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1泊4日 台湾旅行 (後編)
11月07日のよるにバンコクを飛び立ち、台湾へ行き、11月9日の朝にバンコクへ戻ってきました。
その1泊4日の台湾旅行の記録です。
短い期間でしたが超凝縮型の旅でした。

では、その後編・・・

<HR>

朝6時にセットしておいた携帯電話の目覚ましで起床する。
普段なら夜中に何度か目が覚めたりするのだが、昨晩はトイレに一度起きただけでたっぷり眠れた。
本日の予定は、まず蘆山温泉までバスで行き、その後蘆山温泉から霧社まで歩き、埔里に戻って昼食、バス乗り換えて清流部落に行き、再び埔里経由で台中、深夜のリムジンバスで空港へと言うハードスケジュール。
それぞれの場所ではやっておきたいことがあるので、どこか一つでもスケジュールが狂うと、全体に影響してしまう。

新聞第一面
[ホテルにあった今朝の新聞]

昨晩から馬総統と習主席のニュースで新聞もテレビももちきりである。
そして、国民党政府寄りは拍手喝采的な報道をし、現在の野党民主党に近い報道は馬総統を「台湾を中国に売る売国奴」と攻撃している。
様々な意見を表現できるような環境に台湾は成長しているようだ。
以前なら反政府的な発言は禁止されていたし、それに与党国民党の一党独裁だった。
中国と関係を持ったりしたら国賊扱いである。
それが、政府国民党が率先して中国になびき、野党がそれを非難するのだから、世の中変われば変わってしまうものだ。

シャワーを浴びて、朝食をとりに外へ出る。
しかし、まだ全然空腹を覚えない。
軽く食べるなら昨日のように豆乳と油條と言う手もあるのだが、油っ気のある油條のようなモノは食べたくない。
あっさりした麺類か、お粥のようなものなら食べられそうなのだが、腹ごなしを兼ねて朝の埔里を歩き回ったが、食べられそうなものが見つけられなかった。
どんな朝ごはんの店があったかと言うと、三明治(サンドウィッチ)、漢堡(ハンバーガー)、魯肉飯(豚挽煮込飯)、鍋貼(焼餃子)そして豆乳と油條など、台湾の人は朝からガッツリ食べるのが好きなようだ。
結局歩き回っているうちに時間切れ、朝食はパスして、ホテルをチェックアウトし、当座不要な荷物を午後までホテルに預かってもらい、バスターミナルへ向かう。
早朝の埔里
[朝の早い台湾だけど、埔里は田舎町なのでメインストリートでもこんな感じ]

蘆山温泉行、7時25分のバスは観光バスのような大きなバスなのだが、バスターミナルから乗り込んだのは私一人。
運転手は山地人のようで年齢は私と同じか少し上くらいだろうか、片言の日本語が話せる。
私のことを「ニイさん」と呼ぶ。
しかし、日本語で会話が成り立つほどではない。
彼の父や兄はもっと日本語が上手なのだそうだ。
このバスの支払いもスマートカードを使う。
109元也
埔里のバスターミナル
[埔里のバスターミナル・今日もいい天気になりそうだ]

今年になって、大学生の当時に読み漁っていた霧社事件に関する本を読み直している。
埃をかぶって、背表紙など変色してしまっている。
30年ほど前、初めて蘆山温泉に行き、たまたま宿泊した宿が碧華荘。
霧社事件の生き証人と言われた高彩雲さん(初子さん)と高光華(初男さん)の経営する宿であった。
その宿に泊まったことから、霧社事件に関心を持ち、資料や本を集めたのである。

天主教と言うバス停でまだ10代のような山地民風の女の子がバスに乗ってきた。
やはり私と同じように温泉まで行くらしい。
この女の子と運転手の会話から、彼女は温泉で働いているらしいことが分かった。
彼女の乗り込んだバス停、天主堂にも昔来たことがある。
この山の中で知り合った大学生当時の私と同年輩の青年に誘われ、彼のバイクの後ろに乗って、彼の家へ行き一晩泊めてもらったことがある。
彼の名前はもう忘れてしまった。
しかし、彼のお母さんは日本語が上手で、日本時代の名前は加藤だったとおっしゃっていたような気がする。
お母さんは若い人たちがバイクで騒々しく走り回るのが嫌いだと言っていた。
彼の家は通りに面した打ちっぱなしのコンクリートで土間の家だった。
また、その日は不在だったが、彼のお父さんは牧師をしていると聞いたような気がする。
彼のバイクはお父さんが教会の仕事の関係で日本へ行ったときに、土産に買ってきてくれたものだと彼は自慢をしていた。
あれから30年。
もし彼が父親の後を継いで牧師になっていたとしたら、この天主堂を守っているのだろうか。
今日は日曜日だし、天主堂には牧師さんがいるはずだから尋ねてみたいところだが、またの機会に譲ることにする。

天主堂の少し先にある眉溪からも若い女性がバス乗ってきた。
彼女も温泉まで行くらしい。

私がはじめて埔里から霧社へ向かった時、昭和初期に霧社には多くの日本人がいたということが信じられなかった。
当時、埔里から眉溪まで人力鉄道とも言えそうな台車線路があり、そこから先は険しい山になっている。
そして、「人止関」と言う狭い峡谷があり、清朝当時よりこの先には一般人の入山ができないようになっていた。
まず、その人止関の景観を見た時に、こんな断崖絶壁に挟まれたようなところに、道など開削できるものだろうかと思った。

人止関の松
[人止関、この一本松は昔からあった この写真は山から下るときに撮影したもの]

その人止関の断崖には、赤く大きな文字で「反攻大陸」と書かれていた記憶がある。
当時の台湾は蒋経国総統の時代で、まだまだ反共を国是としていた。
台湾の人が中国へ行くことも認められないし、中国からも人は来ない。
人だけではなく、台湾には中国製品も持ち込み禁止であった。
それが昨日のように台湾と中国のトップが会見するど想像もできないことであった。
今はもう「反攻大陸」の文字も断崖から消えていた。

急な坂道をくねりながら登り切って霧社台地へ上がった。
時刻は8時少しずぎ。
バスは霧社の台湾電力事務所前に停車し、運転手が客席の方を振り向いて中国語で「小休止、8時15分出発」と言った。
そして、こんどは私を見て少し不安気に「テイダ・トンマ?」(聞いてわかるか?)と聞いてきた。
「大丈夫、8時15分出発ね」と言い返したらニッコリ笑った。

霧社で小休止
[霧社で小休止 南投客運バスは以前は中古のオンボロばかりだったけどずいぶんよくなった]

10分ほどの時間で200メートルにもならないくらいの霧社のメインストリートを歩いてみる。
昔とほとんど変わっていない。
学生当時、蘆山温泉には随分と通ったものだった。
そこの人たちとも随分と知り合いになった。
碧華荘の初子さんが最高齢の知り合いとすれば、最年少は当時小学生だった姉妹である。
姉妹は私にとても懐いていた。
私が社会人になって、上の子が中学生か高校生くらいになった時、彼女は学校行事で日本へ来たことがある。
そのとき私も一緒にディズニーランドへ行った。
その彼女たちのお母さんが霧社で食堂をやっていた。
警察署の近くの食堂で、それらしい食堂は今もほとんど変わらずあった。
しかし、シャッターが閉まっている。
まだ朝早いから閉まっているのだろうか、また昼に来たら開いていて、あのお母さんはまだいるだろうか?
それとも姉妹のうちの誰かがやっているのだろうかと考えながらまたバスに戻る。

蘆山温泉へは15分ほどで到着。
このバスはまだこの先の蘆山部落(旧富士部落)まで山を登っていくのだが、私たちを降ろしてしまったらもうお客は誰もいなくなって、空で走ることになってしまった。私も蘆山部落まで行ってもよかったが、やはり今回は時間がなくて見送った。

蘆山温泉到着
蘆山温泉は昔とあまり変わっていないようにも見えるが、建物が増えている。
それもバス停周辺、つまり吊り橋手前には立体駐車場がいくつもできている。
昔も週末になるとバス停周辺には路上駐車する車があふれ、バスが入ってこれなくなるほどだったが、今はもっと車が増えてしまっているようだ。

吊り橋

吊り橋は昔と変わっていないようだ。
吊り橋手前で粟餅を売る店も昔の儘のようで、当時と同じ「蒋経国院長説・・好吃!好吃!」と看板に書かれていた。
ここでいつも粟餅を捏ねていた元気のいい初老のおじさんはもう店頭には立っていなかったけど。

吊り橋から下を眺めると、一部渓谷には護岸工事をしているようだ。
以前は台風や大雨が降ると川が氾濫して、川岸の建物が流されたり、浸水したりする被害がしばしば発生していた。
吊り橋から松田旅館が見えた。
しかし、廃墟となって営業していないように見える。
当時は日本風のお風呂があると看板に書かれていたように思うが、私は結局一度もそのお風呂を確認したことはなかった。
松田旅館
[緑の屋根が松田旅館だった建物]

碧華荘は吊り橋を渡ってすぐのところだった。
畳に布団と言う昔風の木造平屋建ての宿であった。
当時既に鉄筋でベッド部屋の新館もあったのだが、私は専らこの畳の部屋を好んだ。
新館も本館も冷房は付いていなかった。
台湾でもっとも標高の高いところにある温泉だけあり、夏でも涼しかった。
そして冬は暖房がないので寒かった。
温泉街の土産物店で売っている山地民の織った赤い縞模様のガウンを着こみ、布団にくるまって寝たものである。

碧華荘の女主人で会った初子おばあさんは、もう20年近く前に他界されている。
そして、その息子である初男さんも既に逝かれてしまい、聞くところによると碧華荘自体が人手に渡ってしまって、名前だけは碧華を残しているが、「碧樺温泉会館」と言うホテルになってしまったそうである。
1年以上前になるかもしれないが、ネットで碧華温泉会館の宿泊料金を調べたら、ずいぶんと高い金額になっていた。
ウェブに掲載されている施設や部屋の写真も以前とはまるで異なる高級リゾートのようなものになっていた。
そのホテルも吊り橋から見える。
仮に別のホテルになったとしても、懐かしいので泊まって見たいと思っていたが、最近になってこのホテルの予約サイトが接続できなくなってしまった。
碧華温泉会館
[左手の大きな建物が元の碧華荘新館、今は碧樺温泉会館]

もとの碧華荘の敷地には、ごちゃごちゃと小さな建物が建っていたりしているが、黄色いテープで仕切られて立ち入り禁止になっている。
どうやら南投県政府により差し押さえられている様子。
いったいどうしたことなのだろう。

以前の碧華荘新館入り口
立ち入り禁止とはなっていて、悪いとは思うものの、テープを乗り越えて中へ入ってみる。
奥へ入ると以前の碧華荘新館の入り口が、非常に荒れた状態で現れた。
悲しい。

