旧チェンマイ通信のページへようこそ。 (2001年から2004年まで、3年半の記録)

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7月10日 水曜日    天気は晴れ

 以前、旅行会社勤務当時に飲み会の席で、隣に席に色白で男性社員に人気のある女子社員がついた。その時、言わなきゃイイのに「色が白いは、百難隠す」なんてつい口を滑らせてしまった。考えてみれば、彼女に百難どころか、難と呼べるようなものもなかったのだが、「百難ってどこのことですか!」と怒られてしまった事がある。しかし、タイでは「色が白いは美人の条件」であって、この汽車で乗り合わせて、私の前に腰掛けていた女子大生風の女性は南部タイ人らしく色が黒かった。話し方もオシトヤカで(ただし携帯電話で話している声は日本の女子高生並だった)、愛嬌があった。しかし、色白が多いチェンマイの女子大生と比べると、残念ながら、損をしているように感じさせた。その彼女が降りたのはトンソン駅で、午前4時過ぎであった。どうやら夜中のうちに汽車は遅れを取り戻したらしく、定刻に戻っている。

 朝を迎えた寝台車は、ベッドが座席に作りかえられ、止まる駅ごとに乗客が降りていく。寝台車なので途中から乗り込んでくる客はなく、降りる一方である。終着のスンガイコロクには定刻の11:20に到着した。

 今回も出発準備が慌しく、ちゃんと荷物を作らなかったので、カメラとビザ用の写真を持って来るのを忘れた。カメラは致し方ないとして、ビザ用の写真は必需品だ。スンガイコロクの町に出て写真屋を探す。駅から200メートルほど先で写真屋を見つけてポラロイドで撮影してもらう。

 バイクタクシーで国境へ急ぎ、タイを無事出国。幅が100メートルもない橋を徒歩で渡って、マレーシアに入国。マレーシアの入国で続きで、自動改札機を発見した。IT先進国を目指すマレーシアは出入国審査の自動化をしたようだ。まだマレーシア人だけだが、パスポートを電車の切符のように自動改札に通すだけで入国審査をしてしまう。日本も昨年ようやく日本人の出入国カードを廃止したばかりだが、自動改札化の話しはまだ聞いたことがない。偽造パスポート問題など複雑な問題もあるのだろうが、良いシステムだと思う。

 マレーシアの通貨は手持ちが60リンギットほどしかない。どこかで両替しなくてはと思って歩いていると、立て札があり免税店まで右へ100メートル、銀行は150メートルとあった。よし、銀行へ行って両替しておこうと歩き出したが、銀行まで300メートルはあった。さらに悲しい事に、辿り着いた銀行は国境の銀行なのに、外貨の両替は扱っていないという。さらに200メートルほど先に大手銀行のメイバンクがあるから、そこへ行きなさいと教えてくれる。時刻は午後1時少し前。これならなんとか今日中にビザ申請ができそうだ。メイバンクへ向かって歩き出すと、両替の看板が雑貨屋の前に出ていた。両替率は1ドルが3.7リンギットとなっている。しかし、国境の雑貨屋での両替率が銀行より良い訳ないと勝手に判断し、メイバンクへ急ぐ。メイバンクはバスターミナルの先にあった。両替率を見ると3.765となっている。良かったやっぱり銀行まで来て正解だったと喜んで、窓口にドルの紙幣を差し出したら、ここではドル紙幣は扱わないと言う。「では、このレート表は何なんだ?」と質問すると「トラベラーズチェックなら両替できる」と訳のわからない事を言う。しかし、まぁいいやと100ドルのチェックを切ると、やたらと時間がかかった。まず、発行元の住友銀行と言うのが、メイバンクのこの支店の資料には存在しないらしく、本店へ問い合わせている。そして、現在は三井住友銀行になっている事をようやく確認し、次々にいろんな書類にメモを入れたりして、両替手続きだけで30分近くかかってしまった。そして受取ったマレーシアのお金は366.35リンギットしかない。確認すると、チェックからの両替手数料が一律10リンギット、印紙税が0.15リンギットだそうだ。待たされた挙句に、手数料で少し損をしてしまった。

 コタバルの街へ行くバスにも乗り遅れて、次のバスは1:45発である。それだとギリギリだ。コタバルまで1時間の道程だ。さらに悪い事に、出発間際になって下校する高校生の一団が乗り込んできて、バスは超満員になった。走り出したバスは、停留所ごとに停車しては、高校生たちを降ろしていく。コタバルまで40キロとの標識が出ていた。あぁ頭が痛くなってきた。バスから降りる時もマレーシアの高校生たちは急がない。ゆっくりゆっくり降りる。

