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退院しました
1月22日 月曜日
夜8時過ぎに主治医の検診を受けて、明日の退院許可が下りる。
ただし、首を回さないよう、厳重に注意を受ける。
動かすと再手術とのことらしい。
木曜日の午後4時に診察を受けに来るように指示され、業務復帰は2か月後くらいにしようかと言われるが、2週間で何とかとお願いしてみる。
そのあたりは、木曜日の診察時に決まるのだろう。

仕事はしたくないけど、職場のことはいろいろと報告が入ってくるたびに気になってストレスがたまる。
ストレスがたまるとまた再発しそうなので、メールなどなければいいのにと思う。
それでも、メールだけど携帯電話に電話がかかってこないことだけは、職場の仲間に感謝している。
なんとか凌いでくれているのだろう。

ネットでニュースを見ると東京では大雪でひどいことになっているようだ。
高速道路が大渋滞したり、電車が止まったり、空港が閉鎖されたり、そうこうしているうちに、東京からの飛行機の遅延や結構で仕事上のトラブル報告が続々と入ってき始めた。
夜遅くにスタッフには苦労を掛けているけど、こちらは報告を眺めているだけで、何もしてやれない。

1月23日 火曜日
いつも通り朝6時少し前に起床で血圧と体温測定。
その後、点滴。
この時刻だとまだ外は暗い。
ここの看護婦さんたちの夜勤は夜11時から朝までと言っていたから、これを終えたら帰れるのだろうか。

8時に朝食。
メニューはご飯にスクランブルエッグ、挽肉と野菜の煮込み、味噌汁。
ここでの朝食もこれが食べ納め。
ご飯は最後まで柔らかすぎるまま。
明日の朝は自宅で、艶々ピカピカのしっかりした白米を炊いて、おにぎりでも作って食べようかと思う。

スクランブルエッグの朝定食
[朝は野菜をモリモリ食べたいと思います]

昨日に比べて、少し身体のだるさを感じる。
昨日少し運動をした疲れが今頃出てきているのだろうか、食後少しベッドで休憩しながら向田邦子を読む。
この本の中ではタイに関する記述が2つあった。
「細長い海」ではバンセンの海はおみおつけ色だったと表現している。
確かに、そんな色だし、海面には具材も浮いている。
もうひとつは「昔カレー」の中の記述で、三笠会館や資生堂のカレーが美味しかったといった続きで、バンコクの路上で食べた一杯18円ナリの、魚の浮き袋の入ったカレーが忘れがたいとある。
タイでは乾燥させた魚の浮き袋をスープにしてよく食べるが、私はまだカレーにしたものはお目にかかっていない。
当時の18円はたぶん1バーツくらいだっただろう。
金額からして、屋台のぶっかけ飯の類を食べられたのだろうと思う。

10時過ぎから1時間半ほど運動をして、シャワーを浴びる。
治療費の保険請求書にサインを入れる際に確認したら、入院手術費は50万バーツほどだあった。
また持ち帰り用の薬も運ばれてきた。
薬は抗生物質と痛み止めが何種類か、抗生物質は絶対に飲み続けるよう言われるが、痛み止めは痛くなければ飲まなくてもイイと言われる。
たぶん、多少痛くても飲まないで終わらせるだろう。
薬を飲むと便秘をする体質らしく、できればなるべく飲まずに済ませたい。

最後の昼食が届く。
タイのラーメン、バミーナーム。
今回はワンタンは入っておらず、挽肉と申し訳程度の白菜が入っている。
栄養バランスとしては全体的に野菜が足りないのではないかと思うけれど、タイの人は野菜を食べ残す人が多いように思うので、タイ人にはこの程度でも十分なのかもしれない。
会社のスタッフたちも、料理の皿からせっせと野菜を避けて食べている。

鶏ひき肉入りタイ式ラーメン
[タイの麺類は、カップ麺以外、アツアツと言うものに出会ったことがない 猫舌で野菜嫌いが多いらしい]

午後1時半に、腕に差し込まれていた最後のチューブが引き抜かれる。
体温測定で、37.2度であったが、平熱とのこと。
日本なら37度で微熱と診断されるけど、タイでは体温が高い人が多いのだろうか、だからみんなエアコンも気にならないのかもしれない。

午後、「父の詫び状」読完。
この本は、向田さんがあとがきで「のんきな遺言状」のようなものと書かれている。
読んでいる分には、遺言状らしいところなど感じないし、ほほえましく感じる部分が多いのだけれど、それでも癌再発への不安は執筆中もずっとあっただろう。
しかし、遺言状は癌とは関係ない形で現実となっている。
文庫本の解説を沢木耕太郎氏が書いている最中の航空機事故で向田さんは散っている。
これは偶然ではあるが、そこにはどうしても運命のようなものを感じてしまう。

夕方から、1時間半ほどまた運動をして、シャワー。
いつもならもう夕食のお膳が運ばれてくるころだけど、6時を過ぎてもまだ夕食が届かない。
夕食をいただいたら退院しようと思っているのだけれど、夕食はどうしたのだろうか?
入院最終日には夕食は付かないのだろうか?

ナースステーションへ夕食手配がどうなっているか確認をしてみた。
夕食は「あり」になっているようだが、やはり何かの手違いで夕食が私だけ配膳されなかったようだ。
すでに病室前の廊下には下げ膳を積んだキャスターが行ったり来たりしている。

夕食が届けられたのは7時過ぎ。
病院最後の晩餐と言うことになる。
メニューには豚生姜焼きとあったのだが、届いた膳のどこにも生姜焼きらしいものがない。
あるのは豚ひき肉の茹でたもの。
味見をしてみると、生姜汁を垂らしてあるようだ。
しかし、イメージとはだいぶ違う。
それに焼いてないから「生姜焼き」にはならないと思う。

病院最後の晩餐
[他の入院患者さんは、これを生姜焼きと言われて納得されてるのかしらん]

それはさておき、あとはほんのちょっぴりのお豆腐で、野菜が全く足りない。
メニューにはカロリー表示があるけれど、栄養バランスはどうなっているのだろうか。

ぶつぶつ言いながらも完食して、病室を後にする。
すでに手続きは全部終わっているとのことで、会計に立ち寄る必要もなく、そのまま帰っていいらしい。
なんともあっけない退院となった。

手術も上手くいったようだし、まだ痺れはあるものの、腕も指も自由に動く。
しかし、なんとなく視力が少し低下したように感じる。
なんとなくぼやけるし、暗さにもなかなかなれず、鳥目になったように感じる。

<HR>
帰宅をして、いつもながらネコがやたらと喜び、ギャオギャオと嬉しそうな声を立てながらまとわり付いてきて離れない。
ときどき、噛みついたり、引っ掻いたりまでするのもご愛嬌と言ったところだろうか。

これからしばらくは自宅療養を言いつかっているので、ネコと過ごす時間をたっぷりとれそうだ。

術後のレントゲン
[どこが人工骨かはっきりわからないが、金具はしっかり見える]

