■かれんだー■
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31    
<<前月 2016年08月 次月>>
■直近記事 20 ■
■コメント■
■カテゴリー■
■アーカイブ■
■2001-2004年の記録■
■ぶろぐ主宰者■
■ぷろぐらむ拝借■
BLOGNPLUS(ぶろぐん+)
■その他■
 
■あどみん■
ADMIN ID:
ADMIN PW:
 

不便さNo.1 タイ国鉄スパンブリー線
8月20日 土曜日

タイの鉄道路線の中で気になっていた路線があった。
タイ国鉄スパンブリー線と言ってバンコクから比較的近い路線で、乗車体験してみたいと以前から思っていた。
しかし、近くてもとても不便な運行スケジュールのため、今日まで乗る機会がなかった。
もっとも、その不便さが気になる理由でもあった。

どのように不便かと言うと、このスパンブリー線は1日1往復しか走っていない。
しかも発着スケジュールもバンコク発が夕刻で、終点のスパンブリー着が夜8時過ぎ。
戻りはスパンブリー発午前4時台。
こんなスケジュールではバンコクから近いといっても日帰りができない。

でも、考えてみればスパンブリーに一泊すると決心してしまえば、夕方に出て、翌日の午前中には戻って来れるわけで、小旅行と思えば気軽なものである。

このところ仕事が忙しくて、早朝から深夜まで働き詰めで、寝不足気味。
昨晩も帰りが遅くなった。
週末の午前中は運動をすることにしているが、今朝は起きることができず、昼過ぎまでベッドから抜け出せずにいた。
ようやく空腹で起き出し、チャーハンを作って食べる。
洗濯機も回す。
でも、時間が中途半端。このままではまたベッドに戻って昼寝をしてしまいそうだ。
せっかくめったにない土日2日続けての休みを無駄にしてしまいそうだ。
そう考えていたところ、スパンブリー線のことを思い出して、午後4時過ぎにアパートを出る。

171番のバスに乗って戦勝記念塔を過ぎて下車、少し歩いてラマティボディ病院前駅へ。
ラマティボディ病院駅前と言うのは無人駅で、停留所扱い。
線路わきに簡易なホームらしきものがあるだけだが、すぐ隣に大理石の瀟洒な駅がある。
この瀟洒な駅はタイ王室専用の駅で、駅前には警備兵が午睡の最中であった。
また、ひんやりとでもしているのだろう大理石のホームにも犬が昼寝をしていた。

ラマティボディ病院前無人駅
[ラマティボディ病院前無人駅]

王室専用駅
[王室専用駅 本線上にこんな駅を設置して、王室が利用されるときは一般の列車は運休するしかないのではないだろうか]

5時少し前、4両編成のディーゼルカーがやってくる。
乗車率は50%くらいだろうか。
無人駅から乗り込んだので、切符は持っていない。
走りだしてしばらくすると車内検札が回ってきたので「スパンブリーまで」と言うと、30バーツ分の清算補助券のようなものを渡された。
しかし、代金の請求はなし。
どうやら無料で乗れるらしい。
駅の窓口で切符を買う際に、タイ人は身分証を提示すれば3等車が無料になるが、身分証を持たない外国人は正規の切符代を請求される。
もっとも、タイの鉄道運賃はもう20年くらい値上げされていないので、嘘のように安い。
その安い切符代すら、今回免除されてしまったようだ。

スパンブリー行
[これが1日一本のスパンブリー行き列車]

車内清算補助券
[車内清算補助券 10バーツが3枚、しかし無料 何のための清算券なのだろう]

しばらく北上してバンスー駅へ。
バンスーは北へ向かう路線と南へ向かう路線の分岐点で、以前は大きな操車場があり、車庫や整備工場があったが、現在は大規模な再開発が行われていた。
そのうち現在のバンコク中央駅(フアランポーン)からこのバンスーに鉄道の始発駅を変更する計画らしく、このための工事らしいが、かなり大規模である。
しかし、バンコクのはずれに鉄道駅の始発駅が移転するなど、利用者にとっては不便な気がする。
こんな大規模な工事をするより、バンコク市内の鉄道路線を高架にしたり、他の交通機関との接続を良くするとかやるべきことは他にあるように思うが、何か新しいものを作るということが、優先されてしまうのがタイの流儀のようである。

バンスー再開発
[バンスーの再開発工事現場]

バンスーを出て西へ進路を変え、先日開通した新しい電車路線、パープルラインが見えてきた。
日本の電車システムを初めて取り入れた路線としてニュースでも盛んに報道されていたが、このパープルラインも、作ることが優先で、利用者の利便性を完全に無視しているようで、驚くべきことに、既存の地下鉄などとは一切接続していない。
しかも、バンコクの郊外、バーンブアトーンあたりから、バンスー駅の手前1キロくらいまでを結んでいる。
こんな郊外だけを走っている電車では通勤通学の足にはならないだろう。
電車のシステムは日本製であったとしても、交通機関としてもっとも大切な「交通システムの連携」に関することは輸入しなかったようだ。

チャオプラヤー川を渡り、タリンチャン、サラヤーと過ぎていく。
途中駅から乗ってくる人もあれば、降りる人もいる。
が、降りる人の方が少し多いようで、車内は乗車率が30%を切ったようだ。
以前このあたりは水郷地帯だったのだが、もう田んぼすら少なくなってきている。

