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2017年夏の台湾温泉旅行 3-4日目
7月16日 日曜日

夜明けとともに起き出して、温泉の源泉が湧いている温泉頭へと向かってみる。
しかし、温泉頭への崖に貼りつくような歩道も、途中で崩れてしまって先へ進むことができなかった。
このあたり崖崩れなど自然災害が多発しているのだろうか?
それとも、災害の発生率は変わらなくても、道などの人工の設備が老朽化して壊れたり、崩れたりしやすくなっているのだろうか?

崩れた温泉頭への道
[蘆山温泉地区そのものが安全の理由で行政により廃村指定されているけど、この歩道は補修されるのだろうか]

警光山荘の前には昨晩のネコがいて、この温泉に来ている行楽客に媚を売っている。
このネコ、こうして観光客に愛嬌を振りまくことで餌にありついているのだろうか?
はやく良い飼い主に拾われてほしいものだ。

朝の警光山荘にもネコ
[昨晩見かけたネコは今朝も警光山荘前にいた]

その警光山荘の前に石碑を発見。
「富士温泉開設由来之記」として
"古来此地ニ温泉湧出シ(鳥)鹿等之ニ浴シテ傷ヲ・・"とある。
建てられた年号も彫られているが、判読できない。
碑文の中に「高砂族」という文字も見られるので、原住民の呼称が「蕃人」から「高砂族」に改められた昭和10年以降のものであることは確かであろう。
長野県では雪景色の中で湯に浸かるサルがいるが、台湾でも鹿が湯治をするものなのだろうか?

富士温泉開設由来之記
[富士温泉とは現在の蘆山温泉のこと]

朝食は昨日と違ってバイキング式。
お粥も慢頭もパン、白米もある。
贅沢なものは何もないけれど、バイキングだとあれも、これもと食べたくなってしまう。
トーストにはピーナッツバターもあってうれしい。
これは旨いと感じたのは、見た目は魯肉飯に似ていたのだけれど、大根のような根菜を甘辛く炒め煮したもので、歯ざわりもよく、ご飯が進む。
キャベツ炒めなどもあり、慢頭に挟み込んで食べる。
いやはや、今朝も朝から食べ過ぎてしまった。

朝食会場お粥用のおかず
[豆腐から作ったおかずや漬物類がお粥との相性が良い]

8時40分のバスで埔里へ降りる。
本日の計画は、「遠航空難紀念亭」という1981年8月に墜落した遠東航空の犠牲者を鎮魂碑のある場所へ行くことにしている。
この墜落事故では、放送作家でエッセイストの向田邦子女史が犠牲になっている。
この4月から向田邦子女史関連の本を10冊ほど読んでいる。
エッセイや短編の小説などいろいろだが、戦前、戦中そして戦後という昭和を濃厚に漂わせた作風で、私の母から聞いた思い出話とかぶさるところが多かった。
その母も向田邦子女史のファンであったようで、テレビドラマの「あ・うん」などを一緒に見た記憶がある。
この墜落事故死のことは、ずいぶん後まで、引きずっていたようだった。

今回、向田邦子女史の作品を読み継いでいて感じたのは、なんとなく「航空機による事故死」は偶然の事故ではなく、運命として決まっていたことではないかと思われた。
エッセイの中にも、墜落事故に関するものがあったり、死を予感させるような表現があったり、文章を読んでいてハラハラしてしまう部分があった。
そうしているうちに、事故が起きた場所で空を見上げてみたくなって今回の計画となった。

事故機は苗栗県三義上空で空中分解したもので、周辺の山中にバラバラに散乱したことになっている。その墜落事故の慰霊碑が三義と同じ苗栗県の苑裡を結ぶ峠道の途中に「遠航空難紀念亭」と言う慰霊碑が建てられている。
地図で行き方を調べたのだが、三義からも苑裡からもバス便などはないようで、峠を歩いて越えなくてはならないらしい。
ただ、苑裡からは慰霊碑の手前3キロぐらいのところまで一日5便ほどのバスがあるらしい。
そこで苑裡側よりバスを使い、徒歩で慰霊碑のある峠を越え、三義側へ下ることにする。

苑裡は台湾縦貫鉄道の海線側にある街で、そこまでどうやっていくか調べていたら、台湾新幹線の台中駅と接続する台湾縦貫鉄道山線の新烏日駅から電車があるようなのでそれを利用してみる。

碧湖
[温泉から埔里へ向かう途中、霧社湖とも呼ばれる碧湖が見える]

埔里からは10時前のバスで台湾新幹線台中駅へ行く。
山から下りてくると、やはり台湾の平野部は蒸し暑い。
真夏の陽気だ。
この新幹線の台中駅はとても近代的で立派な駅なのだが、台中の街外れにあるらしく、周辺にはほとんど建物がない。
従来の台湾鉄道の台中駅は台中市内にあり、日本なら「新大阪」や「新横浜」のように新幹線用の新駅は「新台中」となりそうなところだけれど、そうはならず新幹線の台中駅は台湾鉄道では「新烏日駅」となっている。
どうせ"新"をかぶせるなら「新台中」の方がわかりやすいと思うのだが。

新烏日駅
[新烏日駅、気温は32℃]

この新烏日は山線にあり、今から向かう苑裡は海線にある。
山線から海線へ向かうには、いったん南下して山線と海線が合流する彰化へ出て、そこから再び海線に乗り換えて北上することになるのだけれど、海・山それぞれの線で彰化の一駅前、成功と追分を結ぶショートカットルートがある。
鉄道紀行もの「台湾鉄路千公里」の中で、著者である宮脇俊三氏は1980年6月に台湾へ初めて旅行し、台湾鉄道全線乗りつぶしを行う。
そのなかで、この山線と海線を結ぶショートカットルートに乗るべきかどうか悩んでいる。
線路があり、しかも旅客列車が走っているなら乗るべきだが、運行している列車は早朝と夜間の2本だけ、もともと営業路線ではないので、無理にこだわるより台中の夜店見学に当てるべきとの結論に達している。
それでも、宮脇俊三氏はきっと心残りだったのだろう。

そして、今回の私は宮脇俊三氏が乗れなかったショートカットルートを使って海線の苑裡へ向かう。
1980年当事と異なり、現在の台湾縦貫線には頻繁に通勤電車が走っている。
しかも、新幹線もあり、海線沿線住民の新幹線利用への便宜と言う意味からもこのルートの需要があって、ショートカットルートに何本もの電車が走るようになっている。

ドアの上の案内表示
[ショートカット区間でのドア上の表示]

11時過ぎのショートカットルート経由の電車に乗り、問題の成功-追分の区間に入ったのだが、別に特別な景色が眺められるわけではなく、ありきたりの景色が続いて海線に合流した。

山線から分離
[ショートカット区間に入り、山線から分離していく]