碧華荘引水専用路
この奥に碧華荘専用の温泉の源泉があって、マヘボ渓に沿って渓谷の断崖にへばりつく様に数百メートルの引水通路が開削されていた。
まずはその源泉がどうなっているだろうかと、引水通路をたどってみる。
長らく放置されているのか草に覆われ、木道部分は朽ち果て始めていた。

引水路の現状
そして、ものの100メートルも行ったところで、土砂崩れでもあったのか引水通路は崖下に崩れ落ちていた。
この道以外に源泉へたどり着ける方法はないと思われ、現在源泉がどのようになっているのか確認できなくなってしまった。
引水路寸断
[これ以上進むことは不可能になってしまった]

マヘボ渓
[眼下にはマヘボ渓]

源泉はあきらめて、碧華荘の新館入り口をもう一度確認してみる。
様々なものが散乱している。
この新館は人手に渡り、新しい豪華ホテルとなって大改装されているはずである。
それは吊り橋側から眺めただけでもはっきりしているが、もとの入り口側は、改装の対象になっていなかったのだろうか、まるで以前の碧華荘が廃墟となってそのまま打ち捨てられているようなありさまである。

生前の初子さん
散乱する残骸を眺めていたら、結婚式か何かの写真がフレームに入ったまま落ちていた。
拾い上げてみてハッとした。
新婦の左に立っているのは初子おばあさんではないだろうか?
写真には日付も入っている。
'96 8 11
1996年8月11日。
お孫さんの結婚式だろうか?
新婦の手を握っているのはお孫さんのお母さんであることは間違いない。
初男さんはどこだろうか?
シャッターを切っているのが初男さんとしたら、この写真に写っていないことも理解できる。
それにしても、1996年の8月。
私の曖昧になった記憶では、初子さんはちょうどこの頃に亡くなられていたような気がする。
初子さんにそっくりではある。

後になってネットで確認をしたら、初子さんは1996年8月26日に急性脳溢血で倒れられ、9月1日に亡くなられていた。

この写真をこのなところで雨ざらしにさせておくのは何とも忍び難い。
しかし、仮に打ち捨てられ散乱しているとはいえ、ここにあるものはすべて南投県政府の管理下に置かれているものであり、許可なく持ち出すことは犯罪に当たるだろう。
初子おばあさんたちの写っている写真を携帯電話で撮影し、映像だけを持ち帰ることとし、フレームはもとの場所に戻した。

廃墟となっている建物の中へ入ってみる。
初子さんの写真が落ちているようなら、もっと遺品が出てくるのではないか?
この新館には初子さんが住んでいた部屋があったはずである。
しかし、内部は真っ暗で何も見えない。
懐中電灯も持っていない。
残念だけれども、建物の奥まで入ることは断念した。
近悦遠来
[近悦遠来・・碧華荘に飾られていたのを覚えている]

本館の別棟だったと思われる木造平屋の建物の屋根の上にネコの親子がいた。
昔、碧華荘の敷地周辺にはネコがいたような気がする。
この親子ネコは、その当時の末裔ということになるのだろうか。
碧華荘ネコの末裔

本館のあった場所の前はやはり立ち入り禁止となった建物がびっしり建っており、本館がどうなっているか確認のしようがない。
そこで、碧華荘の裏に当たるところにある好望山荘への道を進んでみる。
好望山荘もやはり山地民の経営する旅館で、碧華荘裏の斜面を登ったところにあるので、碧華荘を上から眺められると思った。
はたせるかな、好望山荘へ続く坂道の途中から碧華荘本館の裏側が少し見えた。
荒れ果てているが間違いない。
私が泊まっていた畳の部屋の窓からは、今私が立っているこの斜面が見えていた記憶がよみがえる。
碧華荘本館

好望山荘も廃業してしまっているらしい。
好望山荘
[碧華荘の裏にあった好望山荘]

裏山を進んで、警光山荘へ抜ける。
警光山荘は健在のようである。
昔の建物はすでに使用されておらず、保存対象として整備されているようだ。
警光山荘

碧華荘以外の温泉旅館へお湯を引いているブカサン渓側の源泉を見に行ってみる。
こちらも断崖にへばりつく様に通路が伸びているが、ちゃんと整備されていて、行楽客も散策を楽しんでいる。

ブカサン渓の源泉へ続く歩道
源泉のある場所にはバラックのような茶店がある。
以前もこんな感じの店だった気がする。
源泉の湧いているところは見られず、小さな小屋があって入浴ができる設備があった。
ここのお湯も懐かしいので、お風呂をしていきたい気もするが、狭い小屋の中で温泉に浸かっても侘しくなるだけと思い入浴はしなかった。
この店では日本の懐メロを大きな音量で流しており、谷に響いていた。

ポインセチア
茶屋のそばのポインセチアの木が赤く色づいていた。
初めて蘆山温泉に来たのは冬だったかもしれない。
碧華荘の入り口に大きなポインセチアの木があり、それが鮮やかな赤と緑のコントラストを見せていて感動したことを思い起こさせた。

蘆山温泉入り口
蘆山温泉から霧社に向かって歩き始める。
霧社まで10キロ。
バスに乗ればすぐの距離だけど、歩けば2時間くらいかかるだろう。
しかし、バスでは気になるところで立ち止まってじっくり見たり、思い出に浸っている暇がない。
このあと、霧社から12時半のバスで埔里へ降りなくてはならないので、少し急ぎ足で歩く。

濁水渓
蘆山部落への分岐点を越え、ブカサン渓と濁水渓の合流点が眼下に見える。
やがて、雲龍橋が見えてきた。
青空、緑の山、そして赤い橋が鮮やかだ。
雲龍橋
初めて来たとき、この橋は吊り橋だった。
当時もバスは蘆山温泉まで通っていたが、この橋を渡るときは乗客をいったん降ろし、乗客は徒歩で吊り橋を渡った後、バスが続くといった渡り方をしていた。
吊り橋のためお客を乗せたままでは危険だったのだろう。
その吊り橋を渡るとすぐにトンネルがあった。
大雨などがあるとすぐトンネルの上の崖が崩れて、トンネルが埋まってしまい、通行止めになったものだ。
今は赤い立派なアーチの橋が架かり、トンネルの代わりにシャルターになっているので、少しくらい崖が崩れても問題なさそうだ。
トンネル

旧吊り橋

橋を渡ってすぐのところに、この橋の説明が書かれていた。
それによると、もともと日本統治時代に吊り橋が架かっており、霧社事件の時に撤退する反抗山地民によって落とされている。
濁水渓の深い谷にかかるこの橋の名前、雲龍橋とは実にピッタリの名前だと吊り橋の時から思っていた。
しかし、今回この説明板を読んで、以前は雲南軍の龍雲将軍を記念して、「龍雲橋」と命名されたが、その後龍雲将軍は中共へ寝返ったので、橋の名前も龍と雲をひっくり返して「雲龍橋」にしたのだとか。
雲龍橋の説明

左手の濁水渓を越えたところのタロワン部落跡を見ながら、霧社へと歩を進める。
このタロワンの稜線で霧社事件当時、反抗山地民勢力と鎮圧側との間での激戦地であったとされており、このあたりで最大の集落であったホーゴー社頭目、ダダオノーカンもここで戦死している。ダダオノーカンは初子おばあさんの父に当たる人でもある。
タロワン

道端の桜の枝で一輪だけ花をつけている枝があった。
この辺りでは旧正月前後に緋桜が満開となり、霧社は戦前から桜の名所とされていた。
しかし、昭和5年10月末の霧社事件に際して桜が狂い咲きしたと伝えられている。
実際の話であったかどうか確認を取れていないが、今年も台北の北の陽明山では桜が先月開花したとのニュースがあったので、事件当時も桜が咲いていても不思議はない。
サクラ

花岡山
[花岡山]
旧ホーゴー社、現在の春陽村の手前で道は花岡山を半周するように回り込んでいる。
花岡山は事件前までホーゴー富士と呼ばれた小さな山で、山地人で警察に取り立てられていた花岡一郎(ダッキスノービン)と花岡二郎(ダッキスナウイ)が反抗山地民側と鎮圧側との板挟みに苦しみ自決した山ある。
花岡二郎は初子おばあさんの夫であり、初男さんの父であった。
初子おばあさんは、花岡二郎の話をするときによく「二郎はやさしかったよぉ」と何度も繰り返していた。
この山の頂上で、一郎は妻と生まれたばかりの子や一族を連れて切腹し、二郎は死んでいった人たちに布をかけてやった後、自殺している。
花岡両名の説明

春陽村を過ぎて霧社が近づいてくると碧湖が見えてくる。
戦前に作られたダム湖ではあるが、霧社事件後のダム湖であり、このダム湖の建設のためにパーラン社などの山地民の集落も中原地区へ集団移住させられている。
碧湖

霧社の街に入る。
朝見た時にシャッターを下ろしていた食堂はまだしまったままであった。
店の名前は霧社飯店だったか違ったかもう忘れてしまったが、店の場所は覚えているが、店が閉まっていたら確認のしようがない。

霧桜大飯店は健在である。
以前もあったし、霧社事件当時もあった老舗旅館である。
戦前は桜旅館。
霧桜大飯店
[霧桜大飯店 この写真は朝に撮影したもの]

時刻は12時、バスの時間まで30分ほど。
少し小腹がすいたので、仁愛郷公所向かいの食堂で小籠包を買いテイクアウト。
食べながら歩く。
皮はフワフワで餡は少なめ、小籠包というより、小粒の中華まんと言った感じであった。
40元也。

霧社山胞抗日起義紀念公園
霧社山胞抗日起義紀念公園に立ち寄る。
ここには霧社事件の反抗側の首領マヘボ社頭目のモーナルーダオの墓がある。
モーナルーダオは事件数年後に、マヘボ渓の奥で遺体が発見され、当時の台北帝大で標本になっていたそうですが、1974年になって、ここに眠ることになったそうです。
モーナルーダオの墓
[モーナルーダオの墓]

更に西に進むと、霧社事件で襲撃された公学校跡地がある。
現在は台湾電力の施設となっているが、入り口前に案内看板が立てられていた。
今年は霧社事件から85年。
霧社事件で死んだ日本人は134名。
また事件の鎮圧やその後の第二霧社事件、帰順式などで死んだ山地民は千を超える。
公学校跡
[霧社事件の現場となった公学校跡 奥の建物があったあたりに当時教室があったそうである]

公学校の説明

この公学校跡の少し先に、霧社事件の殉難慰霊碑が戦前はあったということである。
現在は政府により取り壊されて残っていないが、この跡にも立ち寄ってみる。
この日のあったところの先からは急な下り坂とな。
霧社台地の外れである。

殉難慰霊碑の跡
[殉難慰霊碑の跡]

殉難慰霊碑の説明

公学校跡前のバス停へ戻り、埔里へ下るバスを待つ。時刻は12時半少し前。
日曜日ということで行楽の車が多い。
乗用車もあれば、大型の観光バスも途切れなく続いている。
道を渡るのにさえ苦労するほどだ。
公学校跡前のバス停
[公学校跡前のバス停]

12時半になった。
もうそろそろバスが来る頃だろう。
一つ手前のバス停を12時半発の予定だから、ここへは多少遅れてくるだろう。
埔里へ降りたら、バスの乗継に45分くらいあるので、昼食にする予定だ。
何か麺類でも食べたい。
炸醤麺(ジャージャー麺)でも食べようか?
宿に預けた荷物も引き取らなくては、、、

12時40分になった。
まだバスが来ない。
今日は交通量が多いから渋滞でもして遅れているのだろうか?