タイの汽車に乗ると、いろいろな食べ物や飲み物を売る商売人が盛んに通路を行き来したものだが、最近はそんな車内販売などはやらないのか、なにも売りに来ない。
駅のホームでも売り子の姿を見かけなくなった。

ナコンパトムの駅を過ぎ、ノーンプラドックには6時半に到着。
このノーンプラドックまではずっとタイの南本線の上を走ってきたわけで、スパンブリー線自体はここノーンプラドックからスパンブリーまでを結んでいる。
そしてここからが1日たった1往復の路線と言うことになる。

ノーンプラドック駅
[ノーンプラドック駅 スパンブリー線の分岐駅]

ノーンプラドックはスパンブリー線の分岐駅であるが、泰緬鉄道の分岐駅としての方が有名である。駅にも泰緬鉄道の起点としての日本語とタイ語で彫り込まれた石のモニュメントがあるが、スパンブリー線の起点としてのモニュメントは何もない。

スパンブリー線分岐
[ノーンプラドックを出て、本線から分岐していく]

ノーンプラドックを出た段階で、もう車内に乗客は数人しか乗っていない。
こんな低い乗車率なのにディゼルカーを4両もつなげて走るなんてもったいない気がする。
暮色もだんだんと濃くなってきた。
1日たったの1往復だし、最低の閑散路線だから、線路の保線状態も最低で、ひどく揺れるだろうと覚悟していた。
しかも、3等車のシートにはクッションのない硬いプラスチック製だ。
どんなことになるだろうかと思っていたが、意外なことに揺れはほとんど気にならない。
保線状況は随分と良いらしい。
先にも書いたが、タイ人は無料で乗れる3等車が、1日1往復するだけで、地元の人ですらよほどスケジュールの都合が合わなければ利用困難なこのスパンブリー線、毎日の乗車券の売り上げはほぼゼロのはずだろうから赤字ローカル線どころの話ではない。
たぶん廃止しても沿線住民への影響もほとんどなさそうなのに、どうして運行を続けているのか不思議に思う。
それも、手間と費用の掛かる保線作業もしっかりしているなんて。

もう車内はガラガラ
[もう車内はガラガラ]

線路の状態はよく、単線であっても1日一本しか走らないので、他の列車と衝突する危険性はないので、スピードを出して走っても問題なさそうなのだが、踏切のたびに一時停車をする。
タイで車は踏切があっても一時停車して安全確認をしてから渡るという習慣がない。
踏切でスピードを落とさない車だって一般的である。
そのため踏切事故は多い。
ましてこのスパンブリー線など、めったに列車が走ってこないわけだから、踏切を渡る車にしたところで、まさか列車が来るとは思っていないだろう。
そこで、踏切では列車の方が一時停車して安全確認をしているらしい。

踏切一旦停止
[踏切では一旦停止 警笛鳴らして、車が止まるのを確認してから通過します]

すっかり暗くなってしまったが、スパンブリー線にも途中にいくつもの駅があり、ときどき停車して、たまに下車する人がいる。
いずれも無人駅で、明かりもなければホームもない。
駅前と言っても、サトウキビ畑の真ん中で、真っ暗である。車掌が降りる人の足元を懐中電灯で照らしてやっている。
途中駅から乗り込んでくるお客はいない。
また、誰一人として乗り降りする人のいない駅の方が多いくらいだ。

8時20分、スパンブリー駅到着。
この駅にはちゃんと駅舎があり、明かりも灯っているし、ホームもあるが、ここまで乗り通してくる客はほとんどおらず、下車した客は数人だけであった。

スパンブリー駅到着
[終点、スパンブリー駅到着]

私はこのスパンブリー線はスパンブリーの先にももう一つ駅があるとの情報を得ていた。
時刻表にも載っていないが、「終点、スパンブリーに着いたよ」と告げに来た車掌に確認を取ってみると、「終点の次駅まで行くのか」と言う。
終点の次の駅なんてのは変な話だが、しかし、実際次の駅まで行くらしい。
Google Mapの航空写真でも、線路が1キロほど続いている。

スパンブリーの駅からは車内清掃をするスタッフが一斉に乗り込んできて、掃除を始めた。
終点の次の駅も真っ暗でホームのない無人駅であった。
やはり車掌が懐中電灯で足元を照らしてくれる。
この終点の次の駅で降りたのは私一人だけであった。
車掌は、どうして私が日本人だと分かったのか知らないが「さよなら」と日本語で声をかけてくれた。

真っ暗な無人駅だけれど草に埋もれた駅名表はあり「マーライメーン」と駅の名前が書かれていた。
駅は真っ暗だったが、すぐ先に大きな幹線道路が走っており、明るい街灯もある。
この終点の次の駅で、明日の朝4時すぎまで列車を係留するのかと思っていたら、私を降ろした列車はまた終点のスパンブリーへ向かってバックしていった。

マーライメーン無人駅
[マーライメーン無人駅]

駅前は幹線道路
[駅前は幹線道路]

さて、明日の朝までどうしたものか、できるものなら今晩中にバンコクへ帰りたい。
距離にして100キロほど、車なら1時間半くらいで帰れるだろうし、時刻はまだ8時半。
まずは、スパンブリーの街まで夜道を3キロほどとぼとぼと歩く。

しかし、市内中心部のバンコク行き乗り合いバンの発着所に行ったら、最終の乗り合いバンは夜8時に出てしまったから、もしバンコクへ行きたかったら貸切だよと言われてしまう。
大金はたいて貸切らなくてはならないほどバンコクへ戻らなくてはならない理由もないので、今晩はスパンブリーに泊まることにした。

