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マレーシア、バトゥパハにて金子光春ごっこ
マレーシアのバトゥパハへ行ってきた。
20年以上前に行ったことがあったが、夏に金子光春の「マレー蘭印紀行」を読み返してみたらば、もう一度じっくり見てきたいという気持ちになった。
そして、金子光春の文庫本を前回の一時帰国で何冊か追加で入手し、この三週間毎日読んでいた。
そのバトゥパハ旅行のことをこれから書こうとしているのだけれど、どうにも長くなってしまいそうな嫌な予感がする。

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10月26日 木曜日

今晩は昨年逝去されたラマ9世の火葬が行われることになっており、タイの国中が喪に服しているのだが、そんな中で呑気に遊びに出かけようとしているのだから、タイの人たちから恨まれそうである。
特にアパートの路地の奥にはラマ9寺と言う前国王に縁のある寺があり、その寺へ記帳に訪れた人たちが路地にずらりと並んでいる。

ラマ9寺へ向かって行列を作っている人たち
[アパートの前には延々と喪服を着た人たちが行列を作っていました]

アパートを夜8時半過ぎに出て、ドンムアン空港へ向かう。
我が家からドンムアンまでバスで行こうとするとかなり不便である。
ドンムアン空港に限らず、バスでの移動はとにかく不便。
バスはなかなか来ないし、それに終バスも早い。

バスと地下鉄を乗り継いでモーチットまで出る。
地下鉄は運賃無料であったが、バスはいつも通り車掌が集金に回ってきた。
バスの中も地下鉄もみんな黒い喪服を着ている。
私もこの一年間毎日ワイシャツに黒ネクタイであった。

地下鉄の車内は喪服一色
[喪服を着ている人もスマホをいじっている人が多かった]

モーチットから先、ドンムアン空港まではなかなかバスが来ない。
30分くらい待ったであろうか、やっと来たバスも満員の状態であった。
葬儀関係であちこちにシャトルバスを走らせているから、バスが不足して一般のバスが間引き運行にでもなっているのかもしれない。

今回のマレーシア行だけれども、格安航空会社のエアアジアを予約した。
とにかくクアラルンプールまでの往復運賃が格段に安かった。
往復で3000バーツもしていない。
いつも格安航空会社はノックスクートを利用して、安い割にはイイじゃないかと思っていたが、このエアアジアの評判はどうもあまり良くないようだ。

10月27日 金曜日

バンコクの出発予定時刻は23:10と言うことになっていたが、1時間遅れと連絡があり、さらにまた30分ほど遅れた。
やっと搭乗案内があったかと思うと、我先にと搭乗口に殺到する人たちの手荷物がやたらと多い。
機内に乗り込んでみたらば、座席は黒い革張りなのだが、前後の間隔がやたらと狭い。さらに満席。
インド系の乗客が多いように思える。
インドの人たちは肌に油を塗っているので、こんな皮のシートだと、シートの表面に油が付いていそうでなんだか気になる。

エアアジアの機内
[かつて飛行機に乗るのは晴れ晴れしく感じたものだったけど、時代は変わった]

座席に座るというより、はめ込まれた感じで、いったん座ってしまうと身動きが全くできない。
先月から右肩が痛んでいるのだが、このシートの背もたれの構造からか、座っていると右肩の痛みが酷くなってくる。
2時間のフライトだから辛抱してみていようと思ったけれど、耳栓をしてアイマスクまで着けていたのだけれど苦痛でちっとも眠れなかった。

座席がやたらと狭い
[シートに深く腰掛けても膝がつっかえる]

クアラルンプールにはマレーシアの時間で午前4時前に到着。
飛行機は遅れたけれど、このほうがマレーシアの空港で始発のバスを長く待たなくて済んだ。
どうにも巨大な空港のようで、随分と歩かさせられる。通関手続きが済んでも市内へ行くバス乗り場までまださらに延々と歩かなくてはならない。
大きいだけであまり便利な空港ではない印象を受ける。

クアラルンプール市内長距離バスターミナル行きのバスの切符を買う。
11リンギットで午前5時半発。
バンコクであらかじめマレーシアの通貨リンギットを用意してきた。
50リンギット札ばかり10枚を持ってきたが、このバスの切符を買ったら、何種類かのお札が財布の中に加わった。

市内に向かうバスは日本のバスと変わらない快適さだった。
座席も狭すぎず、シートベルトこそないが、さっきの飛行機とは雲泥の差。
1時間ほどの乗車時間のほとんどを爆睡してしまった。

クアラルンプールの空港バス
[乗客はインド人と中国人が多い印象だった 話声が大きいから、そう感じただけかもしれない]

