内されていることが判明してしまった。
携帯電話を握ったまま、大慌てでベッドから飛び起きて、着替えをしながら電話で打ち合わせ。
オンエアーは5時間後の午前10時から。
とにかく中継場所へ急がなくては、
「これからハンドル握るので直前まで連絡つかない」と申し送りして、車を走らせる。
メーホンソンまでは200キロ強ほどでしかないけれど、山岳道路でタイ最高峰のドイインタノン山の中腹を回り込むようにして、隘路が続いている。
Google Mapでも所要5時間と表示されるが、私の車だと急坂を登る馬力がないので、もっと時間がかかるだろう。
下り坂でスピード出して所要時間を短縮するしかない。
午前5時半過ぎにスタートして、ジョムトーン村からドイインタノンの山道に入る。
まだ夜が明けきっていないけれど、黄色い乗り合いトラックのソンテオが走っている。
ソンテオと抜きつ抜かれつしながら山道を登り、メーチェム村への三叉路を曲がると途端に道が悪くなる。
簡易舗装で道幅が狭い。
しかも、上り下りが非常に急でカーブも多い。
右に左にとハンドルを回しながらコーナーを一つずつつぶしていく。
途中でメーチェムの方向にきれいな雲海がかかっているのが見えた。
時間があれば車を止めて眺めたいような景色だったけれど、そんな時間はない。
綺麗な雲海をちらりとだけ眺められたのは良かったけれど、雲海とはつまり霧や靄のことで、メーチェムの村へと下っていくと、深い霧の中に入ってしまって、視界が効かなくなってしまった。

雲海
[ドイインタノンから下ってくると行く手に雲海]

このルート20年前にも走ったことがある。
まだチェンマイに住んでいたころ、やはりメーウーコーのワイルドサンフラワーを見に行った時だ。
あの時の車はビートル。
あの車は山道に強かった。
馬力はないが、山道をグイグイと登ってくれた。
それに比べると、今の車はオートマなんでギアチェンジの必要もないが、山道でのレスポンスは少し劣るようだ。
道路の方は、この20年間で簡易舗装ながら舗装されて、谷底の川にかかる仮設橋もしっかりしたコンクリートの橋に変っていた。

オンエア直前、ギリギリにメーウーコーへ到着。
急いで送信準備をして、なんとか間に合わせる。
こんな遠いところなのに、タイ人の観光客はたくさん来ている。
途中で観光客らしい車を見かけなかったから、みんなメーホンソンの街かクンユアムの方から登ってきたのだろう。
ワイルドサンフラワー、まだ満開までは少し早いようだったけれど、山の斜面を黄色く染めて、とても美しい映像を届けることができたようだ。
ツアー後の参加者からのアンケートでも高い評価をいただけた。

ワイルドサンフラワー
[和名はニトベギクだそうだ、新渡戸稲造が米国から持ち込んだらしい]

そのメーウーコーからの帰り道。
こんどはさほど急ぐ必要もない。
上り坂ではノロノロと登り、コーナーもゆっくり回る。
そんなわけで、復路は3時間近くかかってもやっと行程の半分ほどのメーチェム近くまでしか来ていない。
が、ここで私の悪い癖が出てしまった。
往路ではドイインタノンの南側を回ったけれど、Google Mapをよく見ると、細いながらもドイインタノンの北側にも道があることを発見していた。
しかし、経路検索をしても提示されないが、細かく調べてみると南回りよりも50kmほどチェンマイまでの距離が短いようだ。
いっちょ、試しに走破してみるかと、Google Mapを睨みながら道の入り口を探す。
道路上にもチェンマイへの近道とかの表示はされておらず、入り口を見つけるのに苦労した。
まさに関係者以外立ち入り禁止の林道と言った感じの道で、未舗装は当然ながら砂利も敷かれておらず、ただの森の中に無理やり道を開いただけの土の道。
轍も深い。
時速20キロ以下のノロノロで、轍に落ちないように、慎重にハンドルを切りながら進む。
対向車などは皆無で、自動車が走ってた形跡も見られない。
轍は車輪の跡ではなく、雨が降って水流が道を川のようになって流れたときに削り取ったものらしい。
尾根に出ると右手にドイインタノンが見える。
土の道ではあるが、粘土質の土なのか、礫のように硬く固まった土で、急坂を登ろうとすると車輪が空回りして、前へ進むはずがズルズルと右や左に流されてしまう。
やっぱり、こうした坂道では最近のコンパクトカーのようなFFより、リアエンジンで後輪駆動のビートルの方が粘り強いようだ。

とんでもない轍
[轍が深すぎる]

悪戦苦闘しながら、10km程度進んだであろうか。崖に貼り付くような峠道となった。
轍は道路と並行に溝を刻んでいるだけではなく、道路と垂直にも流れるようになっている。
平行な轍だけなら何とか落ちないように進めそうだけれど、道路と垂直では轍を乗り越えなくては前へ進めない。
轍は深いところでは30cmはゆうにあり、車輪を落としたら脱出は困難。
まして一人での運転だから、遭難ものである。
諦めて、もと来た道を引き返すことにしたが、狭い道でUターンするのにも一苦労。
空転する車輪が流されて、轍に前輪を落としてしまった。
アクセルを踏んでも轍の中で車輪が空回りして土ぼこりを巻き上げるだけ。
轍の中に小石や木の枝を放り込んだりして、なんとか脱出したが、まったくもってすごい道だった。
しかし、4輪駆動車なら何台かでキャラバンを組んで走り抜けられそうだし、オフロードのバイクでも抜けられそうな気がする。
いつかまた挑戦したくなるようなワイルドな道だった。

11月16日からは日本へ一時帰国してきた。
ようやくコロナでの移動制限もほぼなくなり、行き来がしやすくなってきているが、私の愛用する中華航空はまだ台湾で少し制限が残っているためか、フライトの便数が依然と比べて減っており、行きも帰りも台北での当日乗り換えができなくなってしまっている。
それでも中華航空にこだわって、バンコクを夕方に飛び立ち、台北の空港で一晩夜明かしをして、翌朝の便で成田へ向かった。

ネコの写真集
[機内ではネコの写真をスライドショーで見ていた]

台北の空港での夜明かしは以前にも経験があり、以前はリクライニングができる大きなマッサージチェアのようなソファーで寝たものだったけれど、今回は誰でも利用できるという無料ラウンジを中華航空のスタッフに教えてもらい、壁際に置かれた長椅子に横になって眠ることができた。しかも、そのスタッフからは毛布も貸してもらえた。

ベンチでゴロ寝

丸1日かかって到着した成田空港だけれど、以前は成田から格安シャトルバスを利用していた。
そのシャトルバスも値上がりしており、しかも東京での下車ポイントが日本橋側から東京駅の南口に移っている。日本橋側だったら、そのまま地下鉄東西線に乗れて便利だったけれど、南口だと延々と歩かなくてはならず不便この上ない。
そこで、代案として京成電車で日暮里へ向かうことにした。
電車に乗る前から駅のアナウンスで午前中に発生した事故のためダイヤが乱れているとは言っていたけれど、まるで各駅停車のように一つずつ駅に停車をしていく快速電車が船橋まで来たところで、「この先の東中山から不通になっているので、船橋でJRに乗り換えるように」とアナウンスが入る。
振り替え輸送もしているという。
が、振り替え輸送と言うのは、定期券を持つ人だけのようで、私のように交通系カードの利用者は空港から船橋までの料金をしっかりチャージされた。
そして重たい荷物を引きずってJRの駅までたどり着いたら、またJRの通常運賃がチャージされている。
むかし、紙の切符を使っていたころは、ちゃんと振り替え乗車券と言うのをもらって、目的地まで運んでもらえてた記憶があるが、今は違うようだ。

そんなトラブルがあって、東京の自宅に帰宅したのはすっかり日が暮れてから。
日が暮れようが、なんだろうが帰宅してまず一番にすべきことは墓参り。
ネコの遺骨はベランダの下に眠っているので、すぐに線香を立てに降りる。
2020年の2月に埋めたときは、桜の咲くころにはまた来るからねと約束したのに、すでにその桜の季節を3回も見送ってしまった。

そして母の墓のある小平霊園へ。
自転車なら15分ほどで行けるのだけれど、自転車のタイヤがペシャンコになっている。
たぶん長いこと乗らなかったので空気が抜けただけで、パンクはしていないと思うのだけれど、自転車の空気入れポンプもダメになっていた。
仕方がないのでホームセンターまでポンプを買いに行く。
そして、たぶんチューブの虫ゴムもダメになっていると思って、虫ゴムも買って帰る。
自転車のタイヤに空気を入れて、夜道を小平霊園へ急ぐ。

翌日は朝から銀行回り。
どうも前回一時帰国して以降、日本の預金通帳や印鑑が見つからなくなってしまっていた。
どこかに仕舞い込んだのかと思って、長男に来てもらって探してもらったり、妻が日本へ一時帰国で滞在しているときにも探してもらったが見つからなかった。
バンコクのアパートももちろん探した。
前回の一時帰国の時は、ネコのことで頭がいっぱいで、銀行の通帳などが入った封筒をどこかに落としたのかもしれない。
そんな訳で銀行を回って印鑑の再登録や通帳の再発行をしてもらうことにしていた。
自転車に乗って、向かう銀行は3つの支店。
ひばりが丘、吉祥寺、そして調布。
どこも自転車で行けない距離ではないが、特に調布はちょっと遠い。
幸い天気には恵まれて、風もほとんどない。
最初にひばりが丘の支店へ行って、手続きに1時間くらいかかり、手数料で千円ほど支払う。
銀行の窓口に来ているのは高齢者ばかり。
私と同じように通帳が見つからないと訴えているおばあさんもいた。