おしまい

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| 日常 | 07:36 PM | comments (0) | trackback (0) |
手術入院しました
1月19日からバンコク市内の病院に入院してます。
9月ころから右肩の激痛から、右手の痺れなどの症状が出て、10月に診察を受けたら頸椎関節の問題で神経が圧迫されているためとの結果になりました。
とりあえずは投薬とリハビリを続けてきたのですが、2か月続けてもあんまり効果がなく、現在の海外旅行保険も発症から6か月までしか治療費を出してもらえないので、医師の勧めもあって、頸椎を4か所削て、人工骨を入れるという手術を受けることに年末近くに結論を出しました。
手術そのものは、大きに手術らしいのですが、手術によるトラブル発生の可能性は1割以下と言うことだし、何よりも入院生活と言うものもしてみたい。

小さなころは小児喘息に始まり、あんまり体が丈夫ではなかったのだけれど、その後は大きな病気やケガをすることもなく、入院などとは縁がなかった。
ただ一度だけ、もう10年以上前になるがチェンマイの大学病院に緊急入院したことがある。
これも病気やケガで入院と言えるようなものではなかった。
そもそもの始まりは歯の具合が悪くて、歯医者に行ったところ使われた薬でアレルギーを発症。
その後、別のクリニックで診察してもらったが、そこでも誤診のようで、ますます症状が悪化して、全身がひどく浮腫んできてしまった。
見かねた周囲の人たちに、クリニックではだめだと市内随一の私立病院の救急に担ぎ込まれて、注射を打たれて帰宅させられた。
その注射が致命的で、身体全体がパンパンに膨らみ始め、服も着れないほどになってしまった。
風船のようにはち切れそうになった肌は、何かにぶつかると、裂けてしまうようで体中のあちこちから血が滲み始めた。
これではまずいと国立のチェンマイ大学病院へ単身駈け込んだら緊急入院。
私を一目見たお医者さんはエイズの末期症状と思ったらしい。
血液検査をして、これまで使われてきた薬でのアレルギーが原因であることが確認され、すぐに解毒治療となった。
治療は点滴で受けて寝ているだけだったが、病室がやたら寒いのと病院食のタイ料理がやたらと甘ったるい健康に悪そうなものだったことは記憶にあるが、数日ですっかり元に戻って退院できた。

今度の入院は、緊急入院ではなく、計画的なので、仕事とネコのことだけ気になるけれど、入院には手ぶらで来れば完全看護で、洗面具や着替えも用意してくれるという至れり尽くせりと説明を受けて来た。

19日の朝8時までに何も食べず何も飲まずに来るようにと言われ、まずは血液検査とレントゲンの撮影。
これでひとまずお終いで、また午後に来るようにとのこと。
すぐに病室に入れてもらって、朝食を食べさせてもらえるのかと思ったが、入院は午後からとのこと。
しかも午前10時以降はまた何も食べても飲んでもいけないと厳命される。
時刻はすでに9時近く。
急いで帰宅して、ご飯を炊き、納豆と味噌汁、大根おろしに豆腐を焼いて食べる。

昼からぶらぶら歩いて病院へ戻り、今度は心臓の検査を受ける。
血液も、心臓も異常なし。
昨年から血圧が少し高めだったけれど、血圧も正常値。
何種類もの書類にサインをさせられ、緊急時の連絡先を書くように言われるが、はてどこを緊急連絡先にすべきだろうかと悩む。
勤務先を連絡先にするべきなのだろうが、勤務先の電話番号さえ覚えていないずぼらさで、毎年会社の健康診断をこの病院で受けているのだから、病院の方が勤務先の電話番号を知っているだろうと思い、とりあえずは東京の電話番号を書いておいた。

この印のところからメスを入れるそうです
[この印のところからメスを入れるそうです]

病室に通されたのは、3時近くなってからで、5時過ぎから手術室に入るので、それまで休憩するようにと言われる。
しかし、もう早速点滴を腕に打ち込まれて、勝手に動き回ることができなくなってしまった。

病室はホテルのようなもので、大きなテレビもあるし、冷蔵庫もあって中にはペプシコーラが入っている。
インスタントのコーヒーや紅茶もあるしルームサービスのメニューも置かれている。
風呂場は洗面台とシャワーだけで、バスタブはない。
点滴が邪魔だけど、これからしばらくシャワーも浴びられなくなるかもしれないと思い、シャワーを浴びるが、ヤケド防止のためなのか、シャワーのお湯はあんまり熱くならなかった。

一人には広すぎる病室
[日本なら結構な差がベッド代がかかりそうなくらい広い病室]

5時すぎにストレッチャーに寝かされて、手術室へ運ばれる。
まだ手術も受けてないし、身体もピンピンしていて自分で歩けるのだから、歩いていきたいと言ったが却下された。
ストレッチャーから手術台へ移されて「手術が怖いか?」と聞かれる。
質問されても、手術など受けたことないし、どんなもんなのだろうかと言う好奇心しかない。

テレビドラマの手術シーンのように頭の上にやたらと電球の付いた大きなスポットがかぶさるようにしてあり、看護婦さんたちが薄手のゴム手袋をはめたところで記憶が途絶えている。
きっと点滴に入れた麻酔が効いたのだろう。

気が付いたのは病室にもどり、点滴のアラームが鳴り続けて目が覚めた時だ。
もう深夜であったが、気が付いたが麻酔から覚めていないのか、手が動かない。
しばらくして看護婦さんがアラームを止めに来たが、今アラームはほぼ一時間ごとに鳴り続けて、しかも看護婦さんも気が付かないのか、なかなか止めに来てくれず、ほとんど眠れなかった。
朝6時過ぎになって、交代の看護婦さんが点滴の装置を調べたらバッテリー低下のアラームだったそうで、コンセントを差し込んでくれたら、その後はアラームもならなくなった。

20日、昨日から何も食べていないので、空腹である。
麻酔も完全に抜けて、痛みもない。
喉を切り裂いて、骨を削ったのがウソのようだが、手術を本当に受けたのかどうか疑わしくなるようだ。
しかし、首からゴムチューブが伸びて、その先には傷口から出て来た血液などが野菜ジュースのようにたまっている。
結構さらさらした感じなので、これならコレステロールの値も低いのではないかと思う。
手術の痛みはまるでないが、病院内の空気が乾燥しているためか、それともずっと酸素吸入をされているためか、喉が渇いてヒリヒリする。
看護婦さんに水を飲みたいと所望したが、うがいだけしか認めてもらえなかった。
空腹を訴えたが、食事もまただだめだけど、点滴しているから大丈夫とのこと。
身体のあちこちにチューブを差し込まれて、ベッドから起き上がることもできない。
チンチンの先にもチューブが差し込まれていて、そこからオシッコが流れてビニールパックに収まる仕掛けになっている。
これはこちらの尿意とはあんまり関係なしに、勝手に排泄しているようなのだが、いったいこのチューブはどの辺まで達しているのだろうか?
ウンチに関しては対応されていないようだが、今のところ便意はない。
それに昨日から何も食べていないのだから、便意も催さない。