クアラルンプールのバスターミナルも巨大であった。
しかし、よくまとまっていて、発着する全路線のバスの切符をどの窓口でも買えるようになっているのには感心してしまった。
バトゥパハ行きのバスは8時半発と言うことで、こちらは23リンギット。
まだ1時間ちょっと時間もあるし、バトゥパハまで3時間ほどかかるそうだから、このバスターミナルの中で朝食を食べていくことにする。

バスターミナルのフードコート
[バスターミナルのフードコートは見晴らしの良い場所にあった]

フードコート風の食堂が早朝からオープンしていた。
まず目についたのはインド系の人がロティのようなものを作っている。
タイでもマレー系の人が屋台でロティを焼いて売っている、ロティの焼き方は同じものの、盛り付けや食べ方がタイとマレーシアでは異なっているようだ。
タイのロティは薄く伸ばしたバターを入れて練った小麦粉の生地に練乳をかけて、バナナや玉子、チョコなどを入れたりしたパンケーキ感覚のおやつであるが、ここのロティはプレーンで別皿にカレー汁のような小皿が付く。
これはこれで美味しそうなのだが、注文の仕方からして判らない。
金子光春の「西ひがし」のなかでアラビア人のやっている喫茶店で、コンデンス・ミルクをつけた価二十銭と言う安直な食事として紹介しているものとタイのロティは同じもののように思われるが、金子光春はこれをロティという名称では紹介していない。
彼がロティと呼んでいるのはざらめ砂糖と牛酪(バター)を塗ったロッテ(麺麭)と書いているもののことのようで、このフードコートのロティとも違うようだ。

インド系の人がロティを作る
[これもロティのようだが、タイのロティとはだいぶ違う 鍋にはカレーが入っています]

フードコートにはざら紙で三角形に包んだものも売っていた。
外からは中身がどんなものになっているのかわからないので、近くにいる人に「これは何か?」と尋ねたところ、「ナシレマ」とのことであった。
ナシレマならば知っているマレー庶民の代表的な朝ごはんで、ココナツミルクで焚き上げたご飯に、チマチマしたおかずとトウガラシペーストをあしらったもので、私も食べたことがある。
会計をしたら2.10リンギット。
財布にはコインもバリエーションとして加わった。

ナシレマ
[これで2.10リンギット、安いか高いか、まだ金銭感覚がつかめない]

ナシレマの包を開くと、四角錐型のおにぎりのような形にご飯が固められており、頂上に半分に切った小ぶりな茹で玉子と、チリペーストが載っている。
これをビビンバのように混ぜて食べる。
ココナツミルクで炊いたことになっているが、ココナツミルクの味はほとんどしない。
半分の茹で玉子だけかと思ったら、玉子の下に干した小魚も入っているようだ。
野菜がないのが気になるけど、この手のチリペースト混ぜご飯は嫌いではない。

バトゥパハ行きのバス
[バトゥパハ行きのバスはS&S Internationalと言う会社が運行していた]

バトゥパハ行きの8時のバスは、空港からのバスよりも豪華で、車内は通路を挟んで一人掛けと二人掛けのシートが並んでおり、前後の間隔もゆったりしている。
ほぼ満席で出発。
タイの長距離バスだと車内でビデオの上映などしてうるさいのだけれど、そのようなサービスはなく、WiFiも飛んでいない。
飲み物のサービスもやはりなくて、移動時間はひたすら睡眠補給に充てることにする。

3時間半ほどでバトゥパハに到着。
泊まる宿はインターネットでシルバーインと言う安いビジネスホテルのようなところを2泊分予約してある。
バトゥパハの旧市街は比較的小さいので、バトゥパハだけなら半日もかからずに歩け回れそうだけれど、今回はバトゥパハが発展する元となったスリメダンへ行ってみたいと思っている。
スリメダンは石原産業発祥の地で、大正時代から昭和初期にかけて良質な石灰石を産出していた。
鉱山は露天掘りで、シンパンキリ川を使って水路で河口まで運び、八幡製鉄所へ船で送り出していたそうで、水路の河口に位置していたのがバトゥパハ。
当時スリメダン産出の鉄鉱石は日本の鉄鉱石需要の40%ほども占めていたこともあったそうで、ちょうど金子光春が滞在していたころがその最盛期だったようだ。
金子光春も、シンパンキリ川を遡上してスリメダンへ行っている。
そのスリメダンへ行ってみたいのだが、バトゥパハからどうやって行けるのか、事前にネットで調べたけれども確認できなかった。
既にシンパンキリ川を遡行する水運は途絶えており、水路で向かえるとは思っていなかったけれども、バスの便くらいはあるだろうと考えていた。
クアラルンプールのバスが到着した長距離バスターミナルの近くに、近郊を結ぶローカルバスの発着所があった。
アエルイタム、ヨンピンなどマレー蘭印紀行にも登場する地名を行先としたバスが発着している。
パリスロン行きのマイクロバスもあった。
パリスロンは金子がスリメダンへ向かう途中の船が、休憩をとったムーア街道とぶつかる水駅で、ちょうどスリメダンへの中間地点であったようだ。
そこまでいけば、またスリメダン行きのローカルバスがあるかもしれないと期待をしたが、バトゥパハのバス発着所で確認をしたらば、スリメダンにはバス便はないとのことであった。

