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マレーシア、「さらば、バトパハ」
10月29日 日曜日

最初に危惧した通り、今回のマレーシア旅行記やたらと長くなってしまった。
しかし、実際のマレーシア滞在は短くて、たったの2泊だけ。
そして、今日は夕方の飛行機に乗るため、バトゥパハを朝10時に出るバスに乗らなくてはならない。

昨日同様、日の出とともに起き出して、朝食を兼ねてジャランジャラン。
バトゥパハの街が特別そうなのか、マレーシアのほかの街がどうなのかはわからないが、ネコの多い町であった。
2年前にバリ島へ行ったときに、マレー・インドネシア語でネコのことをクチンと言うと教えてもらった。
東マレーシア、ボルネオ島にはクチンと言う名前の街があるくらいだから、マレーシアはどこもネコが多いのかもしれない。

カキルマのネコ
[軒廊(カキルマ)の屋台に並ぶ人とネコ]

路地裏のネコ
[写真を撮ろうとすると寄ってくるのは食べ物でももらえると思っているのかな]

私の住むバンコクのアパート近くにあるイスラム教徒のコミュニティーにもたくさんネコが飼われているから、イスラム教とネコの相性が良いのかもしれない。
どのネコも警戒心が薄いようで、写真に撮ろうとすると、ゴロゴロとノドを鳴らしながらすり寄ってきてしまう。

三毛猫
[バトゥパハのネコは三毛が多い]

昨日朝食に食べたロティが気に入ったので今朝も同じところで食べようと日本人倶楽部まで来てみたのだが、日曜日はお休みらしく、シッターが閉まっていた。

朝の日本人倶楽部
[日本人倶楽部の建物は、どの時刻に見ても趣がある]

日本人倶楽部は休みであったが、バトゥパハの街には朝食を食べさせるコーヒー屋があちこちにあるのだが、これだけ華僑が多いのだから、中国風の朝食も食べられるのではないかと思い、そのまま朝のバトゥパハ旧市街をジャランジャラン。

初日に炒米粉を食べたあたりで、油条があった。
大きくて、こんがりと油で揚がった30センチくらいの長さのある油条が一本70セントで売られている。
油条は好物である。

油条の屋台
[バトゥパハにも油条の屋台があった]

バンコクにも油条に似たパートンコーと言う揚げパンがあるが、パートンコーは油条のように大きく長くない。
また、店によっては少し甘い味付けをしていたりする。
バンコクのパートンコーも嫌いではないが、油条の方が好みである。
ミャンマーへ行った時にも、大きく細長い油条が売られていたが、油の温度が低いためか、揚がり方がカリっとしておらず、油でギトギトだった。
それらと比べると、バトゥパハの油条は本場物に近いと言えそうだ。

できたての油条
[キツネ色にこんがり揚がってます きっとカリカリ、サクサク]

好物の油条を二本も買い込んだのだが、残念ながらこの屋台は製造販売専門のようで、椅子テーブルなどその場で食べられるようにはなっていない。
ホテルの部屋にはインスタントコーヒーもあるし、部屋で食べても良いのだが、それではなんだか味気ない。
油条をぶら下げて少し歩いたところに、ロティの屋台が出ていた。
この屋台は路上にテーブルを並べて食べられるようだ。
コーヒーもある。

日本人倶楽部のロティはマレー系の人が焼いていたが、この屋台は中国系の家族経営のようだ。
親子三代で忙しそうに注文をさばいている。
ロティ一枚とコーヒーを注文。
「ヤプヤタ」と注文取りの青年に聞かれた。
一瞬何のことかわからなかったが、地元民然として鷹揚に頷いてみせる。
青年はロティを焼いているたぶんその父親の方を向いて「要蛋一!」と注文を伝えた。
どうやら「要不要蛋(玉子はいるか)?」と聞かれたらしい。
はてさて、玉子は目玉焼きになって出てくるのか、ゆで卵だろうか。

華僑の家族経営ロティ屋
[ロティヲ焼いている隣に玉子が山積みされている]

まずはプラスチックのマグカップに入ったコーヒーを祖父格の男性が無口無表情に運んできた。
さっそくこのコーヒーに先ほど買った油条を半分に縦割りにして浸す。
そして、コーヒーの滴を垂らさないように口を近づけて、すかさずぱくつく。
サクッ、ジュワッと軽い歯触りと油で焦げた小麦粉と苦くて甘いコーヒーが口の中で攪拌される。
美味しい。
パリのカフェでクロワッサンをカフェオレに浸して食べるのに匹敵するくらい美味しい。
マグカップ入りコーヒーの表面に油条から染み出した油膜が浮いているが気にしない。

コーヒーに油条
[縦に二つに咲いたけど、もともとはこの倍の太さがあります]

玉子料理もロティもなかなか出てこない。
私がコーヒーで油条を食べているものだから、コーヒーだけの注文とでも勘違いされたのではないか、注文忘れられたのではないかなどと考えていたらロティが運ばれてきた。
しかし、玉子料理の皿はなく、昨日同様にカレー汁の小皿が出てきた。

ロティとカレー汁
[複合民族国家マレーシアではロティこそ民族統合の象徴的国民食かもしれない]

まぁ、玉子料理など忘れてもらっても一向に構わない。
もともと食べたくて注文したわけでないのだから、、、。

ロティをカレー汁に浸そうと、一口サイズに千切ったところ、ロティの中に薄焼き玉子焼きが入っていた。
なるほど、中国系の人のロティには玉子入りと言うものもあるのかと了解する。
タイでお菓子扱いされているロティにも玉子を入れるオプションは一般的。

カレー汁は昨日のカレー汁の方がスパイシーで美味しかったが、玉子入りのプレーンロティは台湾の朝食で食べられる「蛋餅」のような味わい。
いつも持ち歩いているカバンのポケットに醤油のミニボトルを入れてあるのを思い出して、少し醤油を垂らして玉子入りロティを食べてみる。
めちゃ美味しい。
焦げた感じに、醤油の香ばしさ、油と玉子と小麦粉の傑作。

またまた大満足の朝食になってしまった。
これで3.20リンギット。

ネコはどこででも寝る
[バトゥパハにはいったい何匹くらいのネコがいるのだろうか]

ひとまずホテルへ帰って荷造りをしなければ。
往路の飛行機で、乗客の手荷物がやたらと多いなと感じたのだが、復路では私も荷物が多くなってしまった。
何といっても昨晩スーパーで買い込んだ袋入り即席麺がかさばっている。
各種ミーゴレン、インドネシア製を中心に国産のマレーシア製まで5食入りを6パック、さらに世界いた美味しいとされたペナンホワイトカレーヌードル、こちらは4食入りだが2パックを買い込んでいる。
これらの即席麺を、そのままスーパーのレジ袋に入れたまま飛行機に乗るのは、あまりにも情けないので、スーパーの青果売り場で、トマトが入っていた段ボールを譲ってもらったところ、上手いことに隙間なく全部がピッタリと収まった。

即席麺を詰めた段ボール
[しめて38食分の即席麺がピッタリ収まった]

これらの即席麺、安価でケチな土産として配っても、まだまだ余りそうなので、しばらくは毎週のようにインスタント・ミーゴレンを食べ続けることができそうだ。

ペナンホワイトカレーヌードル
[これは土産用のペナンホワイトカレーヌードル]

9時半近くにチェックアウトして、バスターミナルへ向かって歩き出す。
バスの切符には15分前には乗り場に来るようにとプリントされている。
宿を出てすぐ、初日に食べたワンタン麺屋がすでに店を開けていた。
ついさっき朝食を食べたばかりだけれど、これからバスを乗り継いで空港へ向かうので、昼食を食べる機会がないかもしれないという思い半分と、ここのワンタン麺、それもスープ入りのワンタン麺も食べておきたいという食い意地で、時間も迫っているが店に入りテーブルに着いた。

張亞泗雲呑麺店
[みの街で気に入ったワンタン麺の店は朝から営業していた]

待つこと数分で、スープ入りワンタン麺が運ばれてきた。
汁なしと同じ極細のエビ麺。
スープは限りなく透明クリア。
しかし、出汁はしっかりしており、全体的に引き締まっていで、ボケた味にはなっていない。
チャーシュー、青菜、ネギ、そして餡がしっかり詰まったワンタン。
これに薬味として胡椒と酢漬けの青唐辛子を載せていただく。
日本の麺類のように、火傷しそうなほど熱々と言うわけではなく、タイの麺類と同じように、ちょっと猫舌でも食べられるくらいの熱さである。

スープ入りのワンタン麺
[これで丼にもう少し色気があれば 味一筋、昔気質の華僑なのかもしれない]

香港のワンタン麺ともよく似ているが、香港のエビ麺ほど腰は強くなく、ワンタンもエビ雲呑ではなく、豚肉のミンチのようだ。

これで汁なしと、スープタイプの2種類を食したわけだが、好みとしてはスープタイプの方に軍配をあげたい。

代金はこちらも5リンギットであった。
こんなワンタン麺屋がバンコクでも近くにあったら、毎日でも通いたいと思う。

バスターミナル前にはタクシーが何台も客待ちをしていた。
20何年か前に来た時は、バトゥパハからジョホール水道の国境まで古いベンツの乗り合いタクシーに乗って行った。
今も古いベンツのタクシーが並んでいるが、以前はもっとずんぐりしたベンツで、エアコンも付いていなかった。
今ここに並んでいるのは、当時はまだ新型ベンツと呼ばれ、エアコンの追加料金がかかるような車だったのだろう。

バスターミナル前のタクシー
[バンコクのカローラタクシーと比べると、古くてもベンツだと思う]

帰りのクアラルンプールまでの高速バスは、KKKLと言うバス会社が運行するもので、往路と同じように座席のゆったりしたバスであった。
車内の通路を挟んで、一人掛けと二人掛けのシートが並んでいる。
私が指定されたのは二人掛けの窓側の席であった。

バスは定刻の10時に満席で出発。
昨日のうちに切符を買っておいて正解だったようだ。
旧市街の外れからバトゥパハ河にかかる橋を渡り、田舎道を30分ほど走ったら、昨日自転車で走ったパリスロンの町はずれに出た。

パリスロンの黄色い氷水屋
[昨日ここで黄色い氷水を買ったんだ]

さらに山道にバスは入って30分ほどクネクネと走ったかと思うと、ようやく高速道路となった。
来る時はバスの中で爆睡していたのだが、今はこうして車窓からマレーシアの景色を楽しむことができる。
高速道路は丘陵地を切り裂いて敷かれているようで、一直線ではなく、緩やかなカーブで構成されていて、日本の高速道路によく似ている。
また、マレーシアではタイと異なりバイクも高速道路を走れるようで、二人乗りを含めてバイクが走っているのをよく見かけた。
それも排気量の小さな小型のパイクも車に交じって走っているようなので、マレーシアでは高速道路を走るバイクに、日本のような排気量による制限もないのかもしれない。
初日に、バイクをレンタルしようとして、コーヒーとグアバをごちそうになりながら、話し込むだけで、目的を達成できなかった修理屋の主人も、奥さんとタンデムでバイクをプーケットまで飛ばしたと言っていたから、マレーシアではバイクもちゃんとした交通機関として市民権を得ているのだろう。

クアラルンプールが近づくと、不動産広告の大きな看板が身だつようになり、やがて激しいスコールになった。
爆走していたバイクライダーたちも陸橋の下などで雨宿りをしている。

スコール
[昨日、自転車に乗っているときに降られなくてよかった]

雨が降ったりして、渋滞に巻き込まれるのではないかと心配したけれど、順調に3時間半ほどでクアラルンプールのTBSバスターミナルに到着。

そのまま空港行のバスに乗り継いで、さらに1時間。
空港へは3時少し前に到着。

バス発着所にはコンビニがあり、またまた空腹ではないけれど、マレーシアのカップラーメンを食べてみることにした。
コンビニのカップラーメン売り場では、最近のタイと同様に韓国製のカップラーメンがかなり大きな顔をし始めている。
日清カップヌードルもあるが、タイと同様にローカライズされすぎていて、日本のカップ麺との印象が薄い。
日本では見たことのないような、しかしなんとなく日本風でバラエティー豊富なのは「出前一丁」なのだが、日本製ではなく香港製。
もうすこし日本勢には頑張ってほしいところだ。

