旧チェンマイ通信のページへようこそ。 (2001年から2004年まで、3年半の記録)

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9月16日 木曜日    天気は曇り 夜に雨  

 結局、朝まで公開日記を書いてしまった。そして、7時には12階の部屋に住んでいるPさんが引っ越すので、荷物運びを手伝い、ピックアップトラックで雨の中出発するのを見送ってから朝食を食べる。が、さすがに朝食を食べた後には眠気が来て、ベッドへ逆戻りしたら、12時すぎまで寝てしまった。

 帰国にあたって、どのようなルートで帰国するかを考えてきた。貨物船による帰国の道は閉ざされてしまったし、中国を縦断するルートは最近の体力では不可能に近い。そこで、飛行機を使うとして、ガルーダ航空を利用してバリ島を経由し帰国するルートと中華航空を利用して台湾を経由して帰国するルートの二つが急浮上してきた。バリ島にはもう何年も行っていないが、あの独特の雰囲気は魅力的だし、お母さんや優泰にも体験させてあげたい。一方、台湾に関しては、大学時代に大変世話になった人がいる。チェンマイへ来てからずっと連絡を取り合っていないが、どうしているだろうか?是非お会いしておきたい。

 午後にK.K.トラベルへ出社してから、先の2つのルートに関して調べ始める。どちらもバンコクから成田への直行便を利用するのと大して金額的な差が無い。むしろ安いくらいである。そして、台湾で世話になった人へ電話をしてみる。しかし、対象となる電話番号が使われていないと言う。この人は台湾の山奥で温泉旅館を経営されていて、ひょっとして廃業してしまったのではないかと心配になる。こうした時にインターネットと言うのは実に便利な存在である。温泉旅館名で検索すれば、きっと見つかると思った。しかし、これには問題があり、温泉旅館の名前は「碧華荘」と言うのだが、日本語の漢字フォントで台湾の検索エンジンを調べても、全然引っかからない。日本の検索エンジンでも、該当無しと出る。
 然らばと、旅館名ではなく、その人本人の名前「高光華」で検索してみた。そうしたところ、いくつかのページに引っかかった。特に台湾高雄の日本人学校関連のページでいくつか該当が出た。しかし、そのページを読んでいて、思わず「あぁぁ」と声が漏れてしまった。碧華荘旅館は健在のようなのだが、あの学生時代に大変世話になった高さんは2002年に故人になったとある。何と言うことか、、。私は故人になられていたことにちっとも気が付いていなかった。昭和6年生まれの高さん、私は日本名の初男さんといつも呼んでいたのだが、2002年とは72歳で故人になられてしまったことになる。愕然とする。最後にお会いしたのは、1998年か1999年だっただろうか、優泰もまだ赤ん坊と同様で、初男さんは旅館の前でバーベキューをしてくれた。山の人たちが持ち寄ったドブロクや米酒をたらふくんで、二日酔いになってしまったことを覚えている。そして、翌朝には初男さん自らがハンドルを握って麓の町まで送ってくれたのである。
 大学の卒業論文は台湾で昭和5年に発生した「霧社事件」と言う、山岳民と日本人との間に発生した事件を調べた。当時は、この事件を良く知る初男さんのお母さんにあたる初子さんも健在で、色々な話を聞かせてもらえた。私の書いた論文そのものは、原稿用紙の枚数だけは700枚を越える分厚いものだったが、内容的には参考文献からの書き写しが多く、新鮮味も無い愚作であったのだが、在学中に10回以上も渡台し、論文の取材などよりも、さまざまな出会いや体験をさせてもらえた。初男さんにも山の中へ案内してもらったり、夜一緒に鍋を囲んで名産の紹興酒をご馳走になったりした。その初男さんが、故人になられてしまっていたとは、、。この霧社事件そのものは、台湾では最近の民主化の進展や、より台湾としてのアイデンティティの強まりに乗じて、台湾内で盛んに注目を集めるようになってきたが、私の感覚としては、本当の生き証人の人たちの感じてきた事件と、事件に対する昨今の取り上げ方との間に、乖離が生じているように思えていた。そうしたなかで、初男さんが去られたことはとても残念だ。そして、事件などとは関係無く、私にとって大事な人が亡くなられていたと言う事実がどうにも悲しい。
 温泉旅館のある場所一帯の電話番号の桁数が増え、局番の前に2を加えると言うことがしばらくして判ってきた。いつも電話をする時には、「もしもし、東京の太郎ですが、初男さんはいらっしゃいますか」とはじめに口にしていたのだが、今回電話番号を回し、先方につながったとき、何と言ったらよいか一瞬ためらってしまった。そして、中国語で「碧華荘ですか」と切り出した。その電話で初男さんが亡くなられていたことを再確認してしまった。病気で亡くなったとのことであった。

 夜、3週間ぶりにラジオ局に入る。この番組を担当するのもあと何回あるだろうか。特別未練も無いが、こうしてラジオでレギュラー番組を持つなどと言うのも、今後の人生で2度と無いことだろう。学校の教壇に立つことも含めて、考えてみると日本では絶対に考えもできなったことをチェンマイでは、色々とやらせてもらったのだなぁ。私も年をとった時、きっと一番に思い出すのは、このチェンマイでの体験のことだろうなぁと今から想像できる。この3年半、本当に楽しかった。

朝食
もりそば。
昼食
ナムプリックのチャーハン。
夕食
クリームチューとパン。

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メオダムきまぐれ日記
(2015年5月からのブログ)

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