何も食わすな飲ませるな
[病室の壁には"Nothing by Mouth"と張り出されている]

水を飲むのもダメと言われて、まだ2時間も立たない午前10時ころになって、突然朝食が運ばれてきた。
これはいったいどうしたことだろうか?
食べてもいいのかと聞けば、OKとのこと。
和風のつもりか、魚の切り身の醤油漬けのようなものと、茹でた野菜類にスープとご飯。
果物にリンゴまでついている。
お腹もすいていたし、うれしいのでご飯をお代わりまでしてしまう。
しかし、本当のところは味の方はちょっと気が抜けていて、あんまりおいしくなかった。
特にお米は炊き方が下手なのか、せっかく日本米を使っているようなのに、まったく残念なものだった。

最初の入院食
[こんなに早く食事にありつけて、うまいマズイを口にしたら罰が当たる]

病室内では、ほぼ裸のままである。
パンツも履かず、手術着と言う薄手のガウンを前後逆さまにして様なものを羽織っている。
ガウンと言うよりも、エプロンに近いかもしれない。
前は隠すけれど、尻隠さずである。

朝食を食べ終わって、まだ頭の中が靄がかかっているようだし、全身がだるくて、すぐウトウトしてしまうのだけれど、お昼にはまた昼食が届けられた。

今度は洋風で、白身魚のソテーにマッシュポテト、リンゴ中心のフルーツサラダにロールパン。
デザートはケンタロープ(タイのメロン)。
昼食後に酸素吸入のチューブを鼻から抜いてもらった。
このチューブのせいでベッドから起き上がることもできなかったが、これで多少は身動きができるようになった。

お昼ご飯は機内食みたい
[機内食のような昼食 トレーが大きい分だけエコノミーより上かも]

午後に身体を拭きに女性の係が来てくれた。
まだシャワーがダメなので、身体を濡れタオルで拭いてくれるというのだが、こちらとしては恥ずかしくて仕方がない。
それでも係の二人は、いつもの仕事とばかり、全身を拭いてくれて、お尻の穴からオチンチンまでお湯で洗ってくれた。

朝食も、昼食もしっかり食べたし、昨日から排便をしていないので、トイレでウンチをしたいと言ったらば、看護婦さんが点滴の機械類やオシッコの入ったパック、首から下げた血液のボトルを何人もでトイレまで運んでくれた。
終わったらナースコールで呼び出すように言われたが、30分も便器に腰かけていたが、下腹部は張っているのに弁はちっとも出なかった。おならすら出ない。
処方されている薬に便秘になる成分でも含まれているのだろうか?

それでも、夕食はまたしっかり食べてしまう。
夕食はおでん風の練り物のスープに茹でた野菜と味噌汁、ごはんといったメニュー。
お腹の中に、今まで食べたものがまだく待っていると思うと、なんだかこれ以上詰め込むのはお腹に悪いような気もしたが、完食。

夕食はおでんもどき
[勝手にいろいろと食べさせられてますが、メニューは日本風、洋風、タイ風のなかからチョイスできます]

夜8時過ぎに主事医の検診がある。
容体を聞かれて、大変良いと答える。
まだ執刀後24時間しかたっていないけれど、早速抜糸をするとのことで、傷口から糸を引き抜かれる。
この時初めて今回の手術で痛いと言う感覚を味わった。
首からぶら下がっていた血液のボトルもはずれて、また自由の領域が広がった。

夜中寝ていたら、身体がモゾモゾするので明かりを点けてみたら、ベッドの周りにたくさんのアリたちがはい回っていた。
よく見ると、手点滴のチューブを伝わって、ベッドへ遠征してきている。
点滴の機械の中にアリの巣でもあるのか、機械の通気口からアリたちが元気に飛び出してくる。
点滴が美味しいから住み着いているのか分からないが、アリの添い寝はあんまり歓迎できないのでナースコールをして説明したら、メーバーン(家政婦)さんが来て、アルコールで拭ってくれた。
アリたちはまだ機械の中にいるようだけれど、アルコールに弱いのか、通気口から顔をのぞかせるばかりで、出てこれなくなったようだ。

21日、父親の83歳の誕生日でもあるので、電話をかけてみた。
こちらの入院のことなどは何も話さず、短い電話だったけれど、昨日妻と長男からのバースデイカードが届いたと大変喜んでいた。
うまれて初めてこんなものもらったよとも言っていた。

妻にも心配かけているだろうから電話を入れておく。
順調に回復していることを伝えておく。
入院することに決めたときは、付き添いをすると言っていたが、来てもらっても、こちらが面倒を見てやらないといけない状況になってしまい、足手まといになるとは言わないものの、完全看護だから心配いらないと言い聞かせた。
保険でも、看護に来るための渡航費が出ると言われていたので、来て遊んでいてもらってもいいが、滞在中にトラブルでも起きたらたまらない。
だいたい、私の症状より、妻の自律神経失調症と関節炎とと鬱の方が寸断深刻である。

朝食はタイ風の白粥。
おかずはシイタケ入りのミックスベジタブルとパカナー炒め。
タイのお粥には、ピリ辛のヤムとか切り干し大根と卵の炒め物とかを付け合わせにほしいところだけど、なんとなくピンボケの味で少し退屈。

朝はタイの白かゆ
[初のタイ料理メニューです]

朝食後、オチンチンの先からオシッコのチューブも抜いてもらう。
この作業も、昨晩の抜糸と同じくらい痛かった。
しかし、抜いてもらえば、快適である。
股間からオシッコのチューブが伸びて、太ももの上を通っていたというのは、いくら自分の体から出たものとはいえ、その生暖かさは、まるでオネショをしてしまったよう
な気持ち悪さがあった。
これでトイレに入ったら自然にウンチも出てくるだろうと楽観していたのだが、便器にしゃがんでもやはりウンチは出てこなかった。
下腹部圧迫感はあるのに、そこから下は何を怠けているのだろうか。

洗面台
[洗面所に入って髭を剃れるようになりました]

ソファに座ることもできるようになったので、先日の一時帰国のこと書きあげてブログをアップする。
ダラダラと長いだけのマンネリになっているけど、定点観測みたいなものだと勝手に納得する。

昼食はタイのワンタンメン、バミーナームサイキオである。
麺が伸びないようにスープが別付けなのは良いが、タイの麺類に必須の調味料が2つ欠けている。
タイの麺類には、必ず調味料としてナンプラー、唐辛子、お酢、そして私は使わないが砂糖が付いてくるものだ。
店によってはピーナッツを磨り潰したものを用意してくれてたりするが、この昼食には唐辛子とお酢が付いていない。
刺激物は食べさせてくれないようだ。