バンハーン・タワー
[ターチン川の橋の上からスパンブリーのシンボル、バンハーン・タワーが見えた]

なかなか手頃な宿が見つからず、随分と歩き回り、街外れのバスターミナル近くで格安の旅社を見つけてエアコンなしの部屋に230バーツで泊まる。
古ぼけて、埃が積もっていそうな、如何にもシナ宿と言った感じの旅社だが、スタッフは親切そうだし、ネコを何匹も飼っているらしい。

宿近くの食堂で夕食。
タイ飯屋なのだが、洋風のメニューが随分と充実しており、しかも洋風メニューとしては安い値段だった。
しかし、せっかくタイ飯屋に来たのだからとタイ料理を注文。
ビール一本と料理2皿で240バーツであった。

<hr>

8月21日 日曜日

旅社
[スパンブリーで泊まった旅社]

旅社のネコ
[旅社のネコ]

翌朝、宿前のバスターミナルからバンコク行きの乗り合いバンに乗る。
スパンブリーを出た時は空席もあったが、途中でどんどんと客を拾う。
満席になってもまだ詰め込む。
通路と言えないくらい狭い隙間に立つ人が何人もいる。
立つといっても体をかがめないと立っていられないから、相当きつそうだ。
バン1台に20人くらい載せている。

バンコクまではアントン、アユタヤと経由して走り、結局2時間半もかかった。
運賃は120バーツ也。

スパンブリーはタイ政界のドンとも言われたバンハーン国民党党首の出身地であったが、そのバンハーン氏も先日鬼籍入りされてしまった。
もし国鉄スパンブリー線がバンハーン氏のメンツで走っていたとしたら、もう存在意義がなくなっているかもしれない。

| https://chiangmaikk.com/blog/index.php?e=53 |
| | 08:55 PM | comments (0) | trackback (0) |
「麗しのサブリナ」中国/韓国旅行・・韓国編
7月18日 月曜日

目が覚めたらもう明るくなっていた。
甲板に出てみると島が見える。
どのあたりを航行しているのだろうか?
もう黄海を渡って朝鮮半島側に来ているはずだが、仁川港までのスケジュールではまだ4時間もあるから、入港が早まっているのか、それとも朝鮮半島から離れたところにも島があるのだろうか?
このあたりの地図がないのでわからない。
サブリナ当時はエントランスあたりに航行している場所をランプで示す大きな地図があったが、いまはもうない。

黄海を渡ったところの島
[甲板に出てみたら島が見えた]

船内食堂の朝食がオープンしているがまだ空腹を覚えないので、食堂での朝食はパスする。
その代わり、昨日出港前に威海衛で買った白桃と洋梨を食べることにする。
白桃は冷蔵庫で冷やしていたこともあり、とても美味しかった。
洋梨は濃いワインレッドをして、イチジクを大きくしたような形で、初めて食べる種類である。
まだだいぶ硬かったけれど、皮をむいて食べてみると、味は確かに洋梨で、食感も日本の梨のようにジョリジョリしたところがない。

白桃と洋ナシの朝食
[白桃と洋梨の朝食]

今朝も浴室へ行ってシャワーをする。
この時間だと昨日のように浴室で洗濯をしている人はいない。
この時間に洗濯して干しても、乾ききらないうちに下船になってしまうのだろう。
それにしても、本当にどうしてわざわざ船の中で洗濯するのだろう。

スクリュー
[後ろの甲板に展示されたスクリュー サブリナの時にもあった]

仁川に近づくにつれて島は多くなってくる。
船も多くなってくる。
海は穏やかで、波はほとんどない。
甲板では乗船客たちがスナック菓子を投げて海猫に餌付けをしていた。
たくさんの海猫たちが群がり、スナック菓子目当てに寄ってきて、飛びながら投げられたスナックをキャッチしている。
スナック菓子は「かっぱえびせん」によく似ていた。
しかし、スナック菓子など鳥たちには塩分が多すぎて、健康に悪いのではないかと私は気になってしまう。

海猫
[どうもこの海猫の餌付けはこの航路の名物になっているらしい]

海猫

長い橋
[前方に岸までは何キロもありそうな長い橋が見えてきた]

やがてとんでもなく長い橋が見えてきた。
橋の長さは10km以上あるのではないだろうか。
高いところを車が走っている。
橋は一直線ではなく、少し弓なりにカーブしている。
仁川の空港のある島と半島を結ぶ橋だろうか?
その橋の下をくぐる。
大きな発電所のような工場が見える。
高層ビル群も見えてきた。

橋をくぐる
[橋は長いだけでなく 高さもある]

いよいよ仁川港入港。
すぐに岸壁に接岸と言うわけにはいかず、水位の調整をする閘門を抜けることになる。
閘門の前後で水位は2メートルくらい違うのではないだろうか。
閘門に入ってゲートを閉じ、水位の調整をしてから閘門を抜ける。
2万トンを超える大きな船が、狭い閘門に入るのだから凄いものだ。
閘門内で水位の調整をしている間に部屋へ戻り、今度は部屋のシャワーを浴びてみる。

閘門1
[船が狭い閘門に入る]

閘門2
[巨大な水門がゆっくり閉まる]

閘門3
[水門が閉まったら、水位の調整をする]

隣の閘門
[隣の閘門 水門の前後で2メートル以上水位が違う]