そんな中で、マレーシアのブランドとしては"Sedaap"と言うブランドと、これはマレーシアのブランドとは呼べないかもしれないが、"Maggi"が幅を利かせている。
私が手にしたのは、"Sedaap"のバクソ・フレーバー。
バクソはバリ島でもよく見かけた、肉団子入りのスープヌードルで、マレー、インドネシアでは一般的なフレーバーのようだ。
コンビニの店舗内にはイートインのスペースがあり、お湯も用意されている。
レジで代金の3.50リンギットを払ったが、箸もフォークももらえなかったけれど、カップ緬の蓋を開けたらば、プラスチックのフォークが入っていた。
これはタイのカップ麺と同じで、日本でもカップ麺の販売開始当時はフォークが内装されていた記憶があるが、日本のカップ麺からフォークが消えたのはいつごろからだろう。

マレーシアのカップ麺
[このカップ麺ひとつと五個入り袋麺のパックがほぼ同じ金額とは、ずいぶんと割高]

マレーシアのカップ麺、バクソは、カップヌードルの「謎肉」風と刻みネギが少し入っているだけで、具の量は日本のカップ麺にははるかに及ばず、タイのカップ麺といい勝負で、味の方は、ニンニク油がきつくて、私としてはちょっと残念だった。

バクソフレーバー
[出来上がったカップバクソヌードル]

エアアジアのチェックインカウンターで搭乗券を受け取り、2度の手荷物検査や出国審査などを受けながら、遠い搭乗ゲートまで延々と歩く。
帰りの飛行機も来る時と同じように満席。
座席は3人掛けの真ん中で、右の窓側はインドネシア人の若者、左は中国系マレーシア人のアラフォー女性。
バンコクまで狭いシートで2時間の我慢。
当然ながら機内サービスは何もないが、狭い通路では赤いタイトなスーツの客室乗務員がひっきりなしに、スナックや免税品などを売り歩いていた。

日暮れのドンムアン空港に到着。
懸念されたイミグレーションの混雑もなく抜けることができた。

短い旅行だったけど、なかなか充実していて楽しかった。

バトパハ河
[さらば、バトパハ]

おわり。

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マレーシア、バトゥパハにてスリメダンと九皇爺聖誕節
10月27日 金曜日

タイとマレーシアの時差は1時間となっているので、昨日クアラルンプールに着いた時から時刻を1時間進めたマレーシア時間としている。
しかし、実際には経度で1時間もの時差は発生していないようで、夜明けの時刻がバンコクより遅い感じだ。
朝日が昇って来たのも7時ころになってからであった。

東向きの部屋なので朝日が拝める
[部屋の窓から朝日が昇ってくるのが眺められた]

「マレー蘭印紀行」の中では、バトゥパハは朝靄や朝霧が立ち込めるように書いてあったが、宿の窓から見た限り今朝は霧も靄もかかっていない。
金子光春の最初のマレー旅行は昭和4年の11月から12月にかけて、2回目は昭和7年の1月から4月なので、季節的なもののかもしれない。

そういえば、夜のバトゥパハ河のほとりでは、カユアピアピがどこからも見られたと書いてあるが、昨晩はカユアピアピを見ることができなかった。
カユアピアピとは蛍が群がる木のことで、たぶんタイ語でトンランポーと呼んでいる水辺に生える柳みたいな気のことのようで、この蛍ならタイでは季節を問わず光っている。
10年ほど前までなら、群がるほどではないが、私の住むバンコクのアパート近くでも蛍が飛んでいたものだが、もうバトゥパハでもあんまり見られなくなっているのだろうか。

シルバーインの前の食堂
[バトゥパハの宿、シルバーイン向かいの食堂、上の階は「国際大旅店」と言う宿らしい]

朝食を兼ねて、朝のジャランジャランに出る。
昨日の夕方は、西日に照らされた古い町並みが印象的だったけれど、朝日に輝いている風景もなかなかいい。
1939年とある金行(金を売り買いする店)の屋根の端に、ライオンのようなものが乗っかっているのが、朝日に照らされてよくわかる。
しかし、片側にしかいないところを見ると、相方だった方は、長い月日のうちに屋根から落ちてしまったのかもしれない。

金行
[華僑の町には必ずある金行、屋根の上にはライオン]

日本人倶楽部も東側の切妻面が朝日に照らされている。
なんとなく、途中で切れているようにも見えるので、ひょっとしたら昔は建物が通りに沿ってもっと長く続いていたのかもしれない。
この日本人倶楽部の古い写真などが手元にないので実際のところはよくわからない。

朝の日本人倶楽部
[日本人倶楽部の建物]

この日本人倶楽部の建物でロティを焼いている店が早朝から店開きしていた。
軒廊の下でロティを焼いている主人はマレー人のようだ。
ひとなつこくニコニコしながら、小麦粉の団子から、平べったくなるよう、まるでピザ生地を空中で回すように、薄く伸ばし、そしてロティを焼いていく。
焼き上がったロテイは折りたたまれて、四角成形されている。

ロティ屋
[日本人倶楽部の軒廊でロティを焼いている]

ロテイ2枚とコーヒーを注文。
ロティにはカレー汁が付いて出てきた。
カレー汁にはゴロゴロとしたジャガイモなどの野菜類とお肉が少々入っている。
これにロティを一口サイズにちぎりながら浸して食べてみる。
カレー汁もロティもなかなか美味しい。
インド系の住民が多いから、カレーが美味しいのかとも思ったが、学生時代にインドでほとんど具も入っていないカレー汁とチャパティを毎日のように、それが一番安かったからだが、食べていたけれど、カレー汁はあんまり美味しくなかった記憶がある。
マレーシアのインド人はインド南東部のタミール系が多いということだから、インドでも地域差が大きいのかもしれない。

朝食にロティ2枚と練乳入りコーヒー
[朝食にロティ二枚とコーヒー]

コーヒーはタイの田舎のコーヒーと同じで、練乳がたっぷり入ったタイプだが、コーヒーそのものはインスタントのようで、コーヒーの香りはあんまりせず、また濃い目ではあるが飲み干したときに、カップの底にコーヒー滓が沈殿していることもなかった。

もともと朝からカレーを食べるのも好きであったし、満足できる朝食だった。
お会計をしようとしたら、2リンギットと言う。
これは破廉恥なくらい安いとまた喜んで、店を出ようとしたら、コーヒー代は奥で払ってねと言われた。

店の奥には中国系の主人がいて、コーヒーは1.20リンギットとのこと。
どうやらこの店は、店頭のロティ屋と店舗の喫茶とは別経営、たぶんコーヒー屋にロティ屋が居候しているのだろう。
なお、店の屋号は「伍強貿易公司」となっている。
となると、貿易会社にコーヒー屋が間借りして、さらにロティ屋が居候しているのかもしれない。

19××年の建物
[これも古そうな建物だけど19XX年のXXが欠けてて 二十世紀のものとしかわからない]

日本人倶楽部の前の通りから、川岸に向かって、木製の桟橋のような通路が伸びている。
通路の奥には、水辺に打った杭の上に木造の民家が続いている。
さらにその奥はバトゥパハ河に突き出ており、小さなボートが係留されていたりする。
対岸にも少し民家が見えるが、大きな建物は見えない。
この風景に、川霧がかかっていたら、なかなか詩情がありそうに思われる。

バトゥパハ河縁の桟道
[日本人倶楽部の前からバトゥパハ河に伸びる桟道]

朝のバトゥパハ河
[朝のバトゥパハ河 マレー蘭印紀行にあるような霧はまったくない]

川岸には廃船のような木造の小さな漁船が引き上げられており、この岸辺の民家には土地の漁師たちが住んでいる感じだ。
昨日訪れた河口の漁村は中国系の村だったけれど、この水上家屋の住民はマレー系の人たちのように思われた。

廃船
[岸に引き上げられた廃船]

桟橋
[桟橋の上にもネコ]

ニッパ椰子
[ニッパ椰子は今もバトゥパハ河の岸に繁茂している]

小さな漁船
[桟橋に係留されている小さな漁船]

この水上家屋より少しだけ川下に、生鮮食品の市場があった。
タイの市場によく似た市場で、手前が青果物、奥が魚や肉の売り場になっている。
野菜は品種改良が進んでいるのか、それとも土地が肥えているのか、タイの市場で見る野菜類よりも、上物のように思える。

青果市場
[活気ある朝の市場、青果類はタイよりも生育が良いように思える]

魚売り場の魚たちは、タイの市場で見かける魚介類とよく似ている。
売り手も買い手も、中国系もいれば、マレー系もいる。
そのためか香港あたりの市場なら、値札は漢字で殴り書きされているが、ここの値札は算用数字で書かれている。
聞き耳を立てていたわけではないのでわからないが、言葉の方はきっとマレー語や中国語の方言が飛び交っているのだろう。

魚市<br />
場
[鮮魚売場でもネコ 小魚の一匹でも落ちてくるのを待ってるのだろうか]

市場の魚
[市場の魚たち]

ネコ印のスナック
[ネコ印のスナック菓子があるらしい]

いったん宿に戻ってから、自転車でスリメダン目指して走りだす。
時刻は9時。
スリメダンまでどんな道なのか地図で確認しただけではよくわからないが、昨日バトゥパハ河の河口まで走った感じからすると、道路の舗装状態はタイよりもずっと良いように思えるので、ママチャリでも20キロ先のスリメダンまで1時間半もあれば到着できそうな気もする。

朝のバトゥパハ旧市街
[朝のバトゥパハ旧市街 昨日のワンタン麺屋のある一角]

もともと日本のママチャリなので、ハンドルの前にカゴが付いていたはずなのだが、この自転車にはカゴが付いていない。
カバンをタスキ掛けにして自転車のペダルをこぐ。
旧市街はすぐに尽きてしまい、住宅街のような感じのところを抜けたらば、何車線もある広い通りに出た。
また、そのあたりから新市街になっているようで、建物も新しくなり、高層のコンドミニアムのような建物や、ショッピングセンターのような施設が並んでいる。
車の往来も多いのだが、感心することに自動車の運転マナーがとても良い。
ついもは温厚なタイ人がハンドルを握ると、狂暴かつ超エゴイスティックに変身しながら、注意力散漫、運転技量低劣な環境と比べると、まるで日本の道を自転車で走っているのではないかと思うくらい、マレーシアの交通マナーは良い。

スリメダンへ向けて出発
[バトゥパハの新市街は道幅が広い]

バンコクで自転車は一部のブームに便乗したファッションのようなサイクリストがいる程度で、自転車に市民権はないも同然。
舗装状態の悪い路肩を、後ろから迫って来る車の影に怯えながら自転車は走らなくてはならないし、排気ガスで汚れ切った粉塵だらけの空気を呼吸し、暗くなれば道端に寝そべっている犬たちからさえ、吠え立てられる始末。
大型トラックなど自転車を威嚇するかのようにクラクションを鳴らし、真っ黒な排気ガスを浴びせて抜き去っていくのに比べて、マレーシアのトラックは、スピードを落とし、大きく間隔をあけて、静かに追い越していってくれる。
排気ガスも真っ黒と言うこともないし、クラクションを鳴らさないどころか、エンジン音までタイのトラックよりずっと静かだ。

市街地を抜けても、道の状態は良い。
バトゥパハ河から別れてセンブロンやスリガデンの方へ上っていくシンパンカナン川を越える。
金子光春もこのシンパンカナン川を遡行して川筋の日本人ゴム園を訪ね、絵を売り歩いていたそうだが、いまは川沿いにもどこにもゴム園など見当たらない。
ゴム園どころか、ゴムの木すらなくなってしまっている。
また、当時はもうすでに川沿いのワニは駆逐され切ってしまったようだけれど、ゴム園以外はまだまだ未開のジャングルのようで、トラなどの野獣が闊歩していたそうで、トラが自転車で逃げる人の頭の上を白い腹をみせて飛躍したなど、昔話と言うよりも、おとぎ話のように思えるくらいのどかな田園風景が続いている。

シンパンカナン河
[かつては日本人ゴム園が続いたシンパンカナン河]