続いて吉祥寺へ向かう。
吉祥寺には普通預金のほかに外貨預金もある。
ちょうど空前の円安で、今外貨を円に戻したら大きな利益が出そうである。
しかし、通帳もキャッシュカードもなくしているのでは、お金の動かしようもない。
ここもさっさと再発行してもらわないと。

水道道路沿いの木々はだいぶ紅葉、黄葉しているが、まだ少し後の方が綺麗になるだろう。
イチョウもまだ黄緑色の部分がある。

吉祥寺の支店でも簡単に再発行してもらえるものと思ったが、事は簡単には進まなかった。
窓口の係員が言うには、「日本国内に居住していない人は当行に口座を持つことができません」ということであった。
別に住民票とかの居住証明が必要と言うわけではないらしいが、新しいキャッシュカードを郵送した際に、誰も受け取らず返却されると、問題になって口座の強制解約ということもあるという。
そんなことになっては一大事なので、係員の提案に従い、日本へ本帰国した後で紛失再発行手続きを取ることにする。
なお、調布の支店も同じ銀行なので、調布支店で手続きしても同じことを言われるでしょうとのことだった。
うーむ、まったく困ったものだけど、自業自得。

とここで、昼の時間となり、また調布へ行く必要もなくなったので、水道道路をそのまままっすぐ自転車に乗って進んでみることにする。
信号の多い水道道路だけれど、自転車で走っている分には気持ちがいい。
しかし、あんまり先まで行っても何なので、途中で右折して久我山駅の方へ向かうことにした。
なんで久我山駅かと言えば、Google Mapで検索したところ久我山駅前には牛丼(牛めし)の松屋がある。
物価の高い日本でランチ代を節約するには牛丼が一番。
しかも松屋は味噌汁付き。

水道道路から久我山駅への道を下っていくと、見覚えあるスクーターが並んでいる。
しかも何台も。
修理屋の店先に並んでいるのはラビットスクーターたち。
そこへちょうど店主と思われるがっしりした体つきの男性が奥から出てくるのが見えた。
自転車を止て「伊藤さんですか」と尋ねてみるとそうだという。
伊藤さんの経営する伊藤自動車は宮前の方にあって、20年以上も前になるがラビットスクーターの電装系を修理してもらったことがある。
また、下呂温泉でのラビットスクーターの集まりでも一緒させてもらった。
さすがにちょっと老けられたが、当時の印象がよみがえってくる。
以前にラビットスクーターを修理してもらったものだと告げたのだが、どうやらこの店主は私のラビットを見てくれた伊藤さんの弟さんなんだそうだ。
それでも、再来年に私は日本へ戻ってきたら、一生乗り続けられるようにラビットを整備たいと考えていることを話し、さび落としや再塗装などにかかる費用のおおよそを教えてもらった。
ざっくりと60万円くらいらしい。
新車を買うよりもずっと高いわけだけれど、しかし、一生乗り続けられるとしたら投資する価値は十分あると思う。
もっともあと何年乗り続けられるかかわからないが、、、。
しかし、私が所有する二台のラビットのどちらも整備するとなると、ちょっと費用が掛かりすぎ。
「だったら、一台は下取りしますんで、それを整備費に充てたら」と提案を受ける。
なるほど、そういう手段もあるわけか。

修理屋の前でしばしラビット談義をしてから、駅前で牛丼を食べる。
紅しょうがを山盛り載せて食べるが、牛丼そのものはあんまり美味しいものでもないことを再確認する。
320円也。

家に帰る前にまた小平霊園で墓参りをしてくる。
やはり水道道路をまっすぐ走っていけば小平なので楽なものだ。
田無から先は遊歩道になっているので、まったく快適。
日差しもやわらかく、小春日和と言った陽気。

吊り橋の絵
[前回のブログで書いた吊り橋を描いた絵、これを見てもハルだったのか確証が持てない]

3日目も朝一番に墓参り。
そして、カバーをかぶって冬眠中のラビットスクーターのバッテリーを新しいものに交換してエンジンを始動してみる。
3年近くも放置してきているのでなかなかエンジンがかからないが、
キャブレターの吸気口を手のひらで塞いでセルを回したらすぐにエンジンがかかりモクモクと白い煙を噴き上げた。
世の中急速に変化して、車さえもガソリンエンジンから電気へとスイッチしているこのご時世。
混合オイルを燃やしながら走るツーサイクルのスクーターなどいったいいつまで走らせられることだろうか?
そもそも、ツーサイクルオイルなど簡単に手に入るのだろうか?

午後からは長男がやって来た。
そして弟もうな重と父親を連れてやって来た。
3年ぶりにあった父だが、このコロナ禍でほとんど外出をしていなかったと見えて、すっかり足腰をダメにしてしまっていた。
以前は一緒に歩く者のスピードも考えずにスタスタと一人勝手に歩いて行ってしまっていたのが、杖をついても満足に歩けない。
もうすぐ90歳という年齢ではあるけどと、衰え方には驚いた。
しかし、こうして息子ふたりに孫まで加え、男ばかりでうな重を食べるのはよほど嬉しかったようで、「なんだオマエ、昼間っから」と叱りつけてきたものの、いざグラス注いだハイボールを前に置いたら、旨そうに飲み干した。
そして、お代わりを催促し、そのうち手酌でボトルからウイスキーを注ぎ始めた。
「ちょっと珍しいものがあるよ」と言って、私が梅酒を小さなグラスに入れて差し出したら
「なんだこれはぁ」と言うので
「死んだおふくろが漬けてた梅酒だよ、だから少なくても13年ものだね」と答えたら、父の目に涙が浮かんでいた。
結局父はウイスキーのボトルを1/3くらい飲んでしまった。
ちょっと飲ませすぎたようだ。
あとで父を送っていった弟は「タローさんにあんまり飲ませないように言ってください」と警告を受けたらしい。

その後、長男がこのまま夕食を食べに行こうというので、すし屋に入った。
ふだん全く寄り付かない長男が私のところへ自分からやってくるのは、きっとなんかあるなとは思っていたが、
どうやらいま同棲している女性との結婚を考えているらしい。

4日目。
やっぱり朝一番に自転車で墓参り。
これまで3日間晴れていたけど、この朝は今にも雨が降ってきそうな空モヨウ。
小平霊園から戻ってきて仏壇周りを整理していたら、なくしたはずの預金通帳などが丸ごと出てきた。
オイオイ、なんだありきたりなところにあったんじゃないか。
みんな真剣に探してくれたのかなぁ。
でも、また出てきてよかった。

帰りの飛行機は成田発が夕方なので昼過ぎに家を出れば良く、それまでバンコクへ持ち帰る食料品などを買い出しに行く。
ふだんはドン・キホーテで仕入れて免税手続きをしてもらうのだけれど、買っていこうと思っているものを合計しても五千円に満たない。
そうすると免税にならないので、ドン・キホーテではなく、格安の食料品が揃う業務スーパーへ仕入れに行く。
しかし、ここも物価高騰の影響か、以前と比べると値段が上がっていたり、パッケージの量が少なくなっていたりする。

食料品の仕入れも終わってしまえばもうあとは何もやることはない。
早めに成田空港へ行ってラウンジでビールを飲んだり大好きな稲荷寿司を食べさせてもらおうと思って、午後1時前にはベランダ下のネコの墓(?)に線香を供え、それが燃え尽きるのを確認して家を出る。

そうして早めに到着した成田空港ではあったのだけれど、中華航空のラウンジは営業していないそうで、1500円の食事クーポンをもらう。

1500バーツ分の食事券
[早くラウンジを再開してほしい]

成田空港内の食堂で1500円のクーポンで食べられるものなど多寡が知れている。
生ビールなんか飲んだら、それでおしまいになりそう。
それにまだ空港内の食堂は店を閉めているところも多い。
ソバ屋にでも入ろうかと思ったが、行列ができている。
これから海外に行くから最後に日本の味を求める人なんだろうか?
ハンバーガー屋も行列。
これは空港内で一番安く食べられるからかな。
そして、すぐに入れる店は中華料理屋だった。
ファミレス風の食堂で、ラーメンと餃子を注文。
何の変哲もないラーメンと、小ぶりの焼き餃子5個。
そして、お会計の時に1500円のクーポンを提示したら、消費税分が足りないと言われてしまった。

ラーメン餃子

飛行機の機内はディズニーランドの土産袋とか抱えた観光客で満席。
行きの飛行機もほぼ満席だったけれど、日本のインバウンド需要は旺盛のようだ。
しかし、機内には一目で日本人観光客とわかる姿は一人も見かけなかった。
日本のアウトバウンドの回復はどうやらまだまだらしい。

帰りも台北の空港で一晩夜明かし。
翌朝一番の飛行機でバンコクには午前中に到着。

朝粥
[台北のラウンジはプッフェが再開、朝の芋粥をいただきました]

バンコクで乗っているバイクもこのところ電装系が不調。
エンジンが停止するとすべての電気が止まる。
エンジンを始動しても、ホーンが鳴らない。
ウインカーが点滅しない。
私はヒューズが飛んだんだろうと思っていた。
バンコクへ戻ってもまだ昼前なので、さっそくバイクの点検をしてみるが、ヒューズに異常は見当たらない。
これでは私の手に負えないので、ディンデーンにあるバイクの修理屋持ち込んでみる。

