旧チェンマイ通信のページへようこそ。 (2001年から2004年まで、3年半の記録)

このページ「チェンマイ通信」はIIJ4Uサービスのホームページ機能が2016年3月31日(木)をもって終了した関係で、chiangmaikk.comのサーバへ引っ越ししてきました。設定不備もあるかと思います。

 

HPご意見メール

11月15日 木曜日

このところ精神状態が良くない。原因はすべて学校に結びつく。優泰が学校に行くようになってからすべてが狂い始めたのだ。私たちがタイに来た目的は、優泰を英語の学校に行かせるためではない。タイで何年間かのんびりと暮らし、ゆったりとした気持ちをもって優泰を育てたいと思っていたはずだった。8月くらいまではうまく行っていたのだ。優泰も少しずつタイ語を覚え始め、タイの子供たちともすぐに仲良く遊べるようになってきた。しかし、今は違う。まず、優泰が英語を理解できなくても関係なく、アメリカで市販されているワークブックのコピーを宿題と称して毎日持って返され、それをお母さんとやるだけで学校から帰って夕食までの時間は潰れてしまう。ゆとりなどどこにもない。それに学校の教室内の雰囲気はタイを無視しているかのようだ。ロイカトンの時もそうだった。チェンマイの人たちが心待ちにしている夜祭りの期間中も平常授業をするので、子供にロイカトンを楽しませる事はできない。なのにハロウィンだの感謝祭だのといった私たちやタイには馴染みのない行事には力を入れている。

この様な事をWeb上で書くのも問題があるかもしれないし、見当はずれかもしれないが、今感じている事なので率直に書くと、この学校にはアメリカこそ最高ですべてであり、信じるべきはキリスト教のみと言った偏狭で偏見に満ちた先生がいる。そしてそれが低学年の子供にストレートに影響を与えている。この土地で世界中から集まった子供たちに教えて育てていこうと言った発想は見当たらない。

そのためだと感じているが、最近優泰はノートと遊ばない。無視しているような素振りをする。遊戯施設付きの食堂でも以前のようにタイの子供たちと遊ぶ事はない。きっとすでに心の中に「タイなど相手にするに足らない」といった感覚を植え付けられているのだろう。私は学校を選ぶ際にお母さんからの情報だけに頼りすぎたことを後悔している。そしてなにも学校に入れるのを急ぐ必要などなかったのだ。もっとノンビリ構えて、インターの学校だってチェンマイにいくつもあるし、タイの学校だって選択肢としてあったはずだ。

しかし、優泰は今の学校が良いと言う。アメリカだから良いのだと言う。そして私の精神状態が良くないときに、また慌てて子供の進路にかかわる事を決めるべきではないだろう。それに、来年度になれば長年チェンマイで教職についていたタイ人女性が校長として赴任するらしい。その時になれば学校の雰囲気も少しずつは変わっていくかもしれない。もっとよく情報を集めて見極めたいと思う。そして学校の指導的立場の先生たちとも話し合ってみようと思う。

と、そんなことを考えていて、昨夜は良く眠れなかった。だから気分的にすっきりしないし、前向きに考える方向付けをしたはずが、また逆戻りしたりしてイライラがぶり返す。こんなときは車の運転をすべきではないが、優泰を学校へ送らなくてはならない。慎重さが欠ける分、スピードを落として、ゆっくりと運転することにした。タイの良いところは運転がどうしようもなく下手な車や未熟な車が多い事で、そんな車には他の車が注意して避けてくれる。だから夜など飲酒運転の車が多い割りに飲酒による事故がそれほど多くないのかもしれない。それに市街地の道路では40キロ以上出している車は少ない。30キロ以下で走っても、後ろからまくられる事などない。

優泰を学校に送ってもすっきりしない気分でいると携帯電話がなった。嫌だなぁ、こんな気分のときに、東京から仕事にからむ相談事など受けたくない、、と、思いながら電話に出ると、国際電話ではなくバンコクでガイドをやっている友人からであった。今仕事でチェンマイ空港の到着ロビーに居ると言う。お客さんとは別の便に乗ったそうで、お客さんがくるまであと1時間以上あると言う。それならばと、さっそく空港へ会いに行くことにした。さっきまでの憂鬱な気分はこの電話で吹き飛んでしまった様だ。