自転車で走りやすい道であることは確かだけれど、日差しは強い。
路肩を広くとった道のため、木立の影に入ることもない。
それと、肩からタスキに掛けたカバンの重さが、肩甲骨を刺激して痛い。
9月から痛み始めた肩甲骨の痛みは、病院の診断では頸椎の炎症と言うことらしい。
頸椎の間隔が狭まって、神経を圧迫しているらしい。
治療やリハビリに通っているが、肩甲骨の痛みは和らいだものの、右手に痺れが出て、親指と人差し指があまりうまく動かなくなり、字を書いたり、箸を使うのにも不便を感じるようになった。
首も動かすと電気が走るように痛み、右腕に力が入らなくなってしまっている。

そんな状態のため、カバンを掛けてのサイクリングがだんだん辛くなってきた。
カゴさえあれば、この苦痛から逃れられるのに、、
まだ走り始めて30分ほど、弱音を吐くのは耐えられるが、せっかく苦労して借り出した自転車なのに、スリメダンへ到着できないのは我慢がならない。
そこで、一計して、道端に落ちている板切れを工夫して、前輪のカバーの上に荷台のように設え、カバンはハンドルに縛り付けることで、カバンの重さが頸椎にかかることを避けられた。

こうなるとあとは暑さだけではあるが、バンコクのような嫌な蒸し暑さはない。
たぶん、緑も多く、空気が埃っぽくないからだろう。
身軽になって、ふたたびペダルが軽くなったのもつかの間、またしてもペダルが重たくなってきた。
緩やかではあるけれど、上り勾配が連続するようになった。
スリメダンは山の上にあるわけだから、自転車で向かえば坂道があるのは当然のことで、ギアを落として、丘を登っていく。

1時間ほど走ったところで、ヨンペンとムーアを結ぶ国道に出る。
ヨンペン側に曲がって、一つ丘を越えたらば、「スリメダン左折」の標識が出てきた。
国道から折れた道は、田舎の一本道のようだが、道路の状況はやはり大変良い。
道の両脇には、パーム椰子の畑が続いている。
行けども行けども、黒くてモジャモジャのパーム椰子プランテーションなのだが、パーム椰子も矮性の改良種のようで、背が低く、ヤシ油をたっぷり含んだ巨大な実が手の届きそうなところにゴロゴロとぶら下がっている。

ムーア街道
[ジョホールバルから続くムーア街道]

かつてはゴム園だったところが、今ではパーム椰子のプランテーションに変わったようだ。
行けど進めどパーム椰子畑、たまにマレー人の民家がぽつりぽつりと現れる。
結婚式をしている家もあった。
自宅の前庭に天幕を張って、いくつもの円卓を囲んでお祝いをしている。

道の両脇はパーム椰子畑
[道の両脇はパーム椰子畑]

田舎道が大きな山に向う道と、横へ逸れる道に分かれるところへ出た。
どちらも先はスリメダンに至るらしいが、たぶん大きな山がスリメダンの鉄山ではないかと考えて、右側の山へ続く道に入った。

これは正解であったようだ。
山へ続く道を少し走ったらば、植物園の入り口に出た。

ジョホール植物園
[ジョホール植物園の入り口]

白い門は閉じられたままで、ここからは入れないのかと思い、写真だけでもとシャッターを切ったところで、門がスルスルとちょうど自転車が通れるくらいの幅まで開き始めた。
さっそく中へ入ったが、入場券を売るような小屋などなく、急な坂道を登っていくと、大きな池のほとりに出た。
たぶん、この池がスリメダンの露天掘り跡なのだろう。
タイ南部の露天掘り錫鉱山跡もこのように水が張られているのをたくさん見ていると、タイ東部の露天掘り跡も同じだ。

露天掘り跡の池
[鉄鉱石の露天掘り跡は貯水池のような池になっていた]

露天掘り跡の巨大な池はふたつあり、最初に見えてきたものと、次に現れた巨大池とは土手で仕切られており、次に現れた池の方が高いところに位置して、大きさも大きいようだ。
この大きな池の左側から、時計回りに一周してみることにする。
ただし、池沿いに道があるわけではなく、水辺から離れたところの山道を進むことになる。

ジョホール植物園案内地図
[植物園の案内地図 マレー語なので読めません]

行けも見えず、道の両脇は木々が茂っており、何の変哲もないような山道ではあるが、植物園の中の散策路としては少し不自然に思える。
大きくはないが、切通などもあったりする。
そして、坂道はまっすぐ、しかも勾配も一定になっている。
これはスリメダン鉱山自慢のエドレスと呼ばれたトロッコのインクライン(ケーブルカーみたいなもの)の跡ではないだろうか。
自転車のペダルをこいで上るには、坂道が急すぎる。
えっちらおっちらと自転車を押して登る。

エンドレスの跡?
[まっすぐな切通し、トロッコを牽いたエンドレスの跡だろうか]

横道へ入り、上り下りを繰り返しているうちに、見晴らしの良い丘の上へ出た。
丘の北西側を見下ろすと、森の奥にスリメダンの集落が見える。
ここがスリメダン鉄山の頂上と言うことだろうか。
植物園の一部だから、きれいに整備され、東屋なんかも配してあるが、案内表示板なとはなく、よくわからない。
仮にあったとしてもマレー語で書かれているので、どうせ読めないのではあるけれど。

眼下にスリメダンの集落
[丘の上からスリメダンの集落が見える]

スリメダン鉄山頂上付近
[スリメダン鉄山の頂上付近]

さらに進んで丘を下ると、もと来た二つの池を隔てる土手へ出てきた。
これでスリメダン鉱山を一周したことになるのだろう。
遺構のようなものは、エンドレスの切通しらしきもの程度で、きちんと専門家の解説でもないので見過ごしてしまっているところもたくさんあるのだろう。

露天掘り跡一周を走破
[スリメダン鉱山跡を一周して戻ってきました]

もう一度先ほどのエンドレス跡らしいところを抜けて、別の脇道に入り、シンパンキリ河の方向へ下って行った。
自動車の行き交う舗装道路へ出て、すぐのところにトロッコで運んできた鉱石を荷船に積み替えるための施設跡があった。

鉄鉱石積み出し施設跡
[鉄鉱石積み出し施設跡]

シンパンキリ河から鉱山側へ幅広の運河のように掘り込まれており、山側からはレンガで組んだ橋脚跡がいくつも並んでいる。
昭和初期の写真で確認できる当時の鉱石積み出し施設は、橋脚の間に、当然ながら橋げたがかかり、トロッコが運び込まれてたくさんの人夫が荷船に鉱石を積み替えている。

荷船引き込み運河
[荷船を引く込むために掘られた運河の跡]

残念ながら、現在残っているのは橋脚の部分だけで、これでさえもし事前に当時の白黒写真を事前に見ていなければ、気が付かなかったことだろう。
常夏のマレーシアにあって、当然のこととして、橋脚周辺は背の高い夏草に覆われてしまっている。
鉱石搬出がなくなって、すでに76年の歳月が過ぎている。

夏草に埋もれた橋脚
[夏草に埋もれた橋脚]

ここにでも、ここがかつての日本の鉄鋼生産の原料となる鉄鉱石の40%もの供給を行っていたスリメダン鉱山からの鉄鉱石積み出し場であることを示す案内板は見当たらず、また産業遺構としての保全もされていなかった。
私などは、この朽ちたレンガの橋脚が草原の中に並んでいるのを見ただけで、ここから運び出された鉄鉱石が、八幡へ運ばれ、やがて軍艦となり、そして最後には太平洋の底へ沈んでいったと想像しただけで、涙が出るほど感動してしまう。
もちろん、そんなことは現在に生きるマレーシアの人たちには関係のないことだろうし、日本の会社が自分たちの土地の山から鉄鉱石を掘り尽くしていった跡くらいにしか思っていないか、そんな歴史すら忘れられているようだけれども、せめてこの場所が創業の地であるところの石原産業さんには、ここに記念碑くらい建てていただきたいものだ。

この橋脚跡から、山側すぐのところに鉱山事務所などがあったはずなのだが、残念ながら橋脚跡をたどってみても、舗装道路の先はフェンスで仕切られて中へは入れなくなっている。
このフェンスの中はテレコムマレーシアの通信基地になっているようで、大きな通信鉄塔が立っているのがフェンス越しに見えた。

テレコムマレーシアの通信施設
[鉱山事務所のあった辺りは地元通信会社の通信基地になっていた]

当時のスリメダンには石原産業の日本人のほかに、鉱石を掘り、トロッコを押す中国人苦力がたくさんいて、マレー蘭印紀行によれば、苦力たちの多くがアヘン中毒者で、アヘン欲しさに働いていたそうだ。
この鉱山の閉山後、彼らはどうなったのだろうか?
どこか仕事を求めて、流れていったのだろうか?
若くもないアヘン中毒のジャンキーを雇うだけの仕事が当時のマレー半島にあったとは思われないが、マレーや蘭印では資源開発のための労働力として苦力は必要だっただろうし、アヘンで縛れる苦力は使用者側からしたら、使いやすいので、きっと次の山へと流れていったのだろう。

シンパンキリ河の橋
[シンパンキリ河にかかる橋 橋桁が低いので大きな荷船の航行など考慮していないのだろう]

もし30年前にスリメダンを訪れていたら、村の古老にでも当時の話を聞くことができたかもしれないが、今となっては当時を知ることもいないだろうし、正確な郷土史の記録も編纂されているのかも分からない。
それにあったとしても、読めないのだから同じこと。

橋の上から鉄鉱石積み出し運河方向
[橋の上から眺めた鉄鉱石積み出し運河方向]

スリメダン集落の中心と思われるところへ行ってみた。
市場があり、広場のような場所があって、その周りに古い木造の店が並んでいる。
中国系の経営するコーヒー店もあり、この店の何代か前の主人はスリメダン鉱山と関係でもあったのではないかと立ち寄って聞いてみたい気もしたが、私の中国語能力では限界を超えているし、それに近代史の研究をしているのでもないただの通りすがりが、そんなことを聞くのも変な話、さらに聞き出せたとしても、何の意味すら持たないのだからと、想像だけにとどめる。

スリメダンの華僑系コーヒー屋
[スリメダンの広場に並んだ眠ったような商店]

青色と白の美しいモクスがあった。
新しいモスクのようで、安普請で古く朽ちたような家屋ばかりのスリメダンにあってはひときわ目立つ。

スリメダンのモスク
[スリメダンの青いモスク スタイルも直線的でドームもタマネギ的な印象はない]

道端でタイでカレーパフと呼んでいる餃子のような形をしたサモサを売っていた。
先ほどのコーヒー屋以外に飲食店は見当たらず、またそれほど空腹を覚えるわけでもないので、軽いおやつのつもりで食べてみることにする。
頭にヒジャブをかぶったマレー系の女性がカレーパフを油鍋で揚げていた。
タイのカレーパフには中身がチキン入りのものと、甘いイモのものの二種類がある。
マレーシアではどうかわからないが、形はタイのものとそっくり。
私の知っている数少ないマレー単語の一つに「鶏」を意味するアヤムと言う単語があるので、油鍋から揚がったばかりを指さして「アヤム?」と聞いてみる。
悲しいことに、マレー語ではYes, Noも何というのか知らない。
しかし、雰囲気からチキンではなさそうなことは分かった。

しからば、イモか。
まぁ、イモでもいいから、買うことにするが、金額も数字も何というのかわからない。
タイでなら、20バーツで何個か袋に入れてくれるものだから、適当に2リンギットを渡す。
紙袋に6コのカレーパフを入れてくれた。
先ほどの揚げたてだけでは足りず、作り置きまで投入して数を合わせてくれた。
うーむ、1リンギットで十分だったようだ。
今後は、言葉が通じないときは、「足りない」と叱られ、恥をかくこともあるかもしれないが、1リンギットをまず出すことにしてみよう。

通りの反対側にベンチがあったのでそこに腰かけて食べてみることにする。
なお、そのベンチのある所は中国系の学校があり、「鉄山中華学校」となっていた。
スリメダン鉱山が稼働していたころからあった学校なのかは不明だが、鉄山とは明らかにスリメダン鉄鉱石山から来ているのだろう。
私が見つけた文字としてのスリメダン鉱山跡を偲ばせる唯一の存在であった。
ちょっと学校の由来を聞いてみたい気もしたが、土曜日と言うこともあって、校内に人影はなかった。

スリメダンの鉄山中華学校
[スリメダンの鉄山中華学校 今でも中国系の人が多く暮らしているのだろう]