パリスロン行きのバス
[近郊行きのローカルバス乗り場 時刻表や路線図などは掲示されてないようだった]

バトゥパハからスリメダンまでの距離は約20キロほど。
ペナン島でも、ランカウィ島でもレンタルバイクで走り回ったことがあるので、バスがダメならバイクを借りてみようと考えた。

バトゥパハの第一歩

ホテルへ向かって歩き始める。
昔と同じで、古い町並みが残っている。
建物の2階部分が歩道へせり出して、歩道を覆う屋根のようになっている構造の建物が多い。
台湾でもよく見られる中国南方の建築様式で、金子光春も軒廊(カキルマ)と呼んで親しんでいる。

軒廊(カキルマ)
[昭和初期の面影を残す軒廊、台湾では亭仔脚と呼ばれていたはず]

カラフルな棟割長屋
[軒廊の上に建物の二階が張り出しているのがよくわかる]

シルバーイン
[周辺の建物より高くそびえているのがバトゥパハでの宿 シルバーイン]

シルバーインは簡単に見つけられた。
見た目はビジネスホテルのようであったが、ロビーは古い旅社のような印象。
エレベータで指定された部屋のある4階に足を踏み入れると、古い船の内部を中途半端にイメージしたような印象。
それでも、部屋の中はこぎれいで、きちんと掃除も行き届いている。
木製の机はだいぶ古びていたけれど、机の上には飲水機とインスタントコーヒーまであった。
水が好きなだけ飲めるのはうれしい。
狭い部屋の大半をベッドが占めているが、ダブルベッドではなく、シングルベッド2台を並べたハリウッドツイン。
天井は高くて、シャンデリアまで下がっている。

狭い部屋にベッドが2台
[部屋の大半をベッドが占めてます]

部屋の照明はシャンデリア
[天井からはシャンデリアがぶら下がっています]

部屋に荷物を置いてすぐにまた外へ出る。
スリメダンへ行くバス便がないとなるとバイクを借りたいのだけれど、バイクはどこで借りられるのかわからない。
ちょうど宿の隣にバイクの修理屋があったので、バイクを貸してくれないかと頼んだのだけれど、あっけなく断られてしまった。
しかし、まだまだ望みは捨てずに、街を徘徊して、バイクを貸してくれそうな店を探してみる。

4階からの眺め
[4階から眺めたバトゥパハの街]

しばらく歩いて、旧市街も途切れたところに広場のような場所があり、なにやらモニュメントが立っている。
モニュメントをよく見ると、石を砕いている巨大な手首だった。
バトゥパハとは石切り場と言う意味のようなことがどこかに書いてあったし、金子光春もバトゥパハの町はずれに石切り場があると書いていた。

バトゥパハのモニュメント
[バトゥパハのモニュメント 説明されなければ奇怪なオブジェ]

バイクを売る店や修理屋など、軒並み交渉をしてみたけれど、どこも貸してくれるところはない。
リゾート地でもないバトゥパハにはバイクのレンタルなどと言う需要などないからなのだろう。
それでもバイクの店を探し回ったので、狭いバトゥパハの旧市街をほぼ一通り歩き回ることができた。
確かに1930年ころの建物がまだまだたくさん残っている。
ちょうどスリメダンの鉄鉱石搬出の最盛期のころの建物群なのだろう。
まだまだ現役の建物もあるが、すでに廃屋となってしまっているものもある。
風致地区として保存をしているようにも見えないので、そのうちかつてのバトゥパハの繁栄を偲ぶことができる建物群は消えてしまうのだろう。

屋根に木が生えてる
[この建物の屋根には木が生えてるけど、温暖化防止の屋上緑化ではなさそう]

壁面に木が生えてる
[壁面にまで木が生えて、もう廃屋の様です]