1時になった。
ひょっとして、バスは定刻よりも早めに通過してしまったのだろうか?
次の便のバスだと、埔里から先のバスに乗り継げない。
困ったことになったなぁ、、、
と思ったところでバスが来た。
30分遅れかぁ、、、まぁ、乗継は何とかなるだろう。

ドアが開いて乗り込もうとすると運転手が「このバスは埔里行きでなくてね萬大行きだよ」と言う。
目の前真っ暗、こりゃダメかぁ。
かくなる上はヒッチハイクででもして埔里へ向かわなくては、、、。
昔はこちらからヒッチハイクをしようと思わなくても、道を歩いているだけで山の人たちが声をかけてきてくれて、車に乗せてくれたものだ。
ある時は団体旅行の観光バスにだって拾ってもらったことがある。
そのくらい交通量が少なかったので、みんな道を歩いている人がいたら乗せてくれるのが一般的だったのだろう。

バス停で目の前をひっきりなしに流れていく車に向かって手を挙げるが、一台として止まってくれない。
たまにタクシーが通るが、タクシーに乗れるほどのお金を持ち合わせていないので、タクシーが近づいたらサッと手を後ろに回す。

「もうどうにでもなれ」と諦めかけた1時10分、埔里行きのバスがやって来た。
スマートカードでピッとやる際に、運転手に「12時半のバスだよね」と言ったら、げんなりした顔で、「しょうがないじゃないか、道が詰まってるんだよ」と言い返されてしまった。
やはり、霧社から先は大渋滞をしているらしい。
バス車内もほぼ満席であった。
81元也

埔里までは渋滞もなく、運転手も遅れを取り戻そうと急いでくれたようで、1時45分に到着。
大慌てで市場入り口の食堂で麺をすする。
炸醤麺はなく、麻醤麺を注文。
麻醤麺はゴマダレで和えたうどんのようなもので、大学1年の夏休みに初めて台湾に来た際に台北の食堂で食べたことがあるが、食べなれない味と、ゴマダレで麺がのどに張り付く感じで結局食べきれなかった思い出がある。
しかし、この市場前の食堂のは多少汁気もあり、私自身もこの手の味に慣れてきているので、ついに当時の雪辱を果たすことができた。
缶ビールも一本頂いた。
今度は普通の台湾ビール。
70元也。

食べ終わるとバスの出発まであと5分。
大急ぎて宿へ行って預けた荷物を受け取りバスターミナルへ。
今度乗るのは惠蓀林場行きのバスで、途中の清流部落まで行く。
いままでのバスとは異なりマイクロバスであった。
清流まで81元也。

清流部落は、霧社事件後に霧社の山地民たちが移住させられた場所で、当時は川中島と呼ばれていたそうである。
初子おばあさんも、ここへ移住させられ、移住直後に初男さんを生んでいる。
移住に際して、臨月のお腹を抱え、霧社から眉渓まで山を徒歩で下り、眉渓より埔里経由の小埔社までまでは台車に乗せられ、その先はまた徒歩だったとのこと。
特に川中島手前の峠が急で大変だったと回想している。
夫である花岡二郎を失った初子さんは、移住後に警察の斡旋で年下で同じホーゴー社出身の高永清氏(ピホワリス=日本名、中山清)と所帯を持つことになる。
高永清氏は努力の人で、独学で医学を学び、試験を通って医師となり、地域医療に貢献し、また第一回台湾省議会議員選挙に当選されている。
晩年は碧華荘を開業し、その経営に当たるとともに霧社事件の伝承に努められている。
私が台湾へ行くようになる数年前に他界されているが、私が事件に関して調べたり、読んだ本の中でも高永清氏の資料や情報はとても大きな存在があった。

霧社事件当時、埔里には製糖工場があり、周辺ではサトウキビが盛んに生産されていたようである。
初子さんたちが埔里から小埔社までまでは乗せられた台車も、製糖会社のサトウキビ運搬用の台車だったとのことである。
しかし、現在はサトウキビの栽培は縮小してしまっているようで、サトウキビ畑はほんの少ししか残っていなかった。

大坪頂を過ぎると峠道になった。
なるほど初子さんたちが苦労したという峠はここのことなのかと思う。
今でも道はつづら折りにくねって峠を登り、峠の上からは北港渓を見下ろしながら、またくねりながら峠を下った。
大坪頂から北港渓への峠
[大坪頂から北港渓への峠]

清流部落入り口の橋
[清流部落入り口の橋 以前は吊り橋であった]
北港渓に架かる橋を渡ったところにかつて川中島と呼ばれた清流部落がある。
時刻は3時前。
バスの発着所
昔ここへは初男さんに連れてきてもらったことがある。
当時は、霧社周辺の山もそうだし、ここ清流も山地管制区に指定され、一般人の立ち入りが規制されていた。
ここへ日本人が来るには警察の外事課に入山申請をして許可を取り付けなくてはならなかったので、事実上立ち入り禁止地区であった。
しかし、正月の1月1日だけは地元の人と一緒ならば規制対象外になるということで、正月なので墓参りを兼ねて清流へ行くという初男さんに便乗させてもらったことがあった。
清流の初男さんたちが住んでいた家には初男さんの奥さんの美信さんも来ていたりしたのだが、今となってはその家がどこにあったのか全く思い出せない。
ただ、お墓のあった場所だけは事前にここだろうと地図で目星をつけておくことができていた。

村のメインストリートはまっすぐ警察まで続いている。
たぶん、これはこの移住村ができた時から変わっていないはず。
メインストリート
[警察署から振り返ったメインストリート]

警察の前を右に折れ、北へ進むと霧社事件余生紀念館があった。
ここは時間があればお墓参りの帰りに立ち寄るとして、お墓があると思われる方法へ急ぐ。
共同墓地の入り口
[共同墓地の入り口]

高家歴代祖堂
人気のなくなったところに共同墓地があり、そのほぼ真ん中あたりに十字架を頂いた立派なお墓があり、「高家歴代祖堂」と書かれている。
周りには雑草が茂ってしまっており、あんまりお墓参りに来ることがいないのではないかと気になってしまう。
お墓の門にはカギはかかっていなかったので、そのまま中へ立ち入り、裏へ回ったら「高永清」「高彩雲」「高光華」の3人の名前があった。
高永清・高彩雲・高光華
やはりここであった。
手向けるものなど何も持ってきていないが、手だけを合わせ、黙祷してお墓参りとさせてもらった。
碧華荘の人たちが眠るお墓

事件後、霧社周辺に住んでいた山地民で、反抗側の生き残りたちは、この清流へ強制移住させられている。また、反抗に加わらなかった同族(霧社族=セイダッカ)の部落の人たちも、ダム建設にともなって、清流部落とは北港渓を挟んだ対岸、中原村へ移住させられている。
霧社族の人たちがいなくなった土地は、事件鎮圧側に加わったタウツアとトロックの部族の人たちに分配されている。
現在の霧社にいる山地民もその末裔であるわけだ。
霧社山胞抗日起義紀念公園で眠る反抗側の首領モーナルーダオは、つまりセイダッカ族の反抗を鎮圧した部族に囲まれていることになり、それではあんまりだということで、モーナルーダオの墓を仲間のいる清流へ移そうという働きかけもなされたそうである。

ここの墓地にはたくさんのセイダッカ族の墓が並んでいる。
ほとんどが中国名になっているが、セイダッカ族の名前を併記しているものもある。
そのセイダッカ族の名前は漢字ではなくカタカナで墓石に彫られている。
そんな墓石を見ながら、余生紀念館へ向かって歩き出したら、テムピドとマホンモナの墓があった。
やはりキリスト教のお墓で、大きなものではないが、マホンモナの没年が民国62年(1973年)となっている。
このマホンモナこそ、モーナルーダオの長女、マホンモーナのことである。
彼女も事件を行き抜き、ここに眠っていたのである。
やはり、父であるモーナルーダオもこの地に眠らせてあげるべき気がする。

マホンモーナの墓

霧社事件余生紀念館は2階建ての建物で、事件に関することと、事件後この清流で移住者がどのように暮らしてきたのかを主にパネルを使って展示していた。
パネルには写真入りで中国語と英語で解説が書かれていたが、日本語はなかった。
この霧社事件、そしてここ清流の部落の成り立ちに日本人は大きくかかわっているのであり、日本人めったに訪れないかもしれないが、もし訪れる日本人がいたら、もっとよく理解してもらうために日本語での解説も付け加えてほしいものだ。
今ならばそれでもまだ日本語を話せる古老たちから直接話を聞くチャンスもあるが、もう長くそのような状況は続かないはずで、伝承されることこそが大切だと思う。

霧社事件余生紀念館説明
[中国語と英語で書かれた説明]

記念碑
[敷地内の記念碑 もとは高永清氏が川中島神社跡に建てたものだそうだ]

防空壕
[戦時中に掘られた防空壕 こんな山間部まで空襲に備えていたのだろうか?]