そして、電装系が動かないのはバッテリーがダメになっているからと結論付けられた。
新しいバッテリーに交換されて、電装系も作動するようになったが、修理工はまだいぶかしげな顔をしている。
そして、「ちょっとこっち来てこれ触ってみろ、熱くなってんだろ」という。
指先で触ってみると確かに放熱板から熱を放っている。
これはレギュレターで、発電機からの電気をバッテリーへ充電させるものと教えてくれる。
そのくらいは、私も知っている。
ちょうど日本でラビット談義した際に、純正のレギュレターはもう入手困難なんで、みなさん最近のバイクで使っている半導体式のレギュレターに交換してるそうですなんて話をしてきたばかり。

このレギュレターの放熱板が低速で回っているエンジンでも熱くなっているのは、レギュレターが故障している可能性が高く、放置すればまたバッテリーがダメになると指摘された。
しかし、レギュレターも安いものではなく、当面取り替えたばかりのバッテリーがダメにならない限りは交換を考えないことにする。
バンコクで乗っているバイクも走行9万キロを超えて、車齢も30年程度。
最近はクラッチ板も擦り切れて、クラッチが切れなくなっているし、あちこちガタが来ている。

12月に入って、ピサヌロークへ行ってきた。
先月の中旬に私の代理をしていたスタッフが退職したので、その残務整理をしなくてはならない。
また、12月から学生のインターンが2名来るので、彼らに毎日の業務を指導しておかなくてはならなかった。
本当に地方の支店は、人材を確保するのが難しい。
良い人材はみんな都会へ出て行ってしまう。
バンコクの人たちにはこの辺の苦労がなかなか理解してもらえない。

火曜日の勤務を終えてから、夜行列車でピサヌロークに夜明け前に到着。
そのままオフィスに入って、7時過ぎに朝食を食べに外へ出る。
そして散髪をしてからまたオフィスへ戻って、経理を見る。
嫌になっちゃうことに、金庫にカギがささったまま。
現金の出納帳も前回チェックしたあとは白紙のママになっていて、ツアーの清算伝票などが現金と一緒に無造作に放り込まれている。
これを一つずつデータベースに打ち込んで現金の収支を見てみたが、どうも4,000バーツほど不足している。
金庫が開けっ放しだったんたせから、誰かが持って行ったとしても不思議はないし、出納帳も付けてないのでツアーの清算が間違っていてもわからない。
これは金銭事故に該当し、処罰の対象となるが、こんなことでゴタゴタに巻き込まれるのは御免なので、財布から不足額を補填する。
たった一人になったスタッフに金庫のカギの扱いについて言い聞かせるが、今一つピントがずれている。
現金の出し入れにいちいち2つもカギを開けるなんて面倒くさいし、帳面に書き込むのも面倒。
この土地の人の気質である。
自分の家の金庫なら厳重にカギをかけてるはずなんだけど。

チムチュム
[ピサヌロークでは最近川沿いのサップバーと言う店が安くてお気に入り]

金曜日の昼の特急でチェンマイへ向かう。
バンコクからやってくる特急でピサヌロークへ到着した時点で30分ほど遅れていた。
ロッブリーとナコンサワンの間で路線の改良工事をしている関係で、このところ列車の遅れは日常化している。
しかし、私がピサヌロークで乗り込んだあとも遅れは広がった。
1時間ほど走ったウータラディット駅で遅れの原因は工事ではなく、車両の故障であることが判明。
エンジニアたちが集まって部品の交換などをしようとしている。
しかし、どうにも直らなかったようで修理を断念して、特急ディーゼルカーの前に機関車を連結して、客車列車のように機関車に牽かれてウータラディットを出発した。
まぁ、車で言ったら故障車のレッカー移動みたいなもの。
そんな訳で、その晩はチェンマイ支店のスタッフと一緒に夕食でも食べようと思っていたが、到着時間が遅くなりすぎて、夕食時間を逸してしまった。

特急のレッカー移動
[列車に関ぎらずタイの社会はメンテナンスに弱い気がする]

土曜日の午前中に、業者とお金に関する値引き交渉をする。
先方は弁護士まで連れてきていたが、タイの弁護士などどんな大学でも法学部さえ卒業すれば資格が取れてしまうというもので、たいていの場合恐れるに足りない。
今回の場合も弁護士クンは契約書の内容を読み上げただけで、だから全額払うべきだというだけだった。
2時間ほどかけての交渉で、3割強の値引きを呑んでもらう。
ちょっと脅したり、懐柔したり、演技力と精神力を使う2時間だった。
そしてそのまま午後3時半のバンコク行き急行に乗り込んでバンコクへ向かう。
忙しくて昼食を食べる時間もなかったので、汽車の中で何か売りに来たら買った食べようと思っていたけれど、バンコクまでの15時間、とうとう車内販売は一切回って来なかった。
途中ランパーンの駅ではホームに降りて弁当売りを探したが、弁当売りの姿もなかった。
いったいどうしたんだろう。
以前なら食堂車も連結していたが、コロナのパンデミックになってから食堂車はタイ国鉄から消えてしまった。
私の席の周りはミャンマー人の大家族とおそらく台湾人と思われる夫婦だったけれど、みんなちゃんと食べ物を用意して乗り込んでいた。
まぁいいさ。
ちょっとだけダイエット。

そして、日曜日の朝、つまり昨日の朝6時半にバンコクに到着。

今週は水木とチェンライ、土日でウドンタニが待っている。
いずれも往復は夜行バスなどで、今週もアパートのベッドで寝れるのは幾晩もない計算になる。

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8月回想
8月仕事でもプライベートでもタイの中を飛び回ていた。
まずは7月下旬のことから。
早朝のジョギングがいまだに継続で来ているのは、もともと運動嫌いの私だけどジョギングコースの中でネコたちに遭えるからと言うのは以前にも書いたはずだけど、そのネコたちの顔ぶれも変わってくる。
飼い猫として飼われているネコは変わらないけれど、特定の飼い主のいないネコは、いつの間にか姿を見せなくなって、そのうちにまた別のネコが現れてくる。
そんな中でも気になっていたのは、お腹に大きな瘤を持ったネコで、いつも私が走ってくるのを待ち構えていて、駆け寄ってきたのだけれど、6月の末に1週間ほど留守にしていたら、その後姿を見せなくなってしまっていた。
そんなネコだけど、1か月後の7月末にまた以前と同じ場所に姿を見せた。
ネコも私を見て喜んだが、私もうれしかった。
でも、またそれきり姿を見せなくなっている。

コブのあるネコ
[このネコのお腹に大きなコブがある]

※その後、8月21日にもまたネコは現れた。
私からキャットフードを少しもらって食べたが、途中で「もういいや」って感じで、居なくなってしまった。
以前は言い方は悪いがちょっと食い意地が張っている感じだったけれど、いまは誰かパトロンでも見つけたのだろうか。

7月末にスコータイへ行ってきた。
スコータイ遺跡ではライトアップが行われていた。
赤や青い明かりを当てて、幻想的な情景を演出しており、一見の価値があると思えるのだけど、今年のロイクラトンでのスコータイ・ナイトの情報を得られずにいる。

ライトアップ
[スコータイでも以前は毎週末にライトアップをしていたけど、今回のライトアップは7月限定]

スコータイはロイクラトンの発祥地とされ、ここで行われるスコータイ・ナイトというイベントは時代絵巻風のステージショーが呼び物で、毎年たくさんの観客を集めている。
タイではコロナもほぼ終息したことになって、海外からの観光客も受け入れはじめ、国内の移動制限も撤廃されたので、今年は盛大なイベントが開催されるものと期待としているのだけれど、そのショーに関する発表が依然として行われていない。
スコータイ・ナイトそのものは10月末から10日間で開催されると発表されているのに、メインイベントのショーの情報がさっぱり聞こえてこない。

ワットマハタート
[ワットマハタート]

スコータイへ行き、夜はピサヌロークで泊まった。
いつもリタイ・ゲストハウスに泊まっているのだけれど、今回は前日になってリタイ・ゲストハウスから電話が入り、従業員にコロナ感染者が発生したので宿泊を受け入れられなくなったと言ってきた。
タイではこのところ毎日二千人くらいの新規感染者と発表されているけれど、私の周りでも随分とコロナ感染者が出ている。
こんなに身近で次々と‐コロナ感染で自主隔離する人がいるのに、新規感染者が毎日二千人くらいと言うのは、どうも数字が合わないように思う。
その夜、夕食にはナーン川沿いのSab Barという屋外飲み屋へ入った。
空飛ぶ空芯菜の食堂が閉店してしまって以来、ピサヌロークでの夕食で気に入ったところがなくなり、だいたい駅前市場で出来合いの総菜を買って夕食にすることが多かったのだけれど、これも味気なくて、今更ながら空飛ぶ空芯菜食堂が恋しくなってくる。
そんな空飛ぶ空芯菜食堂と同じナーン河沿いのテラスで見つけたのがSab Bar。
ピサヌロークなど田舎によくある飾り気もセンスも感じさせない、安っぽい飲み屋なのだけど、ここは安っぽいだけではなく、実際にとても安くて気に入った。
何てったて、小皿の料理がだいたいどれも一品20バーツ、ビールも60バーツ。
味に関しては、旨いと感動することはできないけれど、値段だけはこのご時世にあって、確実に「安い」と感動できる。
私はやっぱり安いということに絶対的な価値観を持てるようだ。

Sub Bar
[川沿いと言うのも気に入っている]