さて、カレーパフはイモではなかった。
中身は玉ネギの刻んだものであった。
タイでは食べたことがない。
少しスパイシーな味付けがされており、アツアツのものを食べると口の中が火傷しそうだ。
揚げ物なのでちょっと油が気になるところだが、しつこさはそれほどなく、軽いスナックだった。
作り置きの冷めたパフは、やはり出来立てと比べると味が劣った。

時刻はまだ12時前。
これからまっすぐバトゥパハへ戻ってしまうのは、もったいない気もするが、スリメダンにこれ以上いても、仕方なさそうなので、シンパンキリ河に沿って下流にあるパリスロンへ行ってみることにする。
川沿いに道があればよいのだが、Google Mapを見ると、かなり迂回しないといけないようだ。
直線距離の3倍くらい、20キロほどの道のりのようだが、バトゥパハからここまでと同じくらいの距離なので、また1時間半くらいで行けるだろうと、軽い気持ちで自転車を進めた。
スリメダンの集落の先でシンパンキリ河を渡り、田舎道を進む。
道の横に用水路が流れる田舎道で、道は舗装されているが道端の土の色は赤い。

パーム椰子の畑が延々と続き、ときどきマレー人の農家がある。
そして、きょうはお日柄でも良いのか、この田舎道筋でもマレー人の結婚式を見かけた。
こちらは自転車に乗って通り過ぎてしまうだけなので、新郎新婦がどのような結婚衣装を身に着けているのか確認でききなかったが、参列者たちはすれ違いざまに何人も見かけることができた。

マレー人の結婚式
[マレー人の村の結婚式]

男性は頭にイスラム教徒がかぶる丸い帽子で、開襟シャツ。
金子光春が烏帽と呼んだマレーの伝統的な正装用の帽子ではない。
女性も、華やかなサロンを巻いている姿がわずかに見られたが、ほとんどが素っ気無い細身のズボンを履いている。
また、シャツも普通のシャツのようで、偽物の金貨をボタンにしたカバヤどころか、そもそもカバヤ姿などまったく見かけない。
さらに、100パーセント頭にはヒジャブを被っている。
私の記憶にあるマレー女性は、カバヤにサロンであって、ちょっとオシャレした娘は髪飾りなども付けていたりして、ヒジャブが絶対ではなかったように思える。
ここニ、三十年の間に、マレーシアの女性たちもイスラム・スタンダード化が進んでいるようだ。
マレーシア航空やシンガポール航空の女性客室乗務員たちは、今でもサロンに丸首のカバヤのように思えるが、マレーシア航空あたりはそのうちにヒジャブにズボンとなるのだろうか。

もとより交通量の少ない田舎道で、のどかではあるが、何分にも赤道直下のマレー半島南部。自転車で帽子もかぶらず走るのは、ちょっと酔狂が過ぎているのかもしれない。
太陽に照り付けられて、頭の中が沸騰している。
蜃気楼でも現れそうに、目の前がクラクラしてくる。
たまに農家があるだけで、集落は形成されてなく、したがってこの田舎道沿いには一休みできるようなコーヒー屋さえない。
前へ進むか、引き返すかだけれども、既に30分以上も自転車で進んできた。
いまさら引き返しても、スリメダンまで休めそうなところはどこにもなかった。
ここはむしろ、前方に行けば、何かあるのではと言う期待に賭けて、前へ進むだけ。

さにら30分ほどペダルを踏み続け、結局コーヒー屋どころか雑貨屋の一つも見つけられずに、もう引き返すよりも、先へ進むしかないところまで待てしまった。
そして、本日3カ所目の結婚式にぶつかる。
参列者たちはみんな車で来ている。
イスラム教徒だから結婚式にもお酒は出ないだろうから、車で来ても帰りの心配はいらないだろうななどと、考えながら行き過ぎたところで、しばらく走ったらパーム椰子畑にサルたちが群れをなしていた。

ここでも結婚式
[ここでも結婚式 参列者はみんな車で来ているようだ]

ここまでの道中にも何度かサルを見かけてきたので、珍しくはないが、子ザルを抱いた母猿がいるような群れであったので、自転車を止めて写真を撮ろうと、ハンドルのブレーキレバーを握ったところ、嫌な音がして、車輪がロックした。

どうしたのかと、後輪のブレーキを見てみると、ブレーキの梃子になる部分のネジが外れて、ブレーキ装置そのものが車軸に絡みついた状態になっている。
車輪はロックしたままで、動かなくなってしまっている。
よりによってバトゥパハから最も遠い田舎道で、集落も、まして自転車の修理屋などあるわけないようなところで故障してしまうとは、まったく運の悪いことだ。
まぁ、田舎道でもときどき自動車も走って来るので、いざとなったら車に手を挙げて助けを求めれば良いだろうけど、なんとか自力で解決したい。

パーム椰子畑のサルたちは好奇心でか、こちらをじっと見つめている。
なんだかサルの見世物になっているようで悔しい。
ならば、当初の目的であったサルの写真でも撮るかと構えたところ、サルたちはキーキー鳴き交わしながら、椰子畑の茂みの奥へ姿を消していった。

サルの群れがいたパーム椰子畑
[サルの群れがいたパーム椰子畑]

パーム椰子畑だけしかないと思っていたが、すぐ近くに農家があった。
その農家の入り口わきに不用品を投げ出したようなゴミ捨て場があり、壊れた扇風機や音響機器、さらにはスーパーカブ仕様のカゴまで捨てられていた。
木陰に入って、修理作業に精を出す。
しかし、修理しようにもネジ回し一本、ペンチひとつあるわけでなく、すべて素手での勝負。
しかも、頸椎の炎症で右手の親指と人差し指の自由も効かないというハンデ付き。
車軸に噛んでしまっているブレーキを拾った鉄の棒を使って、引きはがし、ブレーキワイヤを引っ張って、ロックを解除。
ブレーキを固定するネジが無くなっているので、ベッドの錆びたスプリングを捏ね繰りちぎって、ネジ穴に巻き付けてブレーキを応急に固定。

なんとか車輪も回転するようになり、走れるようになった。
ブレーキも一応はキーキー言いながらも作用している。
木陰での作業で、少しは体力も回復したようで、元気を出して先へ進むが、緩やかながら坂道が多くなったのには閉口した。

パリスロンまであと少しと言う道端で、氷水を売っていた。
「西ひがし」の中で「氷の塊をうかした黄色い果汁を、コップ一杯十銭でうっている」と金子光春が白素貞との出会いの場面で書いているが、この道端の小屋で売っている氷水も、氷の塊を浮かせた黄色い液体である。
コップではなく、ビニール袋に詰めたく冷やした黄色い液体を氷ごと入れ、ストローを差し、輪ゴムで縛って渡してもらう。
金額はわからないが、1リンギットを渡したら、「足りない」と叱られることもなく、またお釣りを手渡されることもなかった。
この80年か90年の間に、氷水は10銭から十倍に値上がりしたようだ。

黄色い氷水(アエ・バト)
[金子光春が白素貞との出会いもこのアエバトだったのだろうか]

さて、その黄色い液体だが、ほんのりココナツの香りのする甘い味であったが、色からしてオレンジにも思えるが、オレンジのような酸味は感じなかった。
白素貞との出会いの場で売られていたのは、いったい何の果汁だったのだろうか。

氷水をぶら下げて、先へ進むとすぐに国道にぶつかった。
左折してまもなくパリスロンの村。
ムーア街道とシンパンキリ河が交わる宿場町だったパリスロンも、先ほどのスリメダンよりは大きな村だが、やはり田舎の村で、シンパンキリの川岸近くに市場があり、商店や食堂などが並んでいた。

パリスロンのシンパンキリ河
[パリスロンのシンパンキリ河]

シンパンキリに架かる橋のたもとには小さな公園があり、河の上に東屋が張り出していたので、そこでしばらく休憩をさせてもらう。
自転車が故障したり、暑かったりで、随分と辛い道中だったけれども、なんとか生きてパリスロンまで来ることができた。
ここパリスロンでは大東亜戦争初期に、マレー半島を自転車で南下してくる銀輪部隊が、パリスロンを守るオーストラリア軍と交戦した場所。
オーストラリア軍は、負傷者を置き去りにして敗走したそうで、置き去りにされた負傷兵の取り扱いについて、戦後問題になり戦争裁判が行われたらしい。
しかし、いまのパリスロンには、そんな戦闘があったことさえ流れ去ってしまったかのように、のどかな空気に包まれている。

河に突き出した東屋
[河に突き出した東屋でしばし休憩をさせてもらった]

また、金子光春がスリメダンへの途上、パリスロンへ立ち寄った時は、行き交う船相手に米粉やタバコを売る商人が盛んに声をかけていたようだが、今の川岸には船運もなく、静かなまま。
金子光春はパリスロンで米粉も食べず、ただトイレだけを使ったことになっているが、この川岸にある公園の外れにも公衆トイレはあった。
しかも近代的で、清潔な水洗トイレ。
私も金子光春に倣って、トイレを使わせてもらう。

トイレの洗面台で顔と手も洗って、少しはすっきりしたところで、茶店でABCと呼ばれるカキ氷を売っていた。
そういえば、マレーシアのカキ氷も元祖は日本からと聞いたような気もする。
ハワイのシェーブアイスは日系移民が持ち込んだものだそうだし、日本との因縁も浅からぬパリスロンでカキ氷と言うのも一興。

パリスロンの茶店
[パリスロンの茶店は地元の若者で繁盛していた]

ABCカキ氷は、日本の氷イチゴや氷メロンのように単色のシロップをかけるのではなく、毒々しいほどに紫、黄色、緑に着色されていた。
なんだか身体に悪そうな感じもするが、暑いときには冷たいもの、疲れているときには甘いものの通りで、おいしかった。
下の方には若干の小豆と甘草ゼリーが忍ばせてあった。

ABC
[マレーシアのカキ氷"ABC"]

さて、あとバトゥパハへ帰るだけ。
ここからバトゥパハまではムーア街道を走って、20キロほどのはず。
途中からは朝来た道と同じところをたどっていくことになる。
ムーア街道は大型トラックを中心に比較的交通量は多いのだが、いずれもマナーが良いので嬉しくなる。
しかし、照り付ける日差しは痛いほどで、しかも上り勾配が緩やかだけれどもダラダラと続いたりして、ジョギングする程度のスピードでしか走れない。
長い勾配を登り切ったところが、朝来た道との交差点で、ここから下り坂で、バトゥパハへ一直線と思ったけれど、往路には長い上り坂だと思った距離が、復路だとどうしたわけか、下り坂の距離が随分と短くなっているような気がした。
そして、平たんな道へ出たところで、向かい風となって、またしてもペダルが重たくなってきた。

午後4時をまわり、照り付けていた太陽も西に傾いて、日差しも多少弱まったようなのだが、先ほどまで脳天だけを焼き付けていた太陽光線が、にわかに側面から照らして、仕上げの全身ローストに入ったようだ。
これはたまらなと、道端の雑貨屋に飛び込んで、冷蔵庫からペットボトル入りの飲料水を一本抜きとる。
店の女主人は闖入者に驚いたような顔をしてたが、「一塊子」と言って1リンギットを要求した。
本当は、座って少し休みたいところだったが、コーヒー屋ではないので、ベンチなどもなく、ペットボトルの水を一気にラッパ飲みする。

シンパンカナン河を渡り、住宅地も出てきた。
あと30分くらいでバトゥパハかと思っていたら、前方に大きなミズトカゲが、通りを横断しようと、通りの反対側を見つめ、長い舌をシュルシュルと出したり引っ込めたりしながら、のっしのっしと道端から、通りの真ん中の方に歩き出そうとしている。
これは危ない。
この通りはひっきりなしに自動車が行き交い、ミズトカゲが横断するには無謀すぎる。
渡り切る前に、車に轢かれて、通りではなく三途の川を渡ってしまいそうだ。
急いで、自転車でトカゲの前へ立ちふさがって威嚇し、回れ右をさせ、道端へ引き返させる。
しかし、まだ通りの反対側に未練があるのか、シュルシュルと舌を出したりしながら、向かい側の様子を眺めている。
これではまた出てきそうなので、道端へ退散したトカゲを追撃するように、追いかけて、道端奥にある用水路へ追い詰め、コンクリ護岸のある用水路に投身させた。