ほぼぐるりと回ったところで再び宿の前に戻ってきた。
宿の裏に車の修理屋があり、その修理屋で中古の折り畳み式自転車を売っていた。
私の手持ちのリンギットでギリギリ買える金額、ここで自転車を買ってしまったら、オケラになってしまう。
それに自転車などバンコクに持ち帰るわけにもいかない。
この中古の自転車は日本のもののようだけれど、どのような経緯でここへ来たのだろうか?
バイクがダメなら自転車と言う手もある。
片道20キロはちょっと遠いけど、できない話ではない。
修理屋の主人に、自転車を貸してもらえないかと交渉をしたところ、まぁまぁ座れよと言うことになった。
本当は自転車よりバイクを貸してくれる店を探しているのだが、見つからないと言ったところ、「そうか、そうか、なら友達に聞いてやるよ」と言ってどこかへ電話をかけ始めた。
これは瓢箪から駒かもしれない。
友達はすぐ来るからと言うことで、その間ずっと主人と話をする。
「どこから来た?」「タイのバンコク」
「タイは景気がいいだろう、マレーシアはダメだ、通貨もどんどん下がっている」
「大きなバイクがいいんだろ」「いいえ、カブかスクーターくらいで、、」
「プーケットまでバイクで行ってきたんだ、14時間かかったね」
「プーケットは物価が高いし、ぼったくりが多い」
そんな感じで、ほとんどが主人側のペースに押されっぱなしで話していると、友人と言うのがやって車で来た。
そしてまたプーケットへ行った話。
この友人を含めてバトゥパハで大きなバイクを楽しんでいるサークルがあって、そのサークルでのツーリングだったらしい。
店の奥さんも出てきて、コーヒーとグアバをごちそうになる。
しかし、バイクも自転車も借りられなかった。
ここには泥棒が多いんだよ。
その辺に止めて、ちょっと目を離したすきに持ってかれてしまうんだ。
次来る時は、バイクの後ろに乗せてってやるから。
と言うことで、油臭い修理屋でのティータイムは終わった。

修理屋でティータイム
[修理屋の主人、やたらと気は良くて、話好きなんだけど、私の目的は達成できなかった]

まだ昼食を食べていなかったので、宿から1ブロックほどのところにあるワンタン麺の店に入る。
店構えは中国人街のどこにでもあるうな大衆食堂で、二間ほどの間隔で棟割りになっているタウンハウス風の長屋の通りに面した側に調理場があり、店の入り口にはドアなどなく、全面開放状態。
そのためエアコンなどはなくて、天井から巨大な扇風機がぶら下がっている。

ワンタン麺屋 張亞泗
[張亞泗と言う屋号のワンタン麺屋 このタイプの大衆食堂はバンコクにも多い]

入り口で「雲呑麺」と言うと、汁ありか、汁なしかを聞かれ、汁なしを注文してみる。
店内でワンタン麺を食べている人のほとんどが汁なしのようだ。

出てきた汁なしワンタン麺は、和え麺のような感じで、タレのような濃い目のスープが皿の下に溜っている。
麺は香港風のエビ麺で腰が強い。
ほんのちょっとの青菜と、なん粒かの豚肉入りワンタン、そしてたくさんのシャーシュー。
モスリムの国、マレーシアでも華僑の人たちは盛大に豚肉を食べているようだ。
味の方は、かなり満足度が高い。
タイにもこんなワンタン麺の店があるといいのだが、タイの華僑とマレーシアの華僑とでは出身地が違うようだ。
さっきの修理屋の主人も福建語をしゃべっていたし、ここは香港風の麺だから、粤語の人たちの店かもしれない。

汁なしのワンタン麺ではあるけれど、チャーハンのスープのように、スープが別にお椀で付いてきたのにも感動してしまった。

汁なしワンタン麺
[汁なしワンタン麺、かなりのボリューム バンコクのバミーヘーンの倍くらいありそう]

会計は5リンギットであった。
タイバーツに換算したら、40バーツにも満たない。
ものすごいコストパフォーマンス。
私の記憶では、マレーシアの方がタイよりもずっと物価が高かったように思っていたが、この手の食べ物に関してはマレーシアの方が安いのかもしれない。
毎食ともこのワンタン麺でも良いと思るほど気に入ってしまった。

お腹もいっぱいになり、またまた旧市街をぶらぶらと歩く。
趣のある古い建物が多いので、ついつい携帯電話で写真を撮りまくってしまう。
棟割長屋風の2階建ての建物が多く、どの建物にも通りに面して軒廊がある。よく似たデコレーションの店屋が並んでいても、それぞれ色違いだったりする。

果物屋の軒廊
[台湾の軒廊は段差が多かったり、バイクの駐輪場となっているところが多いが バトゥパハの軒廊は歩きやすい]

また、建造年を大きく書き出している建物も多く、その大半が1920年代から1930年代となっている。
たぶん、1941年にはスリメダン鉱山が閉山してしまい、そのひざ元にあったバトゥパハもそのころから寂れたのではないだろうか。
更に続いて戦争があり、華僑の街であったバトゥパハでは随分と犠牲者も出たらしい。