8月11日から三回目のガンタンへ旅行してきた。
またまた16時間かけて汽車に乗っていってきた。
ガンタンがこのところ気に入っている。
ちょっと遠いというのはあるけれど、汽車賃は安いので、長時間の汽車旅が苦にならない私にとっては、ガンタンは数日の連休をこさえて行きたくなる場所になっている。
今まで2回のガンタン滞在では、ガンタンでは一泊しかしてこなかったけれど、今回は2泊で、いつもの倍もガンタンでの滞在時間がある。
そのガンタンでの滞在中は、朝夕に森林温泉へ行くことしか目的がない。
なので、もうこのブログに書くようなことも何もないのだけれど、食事だけは毎度同じものを食べているわけではないので、前回まで食べてきていないものを食べることになる。
そんな中で、警察署横の路地で茣蓙を敷いてムーガタを食べさせている食堂がある。
ここには、前回も来て、ムーガタではなく丼に入ったタイスキを食べたのだけれど、その時のタイスキが美味しかったこともあるけれど、それ以上に路上の茣蓙の上に胡坐をかいて飯を食い、酒を飲む雰囲気がとっても気に入った。
今回はムーガタ鍋を食べたのだけれど、豚肉を注文せず、鶏肉とドーリーと呼ばれるナマズの切り身でムーガタにした。
ここはバンコクなどによくある食べ放題式のムーガタと違って食べたいもの一つずつ注文し、お勘定に付くので、品質は悪くない、

路上のムーガタ屋
[満席の好況]

そして、ここガンタンは飲茶が名物の土地ということでなのか、メニューの中に蝦餃(ハカオ)と呼ばれるエビ蒸餃子まである。
これもムーガタ鍋に放り込んで、食べてしまう。

この路上のムーガタ屋が気に入った理由として、近くに酒屋がありビールなどはそこで買ってきて持ち込みOKなこと。
その酒屋がコンビニなどよりちょっと安い。
ピールなど温泉帰りなので、軽く飲み干してしまい、もう少しアルコール度の高いものを求めて再び酒屋を物色したら米焼酎ラオカオでムエタイボクサーのシルエットをラベルにしたボトルがあったので、それを購入。
労働者の酒であるラオカオはラベルの印刷も安っぽいものが多く、このラベルも安っぽいがムエタイと言うのが気に入った。
いかにもガツンときそうな感じがする。

ムエタイ焼酎
[ラオカオのラベルはどれも安っぽい]

今回ガンタンでは都合4回ほど温泉へ入ってきた。
いつ来ても自然の中で大きな露天風呂と言うのは気分がイイ。
そして、このあたりはタイ南部と言うこともあり、モスリムの人も多い。
ガンタンの街は華僑も多数派、温泉周辺の農家は皆タイ人。
そんな民族も宗教も越えて、この露天温泉では、それがあたり前みたいにして入浴している。
これは感動もの。
ニュースなどで報道される宗教や民族の対立も、そもそもなんで対立してるんだろうと思われる光景がこの大きな露天温泉では見られる。
一緒に温泉に入り、世間話をして、まったく平和そのもの。
世界各国が動じている軍事費を、世界各地に露天風呂を作ることに転用すれば、世の中丸く収まるのではないだろうかと思われてくる。
紛争が絶えなてタイ最南部からでも始めてほしいものだ。
モスリムの女性が頭にベールを巻いたままで、温泉の中を泳ぐ姿を見たとき、そんなことを考えていた。

本当の混浴
[これが本当の混浴かな]

ガンタンも三回も訪問していれば、いろいろと見なけりゃ良かったと思われるような事柄まで見えてきてしまう。
その最たるものが当地名物の飲茶。
最初に来たときは蒸籠一つが15バーツってこともあり、安くて最高なんて喜んでいたが、その後20パーツに値上がり。
そんなに安いとは感じなくなっていた。
しかし、今回は値段とは別の次元。
朝の温泉から戻りそろそろ店じまいを始めている飲茶屋で朝食を食べよう手した際、当地の飲茶は自分が食べたい蒸籠を指さして、それぞれ蒸かしてもらうシステムなのだけれど、私が好きな蝦餃(ハカウ)がなくなっていた。
売り切れかと思い店員さんに聞いたところ、「ある」という。
やれ嬉しやと思ったのもつかの間、店員さん冷凍庫から私も毎度御用達のスーパーマクロのプライベートブランドaroのロゴが入ったビニール袋から冷凍の蝦餃を2個取り出して蒸籠に入れて蒸し始めた。
それで一気にガンタン愛は冷め始めてしまった。

冷凍飲茶とは
[冷凍と知ってしまった]

これまでご当地名物だと思ってウヒウヒ言いながら食べてきた飲茶が、手作りとかではないばかりか、タイのどこにでもある量販店のプライベートブランドの冷食だったとは、、なんとも情けない。
そのことに気づかなかった私の味覚も輪をかけて情けない。

8月13日、ガンタンからオンライン・ライブの中継放送を担当してそのまま汽車に乗ってバンコクへ戻る。
オンライン・ライブはまずまずの出来だったけれど、バンコクへ到着したその晩担当したオンライン・ライブは失敗だった。
チャオプラヤー川の夕景から始めて、ワットポーのライトアップをメインにするつもりだったのが、ワットポーでは閉館時間を理由に入場を拒否されてしまい、中途半端な映像しか送れなかった。
有料のプログラムなのに、こんなことでは視聴者に申し訳ないと反省しきり。

ワットポー
[夜のワットポー]

8月下旬にまたチェンライへ行く。
現地での足を考えて車で行くが、日中は支店で事務仕事をこなし、夕刻から夜中にドライブしていくのは、なかなか体に堪えた。
5日間ほど走り回ってバンコクへ戻ってきたらフラフラになってしまった。
その帰路、チェンライを出てすぐ、国道沿いの休憩所案内の看板に温泉マークを見つけた。
なんだろうかとその休憩所へ立ち寄ってみたら、本物の温泉があった。
足湯もあり、そして入浴できる温泉小屋まであった。
せっかくなので温泉で入浴していくことにした。

この先休憩所
[温泉付き休憩所あり]

まだ新しい施設らしく、きれい。
そして、利用料と言うものは規定がなく、お気持ち次第を箱に入れるシステム。
この中の大半は20バーツ札で、ピンク色した100バーツ札もちらほら見える。
湯温は高く、源泉だけだと熱すぎるので、水で埋めながら浴槽を満たしていく。
お湯は無色透明の単純泉のようで、やさしいお湯。
この施設、チェンライからの上り線にあるのが玉にきず。
チェンマイを出て運転始めたばかりで、温泉だと、これから先のロングドライブで湯疲れしそう。
下り線にあれば、長距離の疲れを癒すのに最適と思われる。
だが、ここは公共施設。
運営しているのも公務員だからなのか、タイの公務員の勤務時間に準じて、閉館時間は16:00となっている。
これもまた中途半端な時間。
温泉浸かって星空眺めるくらいの情緒が欲しい。

浴室
[タイでよくある丸い浴槽]

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続・タイの修理事情
先月携帯電話のカメラで撮影すると霞んだようになっていると少し書いた。
レンズを交換して発生したトラブルであったので、その修理したところへもう一度持ち込んで相談しようと機会をうかがっていた。
修理したのはピサヌロークの店なので、ピサヌロークへ行かなくてはならない。
タイでもようやくコロナによる移動制限がなくなって、自由に動き回れるようになったのだけれど、私の場合は逆に動き回りにくくなってしまっている。
どこかへ出かけるにも申請書を出さなくてはならないし、その申請書を持ってあちこちサインを取り付けてこなくてはならない。
黙ってサインしてくれればいいのに、二言、三言は何か言われる。
それが面白くないので、手続きなんかしたくなくなる。
しかし、6月末から10日間ほど動き回らなくてはならない事情も発生したので、不本意ながら手続きをした。

6月25日はバンコクを出発してピサヌロークまで。
途中アユタヤ県のバンパインでバス会社へ立ち寄って、バスの整備状況やコンディションなどを確認する。
新しく取引するバス会社だけれども、内容は満足できるものであった。
もともと観光客用ではなく工場などの従業員輸送がメインのバス会社ではあるが、国営の長距離バス会社タイ・トランスポート社と協力関係があって、手持ちのバスをタイ・トランスポートへリースに出していたが、タイ・トランスポート社が長距離便を減便したので、リースに出していたバスが戻ってきており、その活用先としてツアーようにレンタルに供しようということらしかった。
足元のゆったりした座席は電動リクライニングでマッサージ機能付き、USBの端子もある、トイレなんかもしっかりしている。
車庫内の整備場も整っており、今しもタイ・トランスポート社から帰ってきたバスの塗装を塗り替えているところであった。

バスの運転席
[このバスはドイツの大型車メーカーMANのエンジンとシャシ]

昼にはナコンサワンからオンライン放送のテストを行う。
オンライン放送にはStreamyardというWebアプリを使うのだけれど、これが随分と携帯のスペックを喰うアプリのようで、レンズに曇りのないiPhone5という古い携帯ではカメラが作動しない。
新しく買ったばかりの三星製の安物携帯は、カタログ上のスペックは問題ないことになっているようんのだけれど、送られる画質は低く、さらに音声は5秒近い遅延まで発生する。
つまり、携帯の処理能力が追い付いていないということらしく、使い物にならないことが証明された。
残るiPhone7は、何度もかいているが画像に霞がかかってしまう。
しかし、ほとんど遅延もなく、霞んでいることを除けば、一番動作が安定している。
日本側より「携帯電話の修理」を厳命される。