警察署前の通りをバス停に向かって歩いていると、民家の塀にネコたちが集まって休んでいた。
よく数えてみると10匹くらいいる。
全部この家のネコなのだろうか?
それとも近所のネコが集まっているのだろうか?
事件当時の山の人たちは山で猟をするので犬を飼っていた。
しかし、私が目を通した文献の中に、ネコは一切出てきていない。
ここ清流という平地で、水田耕作をするようになってからネコを飼うようになったのか、
それともごく最近になってネコを飼い始めたのかわからない。
清流のネコたち
[塀の下にも数匹いました]

今回の旅行で、主なスケジュールももう最終段階まで来たことになるが、
スケジュールは曲がりなりにも何とかこなせたが、スケジュールを最優先して大切なことを忘れていた。
台湾の人とほとんど話をしていない。
日本語が話せる人がいなくなっていることもあるが、私だってまだまだ簡単な中国語なら聞き取れる。
込み入ったことなら筆談でも良かったはずだ。
しかし、結局私の方から積極的に話しかけることはなかった。
なぜなら、台湾の人たちに話しかけたら、話がどんどん進んでしまい、とても短時間で用件だけ伝えて終わりとはならない。
学生の時は、時間が有り余っていた。
「ウチ来て泊まってけよ」と言われたらホイホイとついて言っていた。
開け広げた土間の家で食卓を囲んだり、米酒で宴を張っている人たちから声をかけられたら、喜んで食客になってしまっていた。
しかし、今回はそんなことはまるでなかった。
すべてスケジュール優先。
こんなの旅ではない。

バス停の前に簡単な土産物屋があった。
バスを待つ間、覗いてみた。
ここ清流でとれたお米が売られている。
1キロ入りで120元と言う。
400円くらいだろうか、ちょっと高すぎる気もする。
干しシイタケもあった。
あまり日本のものと比べたら品質が劣るが、バンコクのスーパーよりは良さそうだ。
それに重たくない。
一袋買うことにした。
200元也。

ここの店の主人も片言の日本語を話すが、会話が成立するレベルではない。
清流に何しに来たのかと言うので、「墓参りに来た」と伝えたいのだが、中国語で何と言っていいのかよくわからない。
そこでさっき携帯電話で撮影したお墓の写真を見せて、拝むポーズをしたらわかってくれた。

4時少し前にさっきと同じマイクロバスややってきた。
満席であったが、私が乗り込んだら高校生らしい男の子が席を譲ってくれた。
マイクロバスなので彼も立っているのは大変だろうし、また峠道ではもまれるだろう。
まったく申し訳ない。
バス代再び81元也。

1時間ほどで埔里に到着。
そのまま台中行きのバスに乗り換える。
プリペイドのスマートカードの残金がなくなってきているので、今回は現金で支払う。
134元也。

高速道路は少し渋滞気味であったが、6時過ぎには台中市内に入った。
台中では午前1時までたっぷり時間があるが、台中でのスケジュールは映画を見ることである。
先月封切られた「湾生回家」と言うドキュメンタリー映画を滞在中に見たいと思っていた。
台中では新時代威秀影城と言う台中駅の裏側にあるトョッピングセンター内にある映画館で6時50分より上映がある。
第三市場と言うバス停で下車して、映画館へ急ぐ。

昔はよく台湾で映画を見たものだが、長いこと台湾で映画館へ入ったことがない。
ショッピングセンターの4階に映画館はあったが、切符売り場がどこかよくわらなかった。
探し当てた切符売り場は窓口ではなく、カウンターであった。
それも映画館の切符を売るカウンターと言うよりも、ハンバーガー屋のカウンターのようである。
食べ物や飲み物のメニューを指示されて「ご注文は?」と言われたときは、本当に映画館かどうかもう一度見まわしたほどだ。
映画は280元也。

湾生回家
[湾生回家]

映画館へ歩いてくる途中で、チャーハンの専門店があったので、そこまで戻って急いでハム入りチャーハンの大盛りを注文して大急ぎで食べる。
タイにいると大盛りと言っても、日本の普通盛くらいの量であることが多いし、並盛と大盛りの金額差は10元しかなかったので、ほんの気持ち分くらいしか多くないだろうと思ったのが大間違いで、2人前くらいありそうな大盛りチャーハンが出てきた。
大盛りハム入りチャーハン 70元也。

昔、台湾では映画の上映前に国歌が流れ、全員起立しなくてはならなかったが、予告編が10分くらい続いた後、国歌が流れることもなく、湾生回家が始まった。
席は3割くらいしか埋まっていないが、私の座っている席は両隣とも埋まっている。
そして右隣の人は盛んに何か食べている。
暗いので何を食べているのかわからないが、ネギのような臭いが漂ってくる。

湾生回家は戦前の台湾で生まれた日本人(=湾生)が台湾へ昔の友人を訪ねたり、離れ離れになった人を探したり、昔の面影を訪ねたりする何人かの日本人を追ったドキュメンタリー映画である。
そのため全編の大半が日本語である。
台湾の人は字幕の中国語を読むということになる。
エンターテイメント映画ではない。
淡々としたドキュメンタリー映画ながら、上映後の人気ランキングでは6位から8位を維持していた。
さらに見終わった後の好印象度ではナンバーワンを上映後ずっと維持している。
これは信じがたい数字だと思う。
特に同じ時期に007の最新作が台湾で封切られているのである。

台湾の人たちが、台湾を故郷に持つ日本人の姿を見てどのように思うのだろうか?
そして、この映画が、日本の映画ではなく、台湾の映画であるという意味はどういうことなのだろうか?
最近の台湾映画で日本人が主人公となりヒットした魏徳聖監督の映画に「海角七号」や「KANO」があり、霧社事件を題材にした「セイダッカバレ」も魏監督の作品であるが、いずれもエンターテイメント映画である。
この映画で追われているテーマは「故郷」だと感じた。
台湾を故郷に持つ日本人が、故郷の台湾を思うという姿を通して、
特に湾生の人たちが台湾に熱い思いを寄せていると言うことを映像で映し出すことで、
台湾の人たちに自分たちの台湾は良いところなんだという自信を与えているのだと思う。
だからこそ、台湾の人にこれほど感動を与えられているのだと思う。

私も感動して何度も涙がこぼれた。
私は日本人としての立場から感動をしたわけだが、その中には台湾の人たちの優しさに感動した部分も大きい。
また、学生時代に通い詰めた台湾と、その台湾での経験や、交友など、長い時間が過ぎてしまったけれど、それらが私をまるで映画の中に出てくる湾生と同じような感情を抱かせるのかもしれない。
この映画も日本で上映されることを切に願うし、またより多くの人にもてもらえるように、テレビなどで取り上げてもらってほしい。

台湾の人たちは通常、映画のエンディングが始まるとすぐに席を立っていたような記憶がある。
これは今でも飛行機に乗っても目的地に着陸すると、まだシートベルト着用のサインが消えないうちから通路に立ち始めることから考えて、きっと映画もエンディングが流れたら同じ現象になるものだろうと思っていた。
しかし、この湾生回家に関してはエンディングが終わるまで席を立つ人はいなかった。
照明がついてもまだしばらく座ったままの人もいたくらいである。

映画館から出たら夜9時を回っている。
でもまだリムジンバスに乗るまで4時間近く時間がある。
台中駅の表側まで歩き、駅前からまっすぐ伸びる通りを歩く。
途中のコンビニエンスストアで残金が減っているスマートカードに次回使う時のためにリチャージを行う。
リチャージ300元也。

またスーパーマーケットも覗いてみる。
先ほど清流でお米が1キロで120元もしてたので、随分高いなと感じたが、実際の市井でのお米の値段がどれほどなのか確認したかった。
そうしたら、1.5キロ入りの花蓮米がセールタ対象品になっていて189元が119元になっている。
他のお米も大体似たようなものである。
この値段だと日本と同じか、日本より少し高いのではないだろうか?
それでもちょうど日本米を切らしてるところだし、これだけ割り引いてあるならお得なのだろうと思い、一袋買うことにした。
また、のども乾いていたので大きなペットボトル入りの飲料水も買う。
スーパーでの支払い計 129元也。

柳川の夜店街にたどり着いた。
しかし、先ほどの大盛りチャーハンのため、空腹を覚えない。
台湾の最後だし、こうした夜店街で食べ歩きもしてみたい。
昔、私は夜店でよく食べたのは蚵仔煎(オアチェン)と呼ばれるカキの玉子とじ、餃子、ステーキなどであった。
特にステーキなど日本ではほとんど食べられなかったので、毎日のように屋台のステーキを食べて友人に呆れられたこともあった。

柳川の屋台街
[台中・柳川の夜店]

しかし、そのいずれも現状とても胃が受け付けそうにない。
アルコールなら受け付けられそうだけど、、、
そうだ、手提げの中に昨晩の飲み残しの紹興酒が半分入っていたはず。
しからば、食前酒として少し飲めば、胃が刺激されて食欲も湧いてくるかもしれない。

公園のベンチに座って紹興酒をチビリ、チビリとやる。
周辺には浮浪者であろうかベンチで寝ている人も何人かいる。
世間様から見たら、こんな夜中のベンチで酒を飲んでいるようじゃ、私も浮浪者の一人に見られることだろう。

少し飲んだところで、効果はあったようである。
なんだか何か食べたくなってきた。
公園を出て少し歩いたところでお粥の屋台があった。
これは好都合。
胃の負担もないし、お粥のおかずとしてメンマ、キュウリもみ、豆干、落花生をちょうだいする。
これらは紹興酒のツマミとしても実力派である。
そして旨い。
店の手伝いの女の子が話しかけてきた。
「日本人でしょ」と言う。
どうしてわかるかと言うと、目が二重瞼だからだという。
どうして二重だと日本人なのかよくわからない。
日本人だって一重瞼の人は多いし、ひょっとしたら台湾の人より一重が多いのじゃないだろうか。
「君だって、二重じゃないか」と言ったら、「私は台湾人じゃなくて、ベトナム人なの」と言う。
彼女はこうしてホーチミン出身でアルバイトをしながら学校に通っているのだとか。
そして彼女は「台湾の人って親切なのよね、私大好き」と言う。
私も同感だ。
「中国語はまだまだ下手で仕事で使えるレベルじゃないから、もっと勉強しなくちゃ」と言う。
「でもこうして働いているじゃないか」と言ったら、
なんとこの店の女主人もベトナム人。
ご主人が台湾人なんだそうだ。
別れ際に、彼女は手を伸ばしてきて握手を求めてきた。
「再見」
ベトナム語の挨拶言葉くらいは覚えておくべきだった。
70元也。

ベトナム人女性経営の屋台のお粥
[ベトナム人女性経営の屋台のお粥 但し完璧な台湾の白粥です]

駅前からの通りに戻るともう11時近くなっていた。
駅まで歩くには少し疲れた。
それに少しだけど酔いも回り始めている。
さっきまでひっきりなしに走っていたバスが
戻りは市バスに乗っていこうと思った。

しかし、バス停でバスを待つがなかなかやって来ない。
さっきまでひっきりなしにバスが走っていたのに、台中の終バスは11時前なんだろうか?
それでも、まだ十分時間があるのでのんびりバスを待っていたら15分ほどでバスが来た。

バスに乗ったら駅まではほんのすぐの距離だった。
駅前でスマートパスをピッとやって下車したが、カードからの引き落とし金額は0元だった。
このバスは無料だったようだ。
市バス代 0元也。

空港行きリムジンバス乗り場のベンチに座ってバスを待つ。
まだ1時間半以上あるので、今回の旅行のメモを書き付けておく。
台南行きのバスなどが何本か発車していった。
空港行きのリムジンバスに乗ろうとやってくる人もいる。
まだ1時間以上あるが、午前1時1分発のバスは満席になっているらしく、窓口から「売り切れ満席だよ、30分後ならまだあるよ」と言っているのが聞こえる。