大ミズトカゲ
[オオミズトカゲ]

5時にはなんとか生きて宿へたどり着き、シャワーを浴びることができた。
シャワーを浴びてすぐに、昨日から延々と付き合ってくれた自転車を返しに行く。
たった2日間だったけれど、名残惜しいことこの上ない。
地図上で見立てた走行距離だけで、80キロほどになっている。
遠く日本からリサイクル品として海を渡ってきたママチャリだけど、ほんとうによく付き合ってくれた。

自転車屋に帰着
[自転車に付けた前カゴはブレーキ修理時に拾ったもの]

自転車屋から保証金を返してもらい、まだ昼ごはんも食べていなかったので、昨日のワンタン麺屋へ行ってみる。
しかし、残念なことに主人が店を閉めているところだった。
「もう店じまいか?」と尋ねたら、
「水が止まってしまって商売ができなくなった」と言う。
なるほど、断水なら仕方がないかと思っていたら、隣の店の親父が
「水が止まったんじゃなくて、水道代をケチったから、止められたんだろ」と冗談を飛ばしてきた。

バトゥパハ税関前のネコ
[日本人倶楽部前のバトゥパハ税関のネコ 二十年前に来た時はインドネシアへ送還される人たちが並んでいるのを見かけた]

ワンタン麺が食べれず、旧市街をウロウロとして、花園ホテル(ガーデンホテル)前にあるホーカーセンターのようなところでミーゴレン(マレー風焼きそば)を注文。
玉子で練ったような極太の福建麺にモヤシなどの野菜と鶏肉を入れて真っ黒なソースで炒めてある。
少しウェットな感じの焼きそば。
唐辛子が効いてスパイシーではあるが、大量の砂糖も入っているようで、ドロリと甘ったるい。
店の人は甘い飲み物の注文を取ろうと、「飲み物は何にするか?」と声をかけてくるが、この手の味覚と食感だと、水以外は飲みたいと思えない。
または、渋い中国茶くらいだろうか。
しかし、飲み物のリストにあるのは炭酸飲料と、練乳入りのコーヒーや紅茶くらい。
マレーの人には、この手も食べ物にも甘いものがあうのか、ほとんどの人が何らかの飲み物を注文して、私はケチな日本人と思われたようだ。
そう、その通り、こちらは正真正銘のけちんぼです。

天后宮
[シルバーインホテルの隣の天后宮]

宿の隣で切り売りのスイカを買う。
中国系の若者数人が、大きなタライに氷を入れてスイカを冷やしている。
これから道端で売ろうとしているらしい。
ほかにも、道端で商売をしようとしている人もいるし、商店の前に祭壇を出して、供物を並べていたりもする。
スイカをかじりながら宿へ戻ったら、宿のフロントで今日は中国人のお祭りだよと教えてまらう。

冷やしスイカ
[これから道端で売ろうと言う冷やしスイカ]

夕暮れ時、スーパーへ買い物に出かける。
今回のマレーシア旅行では、インスタントのミーゴレンを買おうと思っている。
バンコクでもインドネシアのインドミーブランドを買ってよく食べるのだが、バンコクではちょっと高い。
袋麺で18バーツほどする。
タイの一般的な袋麺の3倍。
マレーシアにもインスタントのミーゴメンがセダープというでブランドあることを知っているので、それでも土産に買おうかと思っていた。
しかし、スーパーの売り場をよく見たら、マレーシアのセダープよりもインドネシアからの輸入品であるインドミーブランドの方が若干安く売られている。
それも5袋パックで4.20リンギット。
タイバーツにして、32バーツほど。
つい先日、バンコクのスーパーで特売になっていて、同じく5袋入りを85バーツで買ったばかりなので、半額以下の安さに驚喜してしまう。
インドミーのミーゴレン以外にも何種類かの即席麺を買い漁る。

夕暮れのバトゥパハ
[夕暮れのバトゥパハ旧市街]

静まり返った旧市街
[やはり映画のセットのような印象をうけます]

また別のスーパーではホワイトペナンカレーヌードルと言うのも土産用に買う。
ネット上では数年前に世界一美味しいインスタントラーメンとして話題になったとかで、プレミア物らしい。
スーパーで売っている値段も先ほどのミーゴレンよりずっと高くて、4袋入りのパックで7.60リンギットもする。
もうほとんどサッポロ一番並かと思われる。
それでも、日本では一袋が300円以上の値が付いているらしいから、バンコクで配る土産としては、話題性と経済性を満たしていると言える。

バトゥパハ河の夕焼け
[バトゥパハ河に蛍はまだいるのだろうか]

夜8時くらいになってバトゥパハの街はにぎやかになってきた。
宿の人によると、宿の前をたくさんの山車が通るのだそうだ。
私も道端に出てみる。

天后宮に参拝する人
[天后宮前の掘割は表からは見えなくなってます 笛の練習をする若者はどの辺りにいたのだろうか]

そういえば、タイでは今日がギンジェー(菜食週間)の最終日。
特にタイの南部の方、プーケットあたりでは派手なお祭りをすることで知られている。
ふだん肉食人種として開高健に「四つ足は机以外何でも食べる」と言わしめた中国系の人たちも、このギンジェー期間中は肉食を断つのだそうだ。

祭壇に並んだ供物
[フードセンター前には供物を並べた祭壇が出ていました]

バンコクでもこの期間、あちこちで黄色い旗にジェー(斎)と書いて、精進料理を出している印としている。
今年はちょうど前国王の喪にかかったために、祭り気分は控えているのか、あまり黄色い旗は見かけなかったが、ここバトゥパハは華僑の街であり、斎戒明けは盛大なお祭りとなるようだ。
こちらでは今夜の祭りを「九皇爺生誕節」と呼んでいるらしい。

パレードの始まり
[パレードの始まりです]

パレードを彩る山車はバトゥパハ各地に点在する中国寺院や廟などで構成され、様々な趣向を凝らしている。
中国式の獅子舞や、ドラゴンダンス、大頭頭と呼ばれる巨大な被り面など中国の伝統的な行列、なぜかエアロビをしながらパレードに参加している若くはなくなった女性集団。
お神輿のようなものもあるのだが、日本のお神輿のように、セイヤッ、セイヤッとご神体の上下運動だけにとどまらず、激しい回転運動を演じてみたり、電飾が施されたりと、かなり過激である。

電飾で飾られた山車
[電飾で飾られた山車]

山車の後ろには善男善女
[山車の後ろには善男善女が続きます]

ぐるぐる回される電飾付き神輿
[電飾付きお神輿もグルグル回転]

ドラゴンダンスもぐるぐる
[ドラゴンダンスもグルグル]

飛龍
[走り回り、飛び交います]

ライオンダンス
[中国の獅子舞ライオンダンス、ライオンの大きな目がパチクリと愛嬌があります]

大黒様?
[船に乗った大黒様だろうか]

大頭頭
[頭でっかちな被り面の大頭頭 なんだかトランプ大統領に似ているかも]

過激と言えば、さすがは鍼灸の発祥の地から来ているだけあり、両頬に槍を付き通して、その突き出た長い槍の先を舗装道路に擦り付けて火花を散らしている。

頬貫通
[刺青の男性は頬に鉄線を突き通してます]

槍は頬だけではなく、背中の皮膚をまるで布切れをマチ針で留めるかのように、貫通させている男性もいる。
槍が貫通しているところは。赤く盛り上がり、まるで背中に乳首でも付いているように見える。

背中は槍だらけ
[背中には何本もの槍を刺してます]

背中の皮膚を貫通
[背中の皮膚を貫通してます]

こんなに体中に巨大ピアスをして、祭りの翌日からはどうするつもりなのだろうか?
槍を引き抜けば、自然に穴は塞がるのだろうか、それともまた来年のために、穴を開けたままにするのだろうか。

電飾トラック
[いつ果てるとも知れないくらいパレードは続きます]

パレードは延々とつながってやって来るが、大体どれも似たように思えてきて、屋外での祭りを楽しむにはビールでも飲みたくなってきた。
先ほどのスーパーへ駈け込んで、冷蔵庫から缶ビールを一本取りだす。
冷蔵庫には、さすがにスーパーだけあり、シンガポールのタイガービール、アサヒスーパードライ、ハイネケン、カールスバーグなど銘柄がそろっている。
これで安ければよいのだが、どれも高い。
一番安いのは、SKOLと言うブランドで、たしか南米のビールだったような気がする。
安いと言っても5リンギット以上していた。
それでも飲みたい。
スーパーのレジのラインはふたつあり、一つは華僑系の女の子が入り、もう一つはヒジャブのマレー系の女の子であった。
イスラムの人にビールのレジを叩かせるのは気が引けたので、華僑系の方へ並ぶ。

花火
[バトゥパハ河のほうでちょっと寂しい花火も上がりました]

缶ビールは、タイの缶ビールよりも一回り小さく、320ccしか入っていない。
スーパーを出てすぐにプシュっと開けて、ゴクゴクと飲む。
ホップの苦みも効いていて、ドイツ風のビールのような味わいがあったが、いかんせい小さな缶ビールだったのであっという間に飲み干してしまった。

SKOL BEER
[やっぱり夜祭にはビールが欠かせません]

日本人倶楽部前へもパレード
[日本人倶楽部前もパレード]

日本人倶楽部前
[沿道で眺める人の数はチラホラと数えるほどに少なくなってます]

さて、夕食は何を食べようかと祭りのパレードが行き交う旧市街をジャランジャラン。
こんなバトゥパハのような田舎町だけれども、日本料理店を2件も見つけた。
一軒は、バンコクでもありそうな如何にも東南アジアの日本料理屋と言った感じの、刺身も寿司も鍋ものも、カレーライスもやっているような石楽と言う名の食堂で、日本酒の樽を置いたり、スーパードライの幟が立ったりして、近郊在住の日本人客と中国系の客を狙ったような店。
もう一軒は、あまり目立たないが、YUZUと言う名の日本料理屋で、豚肉もラードも使っていないと入り口に大きく書いている。
たぶんイスラム教徒のマレー人をターゲットにした店なのだろう。
とすると、たぶんビールも日本酒もないのだろう。
それに、和食を調理するなら、寿司天ぷら程度ならいざ知らず、煮物などには料理酒やミリンを使っていないのだろうか?

巨大極太線香もお供え
[桃饅頭と一緒に巨大極太線香もお供え]

バトゥパハの日本料理店がどんなものかは話のタネに気にはなるが、わざわざ食べてみたいとも思わず、マレー人のやっている食堂に入ってマレー風のチャーハン、ナシゴレンを注文する。
このナシゴレンは夕方に食べたミーゴレンとは異なり、パラパラのご飯が軽く仕上がっており、具材も小魚の干したのに、刻んだ野菜と玉子と言ったシンプルなもの。
私向けの味付けで、なかなか美味しい。
道端に張り出したテーブルで食べていると、パレードから離脱してきた中国系の人たちが店の主人に何やら注文している。
しばらくして発泡スチロールの容器に詰めた弁当のようなものを受け取って、彼らは再びパレードへ戻ってった。
きっと夜食にでもするのだろう。

パレードも終盤、ちょっとバテ気味
[夜10時を過ぎてパレードも終盤、ちょっとバテ気味]

この食堂のメニューを見ていたら、ナシゴレンだけでもイロイロとあった。
私は内容も分からず、一番安いナシゴレンを注文したのだが、どのナシゴレンもメニューには、「ナシゴレンなんとか」「ナシゴレンかんとか」となっている。
このなんとか、かんとかの部分がマレー語なので私にはわからないのだが、ナシゴレンアメリカと言うのとナシゴレンパタヤと言うのがあった。
ナシゴレンアメリカはタイのアメリカンフライドライスと同じで、チャーハンにウインナーかハム、そして目玉焼きが付いたものだろうと思う。
つまりアメリカンブレックファストのチャーハン版のことだろう。
では、ナシゴレンパタヤは?
これは本場のはずのタイにはなさそうな気もする。
シーフード入りのことだろうか?
トムヤムペーストで味付けしているのだろうか?
それともパタヤ名物のニューハーフと関連でもあるのだろうか?