そのナコンサワンで、ピサヌロークを手伝ってくれているガイドの息子が始めたというハンバーカー屋を訪ねる。
ハンバーガー屋と言うっても、町中にあるような店舗ではなく、郊外住宅の庭先でハンバーガーを焼いているだけのことではあるが、なかなか繁盛していると聞いていた。
もっとも、田舎のなかなか繁盛と言うのは、たまにフードデリバリーのバイクライダーがハンバーガーを受け取りに来る程度で、のんびりしたものである。
ここのハンバーガーはバンズも手作りだそうで、ふだん私はハンバーガーなんて食べることもないが、なかなかおいしそうなハンバーガーであった。
難を言えば、タイの流儀にしたがって、ソースやマヨネーズ、ケチャップ類を大量に使い過ぎていること。
私が注文したのはサラダバーカーと言って、パテの代わりに目玉焼きとレタスを挟んだもの。
あんまりお肉を食べたくない私にはぴったりであった。
これに10バーツの追加料金でスライスチーズも挟み込んでもらった。

サラダバーガー
[サラダバーガー、ナイフとフォークが付く]

庭先でハンバーガーを焼いていると書いたが、庭先と言っても普通の民家の猫の額のような庭ではなく、以前はバンガローを数棟配したリゾートだったそうで、広々とした芝生の庭園があり、そのあたりも好感が持てる。

ハンバーガー屋
[ナコンサワンのハンバーガー屋]

そんな寄り道ばかりしていたのでピサヌロークに到着したらば、午後も遅い時間になってしまった。
いの一番に携帯電話を修理屋に持ち込むと、今度はカメラ部分を交換するという。
2時間で終わるとも言う。

しかし、閉店間際に携帯電話を取りに行ったが、画像はやはり白く霞がかかって曇ったまま。
カメラなんかじゃなくて、前回交換したはずのレンズがダメだったんだろうと思うけど、修理屋は「もう一度修理しなおしてみるから3日待て」と言う。
翌週またピサヌロークには寄るので、それまでに霞がかからなくなっていることを期待して携帯電話を預けて、翌朝早くにチェンマイへ向かう。

6月26日
チェンマイで少し時間があったのでカドスアンケオへ行ってみる。
もう20年も前になるが家族でチェンマイに住んでいた時、ほとんど毎日のようにカドスアンケオへはやって来ていた。
ここにはセントラルデパートが入っていて、セントラルのタイ式発音で「センタン」、そのカドスアンケオの巨大なショッピングセンターそのものがセンタンと呼ばれ、名実ともに当時はチェンマイの中心であったようだ。
ソンクランの水かけ祭りのときには、大きなステージが作られて、大音量の音楽が放たれ、それはすごい熱気があった。
当時は大きな映画館もここくらいしかなかったし、アイススケートリンクなど当時のチェンマイが少し背伸びをしたような世界であった。

カドスアンケオ
[いまでも大きさだけは威容を誇るカドスアンケオ]

しかし、そのカドスアンケオも6月いっぱいで閉店と決まったそうだ。
チェンマイには郊外にいくつもの新しい大型ショッピングセンターができており、この10年くらいカドスアンケオは斜陽の影に包まれてしまっていた。
建物が巨大なだけに、電気代を節約して照明が薄暗くなると、ますます寂れた感じになってしまって、空きテナントに仮設店舗が装飾もなして入っている姿は痛々しかった。
しかし、セントラルデパートからアウトレットに格下げになっていたセントラルは閉店セールでものすごく賑わっていた。
8割引きなどの札が下がり、そんじょそこらのバーゲンセールどころではない混雑ぶり。
しんし、これもやはり地上に落ちた虫の死がいにアリがたかっているような感じがして、むなしさを感じさせる。
下の階のトップススーパーでは、営業こそしていたが、ほとんどの商品陳列棚がすでにかわっぼになっていた。
ひとつの時代が終わったようだ。

吹き抜け
[このデコレーションはクリスマスのままじゃないのだろうか]

夕食はレモンツリーで空芯菜天ぷらのヤムを食べる。
レモンツリーもなんだか少し寂しくなっている気がする。

ヤムパクブントートクローブ
[でも、ここの料理は美味しい]

6月27日
終日チェンマイ支店のスタッフに案内してもらい、チェンマイ郊外を走り回る。
チェンマイ市内中心部の道路は昔と変わらず、入り組んでいたり、一方通行が多かったりしていたが、郊外の道路は拡幅され、交差点も立体交差になっているところが多くなっていた。
バイパスのような道路沿いには新しい分譲住宅やショッピングセンターができているけれど、チェンマイのような地方都市にこんなに人を集められるだけの産業があるのだろうかと疑問に思う。
昔から学校が多い町だったので、地方から出てきた学生たちが卒業後もチェンマイに居残って、若い人口が増えているのかもしれないけど、みんな就職先などあるのだろうか?
たぶん、就職なんかじゃなくて、なんかちっぽけな店とかで起業でもしてるのではないだろうか?

6月28日
チェンマイからチェンライを経由してゴールデントライアングルへ入る。
ゴールデントライアングルへ来たのは10何年ぶりだろうか。
まだコロナが下火になり、移動制限も緩和されたとはいえ、ゴールデントライアングルのメコン川を渡ってラオスやミャンマーへ自由に行き来するにはハードルは高いようなのだけれど、メコン川からラオス側を見て驚いてしまった。
以前はよくメコン川を小舟で渡り、ラオス領のドンサオ村と言う中州にあるようなところへ行ったものである。
当時のドンサオ村は、中州だけあって砂だらけの寒村で、土産物を売る粗末な商店が数軒集まっているだけ、その周りには背が高く、赤い大きな花を咲かせる木が伸びているだけの土地であった。
あの赤い花を咲かせる高木はアフリカンチューリップだったんではないだろうか。
茶色の川と大地と青い空の境目に鮮やかな赤い色が印象的だった思い出がある。
土産物屋で絵葉書とラオスの切手を買って投函すると、ヴィエンチャンを経由して忘れたころに絵葉書は宛先へ届けられていた。
そになラオス辺境の村が、全然姿を変えていた。
話には聞いていたけれど、大きな建物がたくさんできている。
カジノとカジノ客のホテルらしく、お客は中国人たちとのこと。
昨年中国とラオスを結ぶ高速鉄道が完成したそうだけれど、まだ中国人たちは国外へ自由に出かけることは禁じられていて、行き来はできないそうだけれど、ラオス国内にはコロナ以前から多数の中国企業が進出してきており、中国人も相当数住んでいて、そうした居留中国人がカジノの客になっているそうだ。
私も以前何度もミャンマー側のカジノホテル、パラダイスリゾートへ泊まったことがあるが、ミャンマーとラオスでは、もう完全にラオスの方が逆転して差を広げている。
そしてパラダイスリゾートは潰れてしまったよとも噂を聞いた。

夜、チェンマイとチェンライの支店のスタッフと夕食を共にする。
ホテルの目の前にあったメコン川に張り出すような食堂。
食堂そのものは、たぶん観光客相手のものなのだろうけれど、まだ観光客が戻っていないようで、私たち4人以外に一組しかテーブルが埋まっていなかった。
タイ人女性スタッフ2名は、存外にイケる口で、ビールでは飲んだ気がしないと私が近くの雑貨屋から買い込んできラオカオと呼ばれる米焼酎もクイクイと飲み干していく。
35度の酒ではあるけれど、あっという間に大瓶を一本飲み干し、2本目も空にしてしまった。
もっとも、お開きとなったのは夜10時近くになっており、店の人はとっくに引き上げ、我々だけで飲み続けていた状態だった。
黒ネコ
[黒ネコにナマズの揚げ物を進呈]

6月29日
朝早く起きて、ホテルの裏にある丘に登る。
丘の上には寺があり、その寺がゴールデントライアングルの展望台を兼ねている。
ホテルのすぐ横に、ほとんど使われていないような細い階段道があり、丘の上まで続いている。
最近の観光ツアールートがどうなっているのか、様子がわかっていないのだけれど、以前はゴールデントライアングルに来たらば、必ずこの寺まで登って、タイ、ラオス、ミャンマーの国境を眺めたものだけれど、最近はあんまりここまで登ってくる観光客はいないのか、以前は土産物屋だったと思られる寺の駐車場の周りに立ち並ぶバラックは、ひと気もなく、もう長いこと店を閉めている感じさえした。
丘の下、メコン川沿いに金色の大仏ができたり、派手な龍のオブジェがあったりして、観光ポイントからここの展望台は外れてしまったのかもしれない。

朝のゴールデントライアングル
[丘の上からの眺め]

そんな丘の上の寺で、日本語で書かれた3つの石碑を見つけた。
いずれも第二次大戦に関係する慰霊碑で、建立はそれほど古いものではなく、比較的新しい碑であった。
ひとつはタイ・ビルマ方面戦没者の慰霊碑、もうひとつは、戦時中の戦病没者の慰霊碑、最後は現地人戦没者の追悼碑となっていた。
しかし、これらの碑がどうして直接戦場となっていたわけでもないゴールデントライアングルにあるのか、そのあたりの理由はよくわからない。

慰霊碑
[三基ある慰霊碑の一つ]

チェンライ市内へ戻り、日没後に郊外の温泉へ行く。
ここの温泉はチェンマイに住んでいたころ家族で一度来たことがある。
当時は周りが田んぼに囲まれて、あんまり整備されていなかったけれど、小さな個室の浴場で安く入浴できた覚えがある。
その当時とどう変わっているかは、もうすっかり暗くなっているのでよくわからないが、浴室は昔の儘のように思える。
先客が入浴しているのか、ひとつの個室から声が響いてくるけれど、浴室を管理しているスタッフが見当たらない。
浴室の扉には鍵もかかっておらず、勝手に入れてしまうけれど、代金も払わずに入浴したら、あとあとトラブルになりそうだと思うし、そのうちスタッフも戻ってくるだろうと、しばらく待ったが誰も来ない。
そのうちさっき声を響かせて入浴していた利用者が入浴を終えて出てきた。
若い二人連れだった。