このバスの待合所にも浮浪者が入ってくる。
私の隣のベンチに腰かけた浮浪者風の男性は私にボールペンをくれないかと言う。
しかし、私もボールペンの余分は持っていない。
「今、書き物してるんであげられないよ」と言ったら、バスの誘導係のところへ行って、同じようにボールペンをねだっているようだ。
そしてしばらくしてボールペンを手に戻ってきた。
「このボールペンをもらったんだよ」と言う。
そして私に今度は「このボールペンを10元で買わないか」と言ってくる。

Uバス待合室
[深夜の待合室には浮浪者も出没]

午前1時1分発のバスに乗り込んでしばらくしたら眠り込んでしまった。
空港へ到着する直前に目を覚まして、慌ててバスから飛び降りたら、寝ぼけていたせいで、利用する飛行機が発着する第1ターミナルではなく、一つ手前の第2ターミナルで降りてしまったらしい。
おやおや、失敗、失敗。

リムジンバスの車内
[もうすぐ空港との車内アナウンスで目を覚ましたが、ボケていたようだ]

第1ターミナル行き電車乗り場の矢印に従って進む。
こんな時間に電車が走っいるのがわからないが、とにかく行ってみた。

ホームに明かりはついているものの、誰もいないし、ホームに電車も止まっていない。
しかし、掲示板に電車の運行終了後の利用は緑のボタンを押すようにと書かれている。
そのボタンを押して待つことしばし、誰も乗っていない無人の電車がホームへ入ってきた。
無人運転なので、運転手もおらず、2両編成の電車に乗っているのは私ただ一人である。
こんな体験は初めてである。
職業柄電車を貸し切った経験は何度もあるが、まるでタクシーか何かのようにその場で電車を呼び出して乗るなどと言う経験も初めてである。

無人のホーム
[無人のホーム 夜間は緑のボタンを押せと書かれている]

無人電車
[無人電車を貸し切った]

第1ターミナルのチェックインカウンターも私が乗る飛行機のカウンター周辺に少し人がいるくらいで、あとはまるで人気がない。
チェックインもスムースに終わった。今度の座席は34D。
真ん中の通路寄りの席だった。

出国審査場も人気がないものだから、係員が見当たらない。
外国人用と書かれたカウンターのどこにも係員の姿がない。
内国人用(中華民国籍)のカウンターにもいない。
仕方なく手荷物検査係にどうしたらいいか聞いたら、一番右端の「外交官専用」のカウンターを指さした。
つまりそこにしか審査官はおらず、そこで私のパスポートに出国印が押された。
ただし、押されたスタンプは普通の出国印と同じものだった。

バンコク行きのノックスクートは定刻の5時35分にゲートを離れた。
この便もガラガラであった。
私は4人並びの席をすべて占有して、楽々と横になっていくことができた。
しかし、来る時と同じでやたらめったら寒い。
お客が乗っていないから余計に寒いのかもしれない。
今度このようなローコスト航空に乗るときはバスタオルでも持って乗るようにしたいと思う。

バンコク・ドンムアン空港へは5分遅れで到着。
午後からは出社して仕事が待っている。

-完-


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1泊4日 台湾旅行 (前編)
11月07日のよるにバンコクを飛び立ち、台湾へ行き、11月9日の朝にバンコクへ戻ってきました。
その1泊4日の台湾旅行の記録です。
短い期間でしたが超凝縮型の旅でした。

では、その前編・・・

<HR>

一週間前から今回乗る飛行機の運行が遅延するのではないかと不安を抱いていた。
ちょうど一週間前に今回利用予定の便と同じ便の発着状況を確認したら3時間も遅れていた。
今回の旅行は短時間にみっちりとスケジュールを詰め込んでしまったので、3時間も遅れるとことは深刻である。
そのため、この一週間は随分とやきもきしていた。
しかし、その後の運行はほぼ定刻に発着しているようだった。
そして当日を迎え、夜7時に帰宅して台湾旅行の準備をする。

今回はノックスクート航空の就航記念プロモーションのキャンペーンチケットである。
ローコストエアラインで預け荷物は有料、事前座席指定も有料、機内食などの機内サービスも有料とのことで、ケチケチして荷物は何時も通勤で使っている肩掛けカバン一つにまとめた。
泊りがけで旅行に出るときはいつもネコに留守番をさせるための準備の方が荷造りより大変である。
エサやトイレの準備など十分と思われるだけ用意するが、私の不在中、一匹で留守番というストレスのため、ヤケ食いをするという癖がある。
うちのネコはもともと捨てネコだったらしく、そのトラウマからか、どこかに取り残されるということに大変な恐怖心を抱くようだ。
たっぷりとエサを用意したはずが、旅行から帰ってみるとエサの皿は空っぽになっていることが多い。
そして、それだけ食べているため、生理現象として出るものも出るわけで、トイレもクソだらけとなってしまっていることが多い。

ネコにしばしの別れを告げて、8時20分にアパートを出発。
今回利用する航空会社は格安航空会社なのでドンムアン空港からの発着。
私のアパートからだとスワナプーム空港は便利なのだが、ドンムアンは遠い。
そして今日は金曜日。
道路が渋滞することが予想される。
どうやって行くべきかあれこれ考えた挙句、ドンムアン空港に比較的近いラマガーデンホテルまでバイクで向かい、そこで月曜日の朝までバイクをあずかってもらうことを思いついた。
バイクなら渋滞しても、ほぼ時間が読める。昼のうちにホテルへ電話をしてバイクを止めさせてもらう許可を取り付けておいた。
予想通り、金曜日の夜なので大変な渋滞で、道は車であふれかえっている。
こんな状態だとタクシーを使っても2時間では到着不可能だろう。
バイクでも数珠つなぎの車の間を縫うようにして行かなくてはならないのでスピードが出せず、ラマガーデンまで40分もかかってしまった。
ホテルの入り口で警備員に呼び止められたが、バイクのナンバーが事前に連絡されていたようで、あとはまるでVIP扱いで誘導され、駐車場の一角に専用のスペースまで用意してくれていた。

バイク
[この写真は月曜日の朝、バンコクへ戻ってきた時のバイクの様子です]

ラマガーデンからは路線バスで空港まで向かう。
たった数キロの距離しかないが、やはり渋滞のため30分もかかってしまった。
バス代は13バーツ也。

バスを降りてからコンビニで缶ビールを買う。
チャーンのロング缶(500ml)で50バーツ。
今回の飛行機では私の機内での楽しみである「飲み放題」がない。
そのため事前に缶ビールを飲んで、機内ではとにかく寝ることに専念したいと思う。

チェックインカウンターに行列はできていなかった。
そして係員はやる気のなさそうなダラダラとした仕事ぶりである。
客層も普段見慣れている層より劣るような感じがする。

「満席ですか」と聞いたら、十分に空席があるとのこと、そして「通路側と窓側のどちらにしますか」と質問を受ける。
「どちらでも良いから、なるべく快適な席でお願いします」と願い出たら、スーパーのレシートのような搭乗券には37Aと座席番号が記載されていた。

この時間の時間帯の出発便は少ないからか、イミグレーションも空いていた。
私は飛行機の中で寝るのは得意ではない。
いつもなら十分飲んで酔いつぶれて寝込んでしまうというのがパターンだけど、今回はそれもなし。
そこで薬局で睡眠導入剤を買うことにした。
そんな薬今まで買ったこともないから、効くのかどうかもわからない。
「ハーブの薬ですよ、就寝30分前に服用してください」と言われたが、ハーブだと良いのかどうかもわからないが200バーツ也
果たしてこれでぐっすり眠ることができるだろうか?

11時くらいに搭乗開始のアナウンスが流れた。
搭乗ゲート周辺のベンチに座っている人たちが立ち上がり動き出したが、われ先に乗り込もうとして黒山の人だかりといった光景にはならない。

搭乗ゲート

機内に乗り込んでみると搭乗率30%以下のようだ。格安航空だから座席は狭いだろうと心配していたが、確かに狭いけど、これほどガラガラなら、座席間隔の狭さなど何ら心配無用だったようだ。
3人掛けのシートを占有して横になることだってできる。機内サービスもなく、寝るしかないのだから、これならぐっすり寝れるかもしれない。

狭いシート
[シートの前後間隔が狭く膝がつっかえる]

がらがら
[しかし、機内はこの通りの空席だらけ]

乗客は台湾の人ばかりなのかタイ語でおしゃべりしているのは乗務員だけのようだ。
シンガポール航空の中古機材のようだけど、機内はきれいだ。
水平飛行に移ると台湾の出入国カードが配られたが、到着便名記入欄に「BR」とプリントされている。エバー航空からの流用品だろうか?
入国カード

機内では横にはなれた。シートベールとの留め具が背中に当たったりするが、座っているより横になった方が楽である。
しかし、眠れなかった。搭乗と同時に睡眠導入剤を飲んでおいし、眠たくもあるのだけど、眠れない。
機内はとにかく寒い。寒いのに毛布は用意されていない。バイクに乗ってくるとき使ったヤッケを着込むがそれでも寒い。
それと機内サービスはないけれど機内販売はひっきりなしに通路を通り、アナウンスも流れる。
寒くてトイレが近くなり、トイレへ立ったが、トイレにはティッシュはあったが、便座敷きやローション類などのアメニティーは空であった。
席に戻って再び横になろうとすると、台北まであと300キロほどと機長アナウンスが入り、もう横になって寝ることはできなくなった。

台北空港へはほぼ定刻の午前4時過ぎに到着。
到着ゲートからイミグレーションまではやたらと遠い。
速足で進み、一番で入国通関手続きを済ませる。
預け荷物もないからスムースである。

台北市内行きのリムジンバス國光号は4時半にある。
これに乗れると後のスケジュール取り回しが楽になるはず。
急いでバスの切符売り場に到着したら、時刻は4時25分。
上手くいったと喜びながら、バスの切符を買おうとしたら窓口氏は無情にも「次のバスは満席、あとは5時10分」という。
残念、とりあえず切符を買う。
125元也。
確かにバス停には長蛇の列。
4時半のバスは、私の数人手前のお客を乗せたところで間出発していった。
次のバスまで40分待ち。
あぁ時間がもったいない。
しかし列に並んでいないと、また次のバスも満席となって乗りそびれてしまいそうだ。
韓国からの飛行機でも到着したのか、韓国人の旅行者が次々に並び、列がどんどん長くなっていく。

この待ち時間を利用して台湾政府機関の提供する無料WiFiサービス、iTaiwanの設定をしてみる。
設定案内が中国語と英語のため、設定方法に自信はないが、一応携帯電話の画面には「開通」との表示がされた。
しかし、WiFi接続の状況を見るとiTaiwanではなく空港の無料WiFiとなっている。
果たしてこれで街へ出た時にもスポットWiFiを利用できるものなのだろうか?