中華旅店
[古い旅社、金子光春風に言ったら支那宿ということになるだろうか]

南亜園茶餐室
[交差点に面した部分のデコレーションが凝っている 南亞園茶餐室とある この手の軽食堂がたくさんある]

1920年竣工
[1920年にできた建物らしい 飾り毛はあまりないが均整がとれている]

古い建物の中には、屋根から木が生えてしまっているようなものもあったが、それどころか建物全体が木に呑み込まれてしまっているような廃墟もあった。
ここまですごいと観光名所になりそうだけれど、バトゥパハでは観光客の姿を見かけない。

廃墟
[廃墟となるとすぐに植物が茂ってくるようだ]

怪獣のように建物を飲み込む植物
[こんなになるまでにどのくらいの時間が経過したのだろうか]

旧市街の表通りや路地を歩いていると、あちらこちらでネコを見かけた。
やはりネコを見ると写真に撮りたくなってしまう。
バトゥパハのネコたちは野良ではないのか、低いアングルから写真を撮ろうとしゃがみ込むと、嬉しそうに尻尾を立てて、こちらに向かって歩いてきてしまう。
バトゥパハのネコたちは幸せな暮らしをしているようだ。

おすそ分けをもらう猫たち
[バトゥパハの人たちはネコにやさしいようだ]

建物やネコの写真を撮るだけではなく、バイクの修理屋を見かけると、往生際悪く、レンタルバイクの交渉を試みる。
もちろん全敗であった。
しかし、バイクではなく、自転車屋を発見し、ものは試しと、自転車の貸し出しを依頼してみる。
すると、若い店の主人はしばらく考え込んでいたが、貸し出しOKと言う。
貸してくれるのは、ママチャリながら26インチのギア付き。
程度はまずまずと言ったところ。
日本の登録シールが張られたままになっており、ひょっとして盗難車かと疑ったが、リサイクルと言うシールも張られていた。
借り賃は明日の夕方までと言うことで、20リンギット。
ただし、保証金を兼ねて150リンギットを預かるとのこと。
これでバトゥパハでの足が確保できたわけだ。
嬉しい。

レンタルできた自転車
[これがバトゥパハで探し出したレンタサイクル]

自転車を借りたすぐ近くに金子光春がバトゥパハで滞在していた日本人倶楽部が入っていた建物がある。
「マレー蘭印紀行」ではこの建物の3階角部屋に起居していたことになっているが、「西ひがし」では2階となっている。
建物は3階建てで、果たしてどのあたりが部屋だったのだろうかと考えてみる。
たぶん、3階ではないかと推測される。

もと日本人倶楽部のあった建物
[バトゥパハのあちこちのブログなどで紹介される日本人倶楽部だった建物]

根拠としては、マレーシアは英領で、地上階をグランドフロア、2階がファーストフロア、3階がセカンドフロアと言っていただろうから、西ひがしの2階とは、セカンドフロアのことではなかっただろうか。
また、建物の角の屋上のドームが立っている。
このドームの下に階段があったのではないだろうか。
西ひがしを読むと、金子光春は「二階の上の、物干し場になっている屋上のテラスにあがっていった」とも書いているので、ドームの真下あたりが金子が滞在していた部屋ではなのだろうか、それとも建物の端に位置していたのだろうか?

日本人倶楽部屋上のドーム
[ドームの屋根にも草が生え始めている]

古い建物ではあるが、柱にはレリーフが施されていたりして、こんな建物をホテルにでも改装したら、素敵なホテルになりそうな気がする。
いや、改装などしないで、この古びたままでゲストハウスにでもしたら、もっと魅力的だろう。

日本人倶楽部と通りをはさんだ向かい側の建物
[日本人倶楽部と通りを挟んだ向かい側には赤い3階建て]

日本人倶楽部の向かい側はバナナ屋
[向かい側のバナナ屋には各種バナナが売られていた]

バイクならばより短時間に移動ができて、しかも楽だろうけれども、自転車ならバイクよりも細かく動き回れてるだろう。
金子光春は毎日市場を冷やかして歩いていたようだけれど、それと同じ市場かわからないが、日本人倶楽部の周辺には市場がいくつかあった。

日本人倶楽部の裏は市場
[市場の隣は1928年の建物で魚商公会とある]