バミーナームサイキオ
[タイの麺類に必要な調味料が欠けてるとやはりピンボケ]

午後には点滴のチューブも外され、さらに病院で着る緑色の入院服も用意してもらう。
これで恥ずかしい尻丸出しルックからも解放されたわけだ。
そして、看護婦さんの手を煩わせなくても病室内を自由に動き回れるようになった。
我ながら、驚くべき回復力だと思う。

支給された衣類
[緑色の入院服の上下 これで病室から出れそうだ]

自由になったところで患部を濡らさないように注意しながらシャワーを浴びる。
ぬるいお湯しか出ないけれど、石鹸で体を洗うと気持ちが良い。
頭も首の周りにビニールを巻き付けて洗髪する。

シャワールーム
[幹部を濡らさないように注意しながらのシャワーです]

時間があるので、文庫本を2冊持ってきている。
一冊は向田邦子の「父の詫び状」で、もう一冊は金子光春の「マレーの感傷」。
向田邦子は乳がんとその後の感染症で入院中、右手が動かなくなり左手でこの本の原作を書き上げたそうだ。
私も右手の自由が利かなくなってきて施術入院した訳だけれど、手術2日目にしてキーボードも叩けるようになった。もっとも、私のキーは右手と左手の人差し指だけ使って打つカナウチである。
向田さんが入院されていた当時にも、コンパクトなワープロでもあれば、左手でペンを握らなくても済んだだろう。

窓際にも足を乗せられるソファ
[窓際のソファに座って文庫本を読む まるで休日気分]

夕食は塩鮭に、ほうれん草のお浸し、味噌汁と野菜の茹でたもの。
塩鮭のようだが、あんまり塩加減が効いておらず、醤油を少し垂らしていただく。
野菜の茹でたものも、ほとんど味付けがされていない。
これが病人食と言うものなのだろうと納得しながら食べる。

夕食の塩鮭定食
[ほんとうは塩鮭ではなくサーモンの塩焼きと思われる]

夕食後、注射を打たれるが、打たれてすぐに激痛が走る。
注射液を注入され出したら、呼吸が苦しくなってきた。
どうも注射の指し方が良くなかったのか、右手が盛大に膨らんでいる。
腕から手先にかけて痺れて電気が走り、左手では頭を掻きむしらずにはいられない。
看護婦も驚いたようで、氷で膨らんだ部分にタオルで巻き付けた。
「これで大丈夫、15分したら左手に注射しましょう」と言って病室を出て行った。
この氷で冷やすのがさらに激痛を伴って、右手がほとんど動かなくなってしまった。

8時すぎに主治医の回診があり、主治医もうんざり顔。
とにかく手を動かす訓練をするように申しつけられる。
時間の経過とともに、少しずつ注射のショックが薄れていくのか、手を握ったり、開いたり、腕を振り上げたり、降ろしたりできるようになったが、動かすたびに電気が走り、今一つ力が入らない。
それに肩も痛みはじめ、夜中の2時過ぎまで寝付けなかった。

22日、朝6時に血圧と体温検査。
あんまり眠れなかったけれど、寝不足に感じることもなく、昨夜まで痛かった右手もずいぶんと機能回復しているようで、痺れはするものの、大体思ったように動いてくれる。

朝食は、どういうわけか昨晩とほとんど同じメニューで鮭の塩焼きと野菜の茹でたものに味噌汁。
鮭もよいけど、納豆とかの方がうれしい。
でも、ご飯がべちょべちょなので、納豆には合わないだろうな。
それとお茶の一杯もほしいところだけど、まいど飲み物は甘いものばかり。

朝食も焼鮭定食
[なんだか昨晩の残り物を食べているようなくらい同じ内容]

食後、保険会社に入院給付金の手続き資料請求の電話を掛ける。
コールセンターの番号が0120のフリーダイヤルしか表示されておらず、バンコクからつながらずちょっと苦労した。
それとコールセンターの人が見れるウェブ画面に制限があるらしくて、資料ダウンロードのページを教えてもらうのに面倒をかけてしまった。
途中で電話が切れてしまったりして、手間もかかったけれど何とかPDFで資料をダウンロードし、これをプリントしてもらうように、ナースセンターへUSBを持ち込む。
プリントは1階のサービスセンターでできるので、車いすに乗るように言われる。
こちらは歩くことに不自由はしていないし、車いすなど恥ずかしくて乗れない。
しかし、体重を測りますと言われて体重計に載せられて大ショック。
体重が70.8キロを指している。
入院して3泊目にしてすでに3キロ近く体重が増えていることになる。
食べて、排便せず溜め込んでいるのが原因だろうけど、こっちも貯めたくて便秘しているわけではない。
看護婦さんにそのことを伝えたら、この廊下を歩いてエクササイズするように言われる。
それでサービスセンターへの車いすからも解放され、プリントを部屋に持ち帰ってから、腿を引き寄せるように膝を高く上げて廊下を1時間ほど行ったり来たりした。
少しは腸にも刺激になったらしく、少し排便を見る。
汗もかいたので、シャワーも浴びる。

ネコのエサが底をつき始めた
[,ネコのエサがほとんど残っていない なんとか明日には退院しなくては、、]

昼食はムニエル風の白身魚にマカロニサラダ、温野菜とロールパンと言ったメニュー。
さんどさんど上げ膳据え膳で、まったく気楽なものだ。
アパートにいたら買い物して、お値打ちなものを買いそろえて、おかずをでっちあげて食べているのだから、まるで機内食のように、黙っていても目の前に食事を運んでくれて、食べ終わったら下げてくれるなど、贅沢の極みだと思う。
ただし、食事内容はエコノミークラスなにかな、、ワインもビールも付かないし。

白身魚のムニエル風とマカロニサラダ
[マカロニサラダと言っても、マカロニとカニカマのマヨネーズ和えで野菜は入っていない]

午後にこの入院生活のブログを書きはじめ、3時から再び廊下を歩く。
今度は飲料水の入ったペットボトルを両手に握りしめ、歩くたびにボトルを振り上げ、振り下ろしして筋トレも兼ねる。
右手の筋力もかなり回復して、ペットボトルくらいなら難なく振り上げられるようになった。
腕も疲れたけれど、膝を上げて歩くのも疲れるようで、結構いい運動をした。
1時間少々だったけれど、体力が回復してきているのを感じるのはうれしい。

運動後、再び排便を試みて便座に腰かけたが、なかなか出てきてくれない。
冷蔵庫にペプシコーラが入っていたことを思い出して、炭酸飲料を飲めば腸がびっくりして排便が促進されるのではないかと考えて、飲んでみたら大正解。
しっかり出てきてくれた。