海線といっても、海岸線沿いを走るわけではなく、鄙びた景色が続く。
台中港と言う駅もあったが、港が見えるわけではなかった。
鉄道の話ばかりになるが、台湾の鉄道も日本と同じ左側通行だと思っていたが、進行方向左側に下り列車とすれ違う。
つまり右側通行になっているようだ。
左側通行と右側通行とが入れ替わるなんてことはナンセンスだけど、どのようにするのか興味も湧く。
どうやらこの入れ替わり場所の手前に単線区間があって、単線から複線になるときに左右が入れ替わるようだ。
しかし、なんで入れ替える必要があるのかよくわからない。

1時間ほどの乗車で苑裡へは12時過ぎに到着。
いい感じの田舎町で、昔ながらの台湾の街角と言った雰囲気が残っている。
古く、朽ち果てかかっているような建物もある。

苑裡の古い町並み
[昔の台湾ではこんな街並みが普通だった 台北でも下町はこんなだった]

遠航空難紀念亭の入り口へと向かうバスの出発時刻まで1時間ほどあるので、この時間を利用して昼食とする。
Google Mapにはここでもお世話になって、「三媽臭臭鍋」のチェーン店を探し当てて、麻辣鍋を食べることにする。
日差しだけは強いのに、眠ったような苑裡の駅前から、しばらく歩いたところに店はあった。
そして、ほぼ満席の大盛況。
ひとつだけ空いていた小さなテーブルについて麻辣鍋を注文。
ただ、メニューにあるのは麻辣鍋は麻辣鍋でも「鴨血麻辣鍋」となっている。
麻辣鍋は食べたいけど、アヒルの血は勘弁してほしい。
タイでも台湾でも豚やアヒルの血を固めたゼリーは人気なのだが、私はスープやカレーの中にこれが入っていると貧血になったように、血の気が引いて気分が悪くなってしまう。
店の入り口近くの調理場へ足しを運んで、「鴨血を入れないでほしい」と特別注文する。

麻辣鍋(鴨血抜き)
[特別注文した麻辣鍋 140元也 ソフトドリンクとアイスのセルフサービス付き]

遠航空難紀念亭は苑裡と三義の境にあり、山の中の峠道のある。
その峠の手前「観音廟」と言うところまでバスが通じている。
バスの営業所で観音廟行きの時刻を確認しようとしたら、「観音廟は観音廟行きのバスでは行けないよ」と訳のわからないことを言われる。
「観音廟へは通りの向かい側からバスに乗るように」と言われる。

よくよく話を聞いてみると、バスの行き先になっている「観音廟」と言うバス停に、現在は観音廟はないそうで、大甲にある有名な媽祖廟へ行こうとしているものと思われたらしい。
誤解を解いて無事に観音廟行きのバスに乗る。
乗客は私一人だけ、途中で一人拾ったが、その人も終点まで行かずに降りてしまった。

苗栗バス苑裡営業所
[営業所の壁に貼られた時刻と運賃表]

その終点である観音廟だが、本当に観音廟なんてなさそう、それどころか周りには何にもないところで、どうしてこんなところにバスが通っているのか不思議に思われるようなところだった。
バスを降りて歩き始めるとすぐに峠道となった。
峠と言っても自動車の走るような整備された舗装道路で、日差しが強くなければ、楽勝な峠越えである。
高低差も210メートルほどと、大してことはない。

観音廟バス停前
[バスの終点「観音廟」は何にもないところだった 観音様もいらっしゃらない]

峠に差し掛かって、見晴らしが利くところから振り返ってみると遠くに台湾海峡がぼんやりと見える。
正面は小高い山並みが立ちはだかるように続いている。
峠の傾斜を緩めるためか、道路は右へ左へと大きく湾曲しながら登っている。
次第に樹林が密になってくる。
木々の間から、空を見上げる。
1981年の8月に、この上空で向田邦子女史を乗せた遠東航空機は圧力隔壁の損傷から空中分解している。

遠くに台湾海峡を望む
[峠道に差しかかり、振り返ると遠くに海が見える 台湾海峡]

向田邦子女史のエッセイの中でアマゾンへ旅行したときのものがあり、アマゾン奥地へ向かう予定の飛行機が直前に墜落してしまい、墜落してもアマゾンではゴルフ場にヘアピンを落としたようなもので、捜索のしようもないと聞かされ、奥地へ向かうかどうか躊躇したことが書かれている。
単身捜索に向かいパラシュートで現場へ舞い降りたアメリカ人が二重遭難したともある。
しかし、女史は恐怖心をいだいたまま奥地へと飛んでいる。
が、その奥地から戻ってみると、墜落事故から二週間後、墜落機の乗客であった一人の少女が密林を歩き通して救出され、大スターになっていたとも書いている。
しかし、この台湾での墜落事故では、乗客乗員の全員が死亡している。
しかも、自宅に空から人が降って来たことに驚いた老人が心臓麻痺で亡くなっている。

峠道から見上げた空
[峠道の両脇は深い森林で、見上げると枝を茂らせた木々の間から空が見える]

向田邦子女史は、台湾での事故に遭う直前に書いたエッセイ(ヒコーキ)の中で、飛行機の客室乗務員に向けて「本当に平気なんですか」「こわいとは感じないのですか」「本当はこわいのけど、(略)客足にひびくので、つとめてにこにこしているのではないのですか」といったことを書いている。
遠東航空の事故から、4年後に日航のジャンボ機も圧力隔壁の損傷から、尾翼をはじめ、機体から部品を脱落させながら、御巣鷹山に墜落している。
この事故では女性ばかり、客室乗務員を含めて4名が救出されている。
この日航事故を私は母と台湾旅行中に当時台北の夜店街の中心であった円環公園の屋台で食事中に、屋台の白黒テレビで見て知った。

深い森の中に通じる峠道から空を見上げて、事故直前まで普通に空を飛んでいた飛行機が、突然空中分解してバラバラになって落ちてくると言うのがどんな情景だったのだろうかと想像してみる。
地上から何千メートルもの上空で、破裂するようにバラバラになり、地上へと落ちてくる。
そのとき、乗っていた人たちはどんな状況にあったのだろうか?