到着ロビーにいた彼は、まただいぶヤツレた様だ。今回はタイの観光公社が各国の報道関係者を集めて観光宣伝記事を書いてもらう為のツアーだそうで、彼は日本からの2名を案内するそうだ。このところテロの影響でメッキリ仕事がなくなり、このようなたった2名でもバンコクからチェンマイに案内してこなくてはならないとぼやいていた。そして日当も1日1000バーツだそうで、運転手やボーイたちのチップなどの諸経費もガイド持ちなので、本来なら1銭の儲けにもならないが、仕事を干されないために続けていると言う。日本では格安ツアーが大流行だが、底辺を支えているもの立ちにしわ寄せが来ている。格安ツアーに参加して「ショッピングに連れまわされた」とのクレームが参加者からよくあるが、もともと観光や空港送迎の車は土産物屋がお金を出して提供しているもので、当然ながら提供者の土産物屋に立ち寄らなくてはならないし、立ち寄れば土産物屋は投資額以上を回収しなくてはならない。もう何10年も前から東南アジアのツアーはこの形態から抜け出せないでいる。しかし、日本人の旅行形態が変化してきているのだから、こんな事をしていては何れ立ち行かなくなるはずだ。

彼がヤツレて見えたのは、昨夜は夜中過ぎまでお客さんに付き合い、今朝は6時半の飛行機に乗るため、家を4時前に出たのだそうだ。彼はチェンマイは10年ぶりだと言う。つまり今のチェンマイについて道もわからなくなってしまったとぼやいていた。今日はこれからドイステープの山に登り、午後はサンカンペンの工芸品工房の見学だそうだ。しかし、サンカンペンの工芸品工房とはつまり土産物やなわけで、こんなツアーでも立ち寄るのかとあきれる。記事を書かせるのが目的ならば、ありきたりのツアーではなく、もっと目新しく記事にふさわしいような所をアレンジすべきだと思う。

お客さんたちの飛行機は30分遅れて到着。私は彼からチェンマイの漢方薬屋が作っている喉の薬を買って欲しいと頼まれる。彼らが観光バスに乗り込むのを見送って、その足で製造元の漢方薬屋を探すことにした。空港の駐車場を出る際に駐車料を請求されたが、いままで10バーツだった駐車料が20バーツになっている。値上げかぁ、、。そう言えば今日からタイ航空の国内線が平均30パーセントの値上げと言う。一部の近距離路線では倍以上の値上げだそうだ。空港税も先日上がったし、テロ対策保険料も取られる。値上げラッシュだ。

漢方薬屋はすぐに見つかった。タペー通りの中ほどにあり、この薬が看板商品なのか山積みして売られていた。頼まれたのは1ダースだが、私も個人的に買ってみようと、ひとつ買ってみる。15バーツと安い薬であった。早速これを届けてあげようと、彼らの午前中の訪問先であるドイステープに向かう。ビートルのエンジンは病み上がりで、長い登坂は退院後一度も経験していなかったので、少々不安もあったが、標高1000メートルにあるドイステープまで急な坂道をサードで登る事ができた。以前はセカンドでも息苦しそうだったのに、ずいぶんとパワーアップしたものだ。そう言えば、このところ燃費が悪くなったと感じていたが、これは混合気の燃料比率が高くなったため、馬力が出て、燃費が落ちたのかもしれない。

ドイステープに着き、寺院へは登らずに彼らの観光バスを探した。混雑する寺院で入れ違いになる事を避けるためである。観光バス専用の駐車場へ行くと彼らが乗って来たバスがいたので、その近くに駐車する。車の中で何をしゃべっているかほとんど理解できないラジオを聞いていたら、なにかが時々空から降ってきて、ビートルにあたる。なんだろうかと思って見上げると木の実のようであった。ちょうどピンポン球より一回り小さく、果肉があり中心には小さな種がグチュグチュと入っている。これはタイのイチジクだ。日本のイチジクとは姿形がまるで違うが、イチジクと言われている。そしてその木も高さが20メートルになろうかと言う大木だし、葉っぱの形も異なる。落ちてつぶれたイチジクの実を眺めながら、思い出した。「無花果」中国語でイチジクを指す言葉だったはずだ。そして私はこの無花果の乾燥させたものが好きであった。イチジクも乾燥させるとこんなに小さく丸くなるのかぁなんて思っていたが、今空から振ってくる木の実こそ無花果そのものではないか。つまり日本のイチジクと無花果はまるで違った形態のものであった事に気付いた。

