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ビルマカロー三一会
6月の後半から、今月はじめにかけて、何度もミャンマーのミャワディへ行ってきた。
タイとミャンマーの間の物流事情の垣間見ることが目的であった。
数年前にも、ミャワディーからミャンマーに入り、モーラミャインを経由して、ヤンゴンまで走破したことがある。
正式開業前のミャワディー-コーカレイ区間のハイウェイも試走した。
当時と比べ、物流事情は大幅に改善されて、大型トラックやトレーラーが列を成して行きかっていた。
メーソットとミャワディを結ぶ友好橋だけでは、膨大な物流をこなせず、国境のモエ川沿いにいくつもの渡船場が活況を呈していた。
それに、立派な施設の第二友好橋も正式開業を待つばかりになっている。

今月はじめには、物流取材に同行して、やはりミャワディーより入り、モーラミャインを経由して、ヤンゴンまで抜けてみた。
雨季の最中ということもあり、貧弱な道路整備事情で、大型トラックでの物流は、凄惨と呼びたくなるほど、酷いことになっていたけれど、それでもきっと何年か後には、改善されてインドシナ半島を横断する大動脈になりそうな手ごたえを感じた。

このルートを今から70年以上前に、たくさんの日本兵たちが進攻していった。
インパール作戦に投入された弓部隊も、このミャワディからのルートで進軍して行ったことになっている。

今月は、「思い出の記」という自費出版本を読んだ。
今から30年ほど前に「ビルマカロー三一会」により発行されたもので、
ビルマカロー三一会というのは、戦時中ビルマ中部、シャン高原に展開した第三航空通信連隊第一中隊戦友会のことである。
縁あって、30年前にお付き合いをさせてもらい、一緒にタイ国内でかつて駐屯されていた町などを回ってきたことがある。
本の内容は、航空通信連隊発足までの経緯から始まり、その後、大半を戦友会メンバーによる当時の思い出話によって構成されている。

思い出の記
[自費出版本、思い出の記]

この第三航空通信連隊は昭和17年9月に当時のラングーンで結成された連隊で、航空通信強化の必要性から第一航空通信連隊などからの移籍者を中心に構成されていた。
この兵隊たちがラングーンへ入る道のりはさまざまで、まだ泰緬鉄道が完成していなかったこともあり、シンガポールからマラッカ海峡を通って海路入って来るもの、仏印からタイを陸路で横断し、ピサヌローク、メーソット、モールメインと入って来るものさまざまであったようだ。

航空通信連隊という性質上、最前線で敵と戦うというより、後方で通信の中継に当たるのが中心任務。
そのため、ビルマに展開していた部隊としては戦死者の数はそれほど多くなく、戦死の原因は、事故や爆撃、または病気によるものが中心のようであった。
ビルマからの撤収命令も、他の部隊よりも早く昭和20年3月には出ている。
それでも、ビルマ中部各地に展開していた関係上、撤収では相当苦労をしているようである。
主力は、カローよりタウンジーを経て、シャン高原を抜けてタイへ入っている。
サルウィン川の渡河では、ゲリラの襲撃にも遭ったりしている。
ほとんどが徒歩行軍で、食料はなく、野草を岩塩で茹でて食べるだけという記載が目立った。

また、シャン高原を抜けるルートではなく、ビルマ南部入り口のモールメンから泰緬鉄道の起点タンビザヤを回ってタイへ戻ったというものもある。
このルートは、カローよりシャン高原を下ってすぐの交通の要衝タジ(サジ)に隣接するメイクテーラが英軍機甲部隊に蹂躙され、日本軍の抵抗むなしく壊滅したばかり、波に乗る英軍はラングーンへ向けて進撃中。まるで英軍に終われるようにして、南へ転進していくのだけれど、各地でビルマ反乱軍の放棄に遭ったりしている。

書き手側の元兵士たちは、戦後も40年以上過ぎてから書いているので、記憶が曖昧になっているところもあるだろうし、場合によっては思い違いもあるかもしれない。
しかし、ほとんどが召集されたり志願してビルマへ入った当時は、意気軒昂であったものが、戦争が終わってみると、「あの戦争は間違っていた」との立場に立っている。
そして、ほとんどの文章は「戦争によって亡くなられた方々のご冥福をお祈りします」で結ばれている。
「戦争は二度としてはいけない」といったことを書いている人も多かった。

当時の写真
[連隊発足当時の写真]

私はもう長いこと、このカロー三一会の方々と連絡を取っていない。
たぶん、存命の方はとても少なくなってきているはずだ。
そうした戦争体験者が「戦争は二度としてはいけない」と後世に伝えようとしたことも、風化し始めているかもしれない。
そして、この本の中にあるのは、戦時下の兵士たちの日常が中心となっている。
戦争に絡んださまざまな記録が残されているだろうけれど、兵士たちの日常を記録したものは、残りにくいのではないだろうか。
そして、それが一番先に風化して消えていってしまうのだろう。