苑裡と三義の境界
[峠の頂上あたりが苑裡と三義の境界に当たるらしい]

45分ほど歩いて遠航空難紀念亭に着いた。
斜面にへばりつくように台湾風のお堂が建てられており、慰霊碑が祭られている。
お堂へと続く階段を登り始めると、激しく数匹のイヌに吠え立てられた。
イヌたちはまるでここの番人か、墓守でもでもしているかのようにこのお堂に住みいているらしい。
食べ物は、このお堂へ来た人が置いていった供物をあさっているのだろうか。
事故からもうすぐ36年も経つが、イヌたちが食いつなげるほどの食べ物が今でも置かれているのだろうか?
峠にはまったく民家を見かけなかったし、他にイヌたちが食べ物を得られるあてはなさそうだ。

遠航空難紀念亭
[苑裡と三義の境界近くに遠航空難紀念亭がある]

慰霊碑があり、その前にペットボトルの水が3本供えてある。
ペットボトルは長い期間屋外に置かれていたためか、かなり汚れが付着している。
その横には、化粧品も置かれていた。

慰霊碑
[お堂の中には犠牲者の名前が刻まれた碑が収められている]

私は手ぶらで来てしまったが、慰霊碑の横には線香の束とライターがあった。
勝手に線香をあげさせてもらう。
ライターも錆付いており、なかなか火がつかなかったが、なんとか3本の線香を香炉に立てられた。

遠航空難紀念亭の犬
[慰霊碑を守るように数匹のイヌが棲みついていた]

この碑は事故からほぼ二週間後の9月6日に台湾仏教会苗栗支部によって作られたことになっている。
事故機の犠牲者全員の名前が彫られており、中国名の他に、日本人とアメリカ人の名前があり、向田邦子女史の名前もある。
向田邦子女史を含めて日本人女性の名前が3名見受けられ、3名とも名前に"子"が付いている。
当時はまだまだ女性の名前に"子"が付いているのが当たり前だったのだろう。
なお、日本人の名前の中で、"子"が付いているのは、この3名だけではなかった。
もうひとり"高橋 子"と彫られた名前もある。
これは"子"の前にある文字を彫り忘れたものだろうか?
同じ犠牲者の中に"高橋真策"と言う名前もあるので、その方は高橋真策さんのご家族の一人なのだろうけれど、これが文字の彫り忘れをされた奥さんなのか、それとも彫り忘れではなく、高橋真策さんの子供なので、単に"高橋 子"としたのか判然としない。
もし掘り忘れなら、ぜひとも欠落した文字を加えてあげたいし、奥さんにしろ、子供にしろ、高橋真策さんの隣にずらしてあげてほしい。

日本人犠牲者
[日本人犠牲者]

お堂からは、峠は下り坂となり、三義の方向へ向かう。
三義側も坂道なのだが、苑裡側のように曲がりくねった道ではなく、直線の道だった。
やはり森の中に伸びているのだが、道がまっすぐなので木陰になるところがほとんどなくて、日差しがとても強く、登りよりも暑くて汗をかく。

三義側へ降りる道
[三義の街へと峠を下る道]

峠を下りきると、木彫りで有名な三義の集落に入る。
木彫りの博物館や工房もあるようなのだが、今回はこれらの見学は割愛して、三義の駅へ急ぐ。
だいぶ以前に新線の開通により廃止となった旧山線との踏切を越える。
旧線は廃止後に、観光用として復活し、SL列車の運転なども行われていたようだが、それも何年か前から中止され、線路上にはあちこちに背の高い雑草が伸びたりしている。

旧山線の踏切
[山の中をトンネルで通過する新線が開通して、峠越えの旧山線は廃止されたが、まだレールは敷かれたまま]

三義の集落に入ってからが距離はたいしたことはないはずなのに、ずいぶん長く感じた。
三義は木彫りの町であるとともに客家系の住民が多いところらしく、客家料理を食べさせるレストランや食堂などがある。
客家料理はなかなか食べる機会がないけれど、ずいぶんと以前に台北で客家料理をご馳走になったことがあり、ちょっと濃い目の味付けで、なかなか美味しかった記憶がある。
ちょっと食べて行きたい気もするが、急げば一本はやい電車に乗れるのではないかと思い、素通りする。

三義の中心部
[三義の中心部 以前廃止された旧山線に観光用でSLを走らせていた名残りの図案]

三義の駅には乗ろうと思っていた電車の時刻よりだいぶ早くつくことができたが、一本前の電車はすでに出てしまった後で、駅の待合室でしばらく時間を潰すことになる。
田舎の駅なので、待合室にエアコンは入っていない。

鉄道で台北へ向かうのたがが、途中の竹南と言うところから台北までは座席指定の快速復興号の切符を予約してある。
これから乗る三義からの各駅停車の電車に乗っても台北まで行くし、到着時間もわずかだけれど、乗り換えずに行った方が早くつくのだけれど、私は復興号に乗りたかった。
昔、復興号にはずいぶんと乗ったが、いまは臨時列車として走っているくらいで、ほとんど乗れる機会がない。
それが日曜日の夕方に、台北へ北上する便が走っていることを発見してネットで予約しておいた。
指定席の快速だけれど、運賃は各駅停車の電車と同額で、お得でもある。

三義から竹南へ向かう電車は混雑していた。
つり革につかまることはできるが、通勤ラッシュ並みに混雑している。
地方から台北に戻るには適当な時間帯で、しかも高速道路のように渋滞もないから、週末の帰省先から台北へ戻る人には都合がよいからなのだろう。
私の前に立っているカップルはベトナム人であった。
台湾にはずいぶんとたくさん東南アジアからの出稼ぎ労働者が入っているようで、ベトナムやフィリピン、タイなどの言葉で書かれた看板や食料品を扱う店をよく見かける。

三義を出てから苗栗など大きな駅を過ぎても、電車の中は混雑したままで、降りる人より乗り込んでくる人が多い。
乗り換えたり、多少台北まで時間がかかっても、指定席の復興号を予約しておいてよかったと思う。
竹南から台北までは座っていけるのだから、、、。

竹南に到着した復興号
[竹南駅で復興号に乗り換える]

復興号も混雑していた。
通路に立つ人もいる。
しかし、私は指定席なので、ちゃんと座ることができた。
復興号は急行莒光号と同じ車体ながら、緑色のビニールレザーのシートで、莒光号が1両に52席なのに対して、復興号は60席。
つまり座席の前後感覚が若干狭い。
それでも、足元には十分にスペースが確保されている。
たぶん新幹線と同じくらいの間隔だろうか、狭いと言っても飛行機のエコノミークラスやバスなんかとは違う。

復興号の車内
[混んでいた車内も台北に近づくにつれ下車する人が多くなってきた]

座れてハッピーなのだが、台北への到着が7時すぎになることは少し気にはなっている。
今夜の宿は先月仮眠を取らせてもらった北投温泉の月光荘にお世話になろうと考えている。
また、北投温泉では前回行った際に営業再開していることだけを確認した「瀧乃湯」で是非とも入浴してきてみたい。
が、瀧乃湯の最終入場時刻が夜8時までなので、時間的にかなりタイトになっている。

台北駅には数分遅れて到着。
大急ぎで地下鉄に乗り換える。
乗り換え案内などの看板が漢字で書いてあるので助かる。
タイにいるとタイ語の看板ばかりで、いつも大変苦労している。
英語も付されていたとしても、やはり漢字の看板にはかなわない。