部屋のシャワー
[トイレと一緒になった部屋のシャワー]

洗面台
[シャワールームの向かいが洗面台 タオルなども清潔 石鹸もある]

部屋に飾られてた絵
[部屋に飾られてた絵 サブリナ当時からかかっていたのだろうか]

仁川の岸壁への接岸は11時半になった。
大人数が下船して入国審査を受けるのだから、大混雑が発生するだろうと気がかりであった。
入国審査に2時間くらいかかるのではないかとも心配した。
私は身支度をして、荷物を持って部屋を出て、船内案内所まで来たら、係員に「優先下船客専用」と書かれロープで仕切られたソファーがある一角に通された。
これは飛行機などと一緒で、等級別に下船の順番が決まっているのかもしれない。
おかげで、真っ先に、押し合いへし合いすることもなしに下船することができた。

接岸
[仁川港に接岸]

下船して、ターミナルへはバスでの移動。
このバスへ乗り換える際に威海衛で制止された船の写真を撮ろうとしたら、ここでも写真撮影は禁止であると警備の兵士に注意されてしまった。
ただし、そのときはすでにシャッターを1枚切ったあとであった。

禁止された撮影
[麗しのサブリナ、さようなら]

入国審査も税関もスムースだった。
私は韓国の税関がうるさかったという記憶があったが、別にカバンを開けさせられるようなこともなかった。
仁川のターミナルでは無料のWiFiが使えた。
それで中国で送信できなかったものをまとめて送信する。
そして受信もたくさんあり、一通り目を通してからターミナルを後にして歩き出した。

仁川では松島へ行ってみたいと思っていた。
松島と言うのは仁川郊外にある地名で、昔はそこまで水原から水仁線と言う軽便鉄道が走っていた。
水仁線と名前でわかるようにもともとは水原と仁川を結んでいたのだが、私が高校に入学する直前に初めて韓国へ旅行した時には、すでに仁川から松島の区間は廃止されていた。
その時に乗った水仁線の印象が鮮やかに残っている。
軽便鉄道など過去の遺物のような存在だったのは日本でも韓国でも同様だったようで、だから一層旅情を掻き立てる存在だった。
その水仁線の終点、松島は当時何もないただの田舎だった。
駅前には黄色い牛が繋がれているだけののどかなところであった。
韓国を旅行していてもソウルや釜山などの都市や観光地には行ったが、こんな何にもないような田舎の風景など、車窓から眺めるだけで、実際にその場に立つことなどそうあるものではない。
たまたま水仁線の終点が松島と言う田舎だっただけだが、終点だったおかげで、朝鮮半島ののどかな田舎の景色と雰囲気を堪能できた。
小さなディーゼルカーの狭い車内では地元の高校生とどうしようもないくらい下手な英語でしゃべった。
英語の授業以外に英語で誰かと話をしたのはこれが最初の体験ではなかっただろうか?
当時の韓国では年配者の多くが日本語を話してくれたので、韓国を旅行していても日本語でほとんど通じていた。
しかし、同世代と話す機会はそれまでなかったし、韓国の同世代は日本語を知らない。
彼は私のノートに彼の名前をKab Su Raと書いた。
私はKabが名字で、Su Raが名前だとずっと思っていた。
その後、韓国語を学ぶ機会を得て、Laが姓でKab-Suが名であることを知った。

その松島がどうなっているのか、どうせ仁川に行くのなら立ち寄ってみたくなったのである。
しかし、どうやって行ったらよいのかよくわからない。
たぶんバスで行けるのだろうけど、何番のバスにどこから乗ったらいいのかもわからず、港からなんとなく繁華街があるだろうと思う方角へ向かって歩き始めた。

歩くこと10分ほどでキオスクのあるバス停にやって来た。
バスが次々にやって来ては客を拾って走り去っていく。
そこのキオスクで交通系のスマートパスを買い、松島へ行くバスの番号を教えてもらう。

松島は当然のことながら昔の松島ではなかった。
大きな道路が走り、大きな集合住宅団地が広がっている。
まだまだ開発途上のようで、荒れ地も目立ち、空き地には建設重機が置かれている。
しかし、もう畑はない。
農家も見当たらない。
もちろん黄色い牛など気配すらない。

松島のバス停前
[松島でバスヘを降りたらこんなところ]

商店街があり、昼食時間でもあるので「夫婦食堂」と看板の出ている食堂に入ってビビンバを注文。
メニューには石焼ビビンバもあったが、私は石焼ではなく普通のビビンバを食べてみたかった。
昔はビビンバと言ったら石焼なんてほとんどなかった。
ビビンバとはステンレスでできた洗面器のような丼に麦飯ご飯が入り、その上に山菜やホウレン草、牛挽肉などが載せられ、さらにその上に目玉焼きが載っているというものだった。
そして目玉焼きの裏に隠された大量のコチュジャン。
当時の私は辛いものが食べられなかった。
そのためコチュジャンには随分といじめられた。
コチュジャンの辛さで舌がマヒして料理の味などさっぱりわからなかった。
今はコチュジャン程度の辛さなどなんのその、タイの激辛唐辛子ピッキヌーだってビールのツマミにできるほどだ。
それと昔はビビンバの食べ方そのものも嫌いだった。
せっかく彩りよくご飯の上に盛り付けられている緑や白、黄色などをカレーライスのスプーンのような大きなスプーンでゴチャ混ぜにしてから食べるのだが、それがなんだか残飯のように感じて食欲が減退してしまうことがよくあった。
それでも、韓国の食堂には韓国料理しかないようだったし、知っているメニューがビビンバくらいしかなかったので、結局ビビンバを食べる頻度は高くなった。