戦争という異常事態の中にあっても、人として生きている限りは、生きるか死ぬかの狭間にも、喜怒哀楽があったことが書き記されている。
南方へ向かう船の中で、初めて食べたマンゴーの味。
市場での買い物。
ビルマ娘に寄せる淡い恋情。
兵士たちも、若い青年たちであったことが行間に散見できる。

首長族
[シャン高原では首長族にも出会っているようであった]

終戦の迎えた日のことも、ほとんどの方が書かれている。
通信を扱っているので、早くから何が起こるか知っていたものもいた。
戦争に負けて、男泣きに泣いたものもいた。
酒保の酒を開放して、残念会をした人たちもいた。
ラジオ放送がよく聞き取れず、慰安婦から終戦を教えてもらったという者までいた。
ほとんどがタイへ撤退した後に、終戦を迎えられた関係上、終戦の半年後には復員を果たせている。

縁あって、私は現在タイ中北部のピサヌロークにいることが多いのだけれど、
この三一会のメンバーはビルマからタイへ撤収後、ナコンサワンからランパーンまでの間で、通信線敷設や保線の任務についている。
そのことを書いている人も多く、当時の交通事情の悪さを書いているものが目立つ。
ビルマでは舗装道路であったのが、タイでは牛車道ばかりで、車での移動が大変であったらしい。

当時のピサヌロークの様子を書いている文章もあり、
ピサヌロークはピサンロークと書かれているが、「川には筏を組んだ住宅があり」と記されている。
現在でも、ピサヌローク中心部を流れるナーン川には筏の住宅が並んでいる箇所があるが、当時はその数ももっと多かったことであろう。
そして、「大小便も垂れ流し」で不潔そのものだけど、炊事はその川の水を使わなくてはならなかった話が書かれている。
その後、ビルマへの進駐に際して、ラーヘン(ターク)、メソード(メーソット)、コーカレーを通ってモールメンへ移動していくが、
ピサヌロークからタークへの中間地点で、道沿いにあるはずのスコタイ遺跡のことに触れている文章は、この本の中には一つも出てこなかった。
ビルマのペグー(バゴー)にある寝釈迦仏の話や、アンコールワット、インレー湖などは登場するけれど、スコタイ遺跡などは、当時は関心が薄く、日本兵たちの記憶にも残らなかったのかもしれない。

ピサヌローク
[1989年にピサヌローク再訪時の写真]

カローは学生時代、鉄道駅の終点ニュアンシエからタジへ向かう途中で通過しているはずだけれども、当時は何も知識がなかったので、カローがどんなところだったかの記憶がまったくない。
この本の中には、松林があり、ビルマの軽井沢のようなところだと書かれている。
そして、当時の兵士たちが口ずさんだという「シャン高原ブルース」の歌詞が転載されている。
1 .野行き山行き 南の果てに
 来たぞ高原 シャンの町
 お花畑に 松風吹けば
 桜吹雪の 春の宵
2. 牛車に揺られて 鈴の音かなし
 行くはカローか お湯の里
 灯りちらほら 狭霧に揺れて
 夢を見るよな インレイ湖
3. 野焼き山焼き ヘイホウ辺り
 風に燃えます 夜もすがら
 咽び泣くよな 汽笛の音は
 あれはシュワイニャン終車駅
4. 月も朧な ヤンフェイ過ぎて
 逢うたあのこの 片えくぼ
 誰にやるのか 花束抱いて
 赤いロンジーが気にかかる
5. 旅のたそがれ パゴダの丘に
 鐘が鳴ります 虹の森
 煙るタウンジー道しろじろと
 遠いロイコーの夜の雨

30年前、タイを三一会のメンバーと回っているバスの中で、ずっとこの歌を歌っていたのは、森山金蔵さんだった。
バナナでナマズが釣れた話なんかをしてくれた。

署名
[本として出版されても、いずれは風化してしまい、大局的な歴史の中にうずもれてしまうのだろう]

今でもまだミャンマーの中で、タウンジーからロイコー、タカオを経てケンタン(チャイントン)へのルートは外国人に解放されていない。
カローからシャン高原を越えて転進してきたメンバーの思い出が最も濃い部分を私はまだこの目で見ることができていない。
いや、カローなど行く気になれば、いつでもいける世の中になったのに、まだ訪問していない。
本の中にある手書きされたカローの地図とGoogleマップを見比べて、今のうちに行っておかなくてはと思うばかりである。

カロー地図
[大戦中のカロー手書き地図]


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