しかたなく、ノートを破ってそこに書置きをして受付台に残した。
「1号室に入っているが、まだ入浴料を払っていない、あとで払う」
直径1メートル半ほどの丸い浴槽に湯を張っているうちにスタッフは戻ってきた。
そして、支払いは入浴後で良いと言って、さっきは夕食でも買いに行っていたのか、受付台で食事を始めた。

浴槽へ給水するバルブは赤と緑の2本あった。
私はてっきり赤いのがお湯で、緑が冷水だと思って、しばらく赤いバルブを全開にしていたけれど、ぬるい水が噴き出すだけで、ちっともお湯にならない。
もう時間が遅いので、湯を止めてしまったのか、それとも熱い湯になれていないタイ人向けなのか、これではせっかくの温泉も行水とおんなじになってしまうと思ったが、念のためにと緑のバルブを開いたら、やたらと熱いお湯が勢いよく出てきた。
バルブのいるとかの感覚が日本人とは違うようで、こうしたことはタイにいると時々経験するが、どうもいまだになれないで失敗する。
チェンライの温泉

お湯はほんのわずかだけれども硫黄の香がした。
湯量もたっぷりで、個室なので湯に数分浸かって、のぼせてくると、そのまま床に寝転んで休憩する。
日本の風呂のように風呂椅子はない。
カランなどもないので、身体を洗ったり、洗髪するのには少し不便。
もっともタイの温泉とは、日本と利用方法が違うのかもしれない。
タイの人と一緒に入浴したことがないので、そのあたりの事情はよくわからない。

6月30日
チェンライよりピサヌロークへ戻る。
実はバンコクを出るときからそうであったのだけれど、カーステレオのCDプレーヤーが故障してしまったらしい。
以前から、不調が多く、すぐ読み取りエラーが発生したりしていたのだけれど、今度はったくダメ。
エンジンを始動したばかりの時はCDで音楽が流れるのだけれど、ものの1分ほどで読み取りできなくなってしまう。
単調な道を一人でただハンドルを握っているだけだと退屈して、眠くなりやすい。
ラジオをつけたりもするのだけれど、ラジオでのタイ語をちゃんと聞き取れるほどの能力もない。
それにラジオから流れるタイの歌謡曲は、より眠気を誘うような曲も多い。

そこで、チェンライの街を離れる前にカーステの修理ができないかと、カーオーディオの店を訪ねてみる。
店の主人は、まじめそうで好感が持てたし、それにそこには黒猫がいたので、気分的にはここに任せようかと思ったのだけれど、主人によると修理はできないので、新しいものと交換になるそうだ。
それもCDプレーヤーの部分だけでなく、カーステ周辺、エアコンの噴き出し口まで含めた運転席のフレームごと交換になるという。
「あんまりお金をかけたくない」と私は自分の懐事情を話したところ、中古と交換と言う手もあると教えてくれた。
しかし、それでも費用は一万五千バーツほどかかるという。
とてもじゃないけど、いまさらなんで、黒猫には未練があったが、カーステの交換は発注せずチェンライを後にした。

ネットで調べれば、現在のCDプレーヤーと同じものが見つかり、そうすれば周辺のフレームなんか交換せずに使えるんじゃないかと甘く考えていた。

小雨の降り続く街道をピサヌロークへ向かってラジオを聴きながら走る。
途中でガソリンを入れるがリッター50バーツに迫るくらい高くなっている。
満タンにしたら1500バーツを越えた。
いくら燃費が良い小型車でも、これでは1キロ走るのに2バーツ以上かかることになる。

ピサヌロークに到着して、修理に出しておいた携帯電話を受けとる。
こんどは画像が白く霞むことはなくなったようだ。
しかし、どんな修理をしたのかは詳しい説明はなく、修理代金だけ600バーツの請求を受けた。
5月からの2度の修理代で約1,000バーツかかったことになる。

7月1日
ピサヌロークのオフィスで勤務。
明日はピーターコンのツアーがあり、今夕から続々とお客様がピサヌローク入りされてくる。
早い人は、夕方の飛行機で到着される。
そして、日付の変わった未明から明け方にかけても夜行列車で次々と到着される。
夕方到着されるお客様のお迎えは苦もないけれど、午前1時から5時にかけて到着されるお客様を、列車が到着するたびごとに駅のホームで出迎えて、ホテルまでお送りするのは、なかなか大変だった。
細切れの仮眠をとりながらの徹夜仕事。
もう若くないのに、いまだにこんなことをしていていいのだろうかと思う。

7月2日
3年ぶりのピーターコンツアー。
例の大型バスを使ってのツアー。
15メートルもある長い車体で、ピーターコン祭りの行われる山奥の村まで入れるのかと心配していたけれど、
後輪もステアリングが効くそうで、クネクネ道も楽勝のようだ。
しかも、エンジンのパワーが大きくて、急な坂道もグングンと登っていく。

ロングバス
[このバス最高!]

ルーイ県ダンサイ村は、ふだんは静かな辺境の村。
それが年に一度のピーターコン祭りだけは、たくさんの観光客が押し寄せてくる。
しかも、今年は3年ぶりの大きなお祭り。
バスを降りたところから、まるで初詣の明治神宮か鶴岡八幡宮かと言うくらいの人出。
ちがうのは、初詣の厳粛で厳かなイメージなどちっともなく、喧騒と猥雑とが充満している。
ここで午後までフリータイム。
お客様はそれぞれ‐好き勝手にお祭りを楽しんでいただくことになっている。
私のところでは、3人ほどガイドを派遣しているが、みんなどこへ消えてしまったのか、まったく現地で顔を見ることはなかった。
とにかく、あまりの人の多さに、パレードが行われるメインストリートではまともに歩くこともできない。
人をかき分けながら100メートル進むのに10分以上もかかる始末。
過去何度もピーターコン祭りに来ているけれど、こんなにたくさんの観光客が押し寄せているのは初めてだ。
今年のソンクラーンの時も、水かけ祭りを禁止されたりして、羽目を外した大騒ぎができるお祭りは、もう長いこと行われてきておらず、タイの人たちの中で、バカ騒ぎをしたいという内圧が相当に高まっていて、こんな多くの人を集めたんではないかと思う。
山車に積まれた巨大なスピーカーからは、度外れた音響で音楽が流れ、音響の振動が肺の中に共鳴されるのが、肺がビリビリと感じるほど凄まじいことになった。
鼓膜が破れるとか、難聴になるとかも心配になるレベルだけれど、人混みで身動きもできず、スピーカーから離れることもなかなかできない。

ピーターコン祭り
[ピーターコンたちはとにかく陽気]

しかし、本当のことを言うと、観光客はかつてないほどたくさん来ているけれど、ピーターコンというお化けに扮している村人の数は、例年に比べて少ないように感じられる。
パレードも音響こそすごいが、山車の数はあまり多くはなかった。
都会の人たちと違って、村の人たちはまだコロナに対する恐怖心が大きいのかもしれない。
このダンサイ村は何度もロックダウンされて、そのたびに村人たちは不自由な生活をこの2年間されられてきていたのだから。

このピーターコン祭りの会場からもオンラインでの生放送を担当した。
もともと携帯電話の無線中継設備が貧弱なのか、それとも携帯電話の利用者が多すぎてパンク状態なのか電波状態は不安定で、中継には苦労した。
しかも、先ほども書いたけれど、会場の騒音はすさまじく、マイクを使って話しても、騒音にかき消され、日本の進行役から音声を聞くためのイヤホンからは、ほとんど何も聞き取れない状態であった。
それでも臨場感は伝わったようで、放送後の評価は悪くなかった。

7月3日
ピーターコン祭りのお客様をスコータイ遺跡へ案内する。
人数もそれほど多くないし、案内するのはスコータイ遺跡とピサヌロークのワットヤイだけで、以前のようにシーサッチャナライなどへ行かないので、時間にゆとりができるはずであったのが、スコータイ遺跡での案内に熱を入れ過ぎて、通常1時間半で案内するところを2時間半も時間をかけてしまった。
その後も、ズルズルで、最後にワットヤイを終えたときには、急いで空港へ向かわないと飛行機に乗り遅れかねない時間になっていた。

7月4日
ツアーの清算やピサヌローク支店の経理事務などを処理して、午後にピサヌロークを出発してバンコクへ向かう。
ピサヌロークわ出る前に、以前住んでいた下宿へ立ち寄ってみる。
下宿の裏庭で、ここの飼い猫ウォッカと再会できた。
ウォッカも私のことを覚えていてくれたようで、最初怪訝そうな顔をしていたが、呼びかけたらすぐにすり寄ってきて、足に絡みついて離れない。
ウォッカは3年前、私のネコに気があったのか、毎朝夜明け前、「うんがーおん、うんがーおん」と甘えるような声を私とネコの部屋のドアの外で立てていた。
しかし、うちのネコはウォッカに関心がないのか、ドアを開けてやり、部屋の中に入ってきたウォッカがネコに近づくと、間髪入れずにうちのネコはウォッカにネコパンチを食らわせていた。
下宿の女主人は、2か月ほど前からアメリカに嫁いでいる娘のところへ行ってまだしばらく帰ってこないそうだ。
他のブラウニーやマールワイと言った名前のネコたちも元気にしているとのことだったが、姿を見ることはできなかった。