松島夫婦食堂
[夫婦食堂 奥さんが厨房と店に立ち 旦那はオカモチ下げて出前に回っていた]

この店がそうなのか、今の韓国のビビンバがそうなのか、私にはよくわからないが、私が知っていたビビンバとはだいぶ違うものが出てきた。
まず、ご飯が別盛りになっている。
それも麦飯ではなく、白米である。
丼はステンレスではなく、プラスチック製で、こちらには具だけが入っている。
その具と言うのが、豆もやし、サニーレタス、キャベツの千切り、海苔、目玉焼き。
コチュジャンも別の小皿となっている。
なんだか、具が随分と寂しい。
やはりビビンバなので混ぜて食べるのだろうから、具やご飯やコチュジャンをプラスチックの丼に放り込んで混ぜる。
まずくはないが、もうコチュジャンで舌がマヒすることもなかったが、味に深みはあまり感じなかった。
これで5000ウォン也。
今の韓国の物価水準がわからないのだが、バーツに換算したら150バーツくらいか、、、安くない。
さっき乗ったバスが1000ウォンとちょっとくらいだったので、バス代の4倍くらい、東京のバスが今いくらかはよくわからないが、仮に200円としたら、実質800円くらいのビビンバを食べたことになるのだろうか。やっぱり安くない。
隣のテーブルでランチをしていた銀行員風OL二人が席を立って昼食代を払っているが、支払いにクレジットカードを使っていた。
こんな食堂にカードを切るなんてなんだか違和感を感じてしまった。

質素なビビンバ
[かなり質素なビビンバ これで5000ウォン]

もうだいぶ前に軽便鉄道の水仁線は廃止されているが、今ではまったく新しい水仁線が開通しているらしく、大通りから少し奥まったところに現在の水仁線松島駅があった。
以前は松島駅が終点であったが、現在は再び仁川まで路線が伸びているようだ。
松島からソウルへ向かうのに、この新しい水仁線に乗って仁川へ出てるルートを取ってみることにした。

現在の松島駅
[現在の松島駅]

松島駅前
[駅裏はまだ自然の残る丘だったが、駅前は住宅団地]

新しい水仁線で、水原へ向かえば、昔と今の沿線で変化がどうなっているか楽しめそうにも思ったけれど、どうせ跡形もなく変わってしまっているだろうし、それよりもまだ未踏破の松島から仁川まで電車に乗ることで、40年近くかかったけれど、水仁線の全線完乗をする方が面白そうだ。

水仁線の電車
[新しくて便利そうだけど 面白くもなんともない電車]

真新しい電車のシートはクッションがなくて硬かった。
それに松島から仁川まで、ほとんどがトンネルの中で、地下鉄のようだった。
これで完乗したことになるのだが、景色も見えないし、なんの変哲もない電車なので、ちっとも面白くなかった。
仁川の駅で、ソウル方面へ向かう京仁線に乗り換える際、駅内の壁に昔の水仁線の絵が描かれていた。

仁川駅の壁画
[仁川駅の壁に昔の水仁線が描かれていた]

ソウルでは今年数え年で80歳になる義姉を訪ねた。
ちょうど妻もこの夏は韓国の釜山で過ごしており、私のソウル入りに合わせて釜山からソウルへやって来た。
私がソウルへ来たのは15年ぶりだし、義姉が東京へ来たのはもう20年近くも前であるから、もうずいぶんと長いこと会っていない。
健康状態がすぐれないと聞いていたので、今のうちに顔を見ておかないと、もう会えないかもしれないと思い、ソウルの義姉の家に1泊することにした。
しかし会ってみたらば、顔色はいいし、80歳と言う高齢とは思えないほど元気があり、体力は私よりあるのではないかと思えるほどだ。
すくなくとも妻よりは丈夫そうだ。
こうして元気であることを確認はできたのだけれど、私はもう長いこと韓国語に接していなかったので、学生時代に覚えた韓国語をだいぶ忘れてしまい、話も半分くらいしか聞き取れない。
そうなると、間が持たなくなってしまう。
とどのつまりが、義姉はもっぽら妻と話し、私はお飾りのようにじっと座ったままである。

そのうちに姪が仕事を早引けしたと言って帰って来た。
姪と私は歳が近いし、姪と伯父と言うより、従兄妹同士のような感じで下手な韓国語で話しても気楽である。
姪とビールでも飲もうと一緒に近所のスーパーまで買い出しに出かける。
スーパーにはいろんな種類のビールが並んでいた。
昔はOBビールとクラウンビールの二種類しかなかったように思うし、缶ビールなどほとんどなくて瓶ビールばかりだった。
そして当時は外食店で出てくる瓶ビールは大瓶で、スーパーなど小売店で売られているのは中瓶としっかり分けられていたように思う。
いま、スーパーの冷蔵庫には缶ビールばかりが並んでいる。
それもいろんな銘柄がある。
韓国のビールはOBにしてもクラウンにしても味が薄すぎてあまり美味しくなかった印象であったが、現在のビールはどんな感じなのだろうか興味が湧く。
何種類かの缶ビールを買い込んでみる。
麦芽100%なんてビールもあった。