5時10分の國光号もやはり積み残しを出して出発。
私は運転席のすぐ後ろに座る。
積み残された乗客
最近のニュースでこの國光号で使っている米国MCI製のバスも今年中にすべて運用から外され引退するとあった。
このMCI製のバスは乗り心地が良い高級バスだったとのことだ。
私も30年前に乗ったことがある。
座席はゆったりしているわけではなかったが、振動は少なく、車内では女性の服務員が乗っていて白湯のサービスなどをしてくれていた。
國光号バスは大都市を結ぶ幹線にだけ運用されていたため、私はあまり利用する機会はなく、もっぱらもうひとランク落ちる中興号バスを利用していたが、中興バスはどうも現在はなくなってしまったのか、まったく見かけなくなってしまった。
夜明け前の高速道路を快調に走る。確かに揺れは少なく、快適な乗り心地である。
MCI製の特徴でもあるエアコンの吹き出しは窓の下にあり、風量の調整ができない。
バイク用のヤッケはまだ着たままである。

当初の計画では4時30分のバスで台北へ向かい、台北駅から5時57分発の莒光号へ乗りたかった。
しかし、バスを一本乗り過ごしたことで、この計画は半分あきらめていたが、台北駅前までは思ったよりスムースに来ることができ、5時45分に到着した。
スゴイ、スゴイ。これで莒光号に乗れる。

國光号

莒光号も以前は豪華な列車だったが、今ではだいぶローカルムードである。
そして、台北から台中を経由して高雄へ向かう莒光号は10月のダイヤ改正で本数も減ってしまった。
今回乗車する莒光号は前夜に高雄を出発し、夜通し走ってきた夜行列車でもある。
そうした夜汽車という雰囲気も情緒を誘うものがあるので、これに乗りたかったのである。
終点の七堵まで39元也。

莒光号
定刻に地下ホームへ入ってきたオレンジとクリーム色の車両に乗り込む。
車内はほとんどの乗客が台北で下車してしまったためガラガラである。
莒光号にも思い入れがあり、ゆったりした座席や白湯のサービスなどが以前はあった。
乗り込んでみると今も座席はゆったりとし、白湯はセルフサービスになっているが一応ある。
地下を15分ほど走って地上に出る。
地上はもう朝で、明るくなり始めていた。
台北のベットタウンらしく高層のアパートなどが林立しているが、高層ではあるが近代的な感じはあまりせず、野暮ったい感じのアパートばかりだ。
このあたりが台湾らしさなのかもしれない。
高層アパート群

七堵には6時半前に到着。
乗り換えの電車は7時出発なので30分ほどの時間がある。
駅前を散策する。
七堵の朝市
市場があり豚肉が売られている。
しかし、豚肉と言っても精肉ではなく、もうただの豚の死骸である。
頭もあれば、足もあるままで、これから解体が始まるところらしい。
日本なら差し詰め「マグロの解体ショー」と言ったところだが、ここではショーではなく日常である。
さすが台湾は違う。

少し離れたところに昔の駅舎が移築されていた。
街で冷たい豆乳と油條、そして卵を挟んだ葱油餅を買う。
その場で食べさせるのではなくテイクアウトになっているのも都合が良い。
電車の中ででも食べられる。
60元也。
朝食屋台

七堵駅に戻ってもまだ10分ほど時間がある。
インターネットで予約しておいた午後の台中行き特急電車の切符を発券してもらおうと切符売り場の窓口に予約とカード支払い済み確認の書類を示してみた。
しかし、年配の窓口氏はこのような書面など見たことがないようで、何が何だかわかっていない様子。
こちらからインターネットで予約してカードで支払いを済ませてあるのことを口頭で説明したが、今度は発券機の操作方法がわからないらしい。
時間ばかりが過ぎていき、もうすぐ7時になってしまう。

「あぁ。もう時間無いですから、いいですよ」と窓口を離れ、自動券売機でこれから向かおうとしている「菁桐」までの切符を買おうとするが、買い方のコツがよくわからずモタついてしまい、菁桐までは買えず、途中の乗換駅「瑞芳」までを買って急いでホームへ駆け上ったが、時遅くすでに7時の電車は出た後であった。
瑞芳まで16元也。

ここまで曲がりなりにも順調に来たのに、こんなことで乗り遅れるとは残念。
ホームのベンチに座って朝食にする。

七堵の駅の切符売り場
次の電車まで1時間ほどあるので、再び窓口氏のところへ行って、特急電車の切符の発行に再度トライする。
窓口氏も本気になって、あちこちへ電話をして、操作方法を確認しながらキーボートをただいたりするが、どうにも上手くいかない。
これがタイだったら今頃飽きっぽい係員は「マイダイカッ」と言って投げだし、私は途方に暮れるところだが、この台湾の係員はもう30分も頑張ってくれている。
しかし、それでも上手くいかず、この初老の窓口氏、予約の確認書を示しながら隣の中年の女性係員に相談したところ、女性係員はものの数秒で切符を発行してしまった。
窓口氏もさっさと相談してくれていれば、こんなに手こずらなかっただろうし、女性係員も隣で窓口氏が苦心惨憺しているのだから、助け舟を出してくれても良さそうなものなのに、この二人には何か確執でもあるのかもしれないが、とりあえず切符を手にすることができた。
ネットで支払っていた切符代は404元也。

七堵駅のトイレ
[七堵駅のトイレには和風な暖簾がかかっている 駅のトイレなのに風情がある]

USB式の充電設備
[駅にはUSB式の充電設備もあったりして、七堵駅はサービス面でも優れている]

構内にあるコンビニでスマートカードを購入する。
台湾ではスマートカードが普及していて大変便利らしい。
特に台湾の路線バスなどは小銭を用意しておかないと釣銭が出ないのだけど、スマートパスがあれば、小銭の心配もいらない。
100元がデポジットで500元をチャージしてもらったので、支払いは600元也となる。

ホームに戻り、電車を待っていたら隣のホームへ特急自強号が入ってきた。
電光表示を見ると次の停車駅は瑞芳となっている。
それは好都合と自強号に飛び乗ってしまう。車内は満員で通路やデッキにまで人があふれている。
私の持っている切符は普通電車の瑞芳行きで、特急に乗っていいものかわからないが、検札が来たら事情を説明して必要があれば差額を払おうと思っていた。
しかし、瑞芳までの15分ほどの間に検察は来なかった。
自強号
[ひと区間だけ乗った特急自強号]
瑞芳に到着し、もともとは七堵で乗り遅れていなければ平渓線の終点「菁桐」まで行く予定にしていたが、スケジュールが狂ってしまった。
電車の時刻表を確認したところ、先に「猴硐」へ行く方が良さそうだと判断。
10分程の待ち時間で後続の普通電車に乗り込み、猴硐へ向かう。
この電車も超満員で、ハイキングスタイルの人たちが多く、皆声も大きいので大変にぎやかである。

ハイカーたち
[猴硐ではハイカーたちもだいぶ降りた]

猴硐の改札口で切符の事情を説明し差額の15元也を徴収される。
ちゃんと領収書まで発行された。

ネコ村の地図
猴硐は最近「台湾のネコ村」として大変有名になってきている。
日本からも観光客が来るようで、ネットで検索するとブログ多数が引っかかってくる。
そのネコ村を1時間半ほど散策する予定。

ネコ跨線橋
まず、駅の裏側へ跨線橋を渡っていく。
跨線橋内にはネコ関連のオプジェがあるし、ネコのエサやトイレも用意されている。なるほど、ネコ村らしい。
その橋を渡ると、ネコの絵などはあるが、実物のネコがウジャウジャいるというわけではなかった。
そこはズバリ昔ながらの台湾の田舎であった。
そして、そんな田舎の集落にネコたちがのんびりと暮らしている。

最初のネコ
[ネコ村で最初に出会ったネコ]

こんな朝の時間帯からカメラをぶら下げた人もチラホラ。ネコ好きの同志と思われる。
注意書きなどの掲示板の類はたくさんある。
漢字で書かれているので大体の意味は分かる。
例えばネコへの接し方のマナーとして「寝ているネコの邪魔をするな」と言ったものがある。
まったくごもっともな話だが、ネコの寝姿というのは、大変誘惑的で、触りたくてウズウズさせるようなところがある。まったく罪なものだ。またたぶん飼いきれなくなったネコを「ここならば」と捨てに来てしまう人もいるのだろう。そうした人を見かけたら、写真に撮り、警察へ連絡するようにとある。日本でも捨ネコは社会問題となるが、現場写真を撮ることなどと訴えているとの話は聞いたこともないが、そのくらいのこともして良いかもしれない。また、ここにはそうしたネコたちの里親探しをする施設もあるらしい。

ネコの不法投棄は犯罪です
[紅葉と赤い郵便ポスト、しかし書かれていることはネコを捨てる人を見たら写真を撮り、警察へ通報せよ]

ネコ村として有名になり、観光客も来るようになったとはいえ、ここの集落の人たちは一部のネコ関連で商売をしている人たちを除いて。
ごく普通の田舎の人たちで、村は生活の場である。
そこへノコノコと玄関先までカメラ持った観光客がウロウロするのだから村人にとっては迷惑なことだろうけど、特段村の人たちは観光客を気にしていない様子でもある。
寝ているネコの邪魔をしないのももちろんだけど、村の人たちの生活も邪魔しないようにすべきだろうが、そのような掲示板は見かけなかった。
それだけみんなマナーを守っているということかもしれない。
実はネコの多く住む普通の田舎

犬と共存
ネコ村と言っても犬も結構飼われている。そしてネコとちゃんと共存している。それにもともと猴硐のシンボルは猴の字が示す通りサルである。犬猿の仲と言われるところにネコまで割り込んでしまっているが、村は平和である。
村の集会所のような猴硐活動中心には黒ネコたちがいた。顔もよく似ているから兄弟なんだろうか?
古い民家のような活動中心の中にはプロの写真家が撮ったようなネコたちの写真パネルがたくさん展示されていた。

活動中心
[猴硐活動中心はネコのたまり場]

眠りネコ
[こんな誘惑的なポーズで寝てて、触るなというのは罪作りだと思う]

再び跨線橋を渡り駅の表側へ出る。
跨線橋でも昼寝中
[跨線橋でもお昼寝]

表側はネコ関連の土産物店や食堂などが並び観光地のような雰囲気がある。
また、炭鉱施設跡があり、資料館もあった。
いつもなら資料館の見学をするのだが、時間が足りないので、資料館の入り口で寝ているネコにだけ挨拶して素通り。
資料館のネコ
[資料館の玄関でも昼寝]

炭鉱から選炭場へ石炭を運ぶための橋を使って川を渡る。
選炭場は完全な廃墟で錆びついた設備が雨ざらしになっている。
廃墟

橋を渡って対岸に出ると、炭鉱の入り口があり、昔の炭鉱トロッコが観光用に坑道の中へと観光客を乗せて走っているようだ。乗ってみたい気もあるが、やはり時間がないので先を急ぐ。
鉱山トロッコ