スリメダンは明日挑戦するとして、マラッカ海が見えるところまで行ってみたい。
金子光春はバトゥパハはむ「小さな市で、センブロン川の川上の外れから、川下の海の見えるところまであるいても、二十分か三十分ほど」と「西ひがし」に書いている。また「マレー蘭印紀行」の中では「バトゥパハ河の川下の風景はとりわけ忘れがたいものであった」とも書いてある。何がそんなに忘れがたくさせたのかは、マレー蘭印紀行だけではわかりにくいが、きっと西ひがしに書かれている白蛇の精、金子が白素貞と呼んでいる華僑女性との出会いの場であったからではないだろうか。
西ひがしでは、その場所、関帝廟でのことに多くのページを割いているし、文章にも熱がこもっているように感じられる。
柳条溝事件をはじめとして当時の緊迫する日中関係、特に南洋に於いての日本人と中国人の間の憎悪のただ中にあって、「僕は、日本人であること、東洋鬼であることを忘れて、人間と人間として、あいての仲間入りしたかった」と書いている。
その関帝廟を探してみたいと思った。

1924年の建物
[こちらも1924年の建物 ジャランジャランする金子光春も目にしていたことだろう]

関帝廟は川沿いにあり、川下側と言うことしかわからないが、海が見えるところまで歩いても20-30分の距離なら、自転車でなら訳ないだろう思ったのだが、どうも違っていた。
Google Mapで周辺の地図を見てみるが、河口までは10キロくらい離れている。
でも、川下へしばらく向かえば、海は見えなくとも、やがて関帝廟は見つかるだろうと考えた。
街中にこれだけ古い建物が残っているわけだし、時間が流れても寺廟は消えてしまったりしないだろうと考えた。

結論から言うと、関帝廟は見つからなかった。
たぶんこの辺ではないかと思われるところに、中国風の廟はあるにはあった。
立派な大きな廟で「四海龍王大伯公」とある。
つまり、関羽様を祀る廟ではなく、竜王を祀っている。
しかも、この廟が建立されたのは1981年と書かれていたから、金子光春が白素貞の思い出を刻んだ関帝廟ではないはず。

四海龍王公伯廟
[四海龍王公伯廟はまるで小さなテーマパークのようだった]

それでも、この廟はバトゥパハの川下に位置して、マングローブがせり出している川沿いの風景は、金子が眺めた景色に近いものがあるのではないかと思った。

廟から眺めたバトゥパハ河
[廟の裏はゆったりと流れるバトゥパハ河となっている]

もちろん、川幅も広いのではあるが、河口まではまだまだ距離もあり、途中湾曲もしているようで、とてもここからは海など見えない。
関帝廟探しは諦めて、河口まで自転車のペダルをこいでみることにする。

作り物のワニ
[廟の中には大きなワニのオブジェ]

町はずれからは丘が連なり、坂道となって、自転車だとやはりなかなかキツイ。
ギアを低速に落としても、大汗をかいてしまう。
そして、なんとか坂を上りきった所で、はるか遠くにマラッカ海が見えた。

遠くにマラッカ海を望む
[丘の上からは遠くにマラッカ海が見えた]

もちろん、丘には人家はなく、殺風景なところで、関帝廟もありそうにない。
しかし、本の中の説明によれば、関帝廟のあるあたりに鉄鉱石を運ぶ荷船(トンカン)の造船所があったようだ。
この丘からバトゥパハの街の方を振り返ると、造船所が見えた。
しかし、やはり関帝廟が近くにありそうには思えないし、白素貞が兄だと紹介した大工が住んでいたようにも思えない。

現在のバトゥパハにある造船所
[丘から見える造船所では大きな貨物船を作っていた]

丘の頂上付近はバトゥパハの名前の由来ともなった石切り場があり、重機で石を切り出していた。
金子光春は「砥いろの粉をかぶった石切場附近、ISK事務所につづく曳船造船所附近を、冬枯れを抱いて、寒気におののきさえして、私はさまよい歩いた」とあるので、やはりこのあたりまで歩いていたのかもしれない。

石切り場
[バトゥパハの名前の由来ともなった石切り場]

丘を越えて、さらに河口を目指して進むと、フェリー乗り場を示す看板が出てきた。
その看板に従って脇道に入って行くと、インターナショナルスクールのような学校に隣接して、フェリー乗り場があった。
フェリーはバトゥパハ河の渡し船なんかではなく、インドネシア、スマトラ島への国際航路のようで、金網越しに高速艇のような船が桟橋に係留されているのが見えた。
対岸のスマトラ島はセラトパンジャンと言うところを結んでいるようなのだが、セラトパンジャンなどと言う地名は今まで聞いたことがない。
時間があれば、ここからマラッカ海峡を越えて行ってみたい気もする。

スマトラへ渡る高速フェリー
[金網で仕切られた制限区域の奥にはスマトラ行きの高速フェリーが見える]