が、ビールはやっぱりあんまり旨くなかった。
麦芽100%のビールなどは、なんだかビールらしからぬ香までしていた。
姪は「ビールは飲料水の代わりみたいなもんだ」と言う。
確かにそんなつもりでないと飲めないだろうが、しかしビールなら3本くらいすぐ飲めるが、飲料水じゃそんなに飲めるものでもなく、私は韓国焼酎(焼酒)にスイッチした。

これも以前ソウルで手に入る焼酒は真露だけで、各地方ごとに流通しているメーカーが決まっていた。焼酒はサッカリンの甘ったるさで胸やけする酒で、まさしく安く「悪酔い」できる酒だった。
大学生たちはこの焼酒の空き瓶にガソリンを詰めチリ紙で栓をして火炎瓶を作り、デモのたびに焼酒のボトルが飛び交っていたものだ。
そんな焼酒も今はいろんな種類のものが出回り、ボトルもあか抜けたものが多くなっていた。
今の焼酒もやはり舌にまとわりつくような甘ったるさはあるが、粗悪なアルコール臭は薄くなったような気がする。
が、義姉の説明によると、以前と比べてアルコール度数がかなり低くなっているのだそうだ。
以前のアルコール度数はどれも25度だったが、今はほとんど18度以下らしい。
そのため義姉は毎晩必ず焼酒を一本半は飲まないと寝付けないと言っていた。
私も付き合って焼酒のボトルを並べて飲み交わしたが、私の方が先に酔いつぶれてしまったようで、翌朝は二日酔い気味であった。

<hr>

7月19日 火曜日

ソウルでの二日目は、もう一人の義姉を訪ねる。
20年前にネコを里子として引き受けてくれた義姉である。
そのネコと言うのも別に私が飼っていたネコと言うわけではなく、当時住んでいたアパートの下に住み着いていた捨てネコで、私が可愛がっていただけ。
エサを与えたり、寒い日にはホカホカカイロの差し入れてあげたりしていた。
サカリがついてうるさくなっては大変と、獣医さんのところへ連れて行って避妊手術を受けさせたりしていたのだが、アパートの大家さんからブツブツ言われ始めてもいた。
そこで、一戸建ての持ち家ならば問題かかろうと、近所の中古物件を購入して、ネコも引っ越しとなったが、妻はネコを室内で飼うことに大反対。
私ももともと捨てネコなんだから、狭い庭で我慢してもらえばイイだろうくらいに考えていた。
ところが、今度はネコを放し飼いにするなと近所から苦情が寄せられて、まったく困ってしまった。
そんな時、義姉から「ネコくらい飼ってあげるから、こっちへ連れてこい」との声がかかった。
そこでソウルまでネコは飛行機に乗って行ったわけである。
当時はネコ用にも規定の航空運賃を払えば機内へ一緒に乗り込めた。
ネコには座席も機内食も提供されないのに、片道のネコ用切符は私のディスカウント往復切符と同じくらいの金額だった。
おとなしいネコで、飛行機の中でも、前の座席の下のスペースにすっぽりはまり込んだり、私の膝の上で寝てたりと2時間ほどのフライトで静かにしていてくれた。
韓国に着いた時も、検疫でも成田空港で用意してもらった書類1枚だけで、うるさいことは何も言われなかった。

ネコは義姉の家でブニと名付けられて可愛がってもらっていたようだ。
そのその義姉のところで、大きなスイカを切ってもらい、スイカばかり随分とたくさん食べた。
昼には「ウナギを食べに行こう」と言うのでタクシーに乗って出かけた。
韓国でも南部ではウナギが捕れるらしい、養殖なのかもしれないが、ウナギは日本以上に高級魚のようだ。
昔のソウル市内でもウナギの看板を出した店を見たような記憶がある。
しかし、それはいずれも日式と呼ばれる日本料理屋の類だったはず。
義姉が言うには「韓国式の美味しいウナギが食べれる」とのことだ。

ウナギ専門店で、メニューはウナギしかない。
しかもタレ焼きと白焼きの2種類のみ。
お値段はどちらも55,000ウォン。
昨日のビビンバの10倍以上。

店のつくりは焼肉屋そのもの。
テーブルには炭火ロースターがあり、テーブルの真上に蛇腹式の煙突がある。
焼き肉同様に各自が炭火でウナギを焼いて食べるのだが、テーブルへ運ばれてきたウナギはすでに蒲焼風に焼かれており、そのままでも食べられそうであるが、そのウナギをロースターで再び焼き、ハサミでチョンチョンと一口大に切り刻む。
そして食べるときにはネギのキムチ風のモノや針生姜などと一緒に葉っぱに包んで食べる。
つまり食べ方まで焼き肉とおんなじである。
ウナギだけをつまんで食べてみると、バンコクで食べる冷凍の蒲焼と違って、ふっくらと美味しいのだが、韓国の流儀に即して食べないと場が白けてしまうかもしれないと思い、ウナギとキムチの葉っぱ巻きをいただく。
こうなるとタレ焼きも白焼きも同じような味覚になってしまうように感じた。
それでも3人でウナギを4匹も食べてしまった。

値段からするとかなりの高級店なのだと思うけれど、住宅街のお昼時と言うこともあって、他にウナギを食べているのは近所の主婦グループみたいな人たちであった。
韓国の有閑マダムたちだったのだろうか。