川沿いに下流に向かって歩き、「猴硐神社入口」から階段を上る。
しばらく上ると先ほどとは別の車道に出て、そこには猴硐神社の由来などを記した案内と鳥居がたっていた。

鳥居
鳥居をくぐって苔むした石段でさらに丘を登る。
しっとりしていたなかなかいい感度の階段である。

神社の階段

神社の建物はもう残っておらず、椿の花が咲いていた。
神社跡に咲く椿

神社の案内
[神社の案内板]
この神社は参道が2本あり、それは神社としては珍しいと説明が書かれてあったので、戻りは別の参道を使ってみることにした。植物が生い茂る中の参道はいかにも南国台湾らしい。

駅前のネコ関連土産店を覗いてみる。もともとネコグッズなど買っても何の役にも立たないのだが、やはり可愛いので見飽きない。
ネコショップ
それに店にはたいていネコもいて、看板ネコというか、招き猫というか、ネコに惹かれてついつい店の中に入ってしまう。
そして結局、ネコのシールを40元也で買ってしまう。
どうしようもないものだけど、会社の女性スタッフにでもプレゼントしよう。
ネコの店番
また別の店でネコのトランプを買ってしまう。これも一人暮らしの身では買ってもどうしようもないが、でもほしくなってしまった。
ビニールで包まれているのでそれぞれの札にどんな絵が描かれているのわからないが、それがまたワクワクさせる。
90元也。

郵便ポスト
[駅構内の郵便ポスト、台湾のポストは緑色]

10時16分発の平渓線に乗る。
終点の菁桐まで24元也。
4両編成のディーゼルカーはやはり満員。

猴硐を出て次の三貂嶺から本格的なローカル線になり、ジャングルの中を進むような景色の中をエンジン音を轟かせながら奥へ奥へと進んでいく。
ところどころ急流や滝も見え、視界が広がると景色が良い。
台湾のローカル線だけれどもなんだか北海道の原生林の中を走っているような感じがする。
もっとも、今では北海道の原生林の中を走るようなローカル線など廃止されてなくなっているかもしれない。

このディーゼルカーには若い女性の車掌が乗っており、ドアの開閉など車掌室ではなく、客の乗降するドアの横にあるスイッチで操作している。
なんでわざわざ車掌室から出てきてドアの操作をするのかわからない。
もともとそのような構造なのかもしれないが、こうして満員の車内の乗客をかき分けて駅ごとに客用のドアまで行き来するのは不便だろうと思う。
女性車掌

十分という駅で多くの乗客が下車した。
線路や駅周辺にもハイカー風の人たちであふれていて、ボランティアが出て誘導を手伝っている。
ここには大きな滝があるとのことだったが、滝は車窓からは眺められなかったが、線路ギリギリに並ぶ商店などもローカル線らしくて風情がある。
ここも時間があれば下車して散策をしてみたいところだ。
十分駅前

十分駅
[十分駅、この写真は帰りがけに撮影したもの]

転轍機
[これも帰りがけに撮影した十分駅の転轍機とネコ]

終点の菁桐も以前は鉱山があったところのようだが、今は観光地になっているらしい。
菁桐駅前
駅前の狭い路地には土産物店や食堂などがならび、ノスタルジックな雰囲気を演出している。
これだけ観光客に利用されていれば、こんなローカル線でも廃止になることはなさそうだ。
すぐの折り返しに乗るので、急いで駅で切符を買う。
基隆まで通しの切符で49元也。

もどりは多少の空席があった。
車内の様子
瑞芳まで行き、乗り換えて八堵へ。
ここでまた乗り換えて基隆行きの電車に乗ったのだが、基隆の一つ手前の三坑という駅で下車した。
時刻は午後1時少し前。
ここから基隆の街歩きをし、途中昼食を食べながら基隆駅まで歩くことにする。

廟口前の繁華街を抜け、港まで歩き、トンビがたくさん飛んでいるのを見て、慶安宮まで来た。
港のトンビ
[港ではトンビがたくさん飛んでいた]

慶安宮
[参拝者が絶えない慶安宮]

ネットで調べてこの廟の横にあるで焼き餃子を食べたいと思っていた。
店はすぐわかったし、繁盛している様子。
曾記煎包店

しかし、餃子と一緒にビールも飲みたいけど、ビールは置いてなさそう。
どこかのコンビニでビールを仕入れてからテーブルに着こうと思ったが、廟周辺を歩き回ったがコンビニが見当たらない。
あちこちと歩き回ったがコンビニを見つけるのに苦労した。
基隆はコンビニの少ない街なのかもしれない。
ようやく見つけたコンビニの冷蔵庫で新種の台湾ビールを発見。
パイナップル味、ぶどう味、はちみつ味。しかもキャンペーン中らしく3本買ったら99元となっている。
これは飲むっきゃない。
さらにカメラ用の乾電池も買う。
併せて237元也。
新種台湾ビール

曾記の店、確かに人気店らしく行列ができている。
もっとも行列を作っている人はテイクアウトのお客さんらしく、餃子が焼けるのを待っている様子。
店の外に張り出したテーブルに着き、焼餃子(鍋貼)を10個注文。
60元也。

棒餃子
お待ちかねの餃子、いい感じに焼けている。
具と皮のバランスも良い。
台湾の焼き餃子は鍋貼と言うが、日本では棒餃子と紹介されることが多いらしい。
普通の餃子のように三日月形をしておらず、春巻きのようにまっすぐ、しかも両端が完全に閉じていない。
これがなかなか旨いのである。
そしてひとつひとつがかなり大きい。
半分も食べたら腹が膨れてきたが、旨いので箸が止まらない。
それに焼き餃子はビールとの相性が最高である。
この店にはビールを置いていないし、通常この手の店でビールは一般的ではないが、本来ビール好きの台湾の人は餃子とビールの組み合わせを好まないのだろうか?
そのビールだが、パイナップル味とハチミツ味を飲んでみた。
特にパイナップル味は美味しかった。
アルコール度数は低いが、ビールとパイナップルがこんなにも相性がイイとは知らなかった。
タイもパイナップルがたくさん穫れるのだからタイでもパイン味のビールがあってもよさそうだ。
さわやかな風味でパインの酎ハイなんかよりイケていると思う。

大きな餃子10個と缶ビール2本で、すっかり満腹であるが、基隆ではもう一つ食べておきたいものがある。
阿本伯のシュウマイ(焼邁)。
ここもネットで知ったのだが、先代は日本統治時代からの料理人で食堂をやっていたが、戦中は兵隊として南方へ送られ、復員後にこのシュウマイを考案して評判となり今に至っているらしい。
そのな話からもぜひ食べてみたいと思っていた。
ネット上での台湾の人のコメントでは旨いという人と、味が薄いという人が半々くらいにあるようだけど、人気店であることは確かなようだ。
阿本伯

ここのシュウマイはとてもジャンボサイズで、一粒が子供の握り拳くらいの大きさがある。
それを5粒注文。
ジャンボなシュウマイ

味は確かに普通のシュウマイとは違う。
豚肉以外にシャリシャリとした根菜がたくさん刻み込まれているので、あっさり味でしつこくない。
シュウマイの中身
[シュウマイの中は根菜など野菜たっぷり]

この野菜たっぷりなところが豚肉大好きの台湾の人の中には「味が薄い」と感じさせるのかもしれない。
私にはベジタリアンぽい感じが気に入った。
味付けもバランスも良い。
もともと満腹だったけれど、なんとか食べきることに成功。

私は子供のころ、餃子よりもシュウマイの方が好きだった。
それが大きくなったら知らないうちに餃子派にになっていた。
子供のころ食べたシュウマイは、薄皮で豚肉と玉ねぎの餡を包み、頂点にグリーンピースが載っていた。
私はグリーンピースが好きだったので、たぶんそれが理由でシュウマイが餃子より好きだったのかもしれない。
ここのシュウマイにはグリーンピースは載っていなかった。
60元也を支払い、胃袋の許容限界をはるかに超えた状態となった。

このあと乗る台中への特急の乗車駅は基隆発ではなく、七堵からなので普通電車で七堵まで戻る。
その際に初めてスマートカードを使ってみる。
上手くできるわからず、おっかなびっくりで改札口にピタッ=>ピッと音がして無事改札を通過。
なんだ日本のとおんなじゃないか。
簡単、簡単。

基隆駅改修工事
基隆の駅は改築工事中らしく、ホームはすでに地下へ移っており、地上のホームは取り壊しの真っ最中である。
台湾の玄関港である基隆の駅は港町らしい雰囲気のある古い駅で、戦前は日本本土からの船が発着したくさんの人がここから台湾各地へ汽車に乗ってきただろうし、戦後は台湾中に住んでいた日本人がこの駅から船に乗り換え日本へ引き上げていったであろう歴史的な駅であったはずなので、それが地下の駅となってしまうのは何となく寂しい。

七堵駅でも改札口でピッとして14元也
特急電車が来るまでまだ30分ほどあるので、朝見かけた昔の駅舎を見学に行く。

旧七堵駅
移築保存された昔の七堵駅は黒い木造平屋建ての駅舎であった。
内部は公開していないのか駅舎の中には入れなかったが、戦前の駅舎を取り壊してしまわずに、こうして移築保存してくれているとはなんとも嬉しい。
なんといっても古いものだから、維持していくのも大変だろうし、費用も掛かることだろう。
私の昔のイメージの中にある台湾の人は、メインテナンスのようなことは苦手にしていたような気がするが、最近はメインテナンスも得意とするような気質になったのだろうか?