このフェリー乗り場はまだ河口ではないようで、少し戻って本道を進んだところ、こんどは正真正銘の河口に出た。
小さいながらもビーチがあり、公園のようになっていて、近所の人たちだろうか、家族連れで遊びに来ている人たちが何組もいた。
岸辺にはトキワギョリュウの並木も並んでいる。

小さなミンヤクベクビーチ
[バトゥパハ河の河口にはミヤンベクビーチがあった]

バトゥパハ河の河口
[バトゥパハ河の河口はとても広くて、海と河の境目がわからない]

観光客相手に、フライドチキンや清涼飲料水を売る露天商もたくさん出ている。
そうした露天商は、華僑ではなくマレー系の人が多いようだ。
ほとんどが、その場ですぐ食べられるものを売っているのだが、生きたザリガニも売っていた。
マレーシアのザリガニは日本のものよりも黒っぽいようだ。
ザリガニを炭火で焼いて食べさせるようでもないし、とてもその場で食べるものとは思われないが、どうしてこんなところで売っているのかと不思議に思えた。

ザリガニ売りのマレー女性
[マレーシアの人たちはザリガニを食べるのだろうか]

アイスクリーム売りがバイクでやって来た。
ちょっと疲れたし、汗もかき、甘いものも欲しかったので、2リンギットでコーンに3色のアイスクリームを盛り付けてもらう。
しかし、半分溶けかかっているようなアイスで、コーンを受け取った瞬間から、黄色、空色、ピンクの液体が、どんどん滴り落ちてくる。
味は化学薬品的な味がしたが、ドリアンのような風味もあった。

マラッカ海峡
[逆光でマラッカ海峡を撮ったら夕景みたいになってしまった]

ミンヤクベクビーチの公園にもネコ
[ここにもネコがいて、バイクで来た家族連れからフライドチキンのおすそ分けをもらっていた]

周辺を少し自転車で走ったらば、華僑系の小さな集落があった。
住民のほとんどが中国系のようで、しかも漁業従事者の多い漁村のようであった。
入り組んだ路地に南部中国風の家屋が集まっており、台湾の鄙びた漁村に似ている。
海鮮料理を食べさせる食堂もあった。

華僑の漁村
[タイではあまり見かけないような気もするがマレーシアでは中国移民の漁師村が多いようだ]

ここまで、中国系のマレーシア人のことを華僑と書いてきたけれど、厳密には彼らはマレーシア国籍の中国系住民で、「華人」と呼ばれるべきではあるけれど、やはり華人よりも華僑の方が馴染みがあるので、そのまま華僑とさせていただく。
その華僑が、マレーシアはどこへ行っても多い。
特に街中ではマレー系よりも断然多いし、このような田舎でも農村以外は華僑が多いようだ。
そして、学校もマレー系と華僑系では別のようで、中華国民学校と言うのがあちこちにある。
タイも華僑の多い土地ではあるけれど、華僑たちもタイ人に同化していて、華僑系の学校などは目立たない。
マレーシアは民族の二重構造、またはインド系まで含めて三重構造の国のようで、国としてはバランスの舵取りが大変そうに思われる。

漁村内の道教寺
[集落の中には道教の寺院があった]

漁村の黒猫
[うちのネコを思い起こさせるような黒猫]

自転車でまた丘を越えてバトゥパハへ戻る。
帰り道では向かい風が吹いて、よりペダルが重たく感じた。

30分少々で西日に照らされたバトゥパハへ戻ってきた。
金曜日の夕刻ではあるけれど、旧市街の街並みには活気が感じられず、行き交う人も車の往来も少ないので、なかだか映画のセットの中にいるような感じがした。

西日に照らされた日本人倶楽部
[西日に照らされた日本人倶楽部]

1931年の建物 レリーフに象や魚
[1931年の建物 レリーフに象や魚]

両サイドに先立たれた棟割長屋
[こちらは両サイドに先立たれた棟割長屋のようだ]

こちらも植物の攻撃にあっている
[こちらも植物の攻撃にあっている ]

今日のところは自転車乗りもこれでお終い。
宿のレセプション隣の多目的ホール風物置空間に自転車を置かせてもらう。
なんてったって自転車泥棒に警戒しなくては、、
部屋へ戻ってシャワーを浴びて着替えをする。

宿の廊下の照明もシャンデリア
[宿の廊下の照明もシャンデリア]

清潔なバスルーム
[バスルームの掃除は行き届き、リネン類も上々]

すっかり陽が沈んで、夜になっていた。
夕食を兼ねて、ぶらぶらと歩き始める。

ゴミ箱の周りで猫たちが徘徊
[夜のゴミ箱周辺というのはネコたちにとって魅力的な場所なのだろう]