食後、義姉の家へ戻ってからもスイカを食べ続け、午後3時半に義姉の家を辞して、一人で空港へ向かう。
その空港へ向かう途中で、私が30年ほど前に韓国へ留学中住んでいた新村のあたりに立ち寄ってみたいと思っていた。
地下鉄にさえ乗れば、渋滞もないので30分もあれば新村に行けるだろうと考えていた。
しかし、それは私の大きな誤算であった。

私の記憶にあるソウルの地下鉄など、完成したばかりの2号線が山手線のようにぐるりと走っていて、路線も少ないし、距離も短くて、終点まで乗っても30分程度だった。
もちろん、その後随分と路線が増えたらしいことは知っていた。ソウルオリンピックの年にソウルへ駐在したときには5本くらいの路線があったし、その後も増え続けていて当然なのだが、しかし、どこでも30分あれば行けるだろうという私の思い込みはそのままだった。
そのため、乗り換えを含めて新村まで一時間以上かかったのには、恥ずかしながら驚いてしまった。
6時過ぎには空港に到着していなければならないのに、新村に到着したのは4時45分である。
大急ぎで地下鉄駅の階段を駆け上り、路地裏のようなところを抜け、急な坂道を登っていくと、懐かしい風景がまだ少し残っていた。
坂の途中のレンガ壁の家に間借りしていた。当時似たような家が何軒も続いていたが、当時のような家はもう2軒しか残っていなかった。
その2軒のうちどちらかが間借りしていた家だったか、どちらでもないのかも分からないが、周辺の写真を何枚かとっていたら、近所の主婦らしき女性に「何しているのよ」と詰問される。
たぶん不審者とでも思われたのだろう。
「昔、このあたりで間借りしていたので、懐かしくて写真を撮っていたんだ」と言い訳したら、「それならこの家だ、この家が貸間やってるよ」と言う。
しかし、昔と言っても30年以上も昔のこと、時間もないし、「ちょっと部屋店てください」と言ってお邪魔するわけにもいかず、坂を下る。

角の食料品店
[角の店は昔からあったような気がする]

こんな感じの家
[間借りしてたのはこんな感じの家だった]

戻りはよく通った銭湯の方を回ってみる。
チャンミ(薔薇)旅館と言う宿屋が経営している銭湯だったが、見つけられなかった。
街並みも道もすっかり変わってしまっていた。
毎日食材の買い出しに通っていた新村市場もまったくなくなっていた。
この市場の韓国式腸詰(スンデ)を売る店ではネコを飼っていて、いつも店の前に赤いひもでつながれていた。
エサはご飯にキムチの汁をかけたもので、韓国はネコもキムチを食べるのかと感心したものだった。
それに、輸入品(密輸)を売る店があり、売るだけではなく、免税店で買った洋酒や洋モクをイイ値段で買ってくれた。当時も3か月くらいごとに台湾へ出かけていたので、免税範囲いっぱい買った酒とたばこを買い取ってもらうと、ちょっとした小遣いになっていた。
当時の韓国の法律では韓国人は外国製たばこを吸うことが禁止されていたので、この手の闇たばこはとてもいい値段が付いて売られていた。

急な坂
[坂は昔も今も急なまま]

新村ロータリーを取り囲む建物は随分と大きな百貨店のようなものができていたりしたが、ロータリーの向こうに「韓一銀行」が見えた。
この銀行で口座を開設する際、私は韓国の銀行でも印鑑が必要だということを知らずに、韓国へ印鑑を持参していなかった。
どうしても印鑑がなければ口座開設できないようなのだが、ソウルで日本人名の印鑑など売っているとも思えないので、困っていたら女子行員が「パクスギ」とハングルで彫られた印鑑を出してきて、「誰かの忘れ物だけど、これをあげるから、これを使いなさい」と言う。
口座名と印鑑に彫られた名前が一致しなくても問題ないそうだ。
それにパクスギと言うのは女性の名前である。
「当面使わないお金は定期預金にした方がいいわ」とアドバイスもしてくれた。
3か月経てば、いつでも引き出せるそうで、なんと年利が20%もあった。
学費も生活費も日本の大学からもらってたので、この20%の利息はそのまま小遣いとして使うことができ、それで台湾行の航空券を当時はまだ国交のあった中華民国大使館が明洞にあり、その大使館前の雑貨屋のような店で買っていた。そして台湾からの免税品を買ってきて転売する。

新村ロータリー
[新村ロータリー 向かいの黒いビルあたりに韓一銀行があった]

大急ぎで地下鉄を乗り継ぎ、空港へ向かう。
スイカの食べ過ぎで水ッバラになったのか、乗り換えのたびにトイレへ立ち寄る。
その駅のトイレに貼られた貼り紙を見てまた韓国も変わったなと思った。
貼り紙には「トイレに屑箱はありません」と書かれてある。

そしてその説明文として、「トイレットペーパーは便器に流せ」とある。
以前の韓国のトイレなら「トイレットペーパーを便器に流すな、便器が詰まる」と警告文が書かれていた。
バンコクでも同じで私の働くオフィスのトイレも「流すな」と貼り紙されている。
最近の韓国のトイレはトイレットペーパーを流しても詰まらなくなったのだろうか?
もっともこうした貼り紙がされていることから考えて、まだまだペーパーを流す習慣は韓国には根付いていないものと思われる。
「流すな」と警告文があっても、私は昔っからトイレットペーパーを流し続けている。
それが原因で便器が使えなくなったことはないし、もともとトイレットペーパーはティッシュやチリ紙と違って水溶性だから、トイレットペーパーでトイレが詰まるとは考えられない。
きっとトイレットペーパー以外のモノを流す人がとても多いから、いっそのことペーパーまでひっくるめて「流すな」と警告し、それが今まで蔓延していただけではないかとも思われる。
つまりモラルの問題みたいなものだったのだろう。