ナシゴレン
[あっさりしたナシゴレンが私には向いているようだ]

チャーハンを食べて宿へ戻る途中、スイカ売りの若者たちに行き会った。
パレードが通り過ぎたので、撤収するのだそうだ、
売り上げは好調だったのか、みんなホクホク顔をしていた。

つづく

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マレーシア、バトゥパハにて金子光春ごっこ
マレーシアのバトゥパハへ行ってきた。
20年以上前に行ったことがあったが、夏に金子光春の「マレー蘭印紀行」を読み返してみたらば、もう一度じっくり見てきたいという気持ちになった。
そして、金子光春の文庫本を前回の一時帰国で何冊か追加で入手し、この三週間毎日読んでいた。
そのバトゥパハ旅行のことをこれから書こうとしているのだけれど、どうにも長くなってしまいそうな嫌な予感がする。

<hr>

10月26日 木曜日

今晩は昨年逝去されたラマ9世の火葬が行われることになっており、タイの国中が喪に服しているのだが、そんな中で呑気に遊びに出かけようとしているのだから、タイの人たちから恨まれそうである。
特にアパートの路地の奥にはラマ9寺と言う前国王に縁のある寺があり、その寺へ記帳に訪れた人たちが路地にずらりと並んでいる。

ラマ9寺へ向かって行列を作っている人たち
[アパートの前には延々と喪服を着た人たちが行列を作っていました]

アパートを夜8時半過ぎに出て、ドンムアン空港へ向かう。
我が家からドンムアンまでバスで行こうとするとかなり不便である。
ドンムアン空港に限らず、バスでの移動はとにかく不便。
バスはなかなか来ないし、それに終バスも早い。

バスと地下鉄を乗り継いでモーチットまで出る。
地下鉄は運賃無料であったが、バスはいつも通り車掌が集金に回ってきた。
バスの中も地下鉄もみんな黒い喪服を着ている。
私もこの一年間毎日ワイシャツに黒ネクタイであった。

地下鉄の車内は喪服一色
[喪服を着ている人もスマホをいじっている人が多かった]

モーチットから先、ドンムアン空港まではなかなかバスが来ない。
30分くらい待ったであろうか、やっと来たバスも満員の状態であった。
葬儀関係であちこちにシャトルバスを走らせているから、バスが不足して一般のバスが間引き運行にでもなっているのかもしれない。

今回のマレーシア行だけれども、格安航空会社のエアアジアを予約した。
とにかくクアラルンプールまでの往復運賃が格段に安かった。
往復で3000バーツもしていない。
いつも格安航空会社はノックスクートを利用して、安い割にはイイじゃないかと思っていたが、このエアアジアの評判はどうもあまり良くないようだ。

10月27日 金曜日

バンコクの出発予定時刻は23:10と言うことになっていたが、1時間遅れと連絡があり、さらにまた30分ほど遅れた。
やっと搭乗案内があったかと思うと、我先にと搭乗口に殺到する人たちの手荷物がやたらと多い。
機内に乗り込んでみたらば、座席は黒い革張りなのだが、前後の間隔がやたらと狭い。さらに満席。
インド系の乗客が多いように思える。
インドの人たちは肌に油を塗っているので、こんな皮のシートだと、シートの表面に油が付いていそうでなんだか気になる。

エアアジアの機内
[かつて飛行機に乗るのは晴れ晴れしく感じたものだったけど、時代は変わった]

座席に座るというより、はめ込まれた感じで、いったん座ってしまうと身動きが全くできない。
先月から右肩が痛んでいるのだが、このシートの背もたれの構造からか、座っていると右肩の痛みが酷くなってくる。
2時間のフライトだから辛抱してみていようと思ったけれど、耳栓をしてアイマスクまで着けていたのだけれど苦痛でちっとも眠れなかった。

座席がやたらと狭い
[シートに深く腰掛けても膝がつっかえる]

クアラルンプールにはマレーシアの時間で午前4時前に到着。
飛行機は遅れたけれど、このほうがマレーシアの空港で始発のバスを長く待たなくて済んだ。
どうにも巨大な空港のようで、随分と歩かさせられる。通関手続きが済んでも市内へ行くバス乗り場までまださらに延々と歩かなくてはならない。
大きいだけであまり便利な空港ではない印象を受ける。

クアラルンプール市内長距離バスターミナル行きのバスの切符を買う。
11リンギットで午前5時半発。
バンコクであらかじめマレーシアの通貨リンギットを用意してきた。
50リンギット札ばかり10枚を持ってきたが、このバスの切符を買ったら、何種類かのお札が財布の中に加わった。

市内に向かうバスは日本のバスと変わらない快適さだった。
座席も狭すぎず、シートベルトこそないが、さっきの飛行機とは雲泥の差。
1時間ほどの乗車時間のほとんどを爆睡してしまった。

クアラルンプールの空港バス
[乗客はインド人と中国人が多い印象だった 話声が大きいから、そう感じただけかもしれない]

クアラルンプールのバスターミナルも巨大であった。
しかし、よくまとまっていて、発着する全路線のバスの切符をどの窓口でも買えるようになっているのには感心してしまった。
バトゥパハ行きのバスは8時半発と言うことで、こちらは23リンギット。
まだ1時間ちょっと時間もあるし、バトゥパハまで3時間ほどかかるそうだから、このバスターミナルの中で朝食を食べていくことにする。

バスターミナルのフードコート
[バスターミナルのフードコートは見晴らしの良い場所にあった]

フードコート風の食堂が早朝からオープンしていた。
まず目についたのはインド系の人がロティのようなものを作っている。
タイでもマレー系の人が屋台でロティを焼いて売っている、ロティの焼き方は同じものの、盛り付けや食べ方がタイとマレーシアでは異なっているようだ。
タイのロティは薄く伸ばしたバターを入れて練った小麦粉の生地に練乳をかけて、バナナや玉子、チョコなどを入れたりしたパンケーキ感覚のおやつであるが、ここのロティはプレーンで別皿にカレー汁のような小皿が付く。
これはこれで美味しそうなのだが、注文の仕方からして判らない。
金子光春の「西ひがし」のなかでアラビア人のやっている喫茶店で、コンデンス・ミルクをつけた価二十銭と言う安直な食事として紹介しているものとタイのロティは同じもののように思われるが、金子光春はこれをロティという名称では紹介していない。
彼がロティと呼んでいるのはざらめ砂糖と牛酪(バター)を塗ったロッテ(麺麭)と書いているもののことのようで、このフードコートのロティとも違うようだ。

インド系の人がロティを作る
[これもロティのようだが、タイのロティとはだいぶ違う 鍋にはカレーが入っています]

フードコートにはざら紙で三角形に包んだものも売っていた。
外からは中身がどんなものになっているのかわからないので、近くにいる人に「これは何か?」と尋ねたところ、「ナシレマ」とのことであった。
ナシレマならば知っているマレー庶民の代表的な朝ごはんで、ココナツミルクで焚き上げたご飯に、チマチマしたおかずとトウガラシペーストをあしらったもので、私も食べたことがある。
会計をしたら2.10リンギット。
財布にはコインもバリエーションとして加わった。

ナシレマ
[これで2.10リンギット、安いか高いか、まだ金銭感覚がつかめない]

ナシレマの包を開くと、四角錐型のおにぎりのような形にご飯が固められており、頂上に半分に切った小ぶりな茹で玉子と、チリペーストが載っている。
これをビビンバのように混ぜて食べる。
ココナツミルクで炊いたことになっているが、ココナツミルクの味はほとんどしない。
半分の茹で玉子だけかと思ったら、玉子の下に干した小魚も入っているようだ。
野菜がないのが気になるけど、この手のチリペースト混ぜご飯は嫌いではない。

バトゥパハ行きのバス
[バトゥパハ行きのバスはS&S Internationalと言う会社が運行していた]

バトゥパハ行きの8時のバスは、空港からのバスよりも豪華で、車内は通路を挟んで一人掛けと二人掛けのシートが並んでおり、前後の間隔もゆったりしている。
ほぼ満席で出発。
タイの長距離バスだと車内でビデオの上映などしてうるさいのだけれど、そのようなサービスはなく、WiFiも飛んでいない。
飲み物のサービスもやはりなくて、移動時間はひたすら睡眠補給に充てることにする。

3時間半ほどでバトゥパハに到着。
泊まる宿はインターネットでシルバーインと言う安いビジネスホテルのようなところを2泊分予約してある。
バトゥパハの旧市街は比較的小さいので、バトゥパハだけなら半日もかからずに歩け回れそうだけれど、今回はバトゥパハが発展する元となったスリメダンへ行ってみたいと思っている。
スリメダンは石原産業発祥の地で、大正時代から昭和初期にかけて良質な石灰石を産出していた。
鉱山は露天掘りで、シンパンキリ川を使って水路で河口まで運び、八幡製鉄所へ船で送り出していたそうで、水路の河口に位置していたのがバトゥパハ。
当時スリメダン産出の鉄鉱石は日本の鉄鉱石需要の40%ほども占めていたこともあったそうで、ちょうど金子光春が滞在していたころがその最盛期だったようだ。
金子光春も、シンパンキリ川を遡上してスリメダンへ行っている。
そのスリメダンへ行ってみたいのだが、バトゥパハからどうやって行けるのか、事前にネットで調べたけれども確認できなかった。
既にシンパンキリ川を遡行する水運は途絶えており、水路で向かえるとは思っていなかったけれども、バスの便くらいはあるだろうと考えていた。
クアラルンプールのバスが到着した長距離バスターミナルの近くに、近郊を結ぶローカルバスの発着所があった。
アエルイタム、ヨンピンなどマレー蘭印紀行にも登場する地名を行先としたバスが発着している。
パリスロン行きのマイクロバスもあった。
パリスロンは金子がスリメダンへ向かう途中の船が、休憩をとったムーア街道とぶつかる水駅で、ちょうどスリメダンへの中間地点であったようだ。
そこまでいけば、またスリメダン行きのローカルバスがあるかもしれないと期待をしたが、バトゥパハのバス発着所で確認をしたらば、スリメダンにはバス便はないとのことであった。

パリスロン行きのバス
[近郊行きのローカルバス乗り場 時刻表や路線図などは掲示されてないようだった]

バトゥパハからスリメダンまでの距離は約20キロほど。
ペナン島でも、ランカウィ島でもレンタルバイクで走り回ったことがあるので、バスがダメならバイクを借りてみようと考えた。

バトゥパハの第一歩

ホテルへ向かって歩き始める。
昔と同じで、古い町並みが残っている。
建物の2階部分が歩道へせり出して、歩道を覆う屋根のようになっている構造の建物が多い。
台湾でもよく見られる中国南方の建築様式で、金子光春も軒廊(カキルマ)と呼んで親しんでいる。

軒廊(カキルマ)
[昭和初期の面影を残す軒廊、台湾では亭仔脚と呼ばれていたはず]

カラフルな棟割長屋
[軒廊の上に建物の二階が張り出しているのがよくわかる]

シルバーイン
[周辺の建物より高くそびえているのがバトゥパハでの宿 シルバーイン]

シルバーインは簡単に見つけられた。
見た目はビジネスホテルのようであったが、ロビーは古い旅社のような印象。
エレベータで指定された部屋のある4階に足を踏み入れると、古い船の内部を中途半端にイメージしたような印象。
それでも、部屋の中はこぎれいで、きちんと掃除も行き届いている。
木製の机はだいぶ古びていたけれど、机の上には飲水機とインスタントコーヒーまであった。
水が好きなだけ飲めるのはうれしい。
狭い部屋の大半をベッドが占めているが、ダブルベッドではなく、シングルベッド2台を並べたハリウッドツイン。
天井は高くて、シャンデリアまで下がっている。

狭い部屋にベッドが2台
[部屋の大半をベッドが占めてます]

部屋の照明はシャンデリア
[天井からはシャンデリアがぶら下がっています]

部屋に荷物を置いてすぐにまた外へ出る。
スリメダンへ行くバス便がないとなるとバイクを借りたいのだけれど、バイクはどこで借りられるのかわからない。
ちょうど宿の隣にバイクの修理屋があったので、バイクを貸してくれないかと頼んだのだけれど、あっけなく断られてしまった。
しかし、まだまだ望みは捨てずに、街を徘徊して、バイクを貸してくれそうな店を探してみる。

4階からの眺め
[4階から眺めたバトゥパハの街]