ウォッカ

バンコクへ到着したのは夜9時を回ってからとなった。

7月5日
まだ身体の疲れが取れないけれど、10日間もジョギングをしていなかったので、ちょっときつかったけれど夜明け前に起きだして、ジョギングをする。
ただジョギングするだけであったならば、疲れているという理由でサボることもできるけれど、ジョギングコース上には、毎朝私にキャットフードをねだるネコが待っている。
そのネコがどうしているかと心配なのでジョギングをする。

しかし、毎朝決まった場所で私を待っててくれる。
そして、私が走ってくるのを認めると、ニャニャニャニャと短く鳴き声を上げながら駆け寄ってきていたネコは、いつもの場所にいなかった。

そして、その次の日も、そのまた次の日も、ずっとネコを見かけない。
10日間も放置され、もう待っていてもキャットフードをもらえないと見限って、ネコはどこかへ行ってしまったのだろうか?
どこかで元気にしてくれていたらいいのだけれど、車にはねられたり、犬に噛み殺されたりしていなければ良いのだけれど。

もう一匹気になっているネコがいる。
これはしばらく前から姿を見せにくなっている黒い若いネコ。
このネコは、ちょっと気まぐれで、居る場所はいつもだいたい同じところにいるはずなのだけれど、どこかに隠れて出
てこないことも多かった。
私にキャットフードをねだるということもないけれど、私の姿を見かけると駆け寄ってきてくれたりしていた。
まるで私のネコの生まれ変わりのようにも感じられて、私はとても気に入っていたネコだったのだけれど、このネコもずっと姿を見せなくなっている。

7月7日
午前中チャチュンサオまでオンライン放送のリハーサルで往復する。
そして週末の金曜日に休みをとって3連休とすることにした。
そしてその3連休にまたガンタンへ行ってみることにして、バンコク発18:30の列車に乗る。
通路を挟んだ斜め前のボックスには子猫を連れた若い女性が乗っていた。
スラータニまで行くそうだ。
ネコと汽車旅できるなんて羨ましい。
しかし、以前から気になっていたのは、ネコのトイレはどうするのだろうかということ。
私がネコと出かけるときはいつも車で、リアに洗面器にネコ砂入れて走り回っていたものだが、列車の車内にネコ砂入りの洗面器を持ち込むというのは考えにくい。

寝台車に乗るネコ
[寝台車で乗り合わせた子猫]

で、今回この子猫を観察していた、回答を得られた。
このまだ十代に見える女性は、黒ビニール袋の中にネコ砂を入れて持参していた。
ネコが用を足すときは、黒ビニール袋を広げて、そこにネコを座られるという方法であった。
たぶん、出発前に何度か練習させないとネコも緊張して出るものも出ないかもしれないけれど、これは目からウロコであった。

7月8日
休みは取ったのだけれども、出社しないというだけで、午前中だけで2本もミーティングに招集されており、ガンタンへ向かう汽車の中からオンラインで参加する。
しかし、途中電波の悪いところが何か所もあり、通信が切断されがちであった。

一時間ほど遅れてガンタンに到着。
前回と同じ宿屋で、前回と同じ二段ベッドの部屋に入る。
もう昼食時間には遅いのだけれど、前回来た時に夕食を食べた食堂で昼にする。
前回来たときは、食べなかかったが、この店の人気メニューはラートナーという餡かけきしめん。
それを今度は食べておきたかった。
すでに店の従業員たちも休憩時間に入っていたようで、円卓囲んで賄いを食べていたが、ちゃんとラートナーを作ってくれた。
海鮮入りのラートナーは確かに看板メニューなだけあって美味しかった。
海鮮入りということもあり、値段もちょっと高めではあったけど、納得できるものだった。

ラートナー
[海鮮餡かけうどん]

そして、また前回と同様に温泉まで自転車をこいでいく。
どうも帽子を忘れてきてしまったようだ。
温泉へ行ったら、前回世話になった学校の先生ウィスットさんに会えるのではないかと思った。
前回ウィスットさんからは押し付けられるくらいの親切を受け、しかも名物のガンタンケーキまでもらってしまっていたので、今度お会いしたらお返しにと思って、バンコクからクッキーを持ってきていた。

しかし、温泉には毎日来ているといっていたウィスットさんは温泉の巨大露天風呂にはいなかった。
ここの巨大露天風呂は湯温が45度以上あってかなりの熱め。
地元の人は、毎日のように入浴しに来ているので、慣れていて熱い湯でも平気な顔をしているが、バンコクなどから来たタイ人観光客には熱すぎるようで、ちょっと手を湯につけただけで、大騒ぎになって、とても入浴などできないらしい。
それで必然的にここで入浴する人は地元の人たちばかりとなる。

ガンタン温泉
[ここの温泉大好きだ]

そんな中へ若い二人組の西洋人男性もやって来た。
旅行者と言うより、このあたりで語学か何かの先生でもしているような感じの白人で、言葉はなんとなくロシア語のようにも感じられた。
ピサヌロークの下宿にもロシア人の女性が一時住んでいて、近所の幼稚園で英語を教えていると言っていたが、彼女の場合、英語のレベルは私と大差ないくらいにあんまり上手では無いようだった。
それでも西洋人と言うだけで、英語の先生が務まってしまうのかもしれない。

で、この若い二人組の男性は、実際にロシア人かどうかは確認していないけれど、いま海外にいるロシアの人たちは、どこでも居心地の悪い思いをしているのではないだろうか。
戦前の詩人金子光春の私小説などで、パリやベルギーなどで、日本の満州や北支での行動で、評判を落としているときに、理解してもらえない気持ちを所々で吐露している。
きっと、それと似たような環境なのではないだろうか。

温泉
[私の後ろにファランが二人]

それにしても、ここの温泉は気に入った。
自然の中にあり、広くて、熱い湯で、、、
欲を言えば、外気温が冷たければ言うことなしなんだが、熱い温泉から出ても、外気温も暑いので、のぼせはなかなか治らない。

あと、この温泉は森林公園内にあり、周りが森に囲まれてくる。
その森から、大きな鳴き声が聞こえてくる。
小鳥の声に似ているが、
ホーーイ、ホーイ、ホイ、ホイ、ホ、ホ、と言った感じに聞こえてくる。
それはテナガザルの鳴き声ではないかと想像した。
つい先月まで梅棹忠夫の「東南アジア紀行」を読み返していた中にテナガザルを求めて北タイの山奥へ入っていく話があったけれど、活字で書かれたテナガザルの鳴き声がどんなものかは想像するしかないけれど、しかし、いま温泉を取り囲んでいる森から聞こえてくる鳴き声は、そのテナガザルではないかと思えてくる。

ガンタン船着き場のネコ
[温泉からの帰り道、フェリー乗り場にて]

夕食には、ガンタンの警察署脇に茣蓙を敷いて鍋ものようなものを食べさせている店に入った。
入ったといっても、店構えなどなく、路上に茣蓙敷いているだけだから「上がりこんだ」と言う方が近いかもしれない。
なんとなく、くつろげそうで、こんなところでビールでも飲みながら鍋をつついたら最高だろうと思ったのだが、鍋は鍋でも「ムーガタ鍋」であった。
これは豚の焼肉で、まずくはないけれど、しかし豚肉はあんまり食べたくない。
「ムーガタでなくてタイスキはできないのか」と尋ねたら、タイスキは隣の屋台でやってるよと言われた。
どうやら、タイスキと言っても日本人観光客にも人気のあるCOCA やMKのような鍋を囲むタイスキではなく、大衆食堂の丼入りのタイスキのようだ。
そして、この茣蓙敷きのムーガタ屋とは別経営のようだけれど、人のよさそうな主人は、タイスキ屋で注文してこの茣蓙で食べても構わないと言ってくれた。
やれ嬉しやと、タイスキが運ばれてくるまでビールを飲んでいたら、温泉に入り、サイクリングもして、汗としてよっぽど体内の水分が枯渇していたらしく、乾いたスポンジに吸い込まれるようにビールはあっという間になくなってしまった。

丼入りのタイスキもまずくなかった。
豚肉なしで、魚介を具にしてもらい、溶き卵と春雨、野菜類がたっぷり入っている。
味付けは腐乳を使っていて、やっぱりタイスキのタレの味がする。
ビールがなくなった後、カバンに忍ばせていた米焼酎のラオカオを取り出して、コップ酒。
これもクイクイとどんどん飲めてしまう。
今回持参したのは度数40度のものなのでウイスキー並み。

途中でスコールに見舞われて、ムーガタ屋の主人に誘導されて警察署の軒下へ避難。
外が白く見えるほどの激しいスコールを、ほんの少し雨がはねた水煙を浴びながら、米焼酎を飲み続けるのが、快感に感じられてきた。

7月9日
どうやら、前夜はだいぶ飲み過ぎたようだ。
目が覚めても、なんだかふらつく。
こんな時は、温泉に入って、汗で二日酔いを蒸発させるに限ると、また自転車を借り出して温泉へ向かう。

温泉の湯は、朝の方が温度が低いようで、大きな露天風呂で泳ぐことができるくらい余裕で入浴していられる。
そして、朝の時間帯もウィスットさんは来ていなかった。
バンコクから持参したクッキーは、持ち帰ることになった。

温泉の成分表
[温泉の成分表]

ガンタンでの朝食は、飲茶。
ガンタンの多くの食堂で、朝の時間帯は飲茶をだしている。
ここでは飲茶といわずディムサム(点心)と呼ばれているが、前回来た時にどれも安いし、そして注文してから蒸してくれるので美味しいからとても気に入っていた。