夕方の注射は問題なく終わり、今日は何の過剰反応も起こさない。
妻のところへ電話を掛けたら、雪で大変だという。
それに明日になったら雪が凍って、我が家の前の道は日陰だから、解けないだろうし、住人は年寄りばかりだから雪かきも心配だと言っていた。
こんな時には長男に活躍してほしいところだけど、いままで地域の共同作業に顔を出したという話は聞いたことがない。
これは我が家の躾の問題か、それとも現代っ子とはみんなこんなものなのだろうか。

あちこちに注射やチューブの差し込み
[何か所ものチューブや注射の差し込み口が腕に取り付けられてます]

夕食はスパゲティーであった。
粉チーズは振りかかっておらず、当然タバスコなど望みようもない。
ミートソースだが、パスタに比べて挽肉の量が多い。
私は日本の喫茶店のランチで出てくるようなミートソースがちょっぴりで、パスタばかりのタイプが好きだ。
タンパク質より炭水化物を好む体質らしい。
しかし、タイのパスタは大体のところ茹で過ぎで、ふやけている。
このパスタもふやけて極太パスタに変身、フォークで巻き取ろうとすると、途中で千切れてしまったりする。
病人用にご飯もパスタも緩めにしているのだろうか。

スパゲッティとブロッコリースープ
[パンはガーリックブレッド ニンニクアレルギーで下剤の代わりになるかと思ったけど。こんな小さなパン一つでは効果がなかった]

と、ここまで書いたところでいったん休止。


つづく

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| 日常 | 07:25 PM | comments (0) | trackback (0) |
2018年最初の一時帰国
1月6日 土曜日

バンコクにいて、しかもいつも通り会社とアパートの往復ばかりしていると、正月を迎えて年が改まったような気分にはさっぱりならない。
生活で変化の起伏がほとんどなく、マンネリ化しているからだろうけれど、このブログもマンネリそのもの。
今回もまた中華航空に乗っての一時帰国の話。

いつもの通り朝6時すぎにアパートを出て空港へ向かう。
先月と同様にまだこの時間だと夜が明けきっておらず、空は紫色をしている。

留守番ネコ
[ネコは5日間の留守番 5日分のキャットフード]

先月の一時帰国のことを書いた中で、2つほど中華航空のことで私の認識不足による勘違いがあったことを今回発見する。

ひとつめは、バンコク空港のラウンジにはお粥がなかったように書いてしまったが、実はちゃんとあったようである。
今回もラウンジで朝食を食べているときに、白米の上にエビが載った茶碗が並んでいた。
前回は、エビではなく茹でた豚挽き肉だったわけだが、これを私は「白いご飯の上に豚挽き肉が載ったもので、お粥でもなかった」と書いてしまったが、お粥であった。
今回係員にエビの入ったご飯茶碗を示したらば、茶碗にスープをかけてくれた。
ご飯も普通の白米ではなく、茹でてあって、かなり柔らかい。
これにまたネギや香菜を刻んだものを散らして食べるわけで、粥と言うより、緩めのお茶漬けのようなものだった。

海老のお粥
[お粥と言うより海老のお茶漬け サラサラと食べられます]

もう一つは、バンコクから台北への機内食で、「サイドメニューはいつも同じで、ソムタムのようなサラダが付いてくる」と書いたが、これも毎回同じソムタムではないようで、今回はヤム風のサラダになっていた。

その機内食だけど、今回は魚餡かけフライご飯のようなものをいただいた。
ちょっとタイ式中華風の味付け。
今回もまるで指定席かのように8Dというシート番号。
足は延ばせて快適だし、しかも4人掛けのシートに私しかいない。
機内食もテーブル2つを使って、食べられるので、快適で気分がいい。

タイ風中華の魚フライご飯
[前菜はヤム、機内食らしい機内食と言った感じ]

前回と違っているのは食べ物のことだけではなく、機内音楽プログラムも番組が変わっていた。
「日本ゴールド」というちょっと古い日本の歌謡曲を集めたプログラムで、前回は師走と言うのにサマーソング特集をしていて、ちぐはぐだと感じたのだけれど、やはり新年早々内容を編集しなおしたようだ。
どんな曲が入っているのかは聞いてみなくてはわからない。
曲目リストがあるわけではなく、ただ番組冒頭のアナウンスで1970年代から昨年までのヒット曲で、今回は「テレビドラマの主題歌やCMソングからのナンバーをお送りします」と言っている。
なんとなく嫌な予感がしたけれど、最初から最後まで2時間にわたってイヤホンを耳に差し込み続けていた。
そして、予感的中でキャンディーズの曲は含まれていなかった。
それに、もともとテレビなどほとんど見てきていないので、どの曲も聞き覚えのない曲ばかりだった。

台北までは意外と距離があるのか、音楽プログラムを聴き終わってもまだ時間が余っているので、映画を見ることにした。
洋画は言葉がわからないし、西洋人の俳優は、顔の区別がつかないのでストーリーがチンプンカンプンになる。
しかし、日本の映画も見たくなるようなものはない。
代わりに見つけたのは韓国映画の「軍艦島」。
韓国で昨年あたり騒いでいた映画だし、どんなものか見てみようと思った。
ストーリーは単純で、半島出身徴用工たちの軍艦島からの脱出と言うもので、見る前から結末が分っているというか、韓国のお定まりの娯楽映画であった。

韓国の独立は、他の植民地が独立闘争のなかから勝ち取ったものであるのに対して、日本の敗戦によって与えられた独立であったことが、こんな映画をヒットさせるのだろう。
こうしたフィクションを作り続けることで、やがてそれが史実であったかのように信じ込ませてしまうのだろう。
実際に植民地化にあった人たちが、いなくなってきて、フィクションを史実化させやすくなっているのだろう。
特に、勝ち取った独立と言う民族史の輝きがない分、どんなフィクションでも伝説になりえてしまうのだろう。
そして、民衆はそんな伝説を渇望しているから、映画がヒットしたのではないだろうか。

映画はやはり2時間ほどで、台北での乗り継ぎをしたあとも見続けることになった。

台北のラウンジで、今回食べたヌードルは「芝麻醤麺」という台湾風ゴマダレうどん。
砂糖でも入っているのかゴマダレは少し甘みがある。
私は子供のころ、ゴマ味噌うどんが好きだった。
胡麻を擂粉木ですって、味噌を混ぜたものわ冷たいうどんに絡めて食べるもので、上にシソや大葉の刻んだのを散らしたりすると、大変に香ばしくて、夏などは冷やし中華より好きだった。
この芝麻醤麺も素材が似てはいるが、風味は全く異なっている。
味噌は入っていないようで、なんとなく胡麻ドレッシングにも似ている感じがした。
うどんも冷たくなく、湯切りしてあるが、アツアツのままである。

芝麻醤麺
[芝麻醤麺 初めて台湾に来た時にも食べた気がする あれはゴマダレがドロドロで麺もボソボソで食べつけなかった]