地下鉄に乗ってもハラハラし通し。
駅から駅への一区間の走行時間がだいたい1分、そして駅でドアが開いてから閉まるまで30秒ほど、早く北投へ着かないかと思う反面、あんまり早く時計の針が回ってほしくないと願ったりもする。

北投駅には8時15分前に到着。
瀧乃湯へはここで支線に乗り換えて新北投からの方が駅からの距離が近い。
しかし、支線の出発時刻まであと7分待ちらしい。
しからば、支線に乗り継がずここから瀧乃湯へ向かったほうが良さそうだと判断。
駅から瀧乃湯のある温泉公園方面へ小走りする。
ロータリーの交差点を抜けてすぐに今夜の宿と考えている月光荘の看板が見えてくる。
瀧乃湯も大事だけれど、今夜の寝床も確保しておきたいので、急いでいるが月光荘に飛び込む。
空き部屋もあり、今回は3階の部屋に通される。
宿泊料は700元。
瀧乃湯で入浴するための手ぬぐいと石鹸だけを持ち、再び瀧乃湯目指して、さっきよりももう少し早く走る。
温泉公園に沿った道は坂道で走ると息が切れるが、これも辛抱。

ギリギリセーフで瀧乃湯へ到着。
入浴料は再開にあわせて値上げされて150元になっていた。
「入浴は9時までだよ」と告げられる。
また、ロッカーのキーも渡される。

瀧乃湯
[受付終了間際で瀧乃湯に飛び込む]

瀧乃湯の外観はほとんど変わっていないが、内部は完全にリフォームされていた。
太くて黒い柱など骨組みはそのままだが、鍵のかかるロッカーのある脱衣室があり、浴室内ではシャワー付の洗い場もある。
浴室や浴槽の北投石は組み直しをしたのか、歪みがなくなっている。
これなら150バーツに値上げしただけの価値は十分ある。

瀧乃湯脱衣場
[瀧乃湯の脱衣所(営業終了時に撮影)]

お湯は、熱い浴槽と激熱の浴槽の二種類ある。
まずは熱いほうへ入ってみる。
酸性度がとても高く、濃厚なかけ流しの湯なので、熱いほうの湯で肌がヒリヒリとしてくる。
先客の入浴客も何人かいるが、浴槽には入らず、浴槽の外で休憩をしている。
そう、私も5分と入っているとフラフラになって休憩しなければ倒れそうになってしまう。

瀧乃湯の公衆浴室
[瀧乃湯の浴室 熱い湯と劇熱の湯、黒くて太い柱は昔のまま(営業終了時に撮影)]

肌がヒリヒリするが、それが温泉成分のためなのか、ただ熱いためなのか確認するために、温泉の湯で顔を洗ってみる。
お湯がとんでもなく目に滲みる。
うん、間違いなくこれは北投温泉の青湯であると実感する。

しばらく休憩してから激熱の方にも入ってみる。
すごく熱い。
なんとか浸かっていられるが、身体を少しでも動かすと、熱さが倍増するので、入浴中はじっとしているしかない。
この激熱側の浴槽の湯だけれど、熱いだけではなく、なんとなくレモンのような臭いもする。
入浴剤など入れてるわけではないだろうし、酸性度が強いとレモンのような臭いがするものなのだろうか?

瀧乃湯洗い場
[ちゃんとした洗い場もできている なおここの温泉は石鹸の泡が立たない(営業終了時に撮影)]]

9時の営業終了10分前になると浴室には私ひとりになった。
女湯側からはまだお湯の音や声が聞こえるが、男湯は静かだ。
私はせっかくなのでギリギリまで濃厚な北投青湯を楽しませてもらう。
もっとも、入浴している時間より、浴槽の外でノビている時間の方が長かった。

瀧乃湯屋外休憩場所
[建物の外にも休憩スペースが作られている 奥には大正時代の皇太子行啓記念碑]

9時に瀧乃湯を出て、温泉公園に沿って流れる小川を眺めながらちょっと休憩。
熱いし、成分が強烈なので、この温泉に浸かるととても疲れる。

瀧乃湯前の小川
[瀧乃湯前には小川があり、小さな滝になっている せせらぎを聴きながら涼むと気持ちいい]

スーパーに立ち寄って缶ビールを2本買う。
本当は一本で十分なのだが、スーパーでは2本で50元とセールをしていたので、つられてしまった。
温泉公園内のベンチに腰掛けて、プシュとやる。

台湾ビール2缶で50元
[これは安いと飛びついたが、よく見れば6元しか安なっていない]

月光荘近くのロータリーの先にちょっといい感じの夜店外があった。
にぎやかな夜店外というより、哀愁の漂うような、昭和30年代的な夜店街であった。

哀愁漂う北投の夜店
[この哀愁漂う夜店はまるで映画のセットを見ているような錯覚を引き起こしそう]

まだ夕食を食べていないので、そろそろ何か食べたいとは思ったのだが、夜店街の雰囲気は良いのだが、私が食べたくなるような料理を扱っている屋台や店はなく、夜店のはずれにある永和豆漿大王で棒餃子(鍋貼)を食べる。
棒餃子は、すでに焼いてあるものを蒸篭で蒸して温め直し、さらにちょっと鉄板で焼くだけなので、焼きたての香ばしさはない。
やはり棒餃子は専門店で食べるほうが美味しい。

行列のできるスイーツ屋発見
[夜店の中に行列ができる店があった ここはスイーツの店だった あんまり興味ないので素通り]

棒餃子だけでは食べたりなかったので、さらに歩き回って、小籠湯包の専門店あったので、小籠湯包を包んでもらい月光荘に戻って食べることにした。

夜食に小籠湯包を買う
[小籠湯包は少し時間が経つとすぐペシャンコになるのでテイクアウトよりイートインにすべきだった]

月光荘にもどったらもう夜の11時あったが、帳場に宿の大奥さんが座られていた。
女性の年齢を公表するのは失礼かもしれないが、93歳。
しっかりされてて、肌の色も良く、大変お元気そう。
そして、とても上品な日本語を話される。
次回来るときは、もう少しゆっくりと時間をとって、ぜひこの大奥さんの昔話などを聞かせてもらいたい。
そのためには、なるべく早く再訪しなくては。

月光荘
[ここに温泉旅館があるとは信じられない環境の月光荘]

月光荘の3階の部屋はなかなか良い部屋だった。
部屋の前で靴を脱ぐようになっているので、部屋の中では裸足で大丈夫。
エアコンもあるし、日本語のテレビも映る。
ただひとつ、今回の月光荘で残念だったのは、源泉からお湯を送ってくるパイプが故障して、温泉のお湯が出なくなっていたこと。
現在修理中とのことであったが、明日の朝は早起きして、月光荘の温泉を楽しもうと期待していたのだが、これも次回のお楽しみとなってしまった。