しばらく歩いて、旧市街も途切れたところに広場のような場所があり、なにやらモニュメントが立っている。
モニュメントをよく見ると、石を砕いている巨大な手首だった。
バトゥパハとは石切り場と言う意味のようなことがどこかに書いてあったし、金子光春もバトゥパハの町はずれに石切り場があると書いていた。

バトゥパハのモニュメント
[バトゥパハのモニュメント 説明されなければ奇怪なオブジェ]

バイクを売る店や修理屋など、軒並み交渉をしてみたけれど、どこも貸してくれるところはない。
リゾート地でもないバトゥパハにはバイクのレンタルなどと言う需要などないからなのだろう。
それでもバイクの店を探し回ったので、狭いバトゥパハの旧市街をほぼ一通り歩き回ることができた。
確かに1930年ころの建物がまだまだたくさん残っている。
ちょうどスリメダンの鉄鉱石搬出の最盛期のころの建物群なのだろう。
まだまだ現役の建物もあるが、すでに廃屋となってしまっているものもある。
風致地区として保存をしているようにも見えないので、そのうちかつてのバトゥパハの繁栄を偲ぶことができる建物群は消えてしまうのだろう。

屋根に木が生えてる
[この建物の屋根には木が生えてるけど、温暖化防止の屋上緑化ではなさそう]

壁面に木が生えてる
[壁面にまで木が生えて、もう廃屋の様です]

ほぼぐるりと回ったところで再び宿の前に戻ってきた。
宿の裏に車の修理屋があり、その修理屋で中古の折り畳み式自転車を売っていた。
私の手持ちのリンギットでギリギリ買える金額、ここで自転車を買ってしまったら、オケラになってしまう。
それに自転車などバンコクに持ち帰るわけにもいかない。
この中古の自転車は日本のもののようだけれど、どのような経緯でここへ来たのだろうか?
バイクがダメなら自転車と言う手もある。
片道20キロはちょっと遠いけど、できない話ではない。
修理屋の主人に、自転車を貸してもらえないかと交渉をしたところ、まぁまぁ座れよと言うことになった。
本当は自転車よりバイクを貸してくれる店を探しているのだが、見つからないと言ったところ、「そうか、そうか、なら友達に聞いてやるよ」と言ってどこかへ電話をかけ始めた。
これは瓢箪から駒かもしれない。
友達はすぐ来るからと言うことで、その間ずっと主人と話をする。
「どこから来た?」「タイのバンコク」
「タイは景気がいいだろう、マレーシアはダメだ、通貨もどんどん下がっている」
「大きなバイクがいいんだろ」「いいえ、カブかスクーターくらいで、、」
「プーケットまでバイクで行ってきたんだ、14時間かかったね」
「プーケットは物価が高いし、ぼったくりが多い」
そんな感じで、ほとんどが主人側のペースに押されっぱなしで話していると、友人と言うのがやって車で来た。
そしてまたプーケットへ行った話。
この友人を含めてバトゥパハで大きなバイクを楽しんでいるサークルがあって、そのサークルでのツーリングだったらしい。
店の奥さんも出てきて、コーヒーとグアバをごちそうになる。
しかし、バイクも自転車も借りられなかった。
ここには泥棒が多いんだよ。
その辺に止めて、ちょっと目を離したすきに持ってかれてしまうんだ。
次来る時は、バイクの後ろに乗せてってやるから。
と言うことで、油臭い修理屋でのティータイムは終わった。

修理屋でティータイム
[修理屋の主人、やたらと気は良くて、話好きなんだけど、私の目的は達成できなかった]

まだ昼食を食べていなかったので、宿から1ブロックほどのところにあるワンタン麺の店に入る。
店構えは中国人街のどこにでもあるうな大衆食堂で、二間ほどの間隔で棟割りになっているタウンハウス風の長屋の通りに面した側に調理場があり、店の入り口にはドアなどなく、全面開放状態。
そのためエアコンなどはなくて、天井から巨大な扇風機がぶら下がっている。

ワンタン麺屋 張亞泗
[張亞泗と言う屋号のワンタン麺屋 このタイプの大衆食堂はバンコクにも多い]

入り口で「雲呑麺」と言うと、汁ありか、汁なしかを聞かれ、汁なしを注文してみる。
店内でワンタン麺を食べている人のほとんどが汁なしのようだ。

出てきた汁なしワンタン麺は、和え麺のような感じで、タレのような濃い目のスープが皿の下に溜っている。
麺は香港風のエビ麺で腰が強い。
ほんのちょっとの青菜と、なん粒かの豚肉入りワンタン、そしてたくさんのシャーシュー。
モスリムの国、マレーシアでも華僑の人たちは盛大に豚肉を食べているようだ。
味の方は、かなり満足度が高い。
タイにもこんなワンタン麺の店があるといいのだが、タイの華僑とマレーシアの華僑とでは出身地が違うようだ。
さっきの修理屋の主人も福建語をしゃべっていたし、ここは香港風の麺だから、粤語の人たちの店かもしれない。

汁なしのワンタン麺ではあるけれど、チャーハンのスープのように、スープが別にお椀で付いてきたのにも感動してしまった。

汁なしワンタン麺
[汁なしワンタン麺、かなりのボリューム バンコクのバミーヘーンの倍くらいありそう]

会計は5リンギットであった。
タイバーツに換算したら、40バーツにも満たない。
ものすごいコストパフォーマンス。
私の記憶では、マレーシアの方がタイよりもずっと物価が高かったように思っていたが、この手の食べ物に関してはマレーシアの方が安いのかもしれない。
毎食ともこのワンタン麺でも良いと思るほど気に入ってしまった。

お腹もいっぱいになり、またまた旧市街をぶらぶらと歩く。
趣のある古い建物が多いので、ついつい携帯電話で写真を撮りまくってしまう。
棟割長屋風の2階建ての建物が多く、どの建物にも通りに面して軒廊がある。よく似たデコレーションの店屋が並んでいても、それぞれ色違いだったりする。

果物屋の軒廊
[台湾の軒廊は段差が多かったり、バイクの駐輪場となっているところが多いが バトゥパハの軒廊は歩きやすい]

また、建造年を大きく書き出している建物も多く、その大半が1920年代から1930年代となっている。
たぶん、1941年にはスリメダン鉱山が閉山してしまい、そのひざ元にあったバトゥパハもそのころから寂れたのではないだろうか。
更に続いて戦争があり、華僑の街であったバトゥパハでは随分と犠牲者も出たらしい。

中華旅店
[古い旅社、金子光春風に言ったら支那宿ということになるだろうか]

南亜園茶餐室
[交差点に面した部分のデコレーションが凝っている 南亞園茶餐室とある この手の軽食堂がたくさんある]

1920年竣工
[1920年にできた建物らしい 飾り毛はあまりないが均整がとれている]

古い建物の中には、屋根から木が生えてしまっているようなものもあったが、それどころか建物全体が木に呑み込まれてしまっているような廃墟もあった。
ここまですごいと観光名所になりそうだけれど、バトゥパハでは観光客の姿を見かけない。

廃墟
[廃墟となるとすぐに植物が茂ってくるようだ]

怪獣のように建物を飲み込む植物
[こんなになるまでにどのくらいの時間が経過したのだろうか]

旧市街の表通りや路地を歩いていると、あちらこちらでネコを見かけた。
やはりネコを見ると写真に撮りたくなってしまう。
バトゥパハのネコたちは野良ではないのか、低いアングルから写真を撮ろうとしゃがみ込むと、嬉しそうに尻尾を立てて、こちらに向かって歩いてきてしまう。
バトゥパハのネコたちは幸せな暮らしをしているようだ。

おすそ分けをもらう猫たち
[バトゥパハの人たちはネコにやさしいようだ]

建物やネコの写真を撮るだけではなく、バイクの修理屋を見かけると、往生際悪く、レンタルバイクの交渉を試みる。
もちろん全敗であった。
しかし、バイクではなく、自転車屋を発見し、ものは試しと、自転車の貸し出しを依頼してみる。
すると、若い店の主人はしばらく考え込んでいたが、貸し出しOKと言う。
貸してくれるのは、ママチャリながら26インチのギア付き。
程度はまずまずと言ったところ。
日本の登録シールが張られたままになっており、ひょっとして盗難車かと疑ったが、リサイクルと言うシールも張られていた。
借り賃は明日の夕方までと言うことで、20リンギット。
ただし、保証金を兼ねて150リンギットを預かるとのこと。
これでバトゥパハでの足が確保できたわけだ。
嬉しい。

レンタルできた自転車
[これがバトゥパハで探し出したレンタサイクル]

自転車を借りたすぐ近くに金子光春がバトゥパハで滞在していた日本人倶楽部が入っていた建物がある。
「マレー蘭印紀行」ではこの建物の3階角部屋に起居していたことになっているが、「西ひがし」では2階となっている。
建物は3階建てで、果たしてどのあたりが部屋だったのだろうかと考えてみる。
たぶん、3階ではないかと推測される。

もと日本人倶楽部のあった建物
[バトゥパハのあちこちのブログなどで紹介される日本人倶楽部だった建物]

根拠としては、マレーシアは英領で、地上階をグランドフロア、2階がファーストフロア、3階がセカンドフロアと言っていただろうから、西ひがしの2階とは、セカンドフロアのことではなかっただろうか。
また、建物の角の屋上のドームが立っている。
このドームの下に階段があったのではないだろうか。
西ひがしを読むと、金子光春は「二階の上の、物干し場になっている屋上のテラスにあがっていった」とも書いているので、ドームの真下あたりが金子が滞在していた部屋ではなのだろうか、それとも建物の端に位置していたのだろうか?

日本人倶楽部屋上のドーム
[ドームの屋根にも草が生え始めている]

古い建物ではあるが、柱にはレリーフが施されていたりして、こんな建物をホテルにでも改装したら、素敵なホテルになりそうな気がする。
いや、改装などしないで、この古びたままでゲストハウスにでもしたら、もっと魅力的だろう。

日本人倶楽部と通りをはさんだ向かい側の建物
[日本人倶楽部と通りを挟んだ向かい側には赤い3階建て]

日本人倶楽部の向かい側はバナナ屋
[向かい側のバナナ屋には各種バナナが売られていた]

バイクならばより短時間に移動ができて、しかも楽だろうけれども、自転車ならバイクよりも細かく動き回れてるだろう。
金子光春は毎日市場を冷やかして歩いていたようだけれど、それと同じ市場かわからないが、日本人倶楽部の周辺には市場がいくつかあった。

日本人倶楽部の裏は市場
[市場の隣は1928年の建物で魚商公会とある]

スリメダンは明日挑戦するとして、マラッカ海が見えるところまで行ってみたい。
金子光春はバトゥパハはむ「小さな市で、センブロン川の川上の外れから、川下の海の見えるところまであるいても、二十分か三十分ほど」と「西ひがし」に書いている。また「マレー蘭印紀行」の中では「バトゥパハ河の川下の風景はとりわけ忘れがたいものであった」とも書いてある。何がそんなに忘れがたくさせたのかは、マレー蘭印紀行だけではわかりにくいが、きっと西ひがしに書かれている白蛇の精、金子が白素貞と呼んでいる華僑女性との出会いの場であったからではないだろうか。
西ひがしでは、その場所、関帝廟でのことに多くのページを割いているし、文章にも熱がこもっているように感じられる。
柳条溝事件をはじめとして当時の緊迫する日中関係、特に南洋に於いての日本人と中国人の間の憎悪のただ中にあって、「僕は、日本人であること、東洋鬼であることを忘れて、人間と人間として、あいての仲間入りしたかった」と書いている。
その関帝廟を探してみたいと思った。

1924年の建物
[こちらも1924年の建物 ジャランジャランする金子光春も目にしていたことだろう]

関帝廟は川沿いにあり、川下側と言うことしかわからないが、海が見えるところまで歩いても20-30分の距離なら、自転車でなら訳ないだろう思ったのだが、どうも違っていた。
Google Mapで周辺の地図を見てみるが、河口までは10キロくらい離れている。
でも、川下へしばらく向かえば、海は見えなくとも、やがて関帝廟は見つかるだろうと考えた。
街中にこれだけ古い建物が残っているわけだし、時間が流れても寺廟は消えてしまったりしないだろうと考えた。