桃園空港の壁に、故宮博物院収蔵絵画の複製が飾られていた。
ただし、そのコレクションは「故宮酉年大吉画鶏名品特展」となっている。
おやおや、今年は戌年で、酉年は去年だったはず。
こういう縁起物は、きちんと変えておく方が良さそうなものだけど、どうしたのだろうか。

故宮酉年大吉画鶏名品特展
[台湾の人は干支とか縁起物に敏感だと思うけど、どうしたんだろう]

縁起物と言えば、もう一つ搭乗口の近くに、「おみくじマシーン」が置かれてあった。
バンコクでもコインを入れるとおみくじが出てくるような機械をたまに見かけるし、
バンコクでは巫女さんではなく、ルシーと言う仙人がおみくじを運んで来てたように思う。
ここのおみくじは巫女さんタイプ。
台湾や中国にも巫女さんがいるのか知らないが、とにかく中国の時代劇に出てきそうな衣装を着けた人形が奥の方からおみくじを引いて運んで来てくれる。
コイン(お賽銭)は不要でボタンを押すだけ。

おみくじマシーン台湾版
[おみくじマシーン台湾版 台湾のお寺や廟でもおみくじは引けるけど、こんな巫女さん姿は見かけたことがない]

大吉であった。
書かれていることは、大変に縁起が良い。
しかし、ここで疑問も沸いてきた。
このおみくじの中に凶や大凶もあるのだろうか。
おみくじで縁起でもないことでも書かれていたら、これから飛行機に乗るのを躊躇ってしまうのではないだろうか。

六十甲子霊籤 凡事大吉
[六十甲子霊籤 凡事大吉 あまりにも出来過ぎな感じです]

台北から成田への飛行機は満席であった。
私が勝手に自分の指定席だなんて思っている8Dのシートではなく、27Dと言う席。
この席も、前が椅子ではなく、壁になっていて足元が広いが、後方に位置している。
そして、私の隣にも、またその隣にも人が座っている。
そのため、豚丼のような機内食を食べるときも、肘を寄せて食べなくてはならない。

機内食は豚丼風
[できれば、生姜焼き風の味付けにしてほしかった]

成田空港へは少し遅れて到着。
荷物を受け取るまではスムースだったけれど、税関に長い行列ができている。
バンコクの空港も台北の空港も、最近は税関検査は抜き打ち検査だけのようで、税関はほとんどフリーパスのようになっているが、日本の空港は税関検査もしっかりしているらしい。

ぎりぎりと言った感じで東京シャトルの切符売場へ。
すぐのバスに乗りたかったのだけれど、満席で20分後のバスと案内される。
そんなに待つなら、成田シャトルのバスにしようかと思いかけたところ、
「有楽町行きで良ければ10分後にありますよ」
と言うことで、有楽町行きの切符を買う。

この有楽町行きはまだ知られていないのか、まったくガラガラ。
有楽町と言っても、東京駅の鍛冶橋駐車場のことらしい。
バスが動き出したら、第一ターミナルにも立ち寄らずそのまま高速道路へ入っていった。
空いているバスで、すぐの発車だから、早めに帰れるかと喜んでいたのだけれど、京葉道経由で首都高は神田橋で降りた。
それから皇居前を通って、日比谷から数寄屋橋交差点とぐるりと回りこんだので、いつもの東京駅日本橋側へ行くのよりも時間がかかった。できるならば終点まで乗らずに、途中の大手町あたりで降ろしてもらいたかった。

有楽町シャトル
[車内はガラガラ 車いす用の乗降口まで付けている身障者対応のバスらしいけど、鍛冶橋は駅から遠くて、あんまり便利でない気がする]

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1月7日 日曜日

いつも通り自転車で墓参りを済ませてしまうと、私はもう別に東京にいても何もやることがない。
息子は年末からヨーロッパへ旅行に行っているそうだ。
また先月部屋の蛍光灯が切れたので電気屋を呼んで交換してもらったとのこと。
出張費込みで一万数千円だったそうで、蛍光灯くらいのことでと、ちょっとげんなりする。

夕方から銭湯へ。
今日も夕焼け空のもとでの富士山が眺められた。
明日あたりから天気が崩れるそうだけど、今日は風が強いながらも、日差しは暖かかった。
そして、銭湯の湯は今日も熱めではあったけれど、入って入れないほどではなかった。

銭湯へ行く途中の富士山
[喜多の湯の壁の絵は、銭湯で一般的な駿河湾からの富士山ではない]

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1月8日 月曜日

午前中に市内の柳窪地区へ行ってみる。
この柳窪地区は、昔の集落の面影を残している場所で、大きな木に囲まれた農家があり、曲がりくねった道の両脇は生垣になっているような場所で、トトロの舞台にも共通する景色が見られる。

生垣に囲まれた道
[戦前から昭和30年代くらいの風景がまだ残されている 散策に良さそうだけど、新しい住宅やモーテルなんかも周辺にはあったりもする]

この地区には一軒だけだが、茅葺屋根の家屋が残っているそうで、その家屋は江戸時代に建てられたものだと昨日銭湯に置かれていた広報誌に書かれていた。
柳窪は子供のころから知っていて、ずいぶんと田舎に来たような感じがするところだったが、そんな古い家屋があるとは知らなかった。
行けばわかるだろうと思っていたが、柳窪も結構広くて、探すのに苦労した。
やっと由来が書かれた立て札の立つ立派な門まで来たのだけれど、茅葺の家屋は生垣の奥の方にあって、表からはほとんど見えない。
それに今でも人が住んでいる民家であるから、勝手に覗き込むこともできない。

立派な門構
[成金趣味ではない、本当の旧家の門構と言った感じがする]

有形文化財平野家住宅
[有形文化財平野家住宅の案内板]

垣根越しに拝見
[市内に残る唯一の茅葺家屋を垣根越しに覗かせていただく]

午後に少し雨が降ったが、小雨であったので、傘を持って散歩に出かける。
前沢から落合川に沿って歩く。
このあたりも以前は田舎道、畑の中の曲がりくねった細い道だったが、新しい道ができていたり、住宅が建て込んだりして、景観がずいぶんと変わっている。
落合川沿いは遊歩道も整備され、生活排水も流れ込まなくなったからだろうか、以前よりもずいぶんときれいな河川となっている。
ひょうたん池は子供のころ見たときにはもう少し大きかったように思えたが、窪地から泉が湧き出ている小さな池だった。
この池には金魚だったか、コイだったかわからないが赤い魚が泳いでいたような気がする。
夏だったかに、喉が渇いて、この池の水を飲んだが、生ぬるく、なんだかまずい水だなと思った記憶がある。

現在のひょうたん池
[この池の水を飲んだ後でお腹を壊したかどうかは記憶がない]

現在の落合川
[昔より落合川の環境は格段によくなっているようだ 昔はドブ川みたいだったけど、今は清流と呼べそうだ]