<HR>

翌朝は、6時に月光荘を出て空港へ向かう。
MRTを円山で降りて、空港行きのバスに乗り換える際に、屋台で朝食として蛋餅と豆乳をいただく。
油条にしても、蛋餅や焼餅にしても、台湾の屋台で食べる朝ごはんが好きだ。
もともとこれらは戦後になって中国国民党と一緒に大陸から入ってきたものらしいが、もうすっかり台湾の食として定着している感がある。
戦前の日本が台湾に残したものもあるのと同様、戦後の台湾へ流れ込んできたものも包容して台湾が台湾らしくなっているのだと思う。

台北市内の故宮博物院行き路線バス
[バス停に故宮博物院行きのバスが入ってきた 観光客のためにか、ひらがなやハングルで故宮博物院と書いてあるが、漢字のままの方が日本人にはわかりやすいと思う]

空港に到着して、チェックインをする際に、来るときと同じように「なるべく前方の席を」と希望したのだが、「席は選べません、自動的に割り振られます」とつれない回答。
自動的に割り振られた席は34Eと言う両脇を挟まれた狭いシートであった。
トイレにも立つことができず、膝を前の座席で押し付けられながら、窮屈に耐える数時間を過ごした。

ドンムアンの空港に降り立って、やっと身体を伸ばせたと思ったら、入国審査が長蛇の列。
きちんとした誘導もしていないので、どこが行列の最後尾かも良くわからない。
入国審査のブースはたくさんあるのに、係員が入っているところは何箇所もない。
そして係員もやる気がないのか、ノロノロとやっている。
LCC専用空港と成り果てたドンムアン空港で、客層も一段下に見下されているのか、まったく気分が悪い。
タイへ到着した第一歩がこれでは、外国人観光客が抱くタイのイメージを大幅に削いでしまうだろう。
お金を短略的稼ぐことばかりのタイの観光行政、外国人観光客の訪問者数が多いだけで、決して誇れたものではないと思う。

アパート前の工事現場
[空港からの帰り道、アパート前の路地ではそれまで空き地(湿地)だったところに重機が入り、なにやら工事が始まっていた]

<完>

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2017年夏の台湾温泉旅行 2日目
7月15日 土曜日

今回の台湾旅行の主目的は、明日の遠東航空墜落紀念堂への参拝であり、廬山温泉で「これだけはやっておきたい」といった計画は立てていなかった。

快晴
[ネットで調べた天気予報は毎日「雨マーク」だったが、この青空]

それが昨日、廬山園ホテルの宿泊料が手頃だったので、2泊することにしたため、今日は一日廬山地区にいることになった。
さて、何をするか、、、。
前回まで二回続けて合歓山越えをしてきたが、峠越えだけで合歓山の頂上には立っていないから、合歓山までバスで行って、ちょこっと山頂までハイキングしようか?
今頃はシャクナゲが見られるんではないだろうか?
なんてことも考えたが、バスの時間を調べてみると合歓山での滞在時間はそれほど長くない。
しからば、これは前回、奥地の静観部落まで歩いた時に、道の途中で能高山越えの別れ道を見かけて、学生時代に能高山を越えて花蓮まで抜けたことを思い出して、感慨にふけった。
「できるならばもう一度挑戦してみたい」と思い続けている。
もちろん、一日や二日で行ってこれるルートではないし、どうやら能高山を越えた花蓮県側では歩ける道がなくなっている感じだ。
しかも、このルートは以前から花蓮側からの送電線の保線管理のための作業路になっていたのだけれど、その送電線も最近役目を終えて廃止になったらしい。
そうなると、ますます道がどうなっているのか怪しいものである。
一方、南投県側は登山路としてその後整備されているようだ。
Google Mapではストリートビューまでできるほどだ。
日帰りでどこまで行けるかわからないが、現在は屯原登山口と言うところまで車が走れる道ができているらしい。
廬山温泉の先の廬山部落まではバスも走っており、その廬山部落から屯原登山口まで距離にして9キロ、Google Mapでは徒歩3時間と出てくる。
往復で18キロほど。
ちょうど良さそうなので、この計画を採用する。

犬の同伴ができる宿らしい
[廬山園ホテルはイヌと一緒に宿泊できるらしい]

お粥と饅頭の朝食をたっぷり食べ、8時50分のバスで廬山部落へ向かう。
温泉から部落まで歩けない距離ではないけれど、歩けば1時間半はかかる。
バスに乗ることで朝食をのんびり食べられる。

9時15分にはバスの終点である廬山の小学校前に到着。
この小学校の少し先には警察の駐在所があり、昔はここの検問を入山許可書なしでは通れなかった。
その入山許可も簡単には手に入らないため、学生の時は夜明け前の夜陰に紛れて抜けたものであった。
しかし、いまはかつてのような「山地管制区」はなくなり出入りも自由。
堂々と駐在所の前を通れるのだが、Googleの地図をよくみると、廬山小学校の裏を拭けて茶畑の中の道を通った方がずっと近道であることを発見し、駐在所の前を通らずに小学校脇の民家の軒先を抜けて進んだ。

蘆山部落のバス折り返し場
[廬山部落のバス折り返し場の前には教会がある]

急傾斜の斜面にお茶が栽培されている。
以前はもっと大々的にお茶を栽培していて、農作業に従事している人たちが道端で昼食をとっているのを見かけたことがある。
そのおかずにはお茶の葉っぱを煮しめた様なものを食べていた。

急な斜面は茶畑
[廬山部落周辺では急斜面で今でもお茶の栽培が盛んにおこなわれている]

30年前に能高越をしたときは、廬山の部落を抜けたところで軽トラックに拾ってもらって、茶畑の中の道を荷台で揺られた。あのときはどのあたりまで乗せてもらったのかはっきりしないが、作業場へと]向かう別れ道のところで降ろしてもらったような気がする。

青空と白ゆり
[急斜面には白いユリの花も咲いている]

30分も歩くと茶畑はなくなり、森の中に続く道となる。
ちゃんと舗装もされており、ときどき車も行き来する。
道の脇には塩ビのパイプが走っている。
沢の水を集めて農地へ送るための送水パイプのようだ。

送水管からの水漏れ
[道端の送水管から勢いよく沢水が漏れだしている]

一時間少々歩くと、勾配がきつくなった。
九十九折れの道は舗装こそされているが、道幅はだいぶ狭くなり、また路面も荒れ始めた。
私の運動靴は靴底が薄く、そしてかなりすり減っているので、砂利や石ころを踏むと足の裏がとても痛い。
今回の旅行前に新しい運動靴を買おうかどうか迷っているうちに、時間切れとなってそのまま出発してしまったことが少し悔やまれる。

蘆山部落が遠くに見える
[1時間も歩いたら廬山部落も遠くになった]