日本人倶楽部だった建物のすぐ裏の路地には、たくさんのネコたちがいた。
寝そべっているのもいるし、リラックスしているネコたちばかりで、警戒心の強いネコはいないようだ。
それに、どのネコも比較的若くて、5歳未満のネコがほとんどのように感じられる。
つまり、ネコたちは多いけれども、あんまり長生きはしていないのではないかと思える。
それと三毛猫の割合がタイより多いようにも思える。

日本人倶楽部裏の路地
[日本人倶楽部の建物の裏を走る路地]

路地のネコ
[路地でくつろぐネコ]

写真を撮ろうとすると近寄ってきてしまう
[写真を撮ろうとすると近寄ってきてしまうネコが多い]

三毛猫の親子
[三毛猫の親子]

静かでノスタルジックな街でネコを見ながら散歩をするのは実に楽しい。
夜道は薄暗いけれども、物騒な感じは全くしない。
金子光春が滞在していた当時は、どの華僑の家々でも、軒廊に食卓やイスを持ち出して、その家の家族や使用人たちの夕餉の光景が見られたそうだが、当世もうこのバトゥパハの旧市街では見かけない。
30年くらい前までは、台湾でもバンコクでも、中国系の人たちが夕涼みを兼ねてか家の前で夕食をしているのをよく見かけた気がするが、たぶん今はどの家庭にもエアコンが普及して、夕食は涼しい屋内で食べ、軒廊にテーブルを並べたりしなくなったではないだろうか。

日本人倶楽部の前にもネコ
[日本人倶楽部の前にもネコ 路上に出てるので、見ててハラハラする]

しかし、食べ物の屋台は辻々に出ているし、大衆食堂などは、軒廊どころか車道にまではみ出してテーブルを並べている。
そんな路上の簡易食堂で炒米粉を食べる。
バトゥパハでの金子光春の食生活は「西ひがし」によれば、「朝は、川沿いにあるアラビア人の店で、例の雲呑の皮のような主食にバターを塗り、濃いコーヒー一杯ですませ、昼は、マーケットで、小さな焼きまんじゅうを食べて、爺さんがびしょびしょとそれも小さな茶碗についでくれる茶を飲む。夜も町なかの中国人の店で米粉(ミーフン)をゴリンしたものを食べておく」とある。
つまり、金子光春の夕食の常食であったミーフンゴリンをこれから食べようというのである。

道端の屋台風大衆食堂
[あちこちの路上に屋台のような大衆食堂が営業していた]

炒米粉は玉子とモヤシと干しエビが入ったシンブルなものであった。
これにスダチのようなタイでも馴染みのマナオを絞っていただくと、干しエビが香ばしく、なかなか乙な味である。
昼に食べた汁なしワンタン麺のようにスープが付くわけではなく、ビールでも飲みながら食べたらさぞ旨いだろうと思うのだが、周りを見回してもビールを飲んでいる人などいないので自重する。
なお、「西ひがし」では夕食のビーフンは炒めたゴリンとなっているが、「マレー蘭印紀行」では汁ビーフン、それも青菜や豚、魚介の入った具だくさんの米粉湯のようである。

焼きビーフン
[シンプルな炒米粉は5リンギットであった]

玄天上帝を祀る廟
[玄天上帝を祀る廟]

まだ何か食べ歩きをしたいと思いながら、夜道を歩いていたら、中国式の汁粉屋が路上に出ていた。
汁粉と言っても、日本のゼンザイなどとは違って、小豆があんまり入っていない、サラサラの甘い汁に、粒小豆が沈んでいるだけのものであったが、夕食後に食べるにはそう悪くもなかった。
それに1リンギットと格安であったこともうれしい。

紅豆湯
[あっさりとした小豆汁の紅豆湯 これとは別に緑豆を使ったものもあった]

バンコクからウイスキーのミニチュアボトルを持ってきているので、部屋にもどってウイスキーを少しひっかけて寝ようと思う。
宿へ戻る途中にパン屋があり、菓子パンなども売っている。
チキンカレーのパンを見つけたので、一つ買ってみる。
これも1リンギットと格安。
私はカレーパンが大好きである。
バンコクではカレーパンなど食べる機会がなかなかないので素直に喜ぶ。
カレーパンとはいっても、日本のカレーパンのように香ばしくドーナツ風に揚げてあるわけではなく、アンパンの餡の代わりにカレーを包んだようなカレーパンであった。
で、味の方だが、アンパン風にしっとりしたパン生地には若干抵抗を感じたが、中身のチキンカレーの方はなかなかのものだった。刺激的にスパイスが効いていて、ウイスキーの肴として申し分なかった。

イミテーション
[ヘッドボードにかかるカーテン、よく見たら絵に描いてあるだけ]

つづく

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