神明神社は昔よりもずっとさびれてしまったようだ。
杉木立もなんだか寂しそうに見える。
この神社はこのあたりの子供の遊び場であったけれど、いまでも近くには都営住宅があるようだけれど、子供たちの姿は見かけなかった。

神明神社
[ひっそりとしており、社殿の奥に宮司さんが住んでいるのか一匹の老犬が飼われていた]

神明神社から、神明幼稚園へも、昔は畑道で、梅雨時にはカタツムリを捕まえて、幼稚園の帰り道でイチゴの空パックに入れて連れ帰った思い出がある。
また、連れ帰ったと言えば、ニオと名付けた拾いネコも幼稚園の近くからだった。
いまバンコクにいるネコと同じ黒ネコで、首の裏側(のど)だけが白かった。

幼稚園から、旧市役所前を通る。
旧市役所の建物はすでになく、通りの向かい側にあった市川建設の建物も見当たらなくなった。
残っているのは、農協の建物だけ。
旧市役所前の通りと小金井街道は、東久留米のメインストリートだったけれど、新しい道ができて影がうすなっているようだ。

小金井街道を南に下り、第一小学校を過ぎて、落合川を越えて少しのところにお地蔵さんがあった。
お地蔵さんがあることは昔から知っていたが、案内板が付いていることは知らなかった。
その案内によると、18世紀に作られたそうで、江戸道と大山道の分岐点になっていたとある。
江戸道はたぶん所沢街道のことで、大山道は府中街道ではないかと思うのだが、そうすると現在とは位置関係がズレていることになる。
この近くのバス停の名前が、いまでも「前沢宿」となっていて、江戸時代には宿場があったそうだから、何世紀も前とは街道の位置も変わってくるのだろう。

三叉路のお地蔵さん
[ちゃんとお堂にお住いのちょっと大きめのお地蔵さんです]

お地蔵さんの由来
[散策していると郷土史を訪ねているような楽しみがある]

夜遅くなって、長男がヨーロッパから帰ってきた。

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1月9日 火曜日

昨日のぐずついた天気も、今朝は曇りがちながら雨は上がっている。
近所の「わくわく健康プラザ」と言うところに郷土資料室のようなものがあるらしいので、そこへ行ってみる。
わくわく健康プラザは以前の滝山小学校が廃校となり、その建物を再利用した施設のようだ。
滝山小学校のすぐ近くには第九小学校があり、私はそこに通っていた。
当時は大型団地ができ、建売住宅も増えて、子育て世代のニューファミリーがどんどん引っ越してきていた時代で、学校の校舎が足りずに、私が四年生の時はプレハブ教室だった。
それが、つい数百メートル先に新設校ができ、そちらの小学校へ移っていく生徒がたくさんあって、プレハブから解放された。
また、校舎も増築され三階建ての教室から、良く晴れた日に富士山が眺められた。

郷土資料室には縄文時代の遺跡から出土した土器などの展示から、古い写真パネルなどが展示されていた。
小学生の頃は、市内の丘に貝塚があり、縄目模様の付いた土器の破片などを拾うことができた。
写真パネルは昭和30年代くらいからのものが多く、解説のいているのもあれば、解説がなく、ただ古い市内の写真だなと感じるだけのものもあった。
そんな解説のない写真の一枚に、見覚えのある景色が映っていた。
写真の左手にお茶屋さん、通りを挟んで日立の電気屋さんと、その前に止まっているオート三輪。
そして、その手前にははっきりしないが二階建ての建物と階段。
この二階建ての建物はきっと「かねよしマーケット」ではないかと思われる。
味噌樽が並んだり、野菜や魚、雑貨などを売る市場のような店が入った施設で、当時の買い物は大体ここへ畑の中の道を抜けてきていたものだ。
土の道には、ハンミョウの幼虫がいる穴が開いており、母はそれをニラムシと教えてくれた。
穴の中に、ニラの葉っぱを突っ込むと、幼虫が葉っぱにかみつき、釣り上げることができるとのことだったが、釣れた記憶は一度もない。
そんな道をマーケットで買ったトマトやハム、QBBのベビーチーズなどをおやつ代わりに食べながら、弟を乗せた乳母車を押して歩いたものだ。
そんな記憶が沸きあがってきた。

昼食には少し遅くなったが、妻と商店街の中の寿司屋に入った。
すでにランチタイムは過ぎているところだったが、ニギリ15貫の上寿司を注文。
店の名前は、「すし小島」となっている。
むかしからこの商店街のこの場所には寿司屋が入っていたが、当時の名前は「寿司金」。
寿司は出前で注文することはあっても、この商店街の寿司屋に食べに来るのは何十年ぶりだろうか。
小学生のころ、留守番を言いつけられて、昼ご飯を何か適当に済ませるようにと財布を渡された。
そして、食べ行ったのが当時の寿司金で、小学生の子供二人がフラりと寿司屋に入ってきたものだから、店の奥さんはてっきり子供が出前の注文を伝えに来たものと思ったようだった。
テーブル席で食べたのは、ノリタマと呼ばれる玉子のニギリと巻物のセットだった。
今の店の女性店員さんに「ここは元の寿司金さんですか?」と尋ねたが、知らないようだった。
現在の店は、商店街向かいにある鮮魚店の経営で、ネタは値段の割に良かった。

長男が生まれたばかりのころ、当時住んでいた近くに和可菜と言う寿司屋さんがあって、ときどき三人で食べに行った。
おかみさんが気を配ってくれて、2階にある畳敷きの部屋へ通してくれたものだった。
夕方からラビットスクーターに乗って、あの寿司屋はどうなったかと見に行ったが、「和可菜」と看板はそのままだったけれど、もう長いこと店を閉めている様子だった。
その先の交差点の角に立つ酒屋もコインランドリーになっていた。

夕食はスーパーで惣菜類を買って、間に合わせる。
合鴨ロース、マグロの切り落とし、クリームコロッケ、鮭汁、、
酒は「ひがしくるめ」という名前の純米酒。
メーカーは隣町に酒造蔵のある豊島酒造。
なんとなく、居酒屋のテーブルを囲んでいるようになった。

純米酒ひがしくるめ
[地酒と言うわけではないけど、なんとなく郷土愛から選んでしまう]

酒造元は隣町の豊島酒造
[酒造元は金冠で知られる東村山の豊島酒造]

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1月10日 水曜日

バンコクへ戻る日。
今朝も一番に小平霊園へ墓参り。
空はよく晴れていて、今回は飛行機のまどから富士山がばっちり見えるだろうと期待が沸いてくる。

朝から快晴
[関東地方の冬の朝は透明感のある青空が広がっている]

いつものように東京シャトル11時40分のバスに乗って成田空港へ。
一時間ほどで空港に到着し、チェックインカウンターへ。
カウンターにはほとんど並んでいる人がいない。
いつもなら台湾からの団体客などで長い列ができているのだけど、台湾から日本へ団体客が来るときの便は、つまり私が乗ってきたような便は、正月を台湾で過ごした日本人が多くて満席だったから、台湾からの団体客が相対的に少なくなったためだろう。
成田のラウンジのメニューはこの二年ほど全然変わっていないように感じる。
毎日食べに来ているわけではないから、メニューが同じでも構わないけど、多少は変化があった方が楽しいかと思う。