トイレットパーパー問題
[使用済みトイレットペーパー便器に流しましょう]

乗り継ぎの電車がタイミングよく来てくれたりしたので、空港へは夕方6時に着いた。
帰りはJINエアーと言う大韓航空系のLCC。
チェックインをする際に「なるべく前方の通路席」と希望を伝えたが、「本日は満席なのであと2席しか残っていない」と言われてしまう。
出発の2時間近く前にチェックインしているのに、希望が通らないなど不本意だったが「チェックインは午後2時から受け付けてます」とのことで、他の予約客は随分と早くからチェックインをしていたようだ。

LCCだから機内食も出ないだろうと思い、出発前に何か食べておきたい。
さっき電車を降りた改札口近くにコンビニがあったので、そこでカップラーメンでも買って食べようかと考えた。
最近の韓国ではどんなカップラーメンが売られているかも興味がある。
コンビニの陳列棚には相変わらず「辛ラーメン」があったが、それ以外、印象としては昔はあまり見かけなかった「カップ焼きそば」方式で、湯切りして食べるタイプのカップ麺が増えていた。
値段はどれも1000ウォン以上と、日本とほぼ同じくらいの金額。
適当にカップラーメンを選び、レジへ持って行き「お湯を入れてもらえるか」とお願いしたら、「お湯はあるが、施設内でカップラーメンを食べることは禁止されている」とのこと。
コンピニ内にはイスとテーブルが用意されていて、飲食に便利な作りになっているのに、へんな規則である。
弁当なら食べても良いとのことなので、ビビンタンメンと書かれた弁当を買い、レンジでチンする。
太めの春雨をコチュジャン風のソースで絡めて食べるもので、他に稲荷ずしと海苔巻きが少し入っている。まずくはないがこれで4000ウォンほどの金額だった。やはり日本と同じくらいの物価らしい。
喉も乾いたので、焼酒も飲んでおこうと思い、店の冷蔵庫から焼酒の紙パックを取り出してレジへ。
しかしまた「ここではアルコール飲料は飲めません」と言う。
そんなアホな、ならどこで飲めというのだ、店で売っている冷えたビールなど早く飲まなければぬるくなってしまう。まさか空港のコンビニで冷えたビール買って、帰宅してから飲む人などいないだろうし、矛盾した話だ。
だったら最初から冷えた酒など売るべきではない。
悔しかったので焼酒を買うだけ買って、飲料水のペットボトルに詰め替えてやった。
これならどう見ても水にしか見えないはず。
ペットボトルの焼酒をチビチビ飲みながら出国審査場へ向かう。
我ながら良いアイデアだと思ったが、審査場の手前に手荷物検査があり、液体物の持ち込みをチェックしている。
廃棄するのももったいないので、ペットボトルを一気に飲み干した。

JINエアー
[この飛行機でバンコクへ戻ります]

JINエアーは本当に満席であった。
私の席の隣は韓国人の中年夫婦。
韓国からタイへ向かう飛行機だからか、韓国人とタイ人しか乗っていないようだ。
機材は新しくきれいである。
LCCなので毛布も枕もない。
足元もあまり広くない。
ビデオもない。
食べ物や飲み物はラウンジサービスメニューと書かれた料金表に記載されている。
インスタント食品が羅列されているが、小さなカップに入ったワインもあり、これが8ドルもする。プラカップにどれだけ高級な銘柄のワインを詰めているのだろうかと皮肉の一つも言いたくなる金額だ。
その料金表にビールはなく、免税品のカタログに入っている。
しかも缶ビールの値段が5ドルもする。
どこが免税なのだ、ソウル市内よりずっと高いではないか。
免税価格なら5ドルで1ダースだっておかしくない。

LCCながら機内食は出た。
夕食とのことだったが、冷凍のミックスベジタブル少々に薄切りハムが一枚の半分。
ご飯の俵巻き。
このゴマのふってあるご飯がなぜか酢飯になっている。
往路の山東航空のソーセージパンといい、このJINエアーも然りで、まったく粗末な機内食で、びっくりさせられる。
なお飲み物は紙コップに入った水だけ。

JINエアーの機内食
[JINエアー 機内食 これが夕食です]

バンコクには夜11時半に到着。
大急ぎで入国審査を受け、エアポートリンクの最終に乗ろうと頑張ったが、3分ほど及ばず、空港の4階からタクシーでアパートへ向かうこととなった。

アパートの部屋のドアを開けると、ネコがかすれた声でニャーニャーと鳴いて足元にすり寄って来た。
私が不在中、きっと随分と寂しい思いをしてて、エレベーターのドアが開く音がするたびに、帰って来たかとニャーニャー鳴いていたのだろう。
旅行から帰り、ネコのかすれた声を聴くたびに心が痛む。
ごめんよ、私ばかり楽しい思いをして、寂しがらせたね。

監視カメラ映像
[韓国出発前にネットでネコの様子を確認 退屈してるんだろな]

| https://chiangmaikk.com/blog/index.php?e=52 |
| | 11:32 AM | comments (0) | trackback (0) |
PAGE TOP ↑