今回もエビ蒸し餃子やシュウマイ、中華麺で餡を包んだものなどと大きなパートンコー(油条)を注文し、薄い中国茶でいただく。
中国茶は無料らしくてそれもうれしい。
しかし、点心は前回一蒸籠が15バーツだったものが、20バーツに値上がりしていた。
タイの物価上昇は、いや世界的にどこもそうかもしれないが、インフレが激しい。
特に食べ物がどんどん高くなっている。
給料は下降線をたどっているので、なんとも生活を楽しみにくくなってきている。

飲茶
[値上がりしてもまだ割安感あり]

バンコクへの戻りの列車は、1時間遅れでガンタンを出発。
車内では、ガンタンの船着き場近くで買ったランブータンを食べ続ける。
赤と緑の毛むくじゃらランブータンの果肉は白く、みずみずしく甘くておいしいのだけれど、果肉と一緒に、アーモンドに似た種の周りの渋皮も果肉にくっ付いてきてしまって、それが嫌だという日本人も多い。
ランブータンはこのあたりが名産地ということになっていて、今が旬。
汽車に持ち込んだランブータンは、渋皮が果肉にくっ付いてしまうこともほとんどなく、美味しく食べられた。
これは良く熟したランブータンだったら、渋皮が果肉にくっ付きにくくなるのではないかと仮説を立てた。

ランブータン
[毛むくじゃらのランブータン]

ガンタンのようなタイ南部のマレー半島地区には、タイ南部の郷土料理も美味しいとされている。
特にカレー類は、スパイスが効いて、刺激的なので私も好きだったが、ガンタンの街では中華風の食堂ばかりで、南部料理屋で食事をする機会がなかった。
そのかわり、汽車に乗る前に店先にカレーを入れたバットを並べている食堂があったので、カレーをビニール袋に、ライスや野菜、副菜を厚紙製の弁当箱へ詰めてもらい、車内へ持ち込んでいる。
これは夕食にするつもり。
カレーと言っても、郷土料理風と言う風もなく、バンコクでもよく見かけるタイカレーではあったけれど、汽車の中で売りに来る弁当は、ガパオライスばかりなので、それよりはマシといったレベルである。

7月10日
汽車の遅れは、夜半に最大2時間くらい遅れていたが、その後は停車時間を切り詰めるなどしてグングンと遅れをとりもどし、チャオプラヤー川にかかる橋の手前タリンチャンあたりで定刻に戻していた。
しかし、このあたりで再び遅れが出始めた。
ずっと駅に停車したまま動かない。
隣のホームでは、昨年開業したレッドラインと言う郊外電車が、無機質な感じで停車しては発車していく。
しかし、この電車、日本の援助でできたらしいのだけれど、既存の鉄道と比べると運賃が10倍近く高く、またバンコクの中心部に乗り入れたり、地下鉄との接続もあんまり便利じゃなかったりして、施設は日本の電車の駅と比べてもそん色ないほどなのに、乗客はほとんど乗っていない。
どの電車も空気を運んでいるような状態になっている。
バンコクではいまどんどんと地下鉄や郊外電車、モノレールの工事が進んでいるが、バンコクの中心部に行ける路線はなさそうで、利便性があるのか首をかしげる。
私の住んでいるアパート近くにも地下鉄駅ができるようだが、これも行先はタイ文化センターまでで、そこで別の地下鉄に乗り換えないと中心部へは入れない。

結局また1時間遅れて、バンコク中央駅に到着。
日曜日だけれど、そのままオフィスへ向かって、2時間ほど溜まっている仕事を処理してから帰宅する。

帰宅後、車からカーステレオを取り外し、CDプレーヤーを分解してしてみる。
分解してみると中は埃がいっぱいで汚れていた。
綿棒にアルコールを浸してCDプレーヤーを清掃する。
ネットの記事の中に、CDプレーヤーのレンズが汚れているとCDを読み込まなくにり、きれいにすればだいたい直ると説明してあったので、丁寧にレンズを磨いたが、結果は何も変わらなかった。
そのかわり埃と一緒に何本ものネコの毛が出てきた。
こんなところで我が愛するネコ様の遺髪と再会するとはと感動した。

CDプレーヤー分解
[埃と一緒にネコの遺髪と再会]

7月11日
故障している車のCDプレーヤーに合うものをネットで探してみる。
そしてそれらしてモノを見つけた。
ただし、値段が送料含めて500バーツにもならない。
オンラインショッピングのページに掲載されている写真は私のカーステレオとおんなじものなので、これと同じものが手に入れば万々歳。

ネットショップ
[タイではネットショップが普及している]

オフィスのスタッフの念のため問い合わせを入れてもらったらば、掲載されている商品はカーステレオのコンポーネントそのものではなく、カーステレオに接続できるAUXというジャックなのだそうだ。
このジャックと携帯電話をつなげば、携帯電話に入っている音楽をカーステレオから聞けるようになるという。
これは私の期待したものではないし、第一私の携帯電話には音楽なんて入っていない。
ダメかなぁと思いつつ、CDプレーヤー探してネット検索を続けるが、外国のページでは売られているようだけれど、タイ国内では全く見つからない。

そこで一考。
携帯電話には音楽が入っていないけど、今から10年以上前、息子が中学生だった時に、「新しいの買ったんで、もう要らないからあげる」と言われて、もらったiPodがアパートの部屋のどこかにあるはずだったことを思い出した。
そんな昔のものが、いまだに使えるのかどうかわからないが、探し出してみたところ、バッテリーはダメになっていたが、イヤホンつなげばちゃんと音が出ることが確認できた。

スタッフに頼んで、AUXと言うのを購入してもらった。
とどいたものは、なんとも安直なもので、ピンプラグ用のジャック端子とそこから延びるケーブルだけ、ケーブルの先は黒が2本と黄色と赤のコードが出ているだけ。
取り付け説明書も何も入っていない。
あと入っているものは、発送者の名刺が1枚きり。
なんだか、だまされたような気になり、スタッフに相談したら
「名刺に書かれているLINEアドレスへ問い合わせたらいい」という。
さっそく、LINEで取り付け方を教えてほしいとメッセージを送ったところ、折り返しYoutubeのアドレスが届いた。
そのYoutubeでは、取り付け方が説明されていたが、Youtubeで紹介しているケーブルの先は4本の色分けされたコードではなくコネクター用のカプラーになっており、動画はそのカプラーをカーステの裏側に差し込むだけと言った簡単なものであった。

つまりこの動画を見てもさっぱりなので、もう一度LINEで
「届いた製品にはカプラーが付いていないが、どうしたらいいか」と質問した。
その答えとして届いたのがカーステ側の電極にどのコードを差し込んだらよいかと言う画像であった。
そこでは黒は2番目と5番目、赤は4番で黄色は6番と書かれていた。
これなら自分でもなんとかなりそうだと期待をする。

7月13日
三宝節で祝日。
早速カーステレオにAUXジャックのアダプターを取り付けてみることにする。
iPodにもCDから音楽をコピペして取り込んでおく。
図解のとおりに、黒は2番目と5番目、赤は4番で黄色は6番と接続していく。
簡単なものである。
そしてAUXのジャックにiPodを接続。

配線OK?
[指示された通りに配線する]

しかし、なんにも聞こえない。
解説動画では、DISKボタンを押せば、AUX側に音源が切り替わると言っていたが、DISKボタンを押すとFMラジオに音源が切り替わってしまう。
なんだこりゃ、全然だめじゃないか。
またもLINEで私が取り付けた画像と共に、上手くいかない旨メッセージを送った。
そうしたら、コードを黒は2番目と4番目、赤は5番で黄色は6番に差し替えてみるように指示される。
しかし、やっぱりダメ。
「そっちへ行くから見てくれないか」と依頼したら、日曜日の3時にと言うことで話がまとまった。

iPhodとつなぐ

7月16日
日曜日の3時で約束したいたけれども、日曜はまたチャチュンサオへ行かなくてはならないので、1日前倒しして、この日、16日土曜日に行くことにした。
場所はバンコクの南、チャオプラヤ川の対岸プラプラデーン。
1時間もあれば着けるだろうと思っていたが日曜日にもかかわらず、結構な渋滞で到着したのは3時半。
先方はSANWAという水道器具工場の駐車場で待っていた。
で、私のカーステを見てもらい、ちょこちょこっと触ったら完了したという。
テストをするとモニターにはAUXと表示され、iPodに入っていた古い歌謡曲が流れ出した。
私のやり方の何がどう間違っていたのか質問したら、
「2本の黒いコードを差し替えただけ」とのこと。
なんかキツネに化かされたような感じ。

プラプラデーンの待つ合わせ場所にて
[プラプラデーンの待つ合わせ場所にて]

1時間半もかけてやって来たのにあまりにもあっけない。
私は「これはカーステそのものが壊れてるからダメだね」と言われるんじゃないかと心配していたが、まったくの取り越し苦労ということになった。
もっとも、13日になんで黒いコードの差し替えを試してみなかったのかとも悔やまれる。
先方は、親切にも分解したカーステを組み立てて、元通り運転席前に嵌めこんでくれた。
プラプラデーンからの帰り道はiPodからの歌謡曲を聞きながら運転した。
やっぱり、運転中は寂しくない方がイイ。、

AUX完成
[ちゃんとiPhodからの音声が聞こえる、、、ただしiPhodのMenuのスイッチ不作動多し]

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| 日常 | 06:21 PM | comments (0) | trackback (0) |
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