結論から言うと、関帝廟は見つからなかった。
たぶんこの辺ではないかと思われるところに、中国風の廟はあるにはあった。
立派な大きな廟で「四海龍王大伯公」とある。
つまり、関羽様を祀る廟ではなく、竜王を祀っている。
しかも、この廟が建立されたのは1981年と書かれていたから、金子光春が白素貞の思い出を刻んだ関帝廟ではないはず。

四海龍王公伯廟
[四海龍王公伯廟はまるで小さなテーマパークのようだった]

それでも、この廟はバトゥパハの川下に位置して、マングローブがせり出している川沿いの風景は、金子が眺めた景色に近いものがあるのではないかと思った。

廟から眺めたバトゥパハ河
[廟の裏はゆったりと流れるバトゥパハ河となっている]

もちろん、川幅も広いのではあるが、河口まではまだまだ距離もあり、途中湾曲もしているようで、とてもここからは海など見えない。
関帝廟探しは諦めて、河口まで自転車のペダルをこいでみることにする。

作り物のワニ
[廟の中には大きなワニのオブジェ]

町はずれからは丘が連なり、坂道となって、自転車だとやはりなかなかキツイ。
ギアを低速に落としても、大汗をかいてしまう。
そして、なんとか坂を上りきった所で、はるか遠くにマラッカ海が見えた。

遠くにマラッカ海を望む
[丘の上からは遠くにマラッカ海が見えた]

もちろん、丘には人家はなく、殺風景なところで、関帝廟もありそうにない。
しかし、本の中の説明によれば、関帝廟のあるあたりに鉄鉱石を運ぶ荷船(トンカン)の造船所があったようだ。
この丘からバトゥパハの街の方を振り返ると、造船所が見えた。
しかし、やはり関帝廟が近くにありそうには思えないし、白素貞が兄だと紹介した大工が住んでいたようにも思えない。

現在のバトゥパハにある造船所
[丘から見える造船所では大きな貨物船を作っていた]

丘の頂上付近はバトゥパハの名前の由来ともなった石切り場があり、重機で石を切り出していた。
金子光春は「砥いろの粉をかぶった石切場附近、ISK事務所につづく曳船造船所附近を、冬枯れを抱いて、寒気におののきさえして、私はさまよい歩いた」とあるので、やはりこのあたりまで歩いていたのかもしれない。

石切り場
[バトゥパハの名前の由来ともなった石切り場]

丘を越えて、さらに河口を目指して進むと、フェリー乗り場を示す看板が出てきた。
その看板に従って脇道に入って行くと、インターナショナルスクールのような学校に隣接して、フェリー乗り場があった。
フェリーはバトゥパハ河の渡し船なんかではなく、インドネシア、スマトラ島への国際航路のようで、金網越しに高速艇のような船が桟橋に係留されているのが見えた。
対岸のスマトラ島はセラトパンジャンと言うところを結んでいるようなのだが、セラトパンジャンなどと言う地名は今まで聞いたことがない。
時間があれば、ここからマラッカ海峡を越えて行ってみたい気もする。

スマトラへ渡る高速フェリー
[金網で仕切られた制限区域の奥にはスマトラ行きの高速フェリーが見える]

このフェリー乗り場はまだ河口ではないようで、少し戻って本道を進んだところ、こんどは正真正銘の河口に出た。
小さいながらもビーチがあり、公園のようになっていて、近所の人たちだろうか、家族連れで遊びに来ている人たちが何組もいた。
岸辺にはトキワギョリュウの並木も並んでいる。

小さなミンヤクベクビーチ
[バトゥパハ河の河口にはミヤンベクビーチがあった]

バトゥパハ河の河口
[バトゥパハ河の河口はとても広くて、海と河の境目がわからない]

観光客相手に、フライドチキンや清涼飲料水を売る露天商もたくさん出ている。
そうした露天商は、華僑ではなくマレー系の人が多いようだ。
ほとんどが、その場ですぐ食べられるものを売っているのだが、生きたザリガニも売っていた。
マレーシアのザリガニは日本のものよりも黒っぽいようだ。
ザリガニを炭火で焼いて食べさせるようでもないし、とてもその場で食べるものとは思われないが、どうしてこんなところで売っているのかと不思議に思えた。

ザリガニ売りのマレー女性
[マレーシアの人たちはザリガニを食べるのだろうか]

アイスクリーム売りがバイクでやって来た。
ちょっと疲れたし、汗もかき、甘いものも欲しかったので、2リンギットでコーンに3色のアイスクリームを盛り付けてもらう。
しかし、半分溶けかかっているようなアイスで、コーンを受け取った瞬間から、黄色、空色、ピンクの液体が、どんどん滴り落ちてくる。
味は化学薬品的な味がしたが、ドリアンのような風味もあった。

マラッカ海峡
[逆光でマラッカ海峡を撮ったら夕景みたいになってしまった]

ミンヤクベクビーチの公園にもネコ
[ここにもネコがいて、バイクで来た家族連れからフライドチキンのおすそ分けをもらっていた]

周辺を少し自転車で走ったらば、華僑系の小さな集落があった。
住民のほとんどが中国系のようで、しかも漁業従事者の多い漁村のようであった。
入り組んだ路地に南部中国風の家屋が集まっており、台湾の鄙びた漁村に似ている。
海鮮料理を食べさせる食堂もあった。

華僑の漁村
[タイではあまり見かけないような気もするがマレーシアでは中国移民の漁師村が多いようだ]

ここまで、中国系のマレーシア人のことを華僑と書いてきたけれど、厳密には彼らはマレーシア国籍の中国系住民で、「華人」と呼ばれるべきではあるけれど、やはり華人よりも華僑の方が馴染みがあるので、そのまま華僑とさせていただく。
その華僑が、マレーシアはどこへ行っても多い。
特に街中ではマレー系よりも断然多いし、このような田舎でも農村以外は華僑が多いようだ。
そして、学校もマレー系と華僑系では別のようで、中華国民学校と言うのがあちこちにある。
タイも華僑の多い土地ではあるけれど、華僑たちもタイ人に同化していて、華僑系の学校などは目立たない。
マレーシアは民族の二重構造、またはインド系まで含めて三重構造の国のようで、国としてはバランスの舵取りが大変そうに思われる。

漁村内の道教寺
[集落の中には道教の寺院があった]

漁村の黒猫
[うちのネコを思い起こさせるような黒猫]

自転車でまた丘を越えてバトゥパハへ戻る。
帰り道では向かい風が吹いて、よりペダルが重たく感じた。

30分少々で西日に照らされたバトゥパハへ戻ってきた。
金曜日の夕刻ではあるけれど、旧市街の街並みには活気が感じられず、行き交う人も車の往来も少ないので、なかだか映画のセットの中にいるような感じがした。

西日に照らされた日本人倶楽部
[西日に照らされた日本人倶楽部]

1931年の建物 レリーフに象や魚
[1931年の建物 レリーフに象や魚]

両サイドに先立たれた棟割長屋
[こちらは両サイドに先立たれた棟割長屋のようだ]

こちらも植物の攻撃にあっている
[こちらも植物の攻撃にあっている ]

今日のところは自転車乗りもこれでお終い。
宿のレセプション隣の多目的ホール風物置空間に自転車を置かせてもらう。
なんてったって自転車泥棒に警戒しなくては、、
部屋へ戻ってシャワーを浴びて着替えをする。

宿の廊下の照明もシャンデリア
[宿の廊下の照明もシャンデリア]

清潔なバスルーム
[バスルームの掃除は行き届き、リネン類も上々]

すっかり陽が沈んで、夜になっていた。
夕食を兼ねて、ぶらぶらと歩き始める。

ゴミ箱の周りで猫たちが徘徊
[夜のゴミ箱周辺というのはネコたちにとって魅力的な場所なのだろう]

日本人倶楽部だった建物のすぐ裏の路地には、たくさんのネコたちがいた。
寝そべっているのもいるし、リラックスしているネコたちばかりで、警戒心の強いネコはいないようだ。
それに、どのネコも比較的若くて、5歳未満のネコがほとんどのように感じられる。
つまり、ネコたちは多いけれども、あんまり長生きはしていないのではないかと思える。
それと三毛猫の割合がタイより多いようにも思える。

日本人倶楽部裏の路地
[日本人倶楽部の建物の裏を走る路地]

路地のネコ
[路地でくつろぐネコ]

写真を撮ろうとすると近寄ってきてしまう
[写真を撮ろうとすると近寄ってきてしまうネコが多い]

三毛猫の親子
[三毛猫の親子]

静かでノスタルジックな街でネコを見ながら散歩をするのは実に楽しい。
夜道は薄暗いけれども、物騒な感じは全くしない。
金子光春が滞在していた当時は、どの華僑の家々でも、軒廊に食卓やイスを持ち出して、その家の家族や使用人たちの夕餉の光景が見られたそうだが、当世もうこのバトゥパハの旧市街では見かけない。
30年くらい前までは、台湾でもバンコクでも、中国系の人たちが夕涼みを兼ねてか家の前で夕食をしているのをよく見かけた気がするが、たぶん今はどの家庭にもエアコンが普及して、夕食は涼しい屋内で食べ、軒廊にテーブルを並べたりしなくなったではないだろうか。

日本人倶楽部の前にもネコ
[日本人倶楽部の前にもネコ 路上に出てるので、見ててハラハラする]

しかし、食べ物の屋台は辻々に出ているし、大衆食堂などは、軒廊どころか車道にまではみ出してテーブルを並べている。
そんな路上の簡易食堂で炒米粉を食べる。
バトゥパハでの金子光春の食生活は「西ひがし」によれば、「朝は、川沿いにあるアラビア人の店で、例の雲呑の皮のような主食にバターを塗り、濃いコーヒー一杯ですませ、昼は、マーケットで、小さな焼きまんじゅうを食べて、爺さんがびしょびしょとそれも小さな茶碗についでくれる茶を飲む。夜も町なかの中国人の店で米粉(ミーフン)をゴリンしたものを食べておく」とある。
つまり、金子光春の夕食の常食であったミーフンゴリンをこれから食べようというのである。

道端の屋台風大衆食堂
[あちこちの路上に屋台のような大衆食堂が営業していた]

炒米粉は玉子とモヤシと干しエビが入ったシンブルなものであった。
これにスダチのようなタイでも馴染みのマナオを絞っていただくと、干しエビが香ばしく、なかなか乙な味である。
昼に食べた汁なしワンタン麺のようにスープが付くわけではなく、ビールでも飲みながら食べたらさぞ旨いだろうと思うのだが、周りを見回してもビールを飲んでいる人などいないので自重する。
なお、「西ひがし」では夕食のビーフンは炒めたゴリンとなっているが、「マレー蘭印紀行」では汁ビーフン、それも青菜や豚、魚介の入った具だくさんの米粉湯のようである。

焼きビーフン
[シンプルな炒米粉は5リンギットであった]

玄天上帝を祀る廟
[玄天上帝を祀る廟]

まだ何か食べ歩きをしたいと思いながら、夜道を歩いていたら、中国式の汁粉屋が路上に出ていた。
汁粉と言っても、日本のゼンザイなどとは違って、小豆があんまり入っていない、サラサラの甘い汁に、粒小豆が沈んでいるだけのものであったが、夕食後に食べるにはそう悪くもなかった。
それに1リンギットと格安であったこともうれしい。

紅豆湯
[あっさりとした小豆汁の紅豆湯 これとは別に緑豆を使ったものもあった]

バンコクからウイスキーのミニチュアボトルを持ってきているので、部屋にもどってウイスキーを少しひっかけて寝ようと思う。
宿へ戻る途中にパン屋があり、菓子パンなども売っている。
チキンカレーのパンを見つけたので、一つ買ってみる。
これも1リンギットと格安。
私はカレーパンが大好きである。
バンコクではカレーパンなど食べる機会がなかなかないので素直に喜ぶ。
カレーパンとはいっても、日本のカレーパンのように香ばしくドーナツ風に揚げてあるわけではなく、アンパンの餡の代わりにカレーを包んだようなカレーパンであった。
で、味の方だが、アンパン風にしっとりしたパン生地には若干抵抗を感じたが、中身のチキンカレーの方はなかなかのものだった。刺激的にスパイスが効いていて、ウイスキーの肴として申し分なかった。

イミテーション
[ヘッドボードにかかるカーテン、よく見たら絵に描いてあるだけ]

つづく

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