台湾中央山脈の分水嶺
[台湾中央山脈の分水嶺が見える]

道端には朱色の山つつじがあちこちで咲いている。
山つつじだけではなく、黄色と黒のしま模様になったヘビもいた。
それほど大きなヘビではないが、私に驚いたのか、茂みの奥へ逃げ込もうとするのだが、茂みも崖のように急な斜面になっており、足も手もないので踏ん張りがきかず、ずるずると滑って登りにくそうにしていた。

山つつじ
[曲がりくねった道のあちこちで山つつじが朱色に咲いていた]

Google Mapでは片道3時間となっていたが、2時間半くらいで屯原登山口までたどり着けるだろうと考えていた。
廬山から温泉への戻りのバスは午後2時40分発なので、ちょうど12時ぐらいまでに屯原登山口へたどり着けば御の字という計画であった。
しかし、歩き始めてもうすぐ2時間と言うところで、急に前方にハイカーの集団が見えてきた。
さらに近づいてみると、もう屯原登山口に来てしまっていた。

屯原登山口
[歩き始めて2時間ほどで当初の目的地である屯原登山口に到達]

折り返し予定時刻は12時にしていたから、まだ40分はある。
せっかくここまで来たのだから、少しだけでも能高越えの登山道を歩きたくなった。
2キロくらい歩けるだろう。

能高越えルート
[能高越え登山ルートマップ]

土曜日と言うこともあってハイカーが何パーティーも来ている。
登山道として整備され、一般に開放されたからなのだろうけど、30年前とは大違いだ。
あの時は、途中誰にも出会うことはなかった。
唯一、天池の山小屋に入っていたら、山地管制区警備の若い兵隊さんにあったくらいだ。
山地への侵入が禁止されている当時、戒厳令も敷かれており、違反者は共匪の疑いがかけられかねない状況下、あの兵隊たちは私たちを咎めることもしなかった。
それに部隊へ帰って上官には報告しなかったのだろうか?

最初の山崩れ箇所
[登山道の先は崖崩れになっている]

細い登山道を歩き出してすぐに大規模な土砂崩れの箇所に出くわした。
もともと吊り橋がかかっていたようなのだが、吊り橋も見事に破壊されていた。
そのガラガラと崩れてきそうな斜面にも、登山道は続いている。
そう、確かに昔もあちこちで崖が崩壊していたり、斜面が谷底まで抉れている箇所があった。

断崖に貼りつくような登山道
[断崖に貼りつくような登山道]

支柱だけ残る落ちた吊り橋
[支柱だけ残る落ちた吊り橋 ]

既に電力の送電は廃止されたことになっている送電線もまだ残っており、あんまり大きくはないがところどころに鉄塔が立っている。
30年前、遭難しかけながらなんとかたどり着いた磐石保線所の管理人に、この送電施設を建設する際の苦労話を聴いたことがある。
山の人たちは、重さが100キロ近い資材を担いで山を登って、鉄塔を建設していったそうだ。
写真も見せてもらったが、背負い紐は肩にかけるのではなく、額にかけるスタイル。
そんな苦労をして建設された設備も役目が終わって廃止になるとは、歳月の流れに哀惜を感じる。

送電鉄塔
[送電線の鉄塔に沿って登山道は続いている]

何人かのハイカーと言葉を交わす。
みんな今晩は天池の山小屋に泊まるらしい。
私も行ってみたい。
30年前はドス黒い木造官舎のような建物だったが、近代的な山小屋になっているらしい。
天池までは登山口から13キロほど、この時間からの日帰りは無理だろう。
行ってみたいけど、今回は諦めざるを得ない。

大崩落現場
[壮大な規模で山が崩れている]

12時までの40分だけ歩こうと思っていたが、もう少しだけ、もうちょっと先までと、予定時刻過ぎても歩き続けたら、時刻は12時20分になってしまった。
登山口から3キロくらい奥へ入ったことになるだろうか?

沢に架かる橋
[沢には橋も架かっている]

戦前は尾上と呼ばれたところの近くで、駐在所があった場所。
昭和5年の霧社事件当時、現在の温泉のあるたありマヘボ部落で原住民側が蜂起したのが午前4時半、そして廬山部落にあったボアルン駐在所が襲撃されたのが午前6時、トンバラ駐在所は午前8時、そして尾上駐在所は正午頃に襲撃され焼失したと当時の総督府理蕃課長の森田俊介氏の著書に記されている。
それぞれの襲撃に際しては攻防がありながら、廬山部落からここまで4時間で到達していることになっている。
さらにその先の能高駐在所、現在の天池は3時間後に襲撃されている。

能高山
[能高山の雄姿が間近に望める]

廬山部落からここまで距離にして12キロほど、私はどこかで攻防戦に巻き込まれることもなく、お気楽に3時間かけて登って来たわけだが、廬山から温泉へ戻る最終バスの出発まであと2時間少々しかない。
下り坂とは言え、足場の悪い崖に張り付いたような個所や土砂崩れの箇所もある。
脚力にはまったく自信はないが、ここは韋駄天のように山を駆け下りなくてはならなさそうだ。

小さな崖崩れ
[登山道は整備されているが、あちこちで大小の崖崩れがある]

屯原登山口まで戻り、この先は車の走れる道になり、小走りで駆け下りることができそうに思えた。
荷物はショルダーバッグひとつと身軽だけれど、下り坂を駆け出すと、筋肉が弱いためブレーキが効かない。
九十九折れのコーナーなど曲がり切れなくなってしまう。
下り坂でジョギングは不可能と判断して、速足で山を下る。

ここから路面がよくなる
[九十九折れを抜けると道の舗装状態が良くなる]

途中で、山から下って来る車に「乗せてくよ」と何度か声をかけられたが、バスの時間は気になるものの、私は自分の足で戻りたかったので、遠慮させてもらった。
廬山部落まであと2キロほどのところから茶畑になった。
そして、別れ道がある。
30年前に軽トラックに便乗させてもらったのはこのあたりまでだったのではないだろうかと思う。

製茶作業場への分かれ道
[製茶作業場への別れ道]

このあたりのバスは運転手の気分次第で、予定時刻より少し早めに出発してしまうことがよくある。
だいたいお客が誰も乗っていないなんてことが当たり前みたいな環境なので、バスの運転手もまさかバスに乗り遅れまいとスタコラと山を駆け下りてくる私など想像もつかないだろう。
そのため、できれば出発10前には部落へたどり着きたい。
茶畑の中をクネクネと下り坂が続ているるが、クネクネなんてまどろっこしい。
急傾斜であるが茶畑の中を突っ切りショートカットする。
よくできたもので、茶畑のある急な斜面には農作業用に、古タイヤを重ねて作った階段があった。
これが実に都合が良い。
ゴムタイヤなので滑らないし、弾力があるので、すり減った靴底でも痛くない。