15時19発の特急はプユマ号と言って最新式の電車らしい。
スピードも時刻表で調べた限りでは他の特急よりもはるかに速いことがわかる。
料金はほかの自強号特急と同じながら、全席指定の立ち席なしということになっているらしい。

プユマ号
プユマ号は定刻に七堵駅にやってきて、早速乗り込んでみる。
やはり車内は満席だが、立ち席なしということで通路に立つ人はいない。
途中の松山駅や台北駅で下車して空いた席にも、すぐに次のお客が乗り込んでびったし満席になる。
最新式でピカピカの車両、スピードも速ければ、色々なものが機能的にできている。
しかし、機能的過ぎて豪華さはあまり感じない。
白湯のセルフサービスすらない。
つまり私としてはあまり面白くない。
それから座っている座席の位置が車輪のすぐ上あたりにある関係か、常に小刻みに振動し、ときどきガツンと揺れる。
居眠りをしようとしてウトウトしかけても不意にガツンと来るので目が覚める。
特に駅を通過するときに揺れるようだ。

台湾を南北に結ぶ路線を縦貫線と呼ぶが、縦貫線は途中に台中を経由する山線とそれより海側を通る海線がある。
山線は台中へ向かう途中で山の中に入り、峠越えの景色が良かったので、今回も景色を楽しもうと思っていたが、峠は通らなくなり、長いトンネルで山を抜けてしまった。
便利になるということは一面つまらなくなってしまうものかもしれない。
トンネルを抜けるともう豊原駅で、時刻は5時を回り、夕闇が迫ってきている。
台中駅に到着したときにはもう暗くなっていた。
台中駅
[台中駅の駅舎は昔ながらのまま]

台中でやることはまずネットで予約した台中から空港へ向かうリムジンバスの切符を受け取ること。
朝の駅では特急の切符を受け取るのにかなり手こずったので、用心して最初に片付けようと思ったわけだが、拍子抜けするくらいいとも簡単に切符は発行され、目の前に現れた。
空港まで230元也。

台中駅近くに「宮原眼科」という施設が地図に出ていた。
名前は眼科だけど、それは70年前までの話で、戦前は宮原眼科という眼科医だったが、戦後はいろいろと紆余曲折を経て今はテーマパーク風のお菓子屋さんになっている。
それも相当の人気店のようで、店内は人、人、人である。
売られているお菓子などはちょっと高級品のようで、値段も少し張っているようだ。

宮原眼科
店内は図書館のような装飾が施されているが書架に並んでいるのは本のイミテーションであった。
店の外周にはアイスクリームの売り場があり、アイスクリームを求めるお客さんが行列を作り、また店の前でアイスクリームを食べる人たちがたくさんいる。
以前の台湾の人は行列など作ったりしないものだったが、最近はこうした人気店で行列を作るのがファッションのような流行になっているようだ。
アイスを行列して買う人
依然として餃子とシュウマイで満腹の私には店内を見学するだけでお菓子類を食べれる状態ではなく、そのまま埔里行きのバス乗り場へ向かう。

埔里行きのバス乗り場も混雑していた。
ここは埔里行きのバスだけでなく、台中市内のバスなどさまざまな行先の雑多なバスが発着するためにこんなに混雑しているようだ。
待つこと10分ほどで埔里行きのバスは来た。
車内は空いていた。
このバスもスマートカードを利用してピッとやる。
埔里まで134元也。

空いていた車内も台中市内のバス停にいくつか立ち寄りお客さんを拾いながら、やがて高速道路に入ってしまった。
埔里のような田舎町へも高速道路ができていることに驚いた。
私が初めて埔里へ行った30年ほど前は、のどかな田舎道で、途中行き交う車い言えば、農耕用の車や三輪トラックなどばかりだった。
前回来た10年ほど前は狭い田舎道に代わってバイパスができ、トンネルで山を抜けるようになって、随分と発展したなと感心したものが、それが高速道路になっているのだから、浦島太郎である。

バスの中ではテレビでニュースをやっていた。
台湾の馬総統と中国の習主席の「歴史的」会談について延々と流されていた。
以前の台湾なら三不政策で絶対考えられないことだが、台湾は政治的にも変わったものだ。
また、ニュースも政府寄りのことだけでなく、今回の会談に反対する人たちのことも報道していた。
その点では台湾も民主化したものだ。

猫沢東(まおつーとん)
[朝に行ったネコ村ではこんなパロディも]

埔里までは1時間とかからず、7時に到着。ネットで宿泊申し込みをしておいた金山大飯店へ向かう。
ここはバスターミナルからすぐなので便利。
それに大飯店とは言うものの埔里の街でもっとも安いクラスの旅社でもある。
最低級の料金でもレセプションはちゃんとあり、従業員も感じが良い。
名前を告げただけで宿泊名簿とかに書き込むこともなく、すぐにルームキー667号室が渡された。
宿泊料は800元也。
金山大飯店

エレベータで6階へ上り、部屋はエレベータのすぐ近くであった。
部屋は広くはないが一人なら十分な広さ、テレビもあるし、シャワーもある。
アメニティーも歯ブラシやシャンプーなどまでそろえてある。
しかし、冷蔵庫はない。
ベッドはダブルベッドでシーツが白い!
タイの安い宿に泊まることが多いのだが、タイの安いホテルでは大体が柄物のシーツであったり、色付きのシーツばかりで、白くないシーツに慣れてしまっている。
また、以前の台湾なら部屋の中にお湯の入った魔法瓶が用意されていたものだが、部屋に魔法瓶はない。
その代りペットボトル入りの飲料水が2本用意されていた。
以前の台湾の人たちは生水など飲まないものだったが、最近ではこうしたペットボトル入り飲料水を飲むのが一般的になってきているのだろうか?

ちっとも空腹を覚えないが、台湾へ来て食道楽も目的の一つだったので、その義務感からも夕食を食べに外へ出る。
夜の埔里の街をうろつきまわり、何を食べようなと悩んだが、脂っこいものは食べたくない。
でも台湾らしいものが食べたい。
それにここ埔里は台湾随一の紹興酒の街でもあるし、紹興酒はぜひ飲みたい。
大きな酒屋で紹興酒を一本買う。
160元也。

昔は一本105元だったから、他の物価に比べてそれほど値上がりしていないように感じる。

土鍋
[日本の土鍋を売っている店もある、土鍋を砂鍋というらしい]

だいぶ歩いたが、まだ腹ごなしには不十分なようで、胃がもたれたままだ。
できれば消化の良さそうなものはないだろうかと探していたら、鍋料理の店があった。
それも一人鍋のある店なので都合が良い。
「麻辣鍋」という辛い鍋を注文。
これが正解だった。
辛いだけでなく山椒も効いており、その刺激が食欲を湧かせてくれる。
豚肉、魚団子、エノキ、豆腐、トウモロコシ、野菜などバランスも良さそう。
紹興酒にもよく合う。
中にインスタントラーメンまで入っているのは韓国鍋の影響だろうか?
ご飯には黒ゴマが振ってあるのもいい感じである。
これで130元也はお値打ちである。

やっぱり台湾は食べ物が安くておいしい。
しかも、飲み物とアイスの無料セルフサービス付き。
私は食後にコーラにアイスを浮かべてコーラフロートにしていただいた。
コーラフロートなんて今でも喫茶店のメニューにあるのだろうか?
中学生のころを思い出させるような懐かしい味がした。

麻辣鍋

満腹の度合いがさらに深刻になりなってしまい、ホテルへ戻ってシャワーを浴び、夜11時には寝てしまった。今日はなんとかスケジュールをこなすことができた。満足、満足、睡眠導入剤を使わなくてもすぐに眠りに落ちでぐっすりと眠れた。

つづく

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泰日ユースセンターの地域ネコ
今年になってから、土曜日の午前中にバンコク市内ディンデンにある泰日ユースセンターのプールへ泳ぎに行くことを習慣にしている。
泰日ユースセンターはたぶん、日本の支援で作られた大きな競技場で、バンコクスタジアムをはじめとしたいくつもの競技施設がある。
プールもあって、オリンピックサイズの50メートルプール。観客席まで用意されている本格的競技用プール。
この泰日ユースセンターの会員になって、毎回15バーツずつの利用料を払い、プールで泳いでいる。
もともと競技用プールなので、プールではひたすら50メートルを端から端までひたすらに往復するだけ、ときどき水に浮かんでボンヤリなんてのは許されない。
疲れてプールから上がってもデッキチェアがあるわけではない。
つまり、ちっとも楽しそうではないプールなんだけど、健康管理のために泳ぐには都合が良い。
去年お世話になっていたセンチュリーパークホテルのプールでは、ついだらけてしまいそうになっていた。

昨日も午前10時半に泰日ユースセンターへ行った。いつものようにプールの利用券を買おうとしたら、「今日は午後からの利用です」と言われてしまう。
ここのプール、私のように一般の利用者のためのものではないから、施設側の都合その他で利用できないことがしばしばある。
それに、今はタイの学校が休みの期間なので、子供たち対象の水泳教室が開かれていることも多い。

午後からと言われても、土曜日の午後は仕事で出社しなくてはならない。
せっかく来たのに残念。
しからば、夜なら泳げるかと思い確認したところ、6時からの利用も可能とのこと。
仕事を早めに切り上げて、出直してくることにした。

そして、タイも10月の末ともなると陽が短い。6時には日没となり、泰日ユースセンターに着いた時には、もうすっかり夜である。
しかし、タイの人たちは日没後に涼しくなってから運動するのが好きなようで、競技場の中ではジョギングをする人や球技をする人でいっぱいになっている。
プールも一つのレーンを複数で泳ぐことになり、レーンの右側通行でぶつからないように泳ぐ。
いつものようにのんびり泳いでいると、後ろの人の邪魔になるし、また後ろの人に追い越されたりもした。
それでも、マイペースでプールを22往復、2200メートルほどを1時間半ほどかけで泳ぎ、夜8時前には閉館のためプールを追い出された。

プールを出てすぐのところでネコを発見。
競技場の地域ネコ1
おやおや、こんなところで夕涼みかな。
競技場の地域ネコ2
どれどれ、ちょっと触ってみよう。
青いバンダナ
「おとなしい白ネコちゃんだね。
青い首輪をつけてもらって、それに首輪はバンダナ仕様じゃないか。
なぁ、白ネコちゃんよ、うちにもネコがいるんだけど、黒ネコなんだ。
そして、やっぱり君とおんなじようにバンダナ仕様の首輪をしてるんだぜ。
首輪の色は赤だけどね」

競技場の地域ネコ3
尻尾の長いネコだ。
そしてメス猫。
昔、高校生のころに家で白ネコを飼っていたことがある。
名前はミミ。
尻尾は短いメス猫だった。

競技場の地域ネコ4
「おいおい、どうしたんだその傷は?」
首輪をつけてもらっているし、こんなに懐くので野良猫ではないようだ。
しかし、全身傷だらけ。
前足の傷も痛々しいが、腿のあたりには大きくて深い傷があり、ごっそりと肉が削がれている。
家の中で飼われているのではなく、この競技場に住み着いて、エサをもらったりしているのだろう。
つまり、この競技場の「地域ネコ」さんなんだろう。

タイは野良犬たちも、よくエサをもらっている。
路地にはたくさんの路上生活犬がいるが、日本のように保健所で駆除される話などまず聞かないし、殺処分なんて考えられない。
たしかに、路上犬が多いのでトラブルもあるし、狂犬病もあるけど、私はこのタイスタイルが好きだ。

この傷は喧嘩をしたのだろうか、それとも犬にでも噛まれたのだろうか?
動物たちの交通事故はとても多い。
道端で車にはねられた犬や猫を目にすることがとても多い。
そして、ネコたちの平均寿命も長くないように思われる。
バンコクで歳をとったネコを見かけることはほとんどない。
事故や病気にかかることが多いからじゃないだろうか。

競技場の地域ネコ5

別にお腹を空かせているようではないし、「連れてってぇ」とせがみ泣きするわけでもない。
ただ、おとなしくて人に懐くネコだっただけで、やっぱりこの競技場に住み着いているのだろう。
「いろいろ大変だろうけど、元気に暮らすんだよ」

夜中、雨季の終わり恒例の嵐になった。
あのネコはどこで雨宿りをしているんだろうかと気になってしまった。


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