日本のイチジクなどしばらく食べた事がないが、小学校に上がる頃まで住んでいた都営住宅の裏庭にイチジクの木があり、毎年実をつけていた。ちょうど汲み取り式のトイレの裏にあり、なんとなく印象の暗かった。実もなんか色づきもあいまいで、よくお袋さんがジャムにしてくれていたが、イチゴジャムなどと比べるとずいぶんと青臭いジャムだった事を覚えている。チェンマイの山の上で30年以上も忘れていた味覚を思い出してしまった。

観光バスは駐車場から移動を始めた。そろそろ参拝が終わって戻ってくる時間らしい。私も観光バスにならってお寺の参道入り口へ移動する。気候が良くなったからか外国人観光客の姿が目立つ。私のビートルはチェンマイでも他に無いような配色のかわいらしい車なので、白人の老人グループたちの目にとまるようで、何度かカメラを向けられシャッターを切られたようだ。しばらくすると彼は参道から降りてきて、私を見つけると駆け寄ってきてくれ、盛んに礼を言っていたが、お客さんと一緒のためすぐにバスに乗り込んでしまった。無事に前回世話になった彼から依頼された薬を手渡す事ができた。

アパートに戻るとお母さんは外出中であり、私は小屋がけ食堂から五目野菜炒め載せご飯を買ってきて食べる。

午後になり、優泰を学校に迎えに行くが、優泰は学校で財布を無くしたと言う。昼食はどうしたのかと聞いたところ、先生から25バーツ貸してもらって食べたと言う。そして眠たいのだと言うので、アパートに戻ると昼寝をさせることにした。

お母さんが戻ってくると優泰は眼を覚まし、財布を無くした事を報告した。しかし、財布は部屋のテーブルの横にあった。優泰は無くしたのではなく、持っていくのを忘れた様だ。このところ優泰は靴を履き忘れたり、カバンを忘れたりと言った事が多くなったようだ。

昨日予約をした来月の東京行きノースウエスト航空の航空運賃を旅行会社に払い込みにいく。発券はバンコクにあるノースウエストの事務所で行うので、切符が届くのは週明けになると言う。もちろんこっちも週末は東京へ行っているし、それに急ぐ切符ではないので、なんらかまう事は無い。代金だけ払い込み、自転車で白象門の通りを走っていると文房具屋を見つけたので入ってみる。学校から来月の行事で「一年生は天使の衣装を用意するよう」言われており、衣装には金の飾りを付ける様に指示されていた。衣装は既にお母さんが仕立て屋に発注したが、金の飾りが難物であった。が、この文房具屋で良いものを見つけた。金色のリボンである。これを縁取りにつけたり、リボンを結んだりすれば立派な金の飾りに見えそうだ。店は華僑の老夫婦がやっており、老夫婦はしっかりした北京語を話した。私が下手なタイ語をしゃべるものだから、てっきり中国人と思ったようだ。そして私も北京語で受け答えしたので、確信されてしまった。出身はどこかと聞かれたので「日本」と答えたら、「日本」だけは北京語の発音ではなく「ヤップン」と発音していた。きっと中国のどこかの方言なのだろうが、どこの方言かは私には判らなかった。しかし、私が日本人である事は老夫婦にはわかったようで、自分たちと同じ中国人ではなく、しかも日本人と判っても、別に嫌な顔をするわけではなく、やはり北京語で、私が北京語を話す事を喜んでくれた。英語は確かに国際語になりつつあるかもしれないが、地球規模で見た場合、そうもし宇宙人が地球人を見て、地球語は何かを調べたら、きっと地球語は北京語と結論付けるのではないだろうか、、。なんと言っても北京語を解する人間が地球上には一番多いのだから、、、。優泰の学校を選ぶ選択肢に「中華学校」と言う手もあったなぁと、また余計な事を考えてしまった。

夕食はリンピンスーパーで買った中華麺でヤキソバを作り、餃子を焼いて食べることにした。しかし、ヤキソバは失敗した。麺が大きな団子状に丸められており、ほぐれない。そして我が家のフライパンは小さすぎる。ようやくほぐれ出すと、フライパンは中華麺でいっぱいになり、火力も弱いので満遍なく炒めることができない。優泰にはあからさまに「まずい」と言われ、お母さんには「今日キムチもらったから、キムチと一緒に食べれば味がわからなくなるから大丈夫」と言われてしまった。

 

前日へ  翌日へ

 


メオダムきまぐれ日記
(2015年5月からのブログ)

チェンマイ帰り就活日記

求む!ピョン子の情報