部落の軒先を抜ける道
[部落の軒先をくぐるように集落内の道をバス乗り場へ急ぐ]

バス折り返し場には、2時半にたどり着くことに成功。
まだ、バスは発車していなかった。
間に合ったお祝いに雑貨屋で缶ビールを買う。
キリンビールの"BAR BEER"と言うブランド。
どうもこのあたりではやたらと人気のブランドのようで、このあたりの道端に投げ捨てられているビールの空き缶はたいていがこの"BAR BEER"と言う黄色い缶であった。

BAR BEER
[このあたりで人気があるらしいキリンのBAR BEER、初めて飲んでみた]

味の方は、キリンラガーの苦みが効いた味と違い、ちょっともったりした感じの味であった。
ビールを飲み干したところでバスは出発。
予想通り乗客は私一人だけであった。

宿に戻って、プールでひと泳ぎ。
他に誰も泳いでいないので、さして大きくもないプールだけれど、貸切状態で悠々と泳げる。
そのうちに宿のイヌがプールサイドに遊びに来た。
イヌと一緒に泳ぎたかったが、ここのイヌは金槌なのか、イヌカキもできないようで、プールサイドから、ちょっと足を水に浸けるだけで。泳ごうとしない。

プールの後は大浴場で、のんびりと温泉に浸かる。
今日は週末と言うこともあり、この廬山園ホテルにもだいぶお客が入っているようで、大浴場手前のSPAと呼ばれる施設は賑わっていた。
SPAと言っても、水着を着て入る泡風呂や打たせ湯、寝湯があるくらいで、サウナの温度も60度ほどとかなり低い。
やっぱり、SPAなどより私には露天風呂風の温泉の方がいい。
それに、こちらは他に誰も入浴客がいないので静かだ。

温泉街の土産物屋に小米酒と呼ばれる粟酒を受け取りに行く。
山から戻った時に、土産物屋で小米酒を買い、夕食時に飲もうと思って、夕方まで冷蔵庫で冷やしてもらっていた。

夕暮れの温泉街
[黄昏時の廬山温泉街]

夕食は宿泊客が多いからか、大きなホールでの設営となっていた。
もっとも、食べるものは昨晩と同じような給食風のプレートに載せられている。
そのなかの川エビとピーナッツを揚げたものがやたらと美味しい。
小米酒もちょっと甘いけれど、ほど良い酸味もあり、どぶろく風でうまい。
キンキンに冷えているからグビグビと飲めてしまう。

食堂ホールはお客が多いので、ざわざわと騒がしいが、食器がぶつかる音や飛び交う中国語や台湾語にかき消されながらも、BGMではシャンソン風の古いフランス語の歌曲が静かに流れている。

温泉2晩目の夕食
[今晩の夕食 冷えた粟酒も旨い]

今夜の料理も豪華さはないけれど、家庭的な優しい味で、大変満足する。
デザートには黄色いスイカをひと切れいただき、満腹となる。
台湾の人たち、お酒好きな人が多いはずだけれど、私のように飲みながら食事をしているお客はほとんどいなかった。

夕食後も温泉に浸る。
こんどは一人先客がいた。
どうも宿泊客ではなく、日帰り入浴のようで、リュックサックが棚に置かれていた。
山にでも登ってきて、ひと風呂浴びて家路につくつもりなのかも知れない。

小米酒はしばらくたってから酔いが回ってくる感じで、温泉に浸かっていたらいい気分になってきた。
そして、こんどは外からカラオケが聞こえてくる。
聞き覚えのある懐メロ風の伴奏。
ちょっと甲高い発声ながら、歌詞も日本語。
「しみーずぅ、みーなとのぉ、めいーぶーつーはー、、、」
清水の次郎長、旅姿3人男ではないか。
21世紀の台湾でも、まだこんな歌をカラオケで歌う人がいるのだなぁと感動してしまった。

廬山温泉のカラオケと言えば、碧華荘の主人夫妻に誘われて、温泉場内にある警光山荘のカラオケに行ったことがある。
奥さんに一緒に歌いましょうとマイクを押し付けられたが、奥さんの選曲はフランク永井の「有楽町で逢いましょう」。
私はマイクを握っただけでほとんど歌えなかった。

部屋に戻ってテレビをつけたら、これまたちょっと古い時代劇ドラマ「暴れん坊将軍」をやっていた。
白い馬にまたがった松平健の若いこと!

昭和生まれには、このタイムスリップしたような台湾が面白くて仕方がない。

旧警光山荘の前で見かけたネコ
[旧警光山荘前にはネコがいた やたらすり寄ってきたが捨てネコだろうか?]

つづく

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2017年夏の台湾温泉旅行 初日
7月14日 金曜日

ノックスクート航空で早朝の台北空港に到着。
これから17日までの4日間、台湾。
時刻は午前5時。
台湾での行動パターンもほぼマンネリ化しており、廬山温泉へ行くことにしている。
早朝の到着で、入国審査も並ばずにスムース、もともと預け荷物もないので、楽勝で5時半発の台中行き国光バスに乗ることができた。

ノックスクート
[ノックスクートの面構えは「鳥」 タイ語で鳥のことをノックという]

昨晩のノックスクート便には空席が目立ったが、私の搭乗券に指定された座席は34Aとなっていて、3列並びの窓側。
そして、隣には若いカップルが座っている。
離陸後、3席とも空いているシートへ引っ越して、横になって休ませてもらう。
一応シートベルトを巻きつけて横になっているので、寝心地はあんまりよくない。
そればかりか、うとうとしていたらスチャワーデスがやってきて、「元の席へ戻るように」という。
もし、この席がよければ追加料金が必要とのこと。
なんだか、この航空会社も世知辛くなってきたようだ。

台中には7時半過ぎに到着。
しかし、台中の駅前がまったく変わってしまった。
正確に言えば、駅前が変わったのではなく、駅が移転してしまった。
移転したのは昨年であり、それからもバスの発着場は変わっていないようだったが、とうとうバスの発着場も変わってしまった。
真新しいバスターミナルにバスは到着。
ここから廬山温泉の入り口、埔里へ行くバスがあるのかどうかよくわからない。
発着しているバスは高速バスばかりのようで、勝手に埔里行きは別の場所だろうと考えて、歩き始める。
もともと台中市内の干城というところが埔里行きのバスの始発になっていたはずなので、そこまでそれほど遠くないので歩いてみる。