 高校生の一団が降り切ったあたりからバスはスピードを上げて、コタバルの街には2:50に到着。バスからオンボロのいすずジェミニのタクシーに乗り換えてタイ領事館に急行。3時1分前に到着。入り口に書かれた受けつけ時間を見たらば、3時半までとなっていた、、。なんだ、もう少し余裕があったんだ。小さな領事館に靴を脱いであがり、申請書をもらって記入する。書式は東京のタイ大使館のものとちょっと異なるが、内容はほぼいっしょであった。申請書を提出すると「どんな種類のビザが欲しいんだ?」と聞いてきたので、「ノンイミグラントのビジネスで1年間マルチ入国可能なもの」と答えたらば、「それなら労働許可書が必要だ」と言う。「いや、タイで働いていないし、賃金も受取っていないから、労働許可書なんて持っていません」と答えたらば、それならビジネスビザではなくて、「ツーリストビザで充分だろうダブルエントリーを出す」と言う。「観光目的じゃないし、アパートで家族と住んでいるんだけど大丈夫ですか?」と質問したら「マイペンライ(問題ない)」と言われてしまった。本当は、ノンイミグラントのビジネス・マルチをもらうまで、コタバル、ペナン、クアラルンプール、シンガポールのタイ領事館を行脚しようかと思っていたが「マイペンライ」の一言で、この旅はコタバルで終了させる事にしようと言う気になった。ビザ代として66リンギットを支払って領事館を後にする。

 今晩泊まるべき宿がなかなか見つからなかった。私はワイシャツに黒の革靴。何軒かのビジネスホテル風の宿に宿賃を聞くが、どこも1泊40リンギット以上。私の予算を超えている。思い余ってゲストハウスと書かれた建物に足を向けたが、入り口に無造作に脱ぎ散らかされたサンダルを目にし、門をくぐるのを止めた。入り口近くで大きなリュックサックを背負った白人のカップルとすれ違った。「あぁここに泊まらなくて良かった」と思った。私はケチケチ白人旅行者御用達のゲストハウスと膚があわないのである。彼ら同様かそれ以上の私であるが、地元の社会と隔絶されたゲストハウスより、いわゆるシナ宿とか旅社とよばれる木賃宿が落ち着ける。今晩泊まることにした巴都旅社もなかなか凄い旅社であった。食堂の4階の小部屋で、オンボロのツインベッド2台と天井には扇風機、トイレは共同。しかし、これでも25リンギット。早くマレーシアからタイへ逃げ帰りたくなった。

 街を歩き回り、バスターミナル裏に集まった夜店食堂をひやかしていると、コーランの読教が響いてきた。屋台の人たちは、急いで屋台の客を追い出し、店じまいをする。これが夜7時半。そして、この屋台場のある広場からみんな出ていき、広場は屋台が並ぶだけので無人となった。お祈りの時間に、飲食をしたり、商売をするのはイスラムの教えに反するのかもしれない。8時に読教が終わると、広場に再び人が溢れ始めた。それを見届けてから、宿1階の食堂で夕食を取ることにする。そういえば、この華僑経営の食堂でもそうだが、この街ではビールをまるで見かけない。コタバルはイスラムの教義に厳格な街なのだろう。昨年末に行ったペナンなどは、値段は高かったが、どこでもビールは売られていたし、大きな看板もあった。

 宿の階段を登ると番台には、華僑経営者とおぼしき、男性が座っていて「おはようございます」と声をかけてくれた。私が「夜は『こんばんわ』ですよ」と教えると紙にメモをして、何度か「こんばんわ、こんばんわ」と繰り返していた。私と比べてもあまり英語が得意そうではなく、私が北京語で話しかけると、とても嬉しそうに、機関銃のように話し始めた。そういえば、この華僑の男性に限らず、マレー人たちもコタバルの人たちは英語が苦手のようだ。ペナンやクアラルンプールでは、マレー語以上に英語を使って話していて、シンガポールのように感じたのだが、言葉に関してもコタバルは異質な感じがした。

朝食
ハジャイの駅で肉マンとトウモロコシ餡のアンマン。そしてヤラーの駅でチキンのサフランライス。
昼食
巴都旅社1階の食堂でマレー式ヤキソバのミーゴレンとアイスミルクティー。
夕食

バスターミナル近くでバナナのオムレツ風ロティとスイカジュース。そして巴都旅社1階の食堂でマレー式炒飯のナシゴレンと野菜と鶏肉のスープ。

 

 


メオダムきまぐれ日記
(2015年5月からのブログ)

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