今日の中華航空の台北行きはジャンボではなくてボーイング777。
ジャンボの二階席みたいに豪華でゆったりと言うわけにはいかないけど、他の区間のエアバスと違ってプレミアエコノミーの席が付いていて、ジャンボの二階席同様にエコノミーのチケットでもそのまま座れてしまう。
席は30Kで、プレミアエコノミー右舷側最前列窓側。
足元は広いし、シートはゆったりしている。
隣のシートは空席のまま。
とてもお得感がある。
それに窓の外は晴れているので、富士山がばっちりのハズ。

少し遅れて離陸。
搭乗率は半分にも満たないだろうか、団体客の姿はあまり見られない。
お待ちかねの富士山だけれど、どうした訳だか、頂上部分にだけ雲がかかっている。
前回は雲海の中から頭だけ出していたのと反対になっている。
やっぱり富士山は頂上を拝みたいのでちょっと残念。

雲の帽子をかぶった富士山
[なぜか頂上だけが雲の帽子で隠れてしまっている]

機内食の焼き鳥ご飯を食べたらば、台北まで昼寝をしていく。
ジェット気流は風速400キロに近い向かい風、そのためか飛行機の対地速度は600キロにも満たない。
これでは時間もかかるし、燃料も余計に食うだろうなと思る。

焼き鳥ご飯
[焼き鳥は照り焼き風になっていた 最近デザートは最中が続いているようだ]

桃園空港到着後、いつものように南崁の町に出て市場とスーパー巡り。
市場では台湾うどん一斤とワンタンを1パック購入。
飛行機が遅れて、来るのが遅かったのか、市場のおばさんはもう店じまいの準備を始めるところだった。

南崁の市場
[7時半にはそろそろ店じまいを始めるようだ]

いつもはバス停に近いカールフールへ立ち寄るのだけれど、少し探検しようと住宅街の方まで足を伸ばしてみる。
超高級マンションのような建物があったりして、どんな人が住んでいるのだろうかと思う。
南崁の市場とはアンバランスな気もするが、南崁には市場だけではなく、私は立ち入っても興味もないような高級ショッピングモールもあるので、この町の住人は二層化しているのかもしれない。

そんなマンションの並びに、頂好超級市場スーパーがあったので覗いてみる。
台北市内の頂好スーパーは品ぞろえも価格も良かったので、なにか良い冷凍食品でもないかと覗いてみたが、台北の店と比べると規模も小さく、これはと思えるようなものがなかった。
次に、もう少し庶民的な住宅街の方へ歩いて行ったら、全聯福利中心と言うスーパーがあった。
こちらは先ほどの頂好スーパーと大体規模は同じくらいだったけれど、冷凍食品コーナーが充実しており、冷凍餃子を二袋購入する。

全聯福利中心
[全聯福利中心と言うスーパーはなんとなく日本の生協のような感じだった]

さらにいつもの八方雲集の餃子チェーンで翌日の弁当用に餃子を15粒注文。
弁当用なので、招牌鍋貼の焼き餃子を注文したつもりが、伝票の書き間違えで水餃子を頼んでしまったようだ。
水餃子も美味しいのだが、時間がたつと皮がくっつきあってしまう懸念があり弁当には向かないと思っていたが、さすが持ち帰り注文に慣れているのか、水餃子をパックに詰める際に、スプレーで油を吹きかけている。
これなら皮同士がくっつくこともないだろう。

バンコク行きの飛行機は深夜11時過ぎの出発。
南崁から空港に戻って、ラウンジでパイナップルを食べようと思っていたが、果物はオレンジとグアバそれにミニトマトしかない。

果物と野菜のバー
[パイナップルがラインナップに入っていない]

ちょっとがっかりしたが、念のためにラウンジの女性スタッフに「パイナップルが食べたいのだけれど」と言ってみたら、厨房の奥へ確認に行ってくれた。
「等一下」と言われて、ビールを飲みながら待っていたら、お皿に山盛りのパイナップルを持ってきてくれた。
これには感動してしまった。
やっぱり台湾のパイナップルは美味しい。
それにこうして希望がかなってうれしい。

感動のパイナップル
[皿に山盛りでパイナップルを切ってもらった]

久しぶりに牛肉麺も注文してみる。
従来食べていたものと比べると、麺の量が半分くらいに減ったような気がする。
私は牛肉よりも麺とスープが好きなのだけれど、普通の人は牛肉を好むのだろうから仕方がない。
それに台湾でも炭水化物ダイエットがはやっているのかもしれない。
ダイエットはブームだけど、その効果はあまり出ていないのか、メタボの人がラウンジ内には多いようだ。

バンコク行きの飛行機も少し遅れが出ているらしい。
搭乗予定時間が少し繰り下がっている。
バンコク到着予定時刻が午前二時なので、あんまり遅れてほしくない。

搭乗ゲートを通過する際に呼び止められる。
シートチェンジとのことだ。
いつもの指定席8Dが消されて、5Dと書き換えられる。
「ビックシートチェンジOK?」と聞かれる。
つまりビジネスクラスのシートへ変更らしい。
シートの変更だけで、サービスはエコノミーのままかと思ったら、ちゃんとウェルカムドリンクから始まるビジネスのサービスをしてくれた。
機内は別に満席と言うわけでもなく、私の指定席8Dは赤ん坊用のカウチ対応席で、カウチが必要なお客さんがいたのかもしれない。
どっちにしても私にとってはラッキーである。

ビジネスクラスへアップグレード
[エアバスのビジネスだけど、座り心地はいいし、斜めながらフラットにもなる快適です]

隣の席は空席のままだし、ワインも美味しい、
しかし、空腹ではないので機内食はあんまり食べたくないけど、食べなきゃもったいないという意地汚さからシーフードを注文してしまう。

これが大失敗で、食後はぐっすり寝ていくつもりだったが、シーフードには大量のニンニクが入っており、ニンニクアレルギーの私は食後間もなくトイレへ駈け込むことになった。
しかもバンコク着陸までにトイレへ3回も往復してしまった。

シーフードの機内食
[大量のニンニクがシーフードには入っていたようです 以後シーフードの注文には気を付けたいと思います]

バンコクへも30分ほど遅れて到着。
入国審査場は大混雑していたが、機内でファーストトラックの優先クーポンをもらったので、わけなく別ゲートを通過できた。
そしてまたトイレへ。

アパートにたどり着いたら、午前3時半。
ネコのトイレをきれいにしてやったり、エサを補充したり、冷凍餃子を冷蔵庫に入れたりして、床に入ったのは4時半過ぎになってしまった。

おしまい

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