埔里行きバスを運行している南投バスの乗り場には、ハイカー風の人たちが大勢並んでいる。
日月潭行きのバスは「満坐(席)」の札を出している。
はて、どうして金曜日の朝なのに、こんなに行楽客がいるのだろうか?
調べてこなかったけれど、ひょっとして今日は台湾の祝日で、三連休の初日とかにでもなっているのだろうか?
増発された日月潭行きの後続バスの行き先表示に「埔里経由」と書かれていたので、運転手に「埔里まで行きたいのだが」と声をかけてみた。
しかし、「ここで待っていれば埔里行きのバスがじきに来るからそれに乗れ」と言われる。
どうやら、このバスも満席らしく、整理券を持った人たちが乗り込んでいく。

8時少し前に埔里行きのバスが来た。
しかし、このバスはガラガラ、ここから乗り込んだのは私だけであった。

1時間ほどで埔里に到着。
そのまますぐに乗り継げば、9:20の温泉行きに乗れるのだが、まだ朝食も食べていないし、ちょっと埔里の町で買っておきたいものもあるので、温泉行きを一本遅らせて10時発のビンに乗ることにする。
買っておきたいものというのは、まず埔里名産の紹興酒。
紹興酒など台湾のどこででも買えるが、やっぱり「埔里」で買うと美味しいような気がする。
それと、スマートフォンをつなぐためのUSBケーブル。
これはさっき空港から台中までのバスに乗っているときに、USBを座席の電源に差し込んでいることを忘れて、スマートフォンを引っ張ったため引きちぎってしまったので、買いなおさなくてはならなくなった。
朝の埔里は市場周辺がにぎわっていた。
バケツには巨大なウナギが入れられてたり、果物や野菜、絞められたばかりの豚など、台湾らしいエネルギーを発散しながら売られていた。
しかし、USBケーブルは見当たらない。
100円ショップのような家庭雑貨の店にも見当たらない。
駄目にしてしまったケーブルはバンコクで25バーツで買ったもの。
日本だって100円ショップで売っているし、台湾でも大体そんなものだろうと思っていた。
が、なかなか売っている店を見つけられない。
コンビニでは売っていたが200元以上もする。
それでも、なくては困るものなので、文房具屋で20%OFFになっていたものを買う。
中国製であった。

朝食には油条と豆乳あたりを食べたかったが、売っている屋台があっても、その場で食べられるようにイスやテーブルがあるわけではない。
どうも埔里の人たちは、テイクアウトを好むようだ。
テイクアウトでも食べられそうなものとして、油条と豆乳の代わりに「飯団(=米ヘンに団の旧字体)」という台湾風おにぎりのようなものを買ってみる。
これ、見た目は巨大なおにぎりそっくりなのだが、作り方がだいぶ違う。
ビニール袋にご飯を敷き、豚肉の煮付け、豚肉のデンブ、油条の刻んだの、漬物、ゆで卵を載せ、さらにご飯で覆ったらば、ビニール袋でギュウギュウと包んで丸くして出来上がり。
ボリュームはメガだし、スタミナ満点で台湾らしい。

廬山温泉には11時過ぎに到着。
予約はしていないが、いつもの廬山園ホテルへ向かう。
今回、宿泊料金が安ければ2泊、もし高いようなら1泊で、明日はどこか別なところへ浮こうかと思っていたが、そんなこと考える必要もないくらいの金額で、今晩は1,200元で、「明日は週末なんでちょっと高くなって・・」と宿の主人が申し訳なさそうな顔をしながら1,500元と言う。
予算内なので、2連泊させてもらう。

午前中だけれどもすぐに部屋へ通してもらう。
渓谷に面した部屋。
窓から渓谷を眺めると、対岸の崖が崩れている。
それに渓谷の流れの色はまるでコンクリートのように灰色をしている。
大雨でも降ったばかりなのだろうか。

大浴場の利用は3時からなので、その前に山歩きをしてくる。
前回と同様、旧マヘボ部落跡を抜けてマヘボ渓を渡り、マヘボ富士と呼ばれた山へ向かって登る。
前回は途中の斜面に貼りつくような耕作地まで登って、力尽きてしまったが、今回はもう少し上まで登ってみようと意気込んだのだが、寝不足と体力不足、さらに朝から飯団ひとつしか食べていないので、一時間ほど登ったら、急激に疲れが出てきてしまった、登り続けるには息が続かなくなってきてしまった。
15分歩いては5分休みをするような有様で、前回と同じ温泉から5キロ地点、高さにして500メートルほど登ってバテてしまった。

マヘボ古戦場跡
[マヘボ古戦場ではモーナルーダオの家の建て替えが行われていた その脇に立つ原住民の等身大人形]

標高1500メートル
[このあたりで標高1500メートル、はるか下に見える温泉街とは500メートルの高度差]

台湾のカップラーメン
[あまりの空腹に、山から下りてすぐ30元でカップラーメンを買う タイと同じで麺以外の具はほとんど入っていないが ボリュームと味はまずまず]

バテバテで宿に戻り、大汗もかいたので、プールで泳ごうかと思ったら、プールの水の交換作業中であった。
プールが駄目なら、温泉へと、海水パンツを手ぬぐいに換えて、いざ大浴場へ向かう。
いつもながら、温泉の温度は少しぬるめ。
熱い湯に我慢しながら入るのが好きだけれども、バテているときは温めの温泉にのんびりと浸かっているのも悪くない。
ここの大浴場は「裸湯」となっていて、温泉入浴時に水着着用義務のある台湾の一般的温泉と異なり、裸で入れる。
つまり裸の習慣がない台湾だからか、それとももともと宿泊客が少ないからか、他に入浴客はおらず貸切状態。
温泉でのぼせてきたら、安楽イスで休憩をし、なんとものんびりできる。
風呂の大きさも大きすぎず、狭すぎず。

温泉大浴場
[誰も入っていないので、浴槽の中から写真を撮らせてもらう 露天風呂のような情緒もあり なかなかよい]

ゆっりと入浴していたら、夕立が来た。
浴場に面して開放されている庭にも雨が降っているのがわかる。
山歩きの途中で降りこめられなくてよかった。
夕立の雨音と重なって、カナカナカナカナとヒグラシであろうか、蝉時雨も聞こえてきた。
ぬるめのお湯に浸かり、夕立の雨音と蝉時雨に包まれているだけで、すごく満ち足りた気分になってくる。

温泉からあがって、缶ビールを一本飲んでから夕食会場へ。
この宿は食事込みなので、宿泊者はみんなこの夕食を食べることになるはずなのだが、夕食は数組分しかセットされていない。
今夜はやはりガラガラのようだ。
料理の盛り付けは給食のプレートのようだけれど、味付けは悪くない。
ボリュームもちょうどよいし、何より持ち込んだ紹興酒、それも温泉で燗をつけてある紹興酒といただくのだから、美味しくいただける。
ご飯もしっかりお代わりさせていただく。

紹興酒
[紹興酒はご飯が進むお酒だと思う]

夕食後、部屋の風呂にもう一度入りなおしてから、8時過ぎには眠たくなって眠ってしまう。

つづく

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