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「ノラや」と「ネコや」
もう一昨年前くらいからネコとの別れに関して、不安が付きまとっていた。
ネコとの別れがいつ訪れるかは別として、どんな形での別れになるかとても不安だった。
まだ、その頃はネコが急に死んでしまうとは考えていなかった。
まして、病気で死ぬことなど想像もしていなかった。
あり得るのは、いつも部屋の扉を開けておいて、ネコが好きな時に出入りできるようにしていたので、そのままアパートの外へ出てしまい、行方不明になってしまうことが気がかりだった。
バンコクのアパートでは、夜のあいだずっと屋上で遊んでいて、朝になっても部屋に戻ってこないときがあった。
そして屋上に迎えに行っても、見つからないなんてことがあったりした。
だいたいは廃材置き場の下に潜り込んで寝入っているとか、実はちゃんと部屋に戻っててベランダやシンク台の下で寝込んでいるだけだったりしたが、やはりすぐに見つからないと不安でたまらなかった。
ピサヌロークでも一度、アパートのネコに誘われて行ったのか、夜中に屋外へ出て行ってしまったことがあった。
その時はアパートの娘さんが探し出してくれた。

そんなこともあったりしたので、失踪ネコを探すツールがほしいと思った。
インターネットで調べてみると発信器を仕込んだ首輪があり、ネコの居所を教えてくれるようなものもあるし、GPSで探索してくれるものまであった。
こんな便利なものがあるならほしいと昨年の秋以降考えていたが、ピサヌロークでは売っていないらしい。
日本でなら手に入るらしいが、日本のものがタイでも使えるかわからないなどと考えているうちに買わずじまいになってしまった。

さて、ネコがいなくなってしまったらと考えたときに、読んだのが内田百閒の「ノラや」である。
文庫本で40年も前のものである。
さらに本の中で書かれている時代は昭和30年代で、もう60年も昔のことである。
この本には二匹のネコが登場する。
そして、話の中心は、それらのネコたちとの別れについてである。

ノラや

「ノラや」のノラと言うのは、内田百閒翁が飼っていたネコのことで、もともと野良猫の子だからノラと名付けたとある。
ノラはある日、庭の木賊の繁みの中を通り抜けて、どこかへ行ったきり帰ってこなくなってしまう。
それまで、特別ノラを可愛がっていたわけでもないような百閒翁が、ノラがいなくなってしまったことで、取り乱し、泣き続け、そして考え付く限りの様々な手段に訴えて、ノラを捜索しようとする。
結局、ノラはそれっきり帰ってこなかったようだけれども、百閒翁は死ぬまでノラの帰りを待ち続けていた。
ノラ失踪8年後、「ノラはきつとまだ、どこかで生きてゐる。今に帰つて来ないとは限らない」という。
ノラ失踪11年後、「今更帰つて来たら、猫の事だからそれこそ今の私にまさるぢぢいになつてゐるに違いないが、それでも構はないから、今日にも帰つて来ないかと待つている」
そして、14年後に、百閒翁は没するのだが、その絶筆となったのは「猫が口を利いた」という断片で、「ダナさん、人のいふ事を聞いて、なほす様に心がけて、歩け出したら外へ出掛けなさい、昔の様に」とネコに言われたとある。

ネコと言う存在が百閒翁にとってどんなものであったかは、「猫は我我の身辺にゐる小さな運命の塊まりの様なものである」とも書いている。
まったく共感できる言葉だと思う。

もう一匹のネコはクルと言う。
クルはノラによく似たネコであったそうだが、尻尾の骨がかぎ型に曲がって短いので「独逸語でクルツと名づけたが、クルツは三音で呼びにくいので、いつの間にかクルになってしまった」そうである。
そのクルは、ノラ失踪後しばらくして、ノラによく似たネコとして庭先に現れ、「夕方になると食べ物をせがんで、ノラそっくりの可愛い声をして鳴くので・・(略)・・ノラが今頃夕方になつて腹がへつて、どこかのお勝手の外であんな風に鳴いているのではないか」と思って、食べ物を与え始めたのが始まりである。
百閒翁はクルがノラからの伝言をもたらしに来たものと考えるようにもなる。
クルは百閒翁のところで五年余りを過ごす。
ノラよりも長い時間、そしてノラへの思慕からか、クルとはより濃密な時間を過ごしていたはずであろう。
「クルの気持ちが可愛い」という言葉はクルと言葉による意思疎通ではなく、命あるもの同士としての気持ちの共有ができていたということではないだろうか。
しかし、クルの最後は病死のようである。
クルの体調の変化に気が付いてから11日目にしてクルは百閒翁たちに看取られて、命が尽きてしまう。

この二匹のネコたちだけれど、「失踪」と「病死」という典型的な形での別れ方をしている。
ついひと月前までは、私はネコとの別れに対して、ノラのような形に不安を抱いてきた。
つまり失踪に対する不安。
もちろん、ネコももう10歳であり、若くはなかったので、毎晩のように寝る前に「ネコや、いつまでも元気で長生きしておくれよな」と語りかけていた。
ネコは「あいよ、わかったよ」とでも言うように、返事こそしないが、ノドをゴロゴロとならし、ネコの背を撫でていた私の手をザラザラした舌でなめてくれた。
それで、私はこれまで「ノラや」の文庫本を読むときも、クルよりもノラに関心が高かった。

しかし、私のネコは、病死してしまった。
それも、百閒翁のクルとは違い、私が看取ってやらず、一人ぼっちで、何を私に言い残したかったのか、苦しんだのか、何を思っていたのか、私は理解してやれずに、死なせてしまった。
クルのように看取ってやれれば、深い悲しみはあったとしても、これほどの後悔と自責の念はなかっただろう。
仮に病院で治療をさせなかったとしても、ネコが私に何を伝えたかったか理解できたと思えて、それが悔しい。
いや、病院で治療させなくても、獣医に往診を依頼することだってできたはずである。
往診を依頼するということそのものに考え至らなかったことが悔しい。
「後悔先に立たず」どうして、なんども失敗してきているのに、いまだに骨身に沁みてないのだろうか。

先日から、また「ノラや」を読み返し始めている。
いまアパートの部屋の中には何枚かネコの写真を引き延ばして飾ってある。
窓際の棚を祭壇に見立てて、ネコが食べてきた固形フードを皿に盛り、封を切らないままのチュール類似品をお供えしている。
毎朝、日の出前に街頭に立ち、歩んでくる老齢の托鉢僧に召し上がっていただくための喜捨をしている。
僧たちに召し上がっていただくことで、たぶんちょうどいま三途の川を渡り切り、天国へ向かっている私のネコの胃を満たしてほしいと、ひざまずいて手を合わせている。
私はこれからまたいつかネコを飼うことになるかもしれない。
そして、そのネコとの別れがどんな形であろうと、やっぱり同じように悲しむことだろう。
百閒翁が「猫は我我の身辺にゐる小さな運命の塊まりの様なものである」と書いている通りだと思うし、
「命の塊まり」ではなく「運命の塊まり」としているように、これも私の運命なのだろうと思う。
願わくば、私がいつか死の床に臥すときに、枕元に私のネコが現れて、私に語り掛けてほしいと思う。

この内田百閒の「ノラや」は、ネコと一緒に暮らして、ネコをパートナーだと感じている人には、読むことをお勧めしたい本だと思う。
私はこれからも後悔と、反省の意味を込めて、何度でもこの本を読み返しておきたいと思っている。

ネコや、お父さんの大切なネコちゃんや、先に天国へ行って待ってておくれ、どんなにか老け込んでいるかもしれないけど、ずっとお前が